うむむむむ。色々考えるきっかけにはなったし、敗戦をきっかけに東西が分かれ、その後統一という設定はなかなかユニークで面白かった。しかも、大阪が実質的な首都になっている(=実質の東京)のが関西人としてはおもしろかったけど、主人公が意図的にテロリストにされ、整形して逃げ回ったのち、最終結末も意外性がなく、うーーんという感じ…関西出身→上京→Uターンで関西にという身の上のわたしとしては、関西弁・標準語を使い分けることは容易だが、それでステータスが決まるのも現実的に考えられやすいもので、生粋の関西人である両親と祖父母に関西弁で喋り!と毎日言われる身としてはかなーりタイムリーな話題で面白かった気もする。
p.378 を立てたくない、と男は言った。みんなが腹を立てなければ、喧嘩も戦争もない、と。
まったくそのとおりだ。ひとりひとりがこらえれば、この世から諍いは消える。争わず、互いを尊重した人々が生きる世界。それは誰もが望む世界ではないのか。
現実は、そうなっていない。人々が怒りを抑えられないからだ。怒りをコントロールするのは難しい。
怒らないでいる方が楽しいとわかっていても、腹が立つときは立つ。人間は自分の感情すら、意のままにならないのだ。それが、感情というものだ。
もし、腹を立てずに生きる方法があったら。そんな発想の下に動いているのが、聖子たちMASAKADO)の穏健派ではないか。人間から闘争本能を消し去れば、他者と争わなくなる。他者と争わないのは、腹を立てないからだ。ならば、聖子たちが目指す世界は人々が望む理想の世界なのか。聖子たちに背を向けるのは、理想の実現を妨げる行為なのか。
いや、そんなことはないはずだ。腹を立てたくない人が、自ら闘争本能を捨て去るならいい。だが聖子たちは、日本人全員から強制的に闘争本能を奪い取ろうとしている。目指すところが正しくても、手段が間違っていたら受け入れられない。一度はそう結論したではないか。男の言葉でまた考え込んでしまう自分は、迷いが捨てられずにいるのだと自覚した。
p.419 「何が言いたいかというと、余裕がないんですよ。他人のことを考えている余裕がないんです。自分のことだけで精一杯なんです。開き直るようですが、それはぼくが悪いからだとは思いません。社会のシステムが、どこかおかしいんですよ。資本主義には、何か問題があったんでしょう。でも、社会システムを変える権力を持っている人は、特に困っていない。だから変える気がない。持てる者と持たざる者が二分され、一度持たざる者になると持てる者になる方法がない。努力ではどうにもならないんです。
何が不幸かもわからず、他の人よりはましって考えて満足してる。そんな状態ですから、無関心だと怒らないで欲しいです。五藤さんからしたら、言い訳にしか聞こえないかもしれませんけど・・・・・・・」
勢い込んで話したが、最後は声のトーンが自然と落ちてしまった。どう言おうとも、当事者にとっては言い訳でしかないのではと考えたからだ。
「いや、わかるよ」
しかし五藤は、目に宿った険を引っ込めた。一条を責めても仕方ないと考えてくれたのかもしれない。
日本人の無関心は腹立たしいだろうが、だからといって怒りを向ける先にはして欲しくない。怒りをぶつけるべきは格差を容認する社会システムだと、一条は気づいた。
「この店は昔は庶民向けだったんだが、いつの間にか高級レストランになっちまった。あんたがここでの食事を贅沢だと考えるのは、よくわかるよ。おれだって、上級の部類じゃない。日々の暮らしでヒーヒー言ってる、ばりばりの庶民さ。この店は、米兵が来るから成り立ってるんだよ。基地に文句言ってるくせに、客として来てくれないと稼げない。自分で矛盾には気づいてるさ。だからよけいに腹が立つんだ」
p.420 五際は手許に視線を落とした。まるでグラスに話しかけるように、納々と続ける。
「昔はロシア料理屋だったって言ったろ。その頃はソ連人を相手に商売をしていたのさ。でも、ソ連が撤退してどうにもならなくなった。ロシア料理屋の看板は下げて、どこ料理ってわけでもない洋食屋になったわけだ。アメリカ料理にしなかったのは、親父の意地だったんだろうよ。それでも、メニューにステーキとハンバーガーは入れざるを得なかったんだけどな」
五藤の口調は自嘲気味だった。親子二代に亘る複雑な思いは、おそらく簡単には語り尽くせないのだろう。
「あんたの話を聞いててわかった。これは東日本対西日本とか、日本対アメリカとか、そういう問題じゃないんだな。金も権利も持ってる上級国民と、何も持ってない下層民の闘いなんだ。下層民のおれたちは、貧乏が当たり前だとずっと刷り込まれてきた。貧乏なのは自分が悪いと、子供の頃から教え込まれてきてたんだな。違うだろ、と今なら思うよ。毎日ちゃんと働いて、それで人間らしい生活が送れないなら、社会の方がおかしいんだ。米軍に頼らなきゃ生きられないのは、米軍が悪いわけじゃなかった。
そんな日本がおかしいんだな」
だからってレイプ犯は許せないが、と五藤は低い声でつけ加える。その点は、一条もまったく同感だった。
「なあ、話は戻るが、あんたは闘争本能を捨てたいのか?こんなおかしな社会システム、変えたいとは思わないのか。社会システムを変えるには、怒りが必要だろ。従順になって、それで不幸を幸福だと感じて生きていきたいわけか」
問われても、即答できなかった。関争本能を捨てるという発想には一理あると思ってしまったから、そう簡単には考えを転換できない。人と争わずに生きていきたいとは思う。しかしそれは、現状を追認することなのか。自分をごまかして生きることになるだけなのか。
「ああ、すまんすまん。議論を吹っかけるつもりはなかったんだ。ただ、あんたの話があまりに思いがけなかったんで、散らかった考えをまとめなくちゃならなかった。さっきも聞いたとおり、あんたにはあんたの事情があるよな。一方的に責めちゃいけないってわかってるのに、今は殺気立っててなぁ」ようやく五藤は、強張っていた顔に苦笑を浮かべた。厨房の方に顎をしゃくって、「あっちが自宅だ」と説明する。
「裏で繋がってるんで、あんたにはそっちに泊まってもらうよ。妻がいるが、子供はいない。妻はもう寝てるから、挨拶は明日でいい。取りあえず、移動しようか」
五藤はテーブルに両手をついて、立ち上がった。一条は「はい」と応じながらも、もう少し話を続けていたかったという未練も覚えた。
p.491 卒然と理解した。これは単に、米軍への反感が爆発したのではない。まして、お祭り騒ぎに便乗するような、無責任に騒動を大きくする人たちが煽っていることでもない。人々はずっと、耐えていたのだ。
理不尽な経済格差、ささやかな幸せすらも掴みづらくなった日常、明るい未来が描けなくなった社会。
人々は夢を見ることすら諦め、日々を生き抜くだけで精一杯になっていた。だが、人には感情がある。
機械と化して、自動的に生きることはできない。訴えようがない感情が溜まり、人々の心の中でくつぐつと煮詰められていた。それが今、噴き出そうとしているのだ。これは、生きていくためのエネルギーの発露なのだ。
もし、人が闘争本能を失っていたとしたら、どうだったろうか。どうしても、その仮定が頭から離れなかった。当然、人々はこうして歩いてはいなかったはずだ。怒りも覚えず、家や職場でおとなしく生活していただろう。その様を想像し、一条は初めて恐ろしさを感じた。従順な羊たちは、もはや人であることをやめた姿なのかもしれない。怒りを忘れたくない、と言った五藤の言葉が今ようやく理解できた。
もちろん、腹を立てながら生きたくはない。できることなら、毎日楽しく暮らしたい。しかし、それは現実の辛さに目を取って生きるという意味ではない。眼前に辛さがあるのに、あたかも何も見えないかのように生きるのは不気味だ。もはや開争本能ではなく、思考能力を捨てて生きていると思える。
あるべきときに怒る、買うべきときに関う。そんな人を、一条は香定できなかった。星力は決して認めないが、人が人であろうとする関いは必要ではないのか。この先に待っているのは単なる黒力の嵐か、それとも人であり続けるための関いか。是が非でも見届けたいと、一条は考えた。
p.502 鳥飼の問いかけに、辺見は少し考えた。一条との最後の会話を思い返す。あのときは意図が理解できなかったが、一条の覚悟を知ってぼんやりと見えてきたこともあった。
「一条は現代文明に疑いを持ったのかもしれません。人間は文明の進歩に追いついてない、とあいつは言うてました。環境破壊だけやなく、戦争やテロが起こることを指していたのでしょう。人間の闘争本能は必要ない、とも言いました。ただの推測に過ぎませんが、<MASAKADO)は人間の脳やホルモン分泌に働きかけるテロを計画していたのかもしれません。一条が大学で生化学を専攻していたことと考え合わせると、可能性はあると思います」「なるほど、いい推測や」
鳥飼は、今度は深く頷いた。辺見の考えを認めてくれたようだ。
自分で口にしておいて、事の重大さは後から認識した。もし(MASAKADO)が人間のホルモン分泌に直接働きかけるテロを計画していたなら、今は米軍がそのアイディアや技術を手にしたと見做すべきだ。米軍は間違いなく、軍事転用を試みるだろう。そんな技術が実用化されるのが、ずっと未来であることを願うだけだった。
いや、それは先送りされるべきことではなく、もしかしたら喫緊で必要な技術かもしれない。そう考え直し、意図的に思考を停止した。鳥飼の前でなく、ひとりになってじっくり検討してみたかった。
「下がってええ」
「はっ」
辺見が立ち上がって礼を返す間も惜しむように、鳥飼はスマートフォンを取り出してどこかに連絡をした。おそらく、緊急の対策会議が開かれるのだろう。米軍が情報を分け与えてくれない不均衡な関係である以上、日本独自の対策が必要だった。