吉川英治のレビュー一覧
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 17/56
’16/09/09 了
武蔵にとって生涯二人目の弟子、伊織との出会いが描かれた巻。
伊織とお通は道中で互いを知らずに行き会うが、肝心のお通と武蔵は出会わぬまま。
石舟斎の危篤の知らせを聞いたお通は江戸表を離れてしまう。
一方の武蔵はひょんなことから江戸の町で力を付けていた無法者たち、半瓦の弥治兵衛の勢力と敵対することになる。
その半瓦の弥治兵衛のところにはお杉婆と佐々木小次郎も出入りしているし、一方で朱美と又八は一つ屋根の下で寝食を共にしていた。
人の動きの激しいことこの上ない。
武蔵は吉野郷を出て依頼お杉婆にあること無いことを喧伝され、一条寺での吉岡一門との決闘、江戸表の無法者たちとの対立を経ていよいよその悪評の広がりようも甚だしい。
一方、彼と直に出会い、彼の人間性に触れた人物は、多くが彼を剣の腕前のみならず一人の人間としても尊敬の念を抱く。
武蔵を藩に招くことを推挙するのも石母田外記だけでなくなり、次第に彼の実力が評価されてきたことがうかがえる。
しかし市井の人々に武蔵の真価が正当に評価されないことが、見ていてもどかしくてならない。
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気に入った表現、気になった単語
「「この深夜に、なんで其方(そち)は、刃物など研いでいるのか」
すると少年は、げらげら笑いながら、
「なアんだ、、おじさんは、そんなことにびくびく(漢字)して、寝付かれなかったのかい。強そうな格好をしているけれど、内心は臆病なんだなあ」
武蔵は、沈黙した。
少年の姿を借りた魔魅と、問答でもしているような気持に打たれたからである。」(P17)
「人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服されて、人間の智慧の眸(ひとみ)は、茫然とただ天地の大をながめているにすぎない。」(P22)
「「三代、雨露をしのがせて貰った小屋に、手をついて、別れをいえ、礼をのべろ。……そうだ、もう名残はよいな」
いうと、武蔵は屋内へはいって、火を放(つ)けた。
小屋は見るまに、燃えあがった。伊織は、熱い眼をして見ていた。その眸が、余り悲しげなので武蔵は、説いて聞かせた。
「このままにして立ち去れば、後には野盗や追い剝ぎが住むに決まっている。それではせっかく忠節な人の跡が、社会(よのなか)を毒する者の便宜になるから焼いたのだ。……分かったか」
「ありがとうございます」」(P30)
「「先生、天狗ってほんとにいるの」
「いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。--だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな」
「じゃあ何?」
「源家の残党だ。彼らは、平家の社会(よのなか)に、公然とは歩けなかったから、皆、山や野にかくれて、時節を待っていたものだ」
「おらの、祖父(おじい)みたいに?」
「そうそう、おまえの祖父は、生涯、時を得ず終ってしまったが、源家の残党は、義経というものを育てて、時を得たのだ」
「おらだって--先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう」
「うむ、うむ!」」(P51)
「「--間違いだった!水には水の性格がある。土には土の本則がある。--その物質と性格に、素直に従いて、俺は水の従僕、土の保護者であればいいのだ。--」」(P54)
「おらも大きくなったら、柳生様のようになろう」
「そんな小さい望みを持つんじゃない」
「え。……なぜ?」
「富士山をごらん」
「富士山にゃなれないよ」
「あれになろう、これに成ろうと焦心(あせ)るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作り上げろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」(P113)
【琴瑟が和す】
琴と大琴との合奏の音がよく合うことから、夫婦仲の良いことのたとえ。「琴瑟相和し」
「一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた譜代がいる。
一藩を、石垣に喩えていうならば、いくら巨大な石でも、良質な石でも、すでに垣となって畳まれている石と石との間に、組み込める石でなければ使えないのである。均等のとれない物は、いかに、それ一箇が、得難い質でも、藩屛(はんぺい)の一石とするわけにはゆかない。
天下には、可惜(あたら)、そういう角が取れないために、折角の偉材名石でありながら、野に埋もれている石が限りなくある。」(P298)
【藩屛】
かきね。かこい。守りとなる物のたとえ。「皇室の藩屛となる」
【可惜(あたら)】
[副]《形容詞「あたら(可惜)し」の語幹から》惜しくも。残念なことに。あったら。「―好機を逃した」
あたらもの【可惜物】
惜しむべきもの。惜しいこと。あったらもの。
「―を。我がために塵ばかりのわざすな」〈宇津保・藤原の君〉
あたらよ【可惜夜】
明けてしまうのが惜しい夜。
「玉くしげ明けまく惜しき―を衣手離(か)れてひとりかも寝む」〈万・一六九三〉
「小次郎は、座敷の真ん中に坐って、鞘を払ってみたところが、研げていないどころではない--晃々(こうこう)と百年の冴えを革めて、淵の水かとも、深くて蒼黒い鉄肌(かねはだ)から--燦(さん)として白い光が刎ね返したのである。」(P306)
【ぶ‐りょう〔‐レウ〕【無×聊】
[名・形動]退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。また、そのさま。むりょう。「―を慰める」「―な(の)日々」 -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 16/56
’16/09/06 了
武蔵と吉岡一門との決着、お通さん・城太郎との再会と不意の別れ、夢想権之助との邂逅とお甲との再会。
又八によるお通さん拐かし事件。
奇妙な資産家・奈良井の太蔵と城太郎の出会い。
江戸表での小次郎とお杉婆の再会。
大きな動きはない巻だが、主要人物の多くが新天地江戸に集いつつある、各々の助走期間ともいえる巻。
一条寺下り松での決闘で、敵方の名目人・源治郎少年を斬ったことが心に残って離れない武蔵。
「われ事において、後悔せず」と心に立てた誓いも、源治郎の事に関しては揺らいでしまう。
また、九死に一生を得、自分を思い慕い続けてくれるお通さんと修行の道程を共にする決意をし、野原でお通さんを組伏したら「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」と言われ、拒絶されたことに対して草へ泣き伏す武蔵。
四巻では風流な本阿弥光悦やその母との出会いを通じて武蔵の心の緩やかな成長を描いたが、この巻における武蔵は人間としての弱さが目立つ。
しかしその弱さは、読者を幻滅させるどころか彼を応援する気持ちを起こさせるものだ。
彼は武芸者でありながら、己の弱さすら自らの魅力としてしまう人物。
劇中には敵も多いが、そんな彼の「弱さ」を知る人ほど味方になってくれている気がする。
他方、好敵手たる小次郎は小幡軍学所の面々に講義をふっかけて恨みを買う
両者は「寡黙な武蔵」と「口が達者な小次郎」という比較もできるし、自らを大きく見せ、その「強さ」の一面のみで味方を増やす小次郎と、前述の通り「弱さ」すら魅力に変えてしまう武蔵という比較も出来ると言える。
【石母田外記との出会い】
今巻は伊達政宗の臣下・石母田外記(いしもだげき)との出会いも物語の大きな柱の一つ。
外記には武蔵に対し「男が男に惚れた」と言った。
それに対して武蔵は「男が男に惚れると言うことはあるかも知れないが、自分にはまだそう思える相手と出会ってはいない」と一人思う。
(「惚れるという対象に持つには、沢庵は少し恐すぎるし、光悦とは住む世の中が隔たりすぎ、柳生石舟斎となるともう余りに先が高すぎて、好きな人とも呼びかねる。」(P215))
出会ったことのない武蔵に惚れ込んでその後を追った外記と、一度も邂逅を果たしていないにも関わらず、石舟斎を雲上の存在と崇める武蔵は、実は本質の部分で凄く似通った部分があるといえるのではないだろうか。
【武蔵の正直さ】
城太郎とお通を探すと申し出た人足に先に銭を与えた武蔵。
なかなか現れない人足にヤキモキしていたところ境内で神馬を世話する男から武蔵は騙されたのだと世間知らずなところを笑われる。
路銀を全て人足たちの駄賃に与えてしまっていた武蔵は、自身の未熟さを味わいながら待ち合わせ場所を後にする。
そこへ正直者の人足が現れ、城太郎の消息が知れたと武蔵に伝える。
世間の全てが悪い人間でないと知った武蔵は、彼の労に酬いたいと一食分だけ残しておいたわずかな路銀を与えてしまう。
「あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに費(つか)われるにちがいない。それからあの男は、正直に酬われることを知って、明日もまた、街道へ出て、ほかの旅人へも正直に働くだろう。(P238)
自分が食べるに困っても人の労に酬いろうとする気質。
武蔵の心は未熟でありながらもとても温かく、それが読者の心をつかむのだと思う。
「たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る生命(いのち)か。
武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。
畢竟、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下の者が人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが恐くなった。彼はいつのまにか地上にひざまずいていた。」(P186)
「なお、彼は掌を合わせていた。
すると
--ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
--人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も巨(おお)きな顕現と行動をする--しかも生きたる霊物ではないか。」(P186)
霊峰富士を臨み、その山の雄大さに畏敬の念を抱いて両の掌を合わせた武蔵。
直後、自然物はそれのみで偉大な存在として完結するのではなく、その存在を認識する人間がいて初めて偉大な存在たり得るのだと考え方を改める。
そんな武蔵を追いかけてきた権之助の母親が、彼に対し拝むように地に手をついて伏し、再戦をお願いする。
吉岡一門との果たし合いに勝利し、自己の強さに自信を持った武蔵は、偉大なる富士山を目にしたことで自己の矮小さを悠久の自然との比較の中で自覚する。
次の瞬間には悠久の自然よりも人間の方が上だと思った。
他方の権の母親はそんな人間である武蔵を神仏のように拝み伏す。
この比較が何とも面白い。
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気に入った表現、気になった単語
「なるほど、江(こう)の水はいぬのまにか鉛色に見え、そよ風は雨気を囁きはじめて、藤の花の紫は、まさに死なんとする楊貴妃の保とうのように、遽(にわか)に咽ぶ(むせぶ)ような薫(にお)いを散らして顫(おのの)いている。」(P94)
「(正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして--)」(P334) -
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積ん読チャレンジ(〜'17/06/11) 14/56
’16/08/12 了
武蔵と城太郎・お通さん組との擦れ違いにヤキモキする巻。
武蔵とお通さんの男女の関係に、関ヶ原の合戦の直後から武蔵に思いを寄せていた朱美も絡んでくるから大変。
本阿弥光悦との出会いを通じて武蔵に芸術を解する素養があることがあることが強く示されていて、これは絵を描いたり仏様を彫ったりといった後の彼の行動に繋がっていくことに気付く。
好敵手たる佐々木小次郎はとことんまで嫌な奴として描かれているし、その小次郎の名を騙って実力に伴わない大威張りをこいていたのが露見した又八の情けなさもここに極まれりといった具合。
また、吉岡拳法が二代目当主・清十郎を討ったことで吉岡一門と宮本武蔵の対立が決定的なものとなったのもこの巻の見所。
人恋しさから京都に親類を訪ねはしたものの、お杉婆の執拗な追跡のためにその親類から疎まれ、食卓を共に囲う間もないまま遁走する様と、直後に河原で餅を焼いて食う描写は読むものの涙を誘う。
巻が進むたびにお杉婆を嫌いになっていくが、こんな風に憎まれ役を鮮やかに描くことの出来るのも、吉川英治の文才のなせる業だなぁと思う。
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気に入った表現、気になった単語
「だが、五十鈴川の流れを越え、内宮へ、一歩入ると、何か人心地がまるで変っていた。草を見ても樹を見ても、ここには神のけはいを感じるのであった。--何ごとの在しますかはしらねども--鳥の羽音までが人の世のものではなかった。」(P9)
「すでに名古屋から吉岡方へ、決戦状は出してあるが、その後で、武蔵は、
(はら(月土)はできているか、きっと勝ちきることができるか)
と、自分で自分に向かって糺(ただ)してみると.遺憾ながら、心の隅に一脈の脆い層を認めないわけにはいかなかった。」(P14)
「恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。」(P112)
「思慕というものを、糸にたとえれば、恋はだんだんそれを胸のうちで巻いてゆく鞠のようなものだ。何年も会わないでいても、独りで思慕の糸をつくり、遠い思い出も、近い人づての消息も、みな糸にして、鞠を巻いて大きくしてゆく。」(P122)
「人間の情慾は、墓場に入ってしまうまでは、形を変えても人体のどこかに、燐のように元素的な潜在を持っていることを、丹左のふく尺八は、虚空へ自白していた。」(P155)
「なにか、やるそばから、人間はすぐ悔いる者らしい。生涯の妻を持つことにおいてさえ、男の大多数は悔いて及ばない悔いを皆ひきずっている。
女が悔いるのはまだ恕(ゆる)せる、ところが、女の愚痴はあまり聞えないが、男の愚痴がしばしば聞える。勇壮活潑なことばをもって、うちの女房を穿き捨て下駄のようにいうのである。泣いていうよりも悲壮で醜い。」(P174)
「(--理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない)」(P179)
【屠蘇】
一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒・風習
【こぐらかる】
1 糸などがからまって解けなくなる。もつれる。こんがらかる。
2 物事が複雑に入り組む。紛糾する。こんがらかる。
【歯の根が合わない】
恐ろしさや寒さのためにひどく震える -
Posted by ブクログ
出会ってはいけない二人が出会う第三巻。
宍戸梅軒との意外な繋がりが判明するも、
経験を通して成長した武蔵は、
戦わずに逃げることを選び、
本阿弥光悦と出会い、惹かれるも、
自分とは住む世界が違うと思い、
彼の元を去っていく。
そして様々な苦難を乗り越え、
吉岡清十郎との果たし合いを
木剣一つであっさりと済ませる。
一方、又八と小次郎、お通と朱美。
武蔵の周囲の出会ってはいけない二人が
ついに出会ってしまう。
あとがきで聖書との類似性が指摘されていたが、
どの辺が似ているというのだろうか。
私が思うに、宮本武蔵を読む人も
聖書を読む人も物語の結末は知っているが、
愛を貫くキリストと強さを求める武蔵が、
色々な人々や苦難と出会い経験することを通じて、
読者が様々なことを学んでいくということに
類似性があると思うのだが、どうだろうか。