吉川英治のレビュー一覧
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 19/56
’16/10/06 了
長かった全八巻に及ぶ武蔵の物語もこれにて終幕。
宮本武蔵と佐々木小次郎による巌流島の決闘というクライマックスに向けて物語が収束していく。
お通さんと城太郎の再会、お通さんとお杉婆の関係の氷解、長い長い人生の回り道を経て夫婦となった又八と朱美……
そんな彼らが、武蔵の決闘の行方を見守ろうと、一所に集まる様は物語の最終局面を彩るものとして良かったと思う。
一方で姉弟であることが明かされてから相対していない伊織とお通さんなど、もう少し描いて欲しかった部分への言及が足りない気がしたのも事実。
小次郎と武蔵の決闘に決着がついた後、剣の実力のみで言えば小次郎の方が上だったかも知れないと言う表記があったことも良かった。
戦いの敗者に対しての賛辞が最後にあったことで、それを破った武蔵の試合巧者ぶりも窺える。
最終巻だけに色々と急にまとめに掛かっているなと感じる部分も多々あったが、その最たるものがお杉婆の改心。
急に良い人になりすぎていて、違和感しか感じなかった。
三つ子の魂百までと言う言葉がある通り、あんなに急に人の心根は変わらないだろうと思う。
1935年に一話目が新聞に掲載されたこの作品は、今から80年前の作品。
世間の持つ宮本武蔵及びそれに関わる人物への認識は全てこの作品に基づいたものであると言っても過言ではない。
「史実」を超えた認識を我々に与えている作品だ。
家中の積ん読を全て読み終えようと行動を起こして数ヶ月たつが、いつかは読まなければと思っていた作品を読み終える機会に恵まれて良かった。
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気に入った表現、気になった単語
「「艱苦に克ったすぐ後には、艱苦以上の快味がある。苦と快と、生きてゆく人間には、朝に夕に刻々に、たえず二つの波が相搏(あいう)っている。その一方に狡く拠って、ただ安閑だけを偸(ぬす)もうとすれば、人生はない、生きてゆく快も味もない」」(P84)
「寝る間も油断のならない危険に研がれ、絶え間もなく生命を窺う敵を師として、しかも剣の道は、人をも活かし、世をも治め、自己をも菩提の安きに到って、悠久の生ける悦びを、諸人と共に汲み頒(わか)とうという願いにほかならないのである。--その至難の道の途中で、たまたま、つかれ果て、虚無に襲われ、無為に閉じ籠められる時--卒然として、撓めていた敵は、影を顕してくるものとみえた。」(P101)
「が武蔵には間髪のまに、処する方法が立っていた。兵法によらず、すべての理は、それを
理論するのは、平常のことでわ実際にあたる場合は、いつも瞬間の決断を要するのであるから、それは理論立てて考えてすることではない。ひとつの「勘」であった。
平常の理論は「勘」の繊維をなしてはいるが、その知性は緩慢であるから、事実の急場には、まにあわない知性であり、ために、敗れることが往々ある。
「勘」は、無知な動物にもあらから、無知性と霊能と混同されやすい。智と訓練に磨かれた者のそれは、理論をこえて、理論の窮地へ、一瞬に達し、当面の判断をつかみ取って過らないのである。」(P104)
「荒海(わだつみ)の潮(うしお)のような樹々の唸りに体を吹かれて佇んでいる」(P186)
「この船出に、身に纏うている黒い小袖は、光悦の母が自ら針を持って縫うてくれたものである。
手に持つ笠や草鞋。その他一物たりとも、何か
世間の人の情けの籠もった物でない物はない。
いわんや、碌々、米も作らず布も織らず、百姓の耕す粟を喰っている身は--まさしく世間の恩で生きている。
(何をもって酬いようか)
心をそこにおく時、彼は、世間に対して慎む心こそあれ、迷惑がる気もちなど起すのは勿体ないと知るのだったが--しかし、その好意が余りに、自分の真価に対して過大であり過ぎる時、彼は、世間を恐れずにいられなかった。」(P207)
「何しろ、合わせる顔もないとして、権之助はそう聞くほどさらに、伊織を尋ねることに焦心っていたのだった。
--と。その武蔵が、愈々、小倉へ向って立つということを、昨日九度山で聞いた。
(かくては何日(いつ)か)
と、意を決し、面(おもて)を冒(おか)して会うつもりで、早々、道を急いできたのだったが、」(P210)
「「驕慢な天才と、凡質を孜々(しし)と研いた人と、いずれが勝つかの試合ですな」
「武蔵様も、凡質とは思われませんが」
「いや決して、天稟(てんぴん)の才質ではありますまい。その才分を自ら恃(たの)んでいる風がない。あの人は、自分の凡質を知っているから、絶えまなく、研こうとしている。人に見えない苦しみをしている。それが、何かの時、鏘
然と光って出ると、人はすぐ天稟の才能だという。--勉めない人が自ら懶惰をなぐさめてそういうのですよ」(P212)
「天にあっては比翼の鳥、地に在っては連理の枝とならん」(P234)
「お通はその時まったく、自分が病人であることは忘れていた。しかし城太郎にそう注意されても彼女の意志は肉体を超えて、はるかに高い健康な信念の中に呼吸していた。」(P240)
「岩間角兵衞にしてみれば、自分の世話した巌流が、今日かくのごとく名声を得、君寵も厚く、大きな邸(やしき)の主ともなってくれて、その邸でこうして一杯の酒の馳走にでもなるということは、世話がいがあったという気持から、人生の欣(うれ)しいことの一つを杯の一口一口に舐めているような顔つきだった。」(P253)
「あたたかい心で人の中に住め。人のあたたかさは、自分の心があたたかでいなければ分かる筈もない」(P274)
「舟が進んで行くにつれ、佐助は、ひとりでに先刻から、肌(はだえ)に粟を生じ、気は昂まり、胸は動悸してならないのである。」(P345)
「射るという眼はまだ弱いものであろう。武蔵の目は吸引する。湖のように深く、敵をして、自己の生気を危ぶませるほど吸引する。
射る眼は、巌流のものだった。双眸(そうぼう)の中を、虹が走っているようき、殺気の光彩が燃えている、相手を射竦めんとしている。
眼は窓という。思うに、ふたりの頭脳の生理的な形態が、そのまま巌流の眸(ひとみ)であったであろう、武蔵の眸であったにちがいない。」(P358)
【舂(うすづ)く】
太陽が山の端にかかる、夕日がまさに没しようとすること。
【渇しても盗泉の水はくらわず】
ひどい苦難や貧乏にあっても、不正なことには加わらないこと。 -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 18/56
’16/09/16 了
「四賢一燈」と名付けられた、柳生但馬守宗矩、北条安房守氏勝、沢庵宗彭と武蔵の夜の一席から始まる第七巻。
安房守は将軍家御指南役に武蔵を推したいと考え、また三人ともお通さんを娶ることを勧めてくる。
結局、将軍家御指南役への推挙はお杉婆による風評被害から立ち消えになるが、世の賢人たちから支持を受ける人柄、闇に潜む柳生但馬守宗矩を看破する洞察力の鋭さなど、彼の非凡さがありありと見て取れる。
また推挙が取りやめとなったその日、武蔵は剣客としての力量のみでは無く、文化人としても非凡さを見せつける。
江戸城を辞する際、彼は屛風に絵を残す。
その描写が何とも言えず良いので以下に引用したい。
「「--門」
武蔵は、そこの豪壮な門を跨いで、ふと振り顧った。
入るが栄達の門か。
出るが栄達の門かと。
人はなく、まだ濡れている屛風のみが残されてあった。
一面に武蔵野之図が描いてあった。大きな旭日だけを、わが丹心と誇示するように、それだけに朱が塗ってあって、後は墨一色の秋の野だった。
酒井忠勝は、その前に坐ったまま、黙然と腕を拱(く)んでいることしばし、
「ああ、野に虎を逸した」
と、独り呻いた。」(P291)
この巻では、結局のところ仕官につくことはなかったが、武蔵という人間が剣客として一定の評価を世間から得、また宿敵佐々木小次郎も遂に細川家に仕官することが決まる。
それぞれに旅から旅を繰り返してきた二人であるが、因縁めいたその二人の運命も決着が近いことが予想される。
小野治郎右衛門忠明(神子上典膳)と小次郎の息詰まる決闘も見所の一つ。
武蔵と小次郎という二人の傑物の台頭は、そのままこの時代における剣客の世代交代を象徴していると言って良いだろう。
また、今巻でも登場人物同士の再開と悲しいすれ違いが描かれている。
というかある種クドいほどに各人物の人生の糸が絡み合わない(笑)
一巻から孤児として描かれてきたお通さんと、武蔵の新たな弟子・伊織が姉弟であったという衝撃の事実。
侍の子として生まれながら、奈良井の大蔵の下で泥棒に身をやつしていた城太郎。
その城太郎に沢庵は久しぶりに出会うことになるが、再開の一瞬前に城太郎の父・青木丹左衛門と出会っていたという運命のいたずら。
互いの顔を知らないながらも、同じ師に仕える兄弟弟子として不運な形で出会った城太郎と伊織。
その奈良井の大蔵に運命を狂わされた城太郎と伊織の許に現れて道を示す沢庵和尚……
沢庵はまさしくこの物語に救いをもたらす存在であり、各登場人物に対する処方箋のような存在だ。
この人がいなければ物語は破綻していたとさえ言えるだろう。
前巻までは一読したことがあったが、この巻の途中からは全く読んだことがなかったので、とても新鮮気持で物語を楽しむことが出来ている。
結びの巻となる次巻も楽しみだ。
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気に入った表現、気になった単語
「先人ヲ追イ越スハ易ク
後人ニ超サレザルハ難シ
と、あるが、その語を今ほど痛切に覚えたことはない。柳生とならび称されて、一刀流の全盛を見、老来やや人生に安んじているまに、社会の後からはもう、こんな麒麟児が生まれつつあったのか--と、大きな驚きをもって、小次郎を見たものであった。」(P68)
「「--わしも、世間を去る」
と、忠明も立った。弟子の座の中に嗚咽がきこえた。男泣きに泣き出した者もあるのである。愁然と、うなだれ合っている弟子たちの頭を、ながめて、
「励めよ、皆」
忠明は、最後の--師の言として--師愛をこめていった。
「なにを憂い悲しむのか。おまえ達は、おまえ達の時代を、この道場へ、潑剌と迎え取らねばならぬ。明日からは謙虚になって、一層、精を出して磨き合えよ」」(P80)
「小次郎は飽くまで、忠明を眼下に見た。心で眼下に見ながら、口では、--自分も今日まで随分、達人にも出会ったが、まだ貴公のごとき剣に対したことはない。さすがに、一刀流の小野と音に響いただけのものはある--などと褒めて、おのれの優越感を、その上へもっと高めた。」(P81)
「君のため
世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
「……でしょう。先生」
「意味は」
「わかってます」
「どう?わかってるか」
「いわなくたって。このお歌がわからなかったら、武士(もののふ)でも日本人でもないでしょ」
「ウム。……だが伊織。それならお前はなぜ、白骨を持ったその手を、さも汚いように、先刻から忌(いと)っているのか」
「だって白骨は、先生だって良い気持じゃないでしょ」
「この古戦場の白骨は皆、宗良(むねなが)親王のお歌に泣いて、親王のお歌どおりに奮戦して死んだ人々だった。--そうした武士たちの--土中の白骨が、眼には見えぬが、今もなお、礎となっていればこそ、この国はこんなにも平和に、何千年の豊秋(とよあき)が護られているのではないか」
「ア、そうですね」
「たまたまの戦乱があっても、それはおとといの暴風雨(あらし)のようなもので、国土そのものにはびくとも変化がない。それには、今生きている人々の力も大いにあるが、土中の白骨たちの恩も忘れては済むまいぞ」(P92)
「とたんに、伊織は
「あっ、日の出!」
指さして武蔵を振り顧(かえ)った。
「オオ」
武蔵の顔も、紅に染まった。
見る限りが、雲の海である。板東の平野も、甲州、上州の山々も雲の怒濤の中にうかぶ蓬萊の島々であった。」(P131)
「伊織はおぼろげながら、わが師と頼む人の境遇を、初めて考えてみたのだった。敵の多い人だということが子供ごころにも分った。
(おいらも偉くなろう)
いつまで、師の身を無事に、そして永く師を奉じるためには、自分も一緒に偉くなって、師を護る力をはやく持たねばならないと思った。」(P264)
師匠思いの伊織のいじらしさ。
「「なに、小次郎からの書状? ……」
仇と呼び合う者とはいえ、絶えたる者はなつかしい。まして、互いに砥石となって磨き合っている仇である。
武蔵はむしろ、心待ちしていた消息でも手にしたように、
「どこで会ったか」
と、その宛名書きを見ながら伊織に訊ねた。」(P271)
「獄から解かれた武蔵にはまた、将軍家師範という栄達が待っていた。
だが武蔵は、それよりも沢庵という友、安房守という知己、新蔵という好ましい青年などが、自分のような、一介の旅人に、席を温めて待ってくれる志の方に、遙かなありがたさと、人間の世の限りなき隣の恩を思わせられた。」(P283)
「「昨日、ご老中よりの御飛札により、お召しを承って罷りこした宮本武蔵と申す者でござる。控え所詰めお役人方までお申し入れ願わしゅうございます」」(P285)
「先には、藁草履の見すぼらしい一山僧にしか見えなかったが、そこに坐ると、運慶の鑿(のみ)の力にも劣らない権威を背なかに示している。」(P383)
「とある薮中(やぶなか)の石に、誰が刻んだか、こんな歌が彫ってあったのがふと見出されたのです。……
百年(ももとせ)の戦もせなさん春は来ぬ
世の民くさよ歌ごころあれ
と、いうのです。--これを見て私はなお胸を打たれました。七たび生まれてこの国を護らんと仰っしゃった大楠公の御心は、名もない一兵にまで沁み徹っていたものとみえまする。」」
(P395)
【えい‐たつ栄達】
[名](スル)出世すること。高い地位、身分を得ること。「栄達を重ねる」「栄達を願う」
【水見舞】
洪水や嵐などの水害のあったのを見舞うこと。
【平仄(ひょうそく)】
つじつま、条理。「平仄があわない」
【蒲柳(ほりゅう)】
体質が弱いこと
【千載(せんざい)】
一千年。長い年月。
【妖冶】
[名・形動]なまめかしく美しいこと。また、そのさま。妖艶
【ひっ‐せい 畢生】
一生を終わるまでの期間。一生涯。終生。「畢生の大事業」「畢生の大作」
【具相】
仏教で、相好を具えていること。また、それを具えているもの。
【相好】
①仏の身体にそなわっているすぐれた特徴
②顔かたち。表情。「相好を崩す」
奇特(きどく)/あだかも
=きとく/あたかも
現代とは発音が違う言葉。 -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 17/56
’16/09/09 了
武蔵にとって生涯二人目の弟子、伊織との出会いが描かれた巻。
伊織とお通は道中で互いを知らずに行き会うが、肝心のお通と武蔵は出会わぬまま。
石舟斎の危篤の知らせを聞いたお通は江戸表を離れてしまう。
一方の武蔵はひょんなことから江戸の町で力を付けていた無法者たち、半瓦の弥治兵衛の勢力と敵対することになる。
その半瓦の弥治兵衛のところにはお杉婆と佐々木小次郎も出入りしているし、一方で朱美と又八は一つ屋根の下で寝食を共にしていた。
人の動きの激しいことこの上ない。
武蔵は吉野郷を出て依頼お杉婆にあること無いことを喧伝され、一条寺での吉岡一門との決闘、江戸表の無法者たちとの対立を経ていよいよその悪評の広がりようも甚だしい。
一方、彼と直に出会い、彼の人間性に触れた人物は、多くが彼を剣の腕前のみならず一人の人間としても尊敬の念を抱く。
武蔵を藩に招くことを推挙するのも石母田外記だけでなくなり、次第に彼の実力が評価されてきたことがうかがえる。
しかし市井の人々に武蔵の真価が正当に評価されないことが、見ていてもどかしくてならない。
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気に入った表現、気になった単語
「「この深夜に、なんで其方(そち)は、刃物など研いでいるのか」
すると少年は、げらげら笑いながら、
「なアんだ、、おじさんは、そんなことにびくびく(漢字)して、寝付かれなかったのかい。強そうな格好をしているけれど、内心は臆病なんだなあ」
武蔵は、沈黙した。
少年の姿を借りた魔魅と、問答でもしているような気持に打たれたからである。」(P17)
「人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服されて、人間の智慧の眸(ひとみ)は、茫然とただ天地の大をながめているにすぎない。」(P22)
「「三代、雨露をしのがせて貰った小屋に、手をついて、別れをいえ、礼をのべろ。……そうだ、もう名残はよいな」
いうと、武蔵は屋内へはいって、火を放(つ)けた。
小屋は見るまに、燃えあがった。伊織は、熱い眼をして見ていた。その眸が、余り悲しげなので武蔵は、説いて聞かせた。
「このままにして立ち去れば、後には野盗や追い剝ぎが住むに決まっている。それではせっかく忠節な人の跡が、社会(よのなか)を毒する者の便宜になるから焼いたのだ。……分かったか」
「ありがとうございます」」(P30)
「「先生、天狗ってほんとにいるの」
「いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。--だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな」
「じゃあ何?」
「源家の残党だ。彼らは、平家の社会(よのなか)に、公然とは歩けなかったから、皆、山や野にかくれて、時節を待っていたものだ」
「おらの、祖父(おじい)みたいに?」
「そうそう、おまえの祖父は、生涯、時を得ず終ってしまったが、源家の残党は、義経というものを育てて、時を得たのだ」
「おらだって--先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう」
「うむ、うむ!」」(P51)
「「--間違いだった!水には水の性格がある。土には土の本則がある。--その物質と性格に、素直に従いて、俺は水の従僕、土の保護者であればいいのだ。--」」(P54)
「おらも大きくなったら、柳生様のようになろう」
「そんな小さい望みを持つんじゃない」
「え。……なぜ?」
「富士山をごらん」
「富士山にゃなれないよ」
「あれになろう、これに成ろうと焦心(あせ)るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」(P113)
【琴瑟が和す】
琴と大琴との合奏の音がよく合うことから、夫婦仲の良いことのたとえ。「琴瑟相和し」
「一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた譜代がいる。
一藩を、石垣に喩えていうならば、いくら巨大な石でも、良質な石でも、すでに垣となって畳まれている石と石との間に、組み込める石でなければ使えないのである。均等のとれない物は、いかに、それ一箇が、得難い質でも、藩屛(はんぺい)の一石とするわけにはゆかない。
天下には、可惜(あたら)、そういう角が取れないために、折角の偉材名石でありながら、野に埋もれている石が限りなくある。」(P298)
【藩屛】
かきね。かこい。守りとなる物のたとえ。「皇室の藩屛となる」
【可惜(あたら)】
[副]《形容詞「あたら(可惜)し」の語幹から》惜しくも。残念なことに。あったら。「―好機を逃した」
あたらもの【可惜物】
惜しむべきもの。惜しいこと。あったらもの。
「―を。我がために塵ばかりのわざすな」〈宇津保・藤原の君〉
あたらよ【可惜夜】
明けてしまうのが惜しい夜。
「玉くしげ明けまく惜しき―を衣手離(か)れてひとりかも寝む」〈万・一六九三〉
「小次郎は、座敷の真ん中に坐って、鞘を払ってみたところが、研げていないどころではない--晃々(こうこう)と百年の冴えを革めて、淵の水かとも、深くて蒼黒い鉄肌(かねはだ)から--燦(さん)として白い光が刎ね返したのである。」(P306)
【ぶ‐りょう〔‐レウ〕【無×聊】
[名・形動]退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。また、そのさま。むりょう。「―を慰める」「―な(の)日々」 -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 16/56
’16/09/06 了
武蔵と吉岡一門との決着、お通さん・城太郎との再会と不意の別れ、夢想権之助との邂逅とお甲との再会。
又八によるお通さん拐かし事件。
奇妙な資産家・奈良井の太蔵と城太郎の出会い。
江戸表での小次郎とお杉婆の再会。
大きな動きはない巻だが、主要人物の多くが新天地江戸に集いつつある、各々の助走期間ともいえる巻。
一条寺下り松での決闘で、敵方の名目人・源治郎少年を斬ったことが心に残って離れない武蔵。
「われ事において、後悔せず」と心に立てた誓いも、源治郎の事に関しては揺らいでしまう。
また、九死に一生を得、自分を思い慕い続けてくれるお通さんと修行の道程を共にする決意をし、野原でお通さんを組伏したら「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」と言われ、拒絶されたことに対して草へ泣き伏す武蔵。
四巻では風流な本阿弥光悦やその母との出会いを通じて武蔵の心の緩やかな成長を描いたが、この巻における武蔵は人間としての弱さが目立つ。
しかしその弱さは、読者を幻滅させるどころか彼を応援する気持ちを起こさせるものだ。
彼は武芸者でありながら、己の弱さすら自らの魅力としてしまう人物。
劇中には敵も多いが、そんな彼の「弱さ」を知る人ほど味方になってくれている気がする。
他方、好敵手たる小次郎は小幡軍学所の面々に講義をふっかけて恨みを買う
両者は「寡黙な武蔵」と「口が達者な小次郎」という比較もできるし、自らを大きく見せ、その「強さ」の一面のみで味方を増やす小次郎と、前述の通り「弱さ」すら魅力に変えてしまう武蔵という比較も出来ると言える。
【石母田外記との出会い】
今巻は伊達政宗の臣下・石母田外記(いしもだげき)との出会いも物語の大きな柱の一つ。
外記には武蔵に対し「男が男に惚れた」と言った。
それに対して武蔵は「男が男に惚れると言うことはあるかも知れないが、自分にはまだそう思える相手と出会ってはいない」と一人思う。
(「惚れるという対象に持つには、沢庵は少し恐すぎるし、光悦とは住む世の中が隔たりすぎ、柳生石舟斎となるともう余りに先が高すぎて、好きな人とも呼びかねる。」(P215))
出会ったことのない武蔵に惚れ込んでその後を追った外記と、一度も邂逅を果たしていないにも関わらず、石舟斎を雲上の存在と崇める武蔵は、実は本質の部分で凄く似通った部分があるといえるのではないだろうか。
【武蔵の正直さ】
城太郎とお通を探すと申し出た人足に先に銭を与えた武蔵。
なかなか現れない人足にヤキモキしていたところ境内で神馬を世話する男から武蔵は騙されたのだと世間知らずなところを笑われる。
路銀を全て人足たちの駄賃に与えてしまっていた武蔵は、自身の未熟さを味わいながら待ち合わせ場所を後にする。
そこへ正直者の人足が現れ、城太郎の消息が知れたと武蔵に伝える。
世間の全てが悪い人間でないと知った武蔵は、彼の労に酬いたいと一食分だけ残しておいたわずかな路銀を与えてしまう。
「あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに費(つか)われるにちがいない。それからあの男は、正直に酬われることを知って、明日もまた、街道へ出て、ほかの旅人へも正直に働くだろう。(P238)
自分が食べるに困っても人の労に酬いろうとする気質。
武蔵の心は未熟でありながらもとても温かく、それが読者の心をつかむのだと思う。
「たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る生命(いのち)か。
武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。
畢竟、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下の者が人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが恐くなった。彼はいつのまにか地上にひざまずいていた。」(P186)
「なお、彼は掌を合わせていた。
すると
--ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
--人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も巨(おお)きな顕現と行動をする--しかも生きたる霊物ではないか。」(P186)
霊峰富士を臨み、その山の雄大さに畏敬の念を抱いて両の掌を合わせた武蔵。
直後、自然物はそれのみで偉大な存在として完結するのではなく、その存在を認識する人間がいて初めて偉大な存在たり得るのだと考え方を改める。
そんな武蔵を追いかけてきた権之助の母親が、彼に対し拝むように地に手をついて伏し、再戦をお願いする。
吉岡一門との果たし合いに勝利し、自己の強さに自信を持った武蔵は、偉大なる富士山を目にしたことで自己の矮小さを悠久の自然との比較の中で自覚する。
次の瞬間には悠久の自然よりも人間の方が上だと思った。
他方の権の母親はそんな人間である武蔵を神仏のように拝み伏す。
この比較が何とも面白い。
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気に入った表現、気になった単語
「なるほど、江(こう)の水はいぬのまにか鉛色に見え、そよ風は雨気を囁きはじめて、藤の花の紫は、まさに死なんとする楊貴妃の保とうのように、遽(にわか)に咽ぶ(むせぶ)ような薫(にお)いを散らして顫(おのの)いている。」(P94)
「(正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして--)」(P334) -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 14/56
’16/08/12 了
武蔵と城太郎・お通さん組との擦れ違いにヤキモキする巻。
武蔵とお通さんの男女の関係に、関ヶ原の合戦の直後から武蔵に思いを寄せていた朱美も絡んでくるから大変。
本阿弥光悦との出会いを通じて武蔵に芸術を解する素養があることがあることが強く示されていて、これは絵を描いたり仏様を彫ったりといった後の彼の行動に繋がっていくことに気付く。
好敵手たる佐々木小次郎はとことんまで嫌な奴として描かれているし、その小次郎の名を騙って実力に伴わない大威張りをこいていたのが露見した又八の情けなさもここに極まれりといった具合。
また、吉岡拳法が二代目当主・清十郎を討ったことで吉岡一門と宮本武蔵の対立が決定的なものとなったのもこの巻の見所。
人恋しさから京都に親類を訪ねはしたものの、お杉婆の執拗な追跡のためにその親類から疎まれ、食卓を共に囲う間もないまま遁走する様と、直後に河原で餅を焼いて食う描写は読むものの涙を誘う。
巻が進むたびにお杉婆を嫌いになっていくが、こんな風に憎まれ役を鮮やかに描くことの出来るのも、吉川英治の文才のなせる業だなぁと思う。
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気に入った表現、気になった単語
「だが、五十鈴川の流れを越え、内宮へ、一歩入ると、何か人心地がまるで変っていた。草を見ても樹を見ても、ここには神のけはいを感じるのであった。--何ごとの在しますかはしらねども--鳥の羽音までが人の世のものではなかった。」(P9)
「すでに名古屋から吉岡方へ、決戦状は出してあるが、その後で、武蔵は、
(はら(月土)はできているか、きっと勝ちきることができるか)
と、自分で自分に向かって糺(ただ)してみると.遺憾ながら、心の隅に一脈の脆い層を認めないわけにはいかなかった。」(P14)
「恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。」(P112)
「思慕というものを、糸にたとえれば、恋はだんだんそれを胸のうちで巻いてゆく鞠のようなものだ。何年も会わないでいても、独りで思慕の糸をつくり、遠い思い出も、近い人づての消息も、みな糸にして、鞠を巻いて大きくしてゆく。」(P122)
「人間の情慾は、墓場に入ってしまうまでは、形を変えても人体のどこかに、燐のように元素的な潜在を持っていることを、丹左のふく尺八は、虚空へ自白していた。」(P155)
「なにか、やるそばから、人間はすぐ悔いる者らしい。生涯の妻を持つことにおいてさえ、男の大多数は悔いて及ばない悔いを皆ひきずっている。
女が悔いるのはまだ恕(ゆる)せる、ところが、女の愚痴はあまり聞えないが、男の愚痴がしばしば聞える。勇壮活潑なことばをもって、うちの女房を穿き捨て下駄のようにいうのである。泣いていうよりも悲壮で醜い。」(P174)
「(--理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない)」(P179)
【屠蘇】
一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒・風習
【こぐらかる】
1 糸などがからまって解けなくなる。もつれる。こんがらかる。
2 物事が複雑に入り組む。紛糾する。こんがらかる。
【歯の根が合わない】
恐ろしさや寒さのためにひどく震える -
Posted by ブクログ
出会ってはいけない二人が出会う第三巻。
宍戸梅軒との意外な繋がりが判明するも、
経験を通して成長した武蔵は、
戦わずに逃げることを選び、
本阿弥光悦と出会い、惹かれるも、
自分とは住む世界が違うと思い、
彼の元を去っていく。
そして様々な苦難を乗り越え、
吉岡清十郎との果たし合いを
木剣一つであっさりと済ませる。
一方、又八と小次郎、お通と朱美。
武蔵の周囲の出会ってはいけない二人が
ついに出会ってしまう。
あとがきで聖書との類似性が指摘されていたが、
どの辺が似ているというのだろうか。
私が思うに、宮本武蔵を読む人も
聖書を読む人も物語の結末は知っているが、
愛を貫くキリストと強さを求める武蔵が、
色々な人々や苦難と出会い経験することを通じて、
読者が様々なことを学んでいくということに
類似性があると思うのだが、どうだろうか。