「夜叉婆」がダントツに心に残った。
この巻は比較的蘆屋道満が多め。
ある種パターン化している陰陽師がいまだにある程度受けているのは、キャラクターの書き方の妙だろう。
晴明はある程度パブリックイメージで怪しくひとをくったような怜悧な美青年として書かれ、相方はその反対に陽を求められる。
しかし、博雅の「陽」をとことんまでつきつめ、笛の名手であやかしにも愛される才能の持ちぬしにすることで、晴明に負けない魅力をもたせている。(これを理解しない監督が映画化で大失敗していたが)
この蘆屋道満も今まで何度となく、不気味な敵として扱われてきたが夢枕獏の陰陽師では晴明とよく似た人物として書かれている。
風体や立場は違うが、権力などに興味はなく有り余る力を退屈しのぎに使う。
ひとを外から見ているような言動が多いが、人が嫌いなわけではない。
決定的な違いは博雅がいるかどうかということだけだ。
今回の蘆屋道満主人公の『夜叉婆』はそれがよく出ていたと思う。
昔話の母親が鬼にすり替わっており命を狙われる兄弟もののモチーフだ。
偶然出会った道満はあってもいない彼らの母親を「可愛い」と評する。
愛おしいわが子を死ぬまで見守りたい母親の妄執も、彼にとってはあさましいからこそいじらしく映る。
哀れですらない、最強の呪術師のひとりである彼には「かわゆく」しか思えないのだ。
喰うことで子供を取り込めるわけがないことをよく知っているから、そんなこともわからない愚かしさはたんなるかわゆさに過ぎない。
彼がとった行動も、攻撃的なものではなく、誰も傷つけない優しいやりかただ。
だが、このエピソードを晴明でやると無理が生じる。
かわゆい、と表現するには晴明には人世界への縛りがあるような気がするからだ。
もちろん、その縛りは博雅なのだが。
それがいいわけでも悪いわけでもない。
そして、晴明ではできない陰陽師の表現を賀茂保徳(今回は登場なし)や蘆屋道満で行うことで小説の世界を広げている。
だからタイトルが「晴明」ではなく「陰陽師」なのは偶然の結果なのだろうが上手にはまっていると思う。