感情タグBEST3
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お宝を持ち帰った桃太郎は死ぬまでに何回人間不信に陥ったか。
月に帰ったかぐや姫は朽ち果てるまで何度鼻の穴をほじったか。
人生が映画のようにドラマチックでもメトロノームのように規則的でも、エピローグは上映時間の冒頭から既に始まっているという事をこの小説は喋っている。予想外にてきぱきと終わってしまった人生に面食らう事もなく、終わってしまった物語のパーツを一個一個拾い集めておもちゃ箱に仕舞い込む様子を楽し、めと言われても多分無理な話です。そうです、誰かを奮い立たせるようなお話でも、夢を増幅させるような紙芝居でもないです。ただ【そのあとどうなりました?】【はい、彼はお菓子を作るのが好きです】という、噛み合うようでそもそも始めからお互い噛んですらいない、語り手と世界との通話記録があるだけ。
でも人生の記述文法はそれが一番適切だと思うから、自分は死ぬまでこの本から目を離せない。
無人島に持って行くのも無人島なんて行きたくないと思わせてくれるのも、等しく、この一冊。
これが暖炉だ。なくなっちゃったら、生きていく気が風邪を引く。
【P292】
もう暖炉がないと知ったとき、母は意味深長なことをいった。
「あら、どうしましょう――暖炉がなくちゃ、これ以上生きていく気が起きるかしらん」
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何度目かの再読。自分の人生が物語としては不十分で、エピローグばかり長すぎることに気づいてもなお、人はエピローグを生き続けることの皮肉と哀しみ。でも、その哀しみをヴォネガットは優しいまなざしで描く。だから好きなんだと思う。
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ヴォネガットの作品は皮肉と温情の闇鍋である。ある部分だけをつまみ出せば、それはあまりに口汚い世間への罵りであり、またある部分を切り取れば、まるで宗教の説話のような訓辞になっている。しかし全体として作品を見れば、どうしようもなくひどい世界でも愛してやまない作者の理想主義である。
この『デッドアイ・ディック』でも、ライフル銃で妊婦を撃ち殺してしまった少年の人生を、かばい立てすることなくえがいいている。兵器、銃器というものは、使用者の善意・悪意・無為を問わず、使用すれば人を傷つける他はない。中性子爆弾にしてもそうである。見かけがきれいに残っていれば、それは破壊ではないのか。居抜きで占領者が殺戮後の都市を使用するとする悪魔のような所業を、ライフル銃で人を誤って殺した少年の罪と並べたのではないか。
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「デッドアイ・ディック」の主役は銃であり、ドラッグであり、中性子爆弾であり、人々の偏見だ。
これらがたくみに物語の中で影響を及ぼしてくる。その主役たちの周りで、
へんてこなダンスを踊らされているのがルディ・ウォールツであり、
ルディの父であり、母であり、兄であり、ドウェイン・フーヴァーとその妻だ。
途中途中にさし挟まれるレシピ、これがまたいい。
そして、人生は演劇だ、ときどき台本までもが登場する。
「デッドアイ・ディック」は「ジェイルバード」のあと、1982年に書かれた小説で、
名前から「ジュニア」が取れた『近年の作品』の範疇に入るのではないかと思うが、
「デッドアイ・ディック」のヴォネガットはとにかく調子がいい。
油が乗っている。職人芸だ。上手い。翻訳もすこぶる調子がいい。
コトバが血肉になっている印象すらある。
あとがきを読めば、どのくらい調子がいいかがさらに伺える。いいタイミングで訳されたと思う。
どの世界にも原理主義者って言うひとたちがいて、
Genesisならピーガブが脱退する前までしか認めないとか、そんな類の主義なんだけど、
ヴォネガットもご多分に漏れず、「猫のゆりかご」や「タイタンの妖女」の評価がめっぽう高い。
しかし、わたしは職人の熟練した腕で生み出された作品がものすごく好きだ。
わたしにとっての最初のヴォネガットは「スローターハウス5」で、何度も読んだ本だし、
おそらく一番好きな本は?と問われれば、これを指すだろう。
けれど、ほんとうにそうだろうか、とふと思う。
ヴォネガットのよさは、熟練の妙味だ。
これがなければ、すべてのヴォネガットを読み続けることなんてなかった。
その妙味のある作品といえば、70年代後期〜80年代に生まれた作品群にあたるのではなかろうか。
それにしても、「チャンピオンたちの朝食」は、もしかしたら「猫のゆりかご」以上にヴォネガットにとって
重要な1冊なのではないかと思った。「チャンピオン」と「青ひげ」、「デッドアイ・ディック」は
三兄弟のような作品だ。こんな本が読めて嬉しい。
もっと読まれていい一冊だと改めて思う。
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行動も思考もほんの少し周りとずれているだけなのに糾弾する空気はどの社会においても大差ないだろう。そこに宗教が介入しても解決するとは限らない。虚構か現実かは問うなかれ。その人の感情に触れてみる。私もそれを疎かにしていることを猛省する。救う救われる。それはボランティアという奉仕活動ではなく日常における言動から見直さなければならない。
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初めて読んだカート・ヴォネガット作品。
なんだろう、隅から隅までユーモアと皮肉??
人生を悲観的に過ごしてはいるのだけど、それを楽しんでいる様な感じを受ける主人公。
がっつかない、こういう人物像が魅力的なのだよな、と思います。
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内容はテンコ盛りだが、あまり記憶に残っていないのは、ヴォネガットに独特の奇想天外な展開がないせいではないか。
サマセット・モームがたしか「要約するとの」の中でプロット(物語の筋立て)の重要性を説いていて、フローベールの「感情教育」はすぐれた作品だけれども、それがないのでひどく読みにくいと言っていた。スティーブン・キングも「スタンド」の前書きで、「ヘンゼルとグレーテル」を例に挙げてその重要性を語っていた。
この作品では、米国の現状を告発する個々のエピソードが積み重ねられていて、それはそれでウィットに富んでいて面白く読めるものの、これまでの目のくらむような展開がなくなった分、読後の印象がモヤつつまれた漠然としたものになってしまったのではないか。
料理のレシピにも興味が湧かないし……。
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SF?
初めてのヴォネガット作品。
『時空のゆりかご』のエラン・マスタイさんが好きということで、細かく章を区切る構成が似ている。
内容は、中性子爆弾で滅びゆく街の様子を描いたSF…だが、全然SFらしくない。主人公一家の人生を描いたヒューマンドラマという印象が強い。
ユーモアある文章で、クスッと笑える場面が多く、退屈せずに読めた。
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なんともけったいな物語。以前「チャンピオンたちの朝食」を読んだときにも同じような印象を受けた記憶がある。高橋源一郎「さよならギャングたち」と同じ(というか高橋がパクったんだろうけど)なんだけど、「さよなら〜」ほど詩的なわけではないなあ。一応ストーリーはあるんだけど、それよりも即興的な文章を味わうべき小説なんだろう。その意味では翻訳で読んでもダメなのかもしれない。訳者あとがきで紹介されていた書評でもそのあたりについて書かれている。以下抜粋。
「ヴォネガットは、カウント・ベイシーがピアノの名人であるのと同じ意味で、文章の名人である−−どちらのスタイルも、簡潔で、おどけていて、リズミカルだ。そのために、多くの人びとは、この二人を平凡であると思う。だが、その真似ができると思うならやってみたまえ−−できはしない」(ネーション誌)
「『デッドアイ・ディック』のすばらしさは、その文章、その音、その匂い、その色彩、その飛躍にある。ヴァネガットはジャズの即興演奏家に似ている。自分ではどこへ行きつくかを知らずに、神秘的なタイミングの感覚で話を進めていく。いびきのように偉大なセンテンスをかき、くしゃみのように最高の隠喩を連発する。ときにはホットに、ときにはクールに、だが、つねにメロディックで、その文章の中から風変わりなイメージの小鳥をつぎつぎに羽ばたかせる。それをホワイト・ファンクと名づけよう。」(ナショナル・レビュー誌)
なによりも驚いたのは、
「トゥー・ビー・イズ・トゥー・ドゥー」−−ソクラテス
「トゥー・ドゥー・イズ・トゥー・ビー」−−ジャン・ポール・サルトル
「ドゥー・ビー・ドゥー・ビー・ドゥー」−−フランク・シナトラ
という落書きが最後の方にでてきたこと。これはリュック・ベッソン「SUBWAY」の冒頭で出てきたフレーズ。うまいなあと思っていたが、まさかこんなところに元ネタ?があったとは。
Posted by ブクログ
これまで読んできたヴォネガットの小説のなかでは一番スケールは小さい。
一つの田舎街を舞台にした、奇妙な家族を中心とした物語。
おかしくて悲しくてどうしようもない人たちばかりだが、きっと人ってこういうもの。
「一生はまだ終わっていないが、物語は終わったのだ」
エピローグでしかない人生でも続いていく。