浅倉久志のレビュー一覧
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1962年、第二次世界大戦に勝利した日本とドイツはアメリカを分割占領され、太平洋側は日本の統治下に置かれた。日本統治の影響で中国由来の『易経』が普及し、日本人アメリカ人を問わず多くの人が易により物事を判断するようになっている。さらには「第二次大戦に連合国側が勝っていたら」という内容の小説が評判を呼んでいた。
アメリカ古美術商のロバート・チルダン、通商代表団の田上信輔、贋作工場で働くフランク・フリンク、フランクの元妻・ジュリアナ、プラスチック産業のビジネスをするバイネス、イタリア人トラック運転手のジョーなど、さまざまな人の物語が交互に進み、そこにドイツ政府の思惑も交錯する。
もし第二次大戦で日独が勝っていたら、という歴史改変モノなのだが、あくまで登場人物の物語が中心で、大戦終結以降の政治や歴史は断片的にしか描かれていないのでその方面を期待しては肩透かしをくらう。また、各登場人物の物語も丁寧に描かれるため、小説全体の進行もゆっくりとしている。
田上や梶浦夫妻などの日本人に対するチルダンの卑屈な心理が描かれているが、これが戦争に負けて占領されることに対する(当時の)アメリカ人の見方なのかもしれない。 -
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わかったようなわかんないような
不思議な読後感なのですが
読んでいるときは妙におもしろい。
久しぶりに読んだけど
そういえばディックって私にとっては
そういう作家だったっけ。
日本とドイツが第二次大戦に勝った
架空の世界が舞台なのですが
日本人の田上が主要な役どころで
これが今読んでも「あ、なんか日本人」
思考回路とか、ちょっとした行動とか。
すごいな、ディック御大(笑)
敗戦国となったアメリカで
新しい製品作りに取り組むフリンクや
少しずつプライドを取り戻していく
田上御用達の骨董品店長チルダンの姿が
現実日本の戦後復興期に踏ん張った
人々の写し身のように思えた。 -
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読み終えて、少したって、収録されていたタイトルを眺めてみる。どれも味がある小説で「あぁ、面白かったなぁ」と密かに幸せな気分になれる。もちろん読んでいる最中も楽しめるのですが、じわじわと染み込むおもしろさ、と評した方が、なんだかしっくりきます。
そんな不思議で奇妙な物語19篇を収録した本書は、R・A・ラファティのベストコレクションその1。その1ということは、その2もあるようで、本書は「アヤシイ篇」で、その2は「カワイイ篇」とのこと。カワイイ篇も超気になる。
「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」をはじめ、本書では<不純粋価額研究所>シリーズが計3篇収録されている。このシリーズ、ばからしくてとても好き。
表題にもなっている「町かどの穴」は、その癖の強い文体もあって、アヤシイ篇の幕開けを飾るに相応しい作品かと。その他、「どろぼう熊の惑星」や「山上の蛙」、「世界の蝶番はうめく」、「いなかった男」、「つぎの岩につづく」あたりも印象的。もちろんそれ以外も。
カワイイ篇もぜひ読んでみよう。 -
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歴史改変系SF小説。
日本とドイツが戦争に勝ってアメリカを統治している世界、そんな世界で流行っている小説は『イナゴ身重く横たわる』という、連合国側が勝利したらと言う歴史改変小説だったりする。
登場人物が、歴史上の人物だったりオリジナルだったり、国籍人種も多様で何回も読み返さないといけなくて時間がかかってしまった。
真偽
これがテーマなのだと思う。本物と見分けがつかない贋作。歴史という付加価値の曖昧さ。小説と現実。偽名の政治家と暗殺者。
歴史を失った国で生まれた新たな芸術と、歴史ある占い易が、本来あるはずだった歴史を垣間見せるというのが面白い。
一方、読み終わった時に「え、これで終わっちゃうの」とも思った。 -
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ネタバレアベンゼンは『易経』を使って小説『イナゴ身重く横たわる』を書いていた。ジュリアナが「なぜその本を書いたか、我々はその本から何を学ぶべきか」という問いを立てて易を行うと、「真実」という回答を得る。ジュリアナは、本に書かれていることが真実であるというメッセージとして受け取る。これが、本作の幕切れ直前、結論のような位置に置かれているシーンだ。
ここから読者は何を読み取ればいいのだろうか?
(a)彼らの世界で起こった出来事は真実ではないということか? それとも、(b)これからドイツ帝国の崩壊や、日本への水爆投下が起こり、プロセスこそ違えど、最終的には本に書かれた世界と同じような結果にたどり着くという予言なのか? あるいは、(c)幾千幾万もの偶然の積み重ねにより、無数の可能世界が生じているという視座を暗示しているのか(この解釈は弱い。もしそうならば、彼らの世界も、本に書かれた世界も同等に「真実」なのだから)。しかし、(d)そもそも『易経』は単なる占いであり、占いは信じなければ無意味だし、信じる人には、曖昧な示唆のレベルで意味を持つものだ。アベンゼンの本が占いの結果の集積であるなら、その本が価値を持つのは、それを真摯に受け止める場合のみである。だから、アベンゼンの本から学ぶべきことは、「戦勝国となった枢軸国がアメリカを支配する現状を宿命と受け止めて、その現状に馴致するような生き方をするな。彼らの勝利は確率的なものでしかないし、彼らは勝ちながらにして実質、負けていることすらあり得る」といったメッセージだ。
本作では、個人がさまざまな選択を迫られ、よくわからないままにどれかを選択しながら生きている様子がしばしば描かれている。田上にしろ、フランクにしろ、ロバートにしろそうだ。その都度選択をし、そして人生が展開していく。そのことを肯定的に書いていると思う。反対に、「あり得たかもしれない世界」「選ばなかった世界」についてあれこれ考えを巡らせることは停滞でしかない。だから、パラレルワールドの存在を示唆しているといった解釈は、本作の場合、そぐわないと思う。ロバートは、日本人たちに表面的に媚びへつらう商売をしながら、やがて西欧文明を受け継ぐものとして自信を取り戻していった。戦争に負けても、そのことを絶対視する必要はなし、ましてや卑屈になる必要はない、という価値観を示すためにロバートというキャラクターは作られたのだと思える。だから、私は解釈(d)こそが一番もっともらしいと思う。
負けは負けとして認める。けれど、そのことを絶対視して卑屈になるべきではない。戦争の話じゃなくて、個人の人生の教訓。
「ディック作品にありがちなプロットの破綻が見られず」(訳者あとがき)という点が高評価(1963年ヒューゴー賞受賞)の一因らしいが、私はプロットが破綻しているディック作品のほうが断然スリリングだと思う。プロットをあまり決めずに書くようになった『OUT』以後の桐野夏生のほうが、彼女の初期作品より素晴らしいように。 -
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特異な世界観と、どことなくセンチな余情が残るSF短編集。物語の雰囲気をつかむまでに苦戦した短編もあるにはあったのですが、その世界観や人間関係であったり、あるいは「ここでない世界」に対しての、切ない思いが印象的です。
収録作品は6編。
表題作『逆行の夏』はストーリーはもちろん、SFならではの描写が印象的。水銀の湖と洞窟が、太陽の光を照らし返す情景なんかは、美しさを感じるとともに、SFの想像力の豊かさも感じます。
ストーリーとしては、クローンの姉との再会であったり、身体の改造や性別の転換ですら、簡単に行える、という技術背景が描かれ、なかなかのハードSFらしい雰囲気。
そのため、ややとっつきにくさはあったものの、技術や世界観の面白さだけに頼らず、技術では変えられない家族の関係性に焦点を当てた、暖かさが印象的な短編です。
世界観でもっともインパクトがあったのは『バービーはなぜ殺される』という短編。「統一教」という男も女も性別関係なく、すべてバービー人形のような顔、身体に整形した宗教団体で起こった殺人事件。捜査は被害者、容疑者、目撃者全て顔が同じな上、思想や思考まで一緒という状況に困難を極め……
この設定だからこその、展開の持っていき方や、動機の異常さなどが見事! 統一教の教義や始まりについては、触れられていたけど、それぞれの個人が、統一教のどこに惹かれたのかは、あまり詳しく書かれていなかったと思うので、少しだけ感じたことを。
他者とまったく同じになるというのは、みんなと同じ、自分は異質じゃない、という安心感があるのかなあ、という気がします。そういう意味においてはユートピアとも感じる人もいるのかもしれないけど、そういう思考に対するアンチテーゼとして、この短編は書かれたのかも。
また改めて読んでみると、印象が変わりそうな作品です。
『残像』もある意味ではユートピアのお話。経済不安によって社会が不安定となり、それぞれが小さなコミュニティに分かれた世界。その小さなコミュニティを渡り歩き旅をする男は、ある日、視覚・聴覚ともに不自由な人たちが中心となって運営されている町を訪れる。
音声、文字が認識できない人たちが、どうやってコミュニケーションを取り、文化を維持、発展させるか。現代のパートに、時折過去のパートが挟まれ、現在の実際的な状況と、過去のコミュニティが成り立つまでの歴史や理念までも語られます。
視覚や聴覚などあらゆる情報にさらされる人々と、そこから離れ、独自の言語文化や考え方を発展させていった人々の対比としても読めるかも。思考実験的な部分と、物語のテーマ、そしてここではない世界や文化への憧れが共鳴し合う、こちらも印象的な短編です。
アメリカではいくつもの賞を受賞した作品みたいですが、それも納得の出来。
ユートピアの話はもう一編。少年と一人の女性の出会いが描かれる『さようなら、ロビンソン・クルーソー』は、ユートピアの終わりと共に、一つの時代の終わりの寂しさや郷愁と、新たな決意や爽やかさも印象的な短編でした。
設定自体は特異で作り込まれたものが多くて、話にスッと入れるかは、人によって分かれるかもしれません。
でも一方で、そういった世界を描きながらも、どこまでも変わらない人間の憧れや哀しさを、表現した短編集でもあった気がします。 -
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一息に読み切ってしまうくらいには面白かった。これまで読んできたディックの作品とは違って、結構オチもしっかりついていたし。ホバーカーを筆頭として、ディックらしいガジェットも多く登場する。そういういかにもなアイテムや制度に彩られて、個人的にはやや古臭さを感じるが、昨今のSFでは中々お目にかかれない、「これぞ空想科学小説」と言えるような世界が作り上げられている。着想元が新聞やカセットであるために、現在から想像できる未来と照らせば、ちょっと想像力の限界を感じざるを得ないけど。
作品の根幹となる2つの要素が、物語を追う内に段々と融合していって、最終的にはきっちりと収まったような印象を受ける。大ハマリはしなかったけど、楽しく読めた。
登場するキャラクターが多く、容姿なんかではかなり個性づけされているのが理解できるが、登場以後あんまりそういう個性が強調されることがない。だから、メインキャラ以外は覚えにくい――と、書こうと思ったのだけど。自分でも意外なことに、誰が誰なんだっけ、となることは(冒頭は少しあったけど)あまりなく、名前もしっかりとではないにせよ、読んでいて困らない程度には頭に入っていた気がする。ただ、もう少しそれぞれ活躍させてくれれば良かったのにな、と思う。キャラクター小説ではないから、仕方ないのかも知れないけど。書きながら思ったけど、キャラクターの個性があまり強調されない点が、個人的にディックにそこまでハマり込めない要因なのかも。あとは、ディック自身の常識から飛躍して世界が構築されているだろうがゆえの、特に服装に関しての想像のしにくさとか。
ネタバレ込みの感想については、コメントにて補足予定。 -
Posted by ブクログ
坦々と読み進める。
感想はとくになし。
ヴォガットがなくなったのは2007年で、それから6年たって、自分のブログにこんなことを書いたことがある。
「カート・ヴォネガットが亡くなってもう六年経つ。
かれの作品は好きだが、困るのは、読んだ後、元気がなくなるという点だ。
ヴォネガットといえば、「心優しきニヒリスト」という肩書が有名で、かなり早い時期からそう言われていた。作品はたしかにそんなふうだ。
かれの主人公は、巨大な歯車の中でモルモットのように扱われ、無慈悲な運命に翻弄される。誰が悪いというわけでもない。巨大な歯車、巨大なシステム、宇宙的な構造そのものの結果としてそうなるのであって、仕組みそのものにも悪意があるわけではない。だから、人間の存在や営みは結局のところ無駄であり、傍から見ているとコミカルなだけである。それを愛情深く描いたのがヴォネガットの作品である。
(同じことがらを叙事詩的に描くと、小松左京の「果しなき流れの果に」になるのかもしれない。)
だからヴォネガットの作品を読んでもちっとも元気にならない。意気消沈してしまう。元気を奪われてしまう。
ファンではあるが、ときどきしか読まないのは、そういうわけだからである。
ヴォネガットは明らかに共産主義へのシンパシーを表明しているが、アメリカのメジャー作家の中では珍しいと思う。」
しかし後期の作品になると、上に書いたヴォネガット的な特徴に変化が生じてきたのではないかと思う。
だから、少なくともわたしにとっては、その作品が退屈に感じられるようになったのではないか。
その変化とは、どういう変化なのだろう。
まだ読んでいないのは最後の長編「タイムクウェイク」だけだが、もし読む機会があったら、その点を考えながら読もうと思う。