浅倉久志のレビュー一覧
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第三次産業革命により全ての生産手段が機械化、自動化され、一部の技術者や公務員を除く人々は皆閑職しか与えられずにいる、そんな近未来のアメリカが舞台。人事が全てパンチカードで機械によって振り分けられ、技術者や公務員と一般人との居住区が分けられているという、効率・能率優先主義の社会に疑問を持つ人たちが革命を起こすという話でした。機械化による雇用数削減という問題よりも、作中に描かれている格差が今の私たちにリアルに迫ってきます。SFというカテゴリーに入っていますが、それが好きな人も嫌いな人も読める作品です。むしろ、SFという枠を超えた作品であると言えます。長編ですが、すらっと読めるのでおすすめ。
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1991年に出版され、93年に邦訳・上製判として出版された幻の一冊がこのたび初の文庫化となった。カバーは原著の写真を和田誠氏の手でイラスト化されたもので、とても軽やかで好感度がアップしていると思う。また、上製版では割愛されていた「付録の扉のイラスト」が収録されているなど、細かな点でチューンナップが図られていて楽しい。
肝心の本編はヴォネガット節全開で、ところどころにジョークや軽口も見られ、とても読みやすい。本文中では、15,16章あたりが特に力が入っていると感じた。しかし、全体の内容が重いので、読みはじめればページを繰る手は軽快でも、一度本を閉じると次に開くのに少々のためらいを感じる。
たとえば、筆者が自殺を図ったくだりや、ナイジェリア訪問記がどうにもつらい。自殺云々のくだりは、その直前まで結構楽しい話題になって、重苦しい話題からやっと開放されたとほっとしていた読者は急転直下の展開にうろたえることになる。これには結構堪えた。また、ナイジェリア訪問については、彼の著書「スローターハウス5」でビリーが無感覚になる描写があるが、それを体現している、とでもいおうか。淡々としている故に恐ろしさが際立っている。リアルだ。
全体を通していえることは、アメリカ国民に向けて書かれたメッセージを外国人(日本人のわたし)が受け取ることの居心地の悪さのようなものがぬぐえない、の一点に尽きる。そこを意識した上で読む必要がある。まず価値観が違う。習慣も違う。そもそもヴォネガットのエッセイは全部そうなんだけど、いつものヴォネガット節ゆえに油断しないほうがいいかも、と思った。
とはいうものの、ドイツ系アメリカ人の老作家が16年前に発したこの警告は、21世紀の今なお有効である。耳障りが悪くとも、気持ちが重くなろうとも、そしてアメリカ人でなくとも、読まなければならない本であることには変わりがない。 -
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ヴォネガット 1990年の作品。
90年代に入ったヴォネガットは、もうおとぎ話を書けないほど、
母国に対する怒りと悲しみが深くなってしまったようだ。
これまでのヴォネガットには、どんな内容のものであれファンタジーがあった。
偶然の産物があった。涙を誘うペーソスあふれる愛の対象があった。
ところが、「ホーカス・ポーカス」にはそれがあまりない。
登場人物はすべて架空だし、設定も奇想天外なのに、シリアスで、絵空事になっていない。
どちらかといえば、その翌年書かれたエッセイ「死よりも悪い運命」や「国のない男」のテイストに近い。
ヴォネガットのエッセイを読むと思い出すのがマイケル・ムーアの映画だ。
確かに面白いし、皮肉が利いている。痛快で、どこか悲しい。
けれど、ムーアにしてもヴォネガットにしても、これらの作品は自国民のために発表しているのだ。
アメリカ人による、アメリカ人のための、アメリカ人のエッセイであり、映画である。
日本人であるわたしは、そこに少々居心地の悪さを感じる。
これを壮大なたとえ話として、自分の置かれた境遇……日本の問題に置き換え、
それらを眺めることはできる。けれども、やっぱりどこか違う気がする。
「ホーカス・ポーカス」が、ヴォネガットのエッセイに近いと思ったのは、
ストレートすぎるほと、差別に対して訴えてくるからだ。
これまでも彼が作品を通じて訴えたかったことが、フィクションというオブラートに包んでいては、
もう自国民に伝わらないと思ったからかもしれない。
彼が次回作の「タイムクエイク」を最後に、物語を綴るのをやめてしまったのもうなづける気がする。
ただし。この作品では、ラスト20ページくらいにヴォネガットらしいしみじみした味わいがようやくやってくる。
具体的には、ヒロシ・マツモトの描写をもっと早い段階で掘り下げてほしかった。
また、息子との対面が、この物語の中では一番よかった。 -
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2000年に上製本として発売されていた、ヴォネガットの短編集がこのほどようやく文庫化された。
書かれたのは1950〜60年代で、半世紀も前のもの。
ヴォネガットが短編を生活の糧として量産していた時期があり、
その大半はスリック雑誌に掲載された。
かつて、短編集「モンキー・ハウスへようこそ」が編まれたが、
そこから漏れてしまった23篇がここに収録され、短編の大方が網羅されたことになる。めでたい。
ここに収録されているのは短編で、しかもアーリー・ヴォネガットと言うべき作品群。
彼一流の文明批判や、どうしようもない人への「諦めと愛情いっぱいのまなざし」はすでに健在、
さすがというべき。ただ、長編に見られるようなあの独特の味わいはほとんどないので注意が必要。
短編としての出来は決して悪くないが、やはりヴォネガットは
長編でユニークな存在になったと思う。圧倒的に。 -
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1980年代当時のヴォネガットが、いかに人類に
絶望していたかがわかります。
どうしたってなくならない大量殺戮兵器。
どうしたってなくならない戦争。
どうしたってなくならない貧困や格差。
それらすべては巨大脳のせいだ、これは自然淘汰なんだ。
そう結論付けて笑い飛ばすしかない。
だってそれ以外に思いつく理由がどう考えたって見つからないもの。
広島や長崎も、ベトナムも、すべては百万年後の
新人類への進化のための布石だったのだと思うしかない。
そうにちがいない。(ヒロシマは「にこ毛」のための布石なのだ!)
……痛烈です。
しかし、ユーモアもたっぷりあります。そこがいいところ。
ヴォネガットの読者であれば、この百万年の年月を俯瞰して
語った人物が誰なのかは、おそらく読んでいるうちに
察しがついたことでしょう。私自身も察しがつきました。
ラストで、スウェーデン人医師に尋ねられたことで
号泣してしまうくだりにほろっときてしまいました。
本編にはあまり関係ないけれど。
それから、これまた本編には関係がないけれど、
キルゴア・トラウトはいつ死んだことになっているのだろう?
その他いろいろ。
わたしが読んだのは、ハードカバー版ですが、
95年に文庫化された際に、訳文に手を入れているそうです。
「カンガルーに出会ったころ」の『ガラパゴスの箱舟』に
その旨が書いてありました。
もしかしたらちょっと雰囲気が違うのかなぁ。
どうちがうのだろうか。
やっぱ文庫版も読まなきゃいけないかしら。
現在、正規で入手可能な数少ないヴォネガットの著書のひとつです。
読んだあとに、じわりじわりときます。
これこそ、まさにヴォネガットだなぁ…と再認識しました。
人類必読の一冊なのではないかと、あれから20年がたった今、
改めて思います。 -
Posted by ブクログ
「こうした偶然の一致をいちいち真剣にとっていたら、
だれでも気が狂ってしまう。この宇宙には、
自分にかいもく理解のできないことがわんさと進行中らしい、
と疑いを抱くようになる」(本文より)
1987年のヴォネガットの長編です。
戦争体験をベースに、しっちゃかめっちゃかになった
人生の回顧録である点においては、いつものヴォネガット。
「青ひげ」にはラストにオチが用意されているので、
いつもよりもちょっとわかりやすいヴォネガットかなと思います。
わたしがヴォネガットを好きな理由は、
奇跡的な出来事が、それが幸運であれ、その真逆であれ
いつ起きても、「ひとつの事実」として受け止める姿勢が
貫かれているからです。
登場人物がどんなに自分勝手でも自己中心的でも、
どんなにはた迷惑な存在でも、「存在」として尊重しているところかな。 -
Posted by ブクログ
本を読むのなら、とりわけ「小説」を読むのなら、あなたは自分自身がひっくり返っても書けないと思える本を読むべきだ。結末の予想や著者の思想・背景を探るような余裕さえ無い程、自分を振り回してくれるような本を読むべきだ。
そういった本を見つけるために本屋に行くべきだ。その際は出版社別ではなく、著者別にあらゆる出版社の文庫が雑然と並ぶ本屋を選ぶのが好ましい。あ行からわ行までくまなく検分するうちに、きっと心に引っかかったまま忘れかけていた作家の名前が見つかるからそれを手に取ってみるのが良い。そんな名前が見つからないなら、題名の良い本を引っ張り出して背表紙のあらすじを読むと良い。そんな題名が見つからないなら、装丁の優れたものを探して読むと良い(ただしこれははずれも多い)。
そこまでしても読みたい本が一冊も見つからなかったなら、ヴォネガットを読みなさい。 -
Posted by ブクログ
地球が放射能で汚染され、生殖能力のある適格者たちはそのほとんどが火星へと移住し、廃墟と灰の中でわずかな残存者が暮らしている近未来のサンフランシスコ。火星で人間の暮らしを支えるために開発され使用されてきたアンドロイドは、今や人間と見分けがつかないレベルの高性能ヒューマノイドとなっているが、火星での暮らしを嫌い地球に逃亡してくる者が後を絶たない。そうした反社会的アンドロイドを「廃棄処理」し賞金を稼ぐことで生計を立てているリックは、新たに最新型ヒューマノイド6体の処理を任される。死んでしまった羊の代わりに飼っている電気羊とは違う、その多くが絶滅し今や貴重なものとなっている本物の動物を買うためにも、リックはアンドロイドたちを追うが―――
人間を人間たらしめるもの。生命を生命たらしめるもの。それはその身を構成する有機的な組織、神経の反射なのか? それとも、他者に、他の生命に共感し感情移入する情動なのか? では、人間と同じ有機的な身体を持ち、かつ、仲間と連帯する情動を持つアンドロイドは、人間とどこが違うのか? 生命ある一つの種ではないのか?
本作はこの問いに、否、と答える。代謝の限界で短い寿命しか持てない有機物であっても、怒りや怯えという感情や、夫婦という関係性を結ぶことさえできたとしても、アンドロイドはアンドロイドであり、彼らは生命を理解しない。人間から虫まで、生命あるものすべてがその生の中に内包している奇跡のような誕生の過程、その尊さに対する畏怖や崇敬の思いを持たない。
では、だが、人間は? 人間は生命を畏怖し崇敬し、尊んでいるだろうか。自らが汚し環境を破壊した母星を捨て、種の存続に不要な者たちを切り捨て置き去りにし、高性能アンドロイドに労働を肩代わりさせて新たな社会を作ろうとしている本作における近未来の人間たちは、生命の尊厳を尊んでいるとはとうてい思えない。そこに、人間とアンドロイドの境界線の曖昧さが生まれる。アンドロイドが人間に寄るのではなく、人間が非人間に寄っていくディストピア世界である。
人間を含めあらゆる生き物が灰の中で死んでいく世界において、本物の動物たちは貴重であり、高値で取り引きされている。生き残った生命を少しでも守っていくというモラル的な志向もさりながら、値が付く商品として当然のごとくステータスを示すためのものとして、動物たちはもてはやされる。大切にしていた、けれど抱き上げたことはない猫が死んで、代替として電気猫が届けられたら――飼い主は気づくのだろうか?
蜘蛛の足を顔色変えず興味本位でハサミで切り落とすアンドロイドの行為は、空恐ろしさを感じさせる。しかし、素晴らしい歌声を持ち絵画を鑑賞する心を持ったアンドロイドを、あるいはついさっきまで上司として共に働いていたアンドロイドを、問答無用で銃で撃ち破壊することができる人間に、彼らアンドロイド以上の「人間性」があるのだろうか。アンドロイドたちは、人間の非人間性までも写し取っただけなのではないだろうか。
そうした揺らぐ境界線の狭間で、リックは翻弄され、アンドロイドに強く共感もし、強く忌避感を持ちもする。本物の動物、本物の生命を強く求めるリックの思いは、血が通うもののために生きたい、他の生命のために生きたいというレーゾンデートルに関わる必死の欲求である。けれど彼は、彼の世界は、彼に本物の動物を与えない。アンドロイド処理の賞金で購入した本物の山羊は失われ、結局彼の手に残るのは電気動物だけである。
人間たちの信じる「融合精神」、キリストの受難と救済を思わせる苦行の神マーサーと機械を介して繋がり、機械に接続している者同士が共感力によって互いの喜びや悲しみや期待を混ぜ合わせ、先の見えない時代にあっても明日に向かう勇気を支え合って奮い起こすための大いなる幻影を、アンドロイドは打ち壊そうとする。けれど、人間は夢見ることをやめない。やめられない。電気羊を抱いて本物の生命を夢見ながら、すぐ隣りにいる人を抱きしめることを忘れる。そんな、愚かで夢見る人間たちの、愚かさと儚い夢が、アンドロイドには生み出せ得ない人間らしさそのものなのかもしれない。