清水義範のレビュー一覧
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小中高と国語は得意科目だった。自慢話になるが、高校の頃は学年トップに立ったこともある。それでいて、本書に引用された小学生の国語の問題が解らない。まさに著者の言う「正体不明の学科」だ。
「あの歌はこんな意味だった」を読むと、清水義範も多くの人が陥りがちな「巨人の星」に関する勘違いをしている。「思い込んだら」と「重いコンダーラ」。主題歌のあの箇所で飛雄馬は地ならし装置を引っ張っていないにも関わらず、引っ張っていたかのような誤解がまかり通っている。昔のアニメージュでも論争があったものだ。
著者は「巨人の星」連載時、少年マガジンの編集長に会った際に「消える魔球はなぜ消えるんですか?」と尋ねたそうだが、アニメの方は視ていなかったのか。 -
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蕎麦ときしめん
清水義範
発行:1989年10月15日
講談社文庫
初出:小説現代1993年11月号~1986年6月号
書名となっている作品を含めた6本の短編小説。6編ともパスティーシュと呼ばれるジャンルの作品。模造作品とも訳されるが、文学ならある文体を真似て書く。パロディの一種。著者は名古屋出身の実力作家だけに、無茶苦茶面白い。2022年の元日にこの1冊、今年は幸先がいい。
『商道をいく』と『猿蟹の賦』は司馬遼太郎風に書かれていることが感じられる。『三人の雀鬼』はおそらく阿佐田哲也風。あとはよく分からないが、あとがきを読むと、特定の作家の文体でなくてもいいようだ。例えば、家電の取説風とか、「推奨されません」「想定外」といった言葉を連発するIT関係者風とか、たぶんそれでもOKのようだ。最初から最後まで、それで通すのか肝腎なのだろう。
『蕎麦ときしめん』(初出:1984年12月号)は、清水という作家(私)が、東京から名古屋に転勤した鈴木雄一郎という人物が名古屋の地域雑誌『しゃちほこ』に発表した論文を紹介し、それを批判する文章。もちろん、全部架空の小説。
鈴木氏は1975年からの6年間の名古屋生活において分析した名古屋人論を展開、難解な名古屋弁を覚えて意識的に歩行速度を落として歩いても、やっぱり東京出身であることがバレて(地下街があるのに地上を歩いていたのでバレた)よそ者を受ける、名古屋ではプライバシー尊重は罪である、などの話を進めていく。
よく言われる道路が広い件でいうと、名古屋人は月給8万円の19歳がクラウンのハードトップに乗るなど国産高級車を所有するのが当たり前のまちであり、もちろんトヨタ以外には乗らず、外車など存在することすら知らない、そんな名古屋だから道路は自動車が走るために存在するわけで、信号で渡りきれない広い道を造るのも当然、などと論をはる。そうなった理由は、濃尾平野が広いため農耕民族でありながら遊んで暮らせ、騎馬民族が乗っている馬に憧れたことだと結びつける。そういえば、織田信長も馬を愛し、夫に名馬を買い与えた山内一豊の妻も名古屋女だ、とも書き添えている。
ただ、名古屋人がこの小説を読んでいると、もっと小さなことに笑え、同意できる。例えば・・・
・東京で活躍している名古屋出身のタレントの名前が挙がったとき、確か名古屋出身でしたね、と誰かがいえば、必ず「××高校だぎゃ」と名古屋人は答える。
・タクシーに乗って中日は強いねえと運転手に言うと、運転手は「あんなもんいかんわ。選手がみんな馬鹿だで」と答える。
劇中の鈴木氏は結論でいう。蕎麦は原則としてざるに乗り、汁から隔離されている。お互いに影響し合うことのない、共存の関係がある。一方、きしめんは全く逆のコンセプトで生み出されたもので、最初から汁にどっぷりつけて、個人が完全に社会の中に埋没している。しかも平べったい麺は表面積が広く、より多く社会という汁にひたれる。蕎麦はアイデンティティーの確立というコンセプトで生まれ、きしめんは個の喪失、社会への埋没で生まれた食べ物である。
『きしめんの逆襲』は、最後に収められている短編で、1985年6月号が初出。『蕎麦ときしめん』の半年後に発表されているが、いわば自己パロディみたいな作品。『蕎麦ときしめん』は鈴木氏の名古屋批判論文への批判として書いたのに、あたかも自分自身が書いたもののように受け取られ、名古屋人から猛烈な批判を浴びているのでそれに対する反論として書かれている形式の小説。社会から脅迫に近い抗議を受ける様子など、その手の物語にありがちなパターンを踏襲したパロディ作品。いまでいう炎上もの。
その中で『蕎麦ときしめん』を清水氏自身が書いた「小説」としているが、『蕎麦ときしめん』は小説ではなく論文への反論文として清水氏が書いたものであり、それを小説として扱っているのは、その清水氏とこの清水氏は同じであってかつ別の清水氏ということになる。その意味で自己パロディであり、しかも最後は鈴木氏も清水氏と同一人物であるというオチまで待っている。
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『商道をゆく』(初出:1984年3月号)
司馬遼太郎風の作品。タイトルは『街道をゆく』を彷彿とさせるが、第1章を「坂の上の星」とするなど、他の作品要素もたくさん入っている。岐阜の山中の貧農に生まれた主人公が、病気に臥した父親に代わって農業をするも、東京に出て五本の指に入る寝具メーカーの社長になるまでを描く。社史を編纂するという形式でそれを展開。戦中戦後のめまぐるしく変化する世の中に翻弄されつつも成功していく主人公。ありがちな物語のなかにユーモアと名古屋弁が冴える作品。
『序文』(初出:1986年6月号)
「英語語源日本語説」という本を出版する際の序文をその筆者自身が書いているのだが、自説である英語の起源は日本語という論が浴びている批判というか、問題外という評価に対して反論する序文となっている。それが改訂版の出版時の序文序文、完全版出版時の序文、全著作集出版時の序文と続き、重ねるごとに徐々に世間で自説が認められ評価されていっている内容を盛り込んでいる。
最後は、文庫版出版の序を他の人が書いているのだが、英語語源日本語説文が完全に否定されたいま、文庫化されることの意義を説くなど、出版文化における権威性へのパロディを感じる短編。
なお、英語語源日本語説とは
ジュースの語源は汁(じゅう)
killは斬る
owe(負う)は負う
sickは疾苦 など
『猿蟹の賦』(初出:1983年11月号)
司馬遼太郎風の猿蟹合戦。猿蟹合戦は伝わる地域によって微妙に内容も違っているそうだが、山梨県の上九一色村のものが有名であるようなことが書かれている。本当だろうか?
小説は佐渡島が舞台のため、佐渡の蟹は辛抱強いから仇討ちなんかしない、みたいなことが書かれていて笑える。
『三人の雀鬼』(初出:1986年1月号)
死んだ叔父(血のつながりはない)の遺品分けを手伝わされることになり、麻雀牌を故人の友人だったある人に渡すことになった。それを届に行くと、その人を含めた70歳以上の老人がいた。みんな死んだ叔父の友人で、よくマージャンをしたという。主人公を含めた4人で打つことになった。レートは1点1銭(箱で300円)で、「大きすぎるかもしれん」「また権利書を取られることになるかもしれん」などと老人たちは言いながら打ち始める。そして、同じことを何度もいうボケた人たちで、積み込みなどのインチキをバレバレの状態でやる。しかし、最後、主人公がそれをしようとすると3人から手首を捕まれて厳しくとがめられる。
阿佐田哲也の『麻雀放浪記』風か。 -
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※これは国語入試問題の必勝法を解説する本ではありません。
国語の成績がどうにもこうにも伸びない受験生時代、題名に惹かれ、手に取った。読みながら「ふむふむなるほど、次からは実践してみよう」などと意気込んでいたのに、あとがきでフィクションだと知り、拍子抜けした思い出の本。それほど、説得力があり、虚構の必勝法だと知っていても、模試で試してみたりしていた。
「時代食堂の特別料理」はいつかの国語の試験に出たことがあり、懐かしかった。偶然にも、このお話に再会できて、改めてゆっくり読めてよかった。
最後に、この本の内容を必勝法に則って6文字で要約するならば「色々あった。」
風刺とユーモアあふれる短編集。 -
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「もし対決したら」というジョーク小説10番勝負
どんな対決なのか、どんなオチなのかもそれぞれ異なるので、マンネリ化せずに最後まで読める
描かれてるのは以下10作
ソクラテスvs釈迦
シェイクスピアvs近松門左衛門
ロビンソン・クルーソーvsガリヴァー
コーヒーvs茶
桃太郎vs金太郎
ラーメンvsカレーライス
楊貴妃vsクレオパトラ
空海vs最澄
大岡越前守vs遠山金四郎
紙vs火薬vs羅針盤
・ソクラテスvs釈迦
オチがなんか、日本の悪しき風習というか、滑稽さを揶揄する感じで昭和チック
・シェイクスピアvs近松門左衛門
言われてみれば確かに確かにこの二人は歴史と悲劇という似たような傾向はある
でも、僕がそんなに詳しくないので、そんなに楽しめなかったかな
・ロビンソン・クルーソーvsガリヴァー
まぁ、ロビンソン・クルーソーからしたらガリヴァーはそう見えるわなぁと思う
ま、一般的にはそんな評価の方が正しいんだけどね
・コーヒーvs茶
一地方で飲まれていたからといって歴史が古いわけではないか
作中の思想はヨーロッパ中心主義っぽいものを感じるけど、20年前から既にそんな傾向は崩れ去っていたと思うけどね
ただまぁ、お茶が歴史に様々な影響を与えてきたのはよくわかる
っていうか、最後のオチがネットでよく落ちてるあのセリフを思いおこされる
・桃太郎vs金太郎
この話が一番好きかな
桃太郎の話が地方によっては犬猿雉関係ないところとか、桃すら意味不明な由来というのにウケる
・ラーメンvsカレーライス
「おせちもいいけどカレーもね」が正義じゃないのか?(笑)
ってか、そんなにラーメンとカレーで意見が食い違うんだったらそれぞれ別のものを食べればいいじゃないと思う
・楊貴妃vsクレオパトラ
楊貴妃とクレオパトラは一切関係ない
それにしても、学校の先生はたいへんですなぁ
・空海vs最澄
この二人の対決だけでなく、現代に置き換えた形の話が描かれてあるのでわかりやすかった
・大岡越前守vs遠山金四郎
最澄と空海もそうだけど、歴史の検証小説っぽくなってる
でも、最後のところは面白く読める
・紙vs火薬vs羅針盤
トリなのにそんなでもなかった
コーヒーとお茶の二番煎じっぽいかな
個人的には他の2つに比べれば羅針盤は一段劣る
そして紙は活版印刷あってこその評価じゃなかろうかとは個人的に思う
火薬も人類にもたらしたものは争いの部分が多くなってしまうからなぁ
オチはコーヒーとお茶と同じようなものを想像したけど、なんだか肩透かしを食らった感じ -
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中学のいわゆる保護者会に行った妻と息子が帰って来なかったので、中学校に乗り込む作家さんのお話
学校教育に対して、清水義範らしい揶揄の仕方なんだけど、この中学の教育論というかがすっげーわかるわー
というより、教育論批判についてかなり同意するというのが正しいかな
30年前に書かれたものなのに、今現在でもこの課題はまったく進展がないというのを実感
自分が体験したものと、親目線で見て取れるものと、親として教師と接して感じるもの
もっと子供を信じてやればいいと思うんだけどなぁ
作中で、教育というのは復讐だという主張があるけど、まぁ一理あると思う
ストレートで教師になる人は、子供の頃から教師になるまで「学校」という社会しか経験していないことになる
大学では教育に関して学ぶ機会はあるものの、やはりそれは大学とは言え教師からのものでしかない
大学の時、教育学部の人と話してて「バカじゃねーの?」と思う意見が時々あったものの、それが教育の場では最適とされていることだったりするんだよね
その意見に迎合できる人だけが教師になり、「バカじゃねーの?」と思う人は教師にはならないというサイクル
そりゃぁ改善しないわな
国語に関しては、清水義範の「国語入試問題必勝法」でも書いてある内容を予備校でも教わったなぁ
選択肢を除外する理由として、「言いすぎ」、「不足」、「間違い」
あと、一番厄介なのが、「一般的には正しい意見だが文中にはかかれていない」
一番近いものっていうんだったら、多少見当違いに思えても他の選択肢には明らかな間違いがあるんだから正解にせざるを得ないよな
こんな読解力を試して何になるのかね?
以前、とある作品のこのキャラは恋心を抱いているかどうかで友人と議論になったけど
作中には明確な恋とは断定されていないけど、行動から明らかに恋心を抱いていると思える状況
言葉では否定しつつも実際はどうか、と言うのは読者それぞれに委ねられたものであって、誰かに決めつけられるものではなないと思うんだよね
文章として書かれた表面上の意味と、さらにその奥に隠された主張を読み解くのが文学だと思う
ま、表面上の意味も正しく読み取れないならその奥なんてわかんないんだろうけどさ
社会に関しては、思想が偏っていない社会科教師なんていないのでは?と思うほどにどっちかに偏ってた印象
主に左側にね
ちょいちょい自分の意見を授業で入れてくるの、ホントやめて欲しい
決められたカリキュラムというのも大事なのはわかるけど
世の中にはモンテッソーリ教育というのもありましてね
皆一斉に同じ事を学ぶのではなく、それぞれの長所を伸ばす方法もあるあるわけで
実際にそれを取り入れている幼稚園や市立の学校もある
なので、子供の自主性に任せたらとんでもないものになるわけではないんだよなぁ
この本、読む人によってとらえ方がまったく変わってきそうだな
教師にとっては将に悪書になるのか、問題提起のテキストとなるのかは分かれるところだろうね