小池昌代のレビュー一覧
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・池澤夏樹=個人編集「日本文学全集 02」(河出書房新社)は 池澤が「初学者に向けた和歌入門のつもりで編集した。」(池澤夏樹「解説」419頁)書である。折口信夫「口訳万葉集」、小池昌代訳「百人一首」、丸谷才 一「新々百人一首」の三作を収める。和歌入門といふだけあつて万葉集から勅撰集までといふ、正に和歌といふにふさはしい時代と作品を扱つてゐる。実際に歌 を詠まないのならば、これで十分である。折口のはいささかぶつきらぼうであるが、他は丁寧に解説し、小池はすべてをきちんと訳す。丸谷は必ずしも訳すこと をしないが、その内容は多岐にわたる。そこから自然にその歌の意味も見えてくる仕掛けである。ただし、折口と丸谷は抄本である。丸谷のはその全体を知ることができない。大部の書なのであらうから、ここに収めることができないのであらう。これが残念な点である。
・折口「口訳万葉集」の訳を読みながら思つたことがある。助動詞の訳し方である。例へば有名な大伴家持「酒を讃める歌」の「しるしなく物思はずは」の最後 を折口はかう訳す。「飲んだ方がよいにきまっている。」(34頁)この部分は「飲むべかるらし」である。「らし」は(根拠のある)推量の助動詞である。その前に当然の「べし」がある。そこから「きまっている」となつたのであらう。ところが、これも有名な持統天皇「春過ぎて夏来たるらし。」(19頁)は「今夏が来ついたに違いない。」と訳す。ここに「べし」はない。ただし、下の句の「衣乾したり」が「らし」の根拠としてある。これで「違いない」となつたのであらう。同様のは、舒明天皇「夕されば、小倉の山に」(52頁)の最後「寝ねにけらしも」がある。ここでは「今宵は鳴かず」がその根拠としてあるから、 「もう寝てしもうたのに違いない。」となる。他にもあるが、「らし」はすべてこのやうに訳されてゐる。つまり推量であるより、根拠があるゆゑに、当然の物事として確信を持つ意の訳になつてゐるのである。これは文法的にはまちがひと言ふべきであらう。たとへまちがひとしなくとも訳しすぎとは言へる。折口の学者としてよりは、詩人、歌人としての感性の為せる業なのであらう。万葉集に句読点を導入してゐるのも歌人として読んでゐるからであらうか。簡潔、明瞭、いささかの古めかしさが折口らしさを際立たせる。抄出であつてもおもしろい。これに対して丸谷のは丸谷オリジナル選である。「新々」と付される所以である。 解説は長短様々、実に丁寧に説明する歌もある。ここはその5分の1、20首を採る。私はまともに勅撰集を読んだことがないから、これだけでも知らない歌ば かりである。完成に20年かかつた(257頁)といふから、丸谷はよほど読み込んだに違ひない。例へば二条后「雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる泪いまやとくらむ」(258頁)は20頁以上にわたつて解説が続く。その間に引用された和歌は何首あるのか。これだけでも大変である。最初のこの歌の基本的事項を記す。収められる歌集や使はれてゐる技巧等についてである。これは教科書的な必要事項であらう。そしてその先が長い。延々と続く。勅撰集等をよほど読み込んでこれを書いたに違ひない。「○○のうちに」に始まり、「うぐひすの泪」に移る。これが契沖の説から始まつて、「おそらく鳥の泪は平安初期の歌人たちの発明にかかる。」(262頁)となつたところから更に続いていく。一体どこまで続くのか、限り知られずといふ趣である。それだけにこれもおもしろい。このやうな和歌入門編である。本当の初学者はホントに大変な覚悟で読み進める必要があるかもしれないと思ふ。 -
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突然元カレから生まれたばかりの赤ちゃんを預かるところから物語が始まるのですが、すごく心に響いて共感してしまった。
生まれたばかりの赤ちゃんを死なせてしまう事件とか最近のニュースで見ると本当に心が痛んでいたのですが
もっといろんな世代のいろんな大人が、それこそ「たまもの」として小さな命を守っていけたらいいなと思うのです。
母親になるという事、それは「産むこと」とイコールではないんですね。
子どもと暮らしていると、その時々でハッとさせられることがあります。子どもを育てるというより「育てさせてもらっている」という感覚が、まさに、その通り!と思えてこの若い(少なくとも私より)母親を応援したくなりました。
私自身、長女を産んだ時に嬉しさと共に「これは大変なことになった」と思ったのを思い出します。ちゃんと一人前の人間にして世の中に送り出さなくてはいけない、とこの世の中から大事な預かりものとして宿題を負った気がしたのです。
宿題をこなしながら、子どもが育つ速さで私も母親になってきたのかもしれない…
日々たまものという気持ちで暮らしているのと山尾君がとてもいい子に育ったのとは無関係ではないと思う、これは確信できます。
いい小説でした。
子どもを産んだ人、育てることに関わった人。これから子どもに恵まれるかもしれない人もそうでない人、そうでなかった人も。たくさんの人に読んでもらいたいなと思います。 -
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四十歳になる私の前にある日突然、幼なじみであり元恋人でもある男が現れて一歳にも満たない自分の息子とまとまったお金を私に預けて消息を絶つ。そこから物語は始まる。
「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」
柿本人麻呂が詠んだとされる一首。山鳥の夫婦は昼間はいっしょに過ごすのに、夜になると別々に寝るという。私も山鳥のようにこの長い夜をひとりで寝るのだろうか、という歌意だそうだ。
幼なじみの男はこの歌が好きだそうで、息子の名前を「山尾」と付けた。山鳥のようにひとりでいることに違和感を感じさせない雰囲気の山尾は手のかからない男の子に成長していく。一方、未婚かつ出産未経験で母親となった私は進展することのない男性たちと関係を結んでいく。山尾の成長と私の現状。いつかは本当の父に返すつもりで山尾を育ててきた私だったが。。。
血のつながりを必要としない「たまもの」、天からの授かり物だ。 -
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詩というものは、一言でくくるなら
「意想外の結合」と云えるんじゃないかと思う。
言葉は、思いもよらない言葉と手を結んだとき、
詩として昇華するのだろう。
本書は、現代をときめく詩人による6つの幻想譚。
でも、「ことば汁」という作品はない…それにしても、
この言葉から感じられる、おどろどどろしくも
なまめかしい感触は、新鮮で魅惑的だ。
言葉は、記憶を装い、身体に憑依する。
行儀よく、不規則にならんだ歯の隙間から、
よだれがだらぁんと、流れ出るような…官能。
そんな作品群…すごいっ!
さすが! 小池昌代さんだなぁ!
著者の詩集は大好きで、繰り返し読んでいるけど、
こうした短編も味わい深いです…ありふれた日常に
裂け目ができて、舌を出すような一冊です! -
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日常の中のちょっとしたズレを描いた6つの短編です。
なにげないふりをして、読む者の胸にいきなりサクッと刃を突き刺すような小説でした。
〝女房〟という短編以外は、いずれも主人公は、けしてもう若いとはいえない年頃の女性たちです。老い、孤独、欲望・・・・著者の筆によって、主人公たちはふと踏み込んだ非日常の世界で、心の襞を露わにされてしまいます。けれど不快な読後感はありません。それどころか、読み始めたらついつい惹き込まれてしまいます。
「ことば汁」という書名は、鍋の中の言葉のごった煮というイメージだそうです。思えば人生なんて矛盾だらけ、人の胸の中もコトコト煮込んだごった煮のようなものですネ。 -
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主人公の「わたし」(「こいけさん」と呼ばれる)と、非日常的な人々との関係について描く短編集。著者曰く、「こいけさん」は「わたしであってわたしでな」く、他の登場人物も「この本のなかで、こいけさんが、初めてわたしの前に連れてきてくれた人々」だそうだ(p.224「陽だまり――文庫版あとがきにかえて」)。
まず、最初に浮かんだ感想は、「難儀な人やなあ」「難儀な話やなあ」だった。一番難儀な一編は「クラスメイト」。覚えているのも、忘れているのも、思い出すのも、難儀な話。
ついで、「さびしさ」と「恋」の話だと思った。直接的に「恋」を描く話は少ないが(「蜂蜜びんの重み」と「ミミとわたし」くらいか)、傍目にみて「それは恋なのでは?」と思うような状況を、「わたし」や他の登場人物が(意識的にか無意識なのか)「さびしさ」に置き換えていく様を、読者は遠巻きに眺める。収録作の多くがそんな小説群として見えた。
恋を感じない編もある。冒頭の「隣人鍋」や「ゴッド・オブ・チャンス」、「クラスメイト」など、恋とはまるで無関係な人間関係のなかに強固な壁が描かれている。この壁(相手を理解しがたい感じ)も「さびしさ」をキーとして小説群の中にまとまっていく。
「壁」と書いてみたけれど、短編集のタイトル「感光生活」を考えると、溝やクレバスと捉えるほうが適当かもしれない。「わたし」の足元に口を開けたクレバスの割れ目に、ライトをあてて覗き込む。光の当たった面が、いびつな形、さびしい色をこちらに見せてくる。その形と色を物語性のある文章にしたもの、そんな感じか。 -
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森見登美彦さんが竹取物語、宇治拾遺物語を町田康さんが担当しているのがキャラクターを表していて面白い。そして作家さんが各々「俺が書きそう」「編集部から割り当てられただけだけどお笑い担当なんだな」と言っているのが笑えた。
今の若い人の言葉と昔のかしこまった言葉の混ざり具合がおもしろかったです。
→言葉は純粋にやっていくと滅びるんですよね。やっぱり混ぜていかんとね。ただ、混ぜるのもコツがありますね。バンドをやってるとき、よくあったんですよ。各パートでレコーディングした音を最終的にミックスダウンで一つに混ぜるわけですけど、みんな目立ちたいから自分の音量を上げたがる。それでムチャクチャになって全体のバランスを見始めるんです。
ええバランスじゃないとね、なんぼ音上げても聞こえへん。よっしゃあ関西弁でいったろかいと思っても、全部が全部、関西弁やったらうるさくて聞こえへんかもしれん。ミックスするときはバランスをとらなあかんということです。何でも一緒ですよね。
町田さんは『宇治拾遺物語』という原曲を忠実に再現するんじゃなくて、カバー曲を新しくつくって聞かせているんだなって。
→ 仰るとおり、カバーですね。でもメロディーは絶対に変えてません。メロディーとは話の筋です。展開や結末を変えるようなことはしてないです。ムードも変えてません。暗い曲を明るい調子でやったりはしてなくて、もとのムードがより活きるようにやってます。弾き語りの曲にいろんなオケをつけたみたいな感じですね。原文にないことは書かない。原文から聞こえてくる音以外はつけない。だから原文を潰してやろうとか、原文と闘ってやろうとか、そういう意識はまったくなかったです。
このやりとりが心に響いた -
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ネタバレ40を超えて独り身のわか子は、定職につけず、唯一の肉親である兄も風呂で溺死をし、死ぬ所から物語ははじまる。兄の孤独を心配しているくだりがあるが、自分も、知人と呼べる人しかおらず、昔付き合っていた人も死に、ポツリポツリと亡くなっていく。和歌が好きという古風な趣味をもつ彼女だが、雇空き家管理のバイトに趣味の欄に書いた事がきっかけで、和歌に理解がある雇い主で、何とか受かり、空き家を掃除管理するのだが、ハエやドブネズミなどあまりの家の酷さに辞めたくなる。度々和歌が登場する。そんな中の雇用主のイケメンの甥だったか大学院生の子がその空き家を使いたいと訪れてから、わか子に芽生えた恋愛感情に、胸が痛くなった。特にマスクをとった端正な顔立ちに、近づきたいという気持ちを持ってしまった所。
年齢差の恋にわか子がおかしくなってしまったのか、空き家がそうさせたのか、彼女の後悔や願望がうつし出した幻の数々が痛々しく、生きることの辛辣さを感じた。 -
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純文学作家の発想
ひとつづつ評していく。
川上弘美。未来SF。
発想が陳腐だと思ふ。書きたいことを意識的に書いてはゐるが、予定調和的で凡庸から突き抜けない。
人間由来の人間を工場で作らず、多様な動物由来の人間どうしが結婚し合ふ未来観(近親交配によるホモ接合型を減らすためだらう)。そこでの恋愛。
厳密にいへば、人間と他種ではゲノムの相補性が少ないからありえない。遺伝子組換かもしれない。まあそこは目をつむることにしても妙だ。
未来でも入籍といふ制度は残ってゐる。人間に本能の性欲が残ってゐるんだらうけど。結婚しない人や、核家族がどうなったかも書いてない。
妙にSFが現実路線のわりには、ふはっとしてあいまいだ。雰囲気小説のたぐひか。さいきんの川上弘美には『大きな鳥にさらわれないよう』等、未来小説がある。
多和田葉子。
川上弘美より面白い。
純文学らしく突っかかる表現が冒頭から続く。生花で花の首をちょんぎるだの、乱暴な表現は筒井康隆を想起した。独特で考へ抜かれた奇妙さを意識して、多和田自身も意図しない効果が出るやうな浮揺感を狙ってゐる。言語にこだはるナショナリストぶりもあらはれて、いつもの社会諷刺もある。
全体としては普段の多和田の域をつかず離れず。 -
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普段、ほとんど読むことのない現代の日本人作家のアンソロジー。
興味深く読んだ。
もとは、深堀骨 の作品を読んでみたかったから手に取ったが、どれもなかなか良かった。ありそうでない話というファンタジーというか、不気味な話が多い。恋愛要素はどれも少なく見えるが、一応恋愛ものという括りらしい。
一作だけ、多和田葉子の漢字の話はすでに読んでいた。
特に印象的だったのは、
本谷由希子、迫力とリアリティと奇想天外で面白かった。
村田沙耶香、細かく書き連ねて積み上げるのがうまい。
吉田知子、多分この中で一番好きなタイプの作家。
小池昌代、切れ味がよい。
星野智幸、描写がうまい。
というかんじ。
編者は岸本佐知子。掃除婦の訳者だ。納得。