小池昌代のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
百人一首の現代語訳ですね。
訳と解説は小池昌代さん(1959年、東京生まれ)
詩人、小説家、翻訳家。
百人一首と言うのを、始めて触れてみた。現代語訳と解説があるので、親しみやすくカルタの味わいも感じられる。持ち運びの良い文庫と云うのも良いです。
花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせし間に
(小野小町)
吹くからに秋の草木のしをるれば
山風を、あらしといふらむ
(文屋康秀)
小倉山峰のもみぢ葉心からば
今ひとたびのみゆき待たなむ
(貞信公)
心あてに折らばや折らむ初霜の
置きまどはせる白菊の花
(凡河内躬恒)
久方の光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
(紀友則)
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重ににほひぬるかな
(伊勢大輔)
桜を詠んだ作品が多いのと、相聞歌も多いですね。改めて、こうした古典に触れるのも楽しいかも
(=^・^=) -
Posted by ブクログ
ネタバレ40歳の時、幼なじみで昔の恋人だった男から赤ん坊を預かる主人公。
彼の妻は出産時に亡くなり、男手一つで育てることができないため、と、800万円と赤ん坊を渡される。
それからの10年間の話。
「迎えに来る」といった男は連絡が取れなくなって久しい。
不規則な編集の仕事では赤ん坊を育てられないので、せんべい工場で働くことにした。
赤ん坊だった山尾が小学校に入る年になった時、初めて役場に相談するが、そのまま彼女のもとで山尾は育つ。
特に山場も修羅場もないストーリーだけを追ってもこの本の面白さは伝わらないだろう。
私は子ども好きなので、子育てのあれこれの部分に多く付箋をつけてしまったけれど、この作品は子育てのすばらしさを謳ったものではない。
どちらかというと、成長していく子どもを通して、人の一生というか、老いることの当たり前に対する賛美なのかもしれない。
”「年をとるといつか、死ぬよね」
「そうだよ。でも、わかってるだろうけど、順番は守れ」”
ああこれ、私も伝えておかねばならないな。
”子はみんな、誰か特定の女の腹から生まれながら、そして一応は、どこか特定の家に繋がれた家畜のような顔をしながら、でも誰にも、どこにも所属しない、落ちてきたもの、捨てられたもの、誰のものでもない者、なんじゃないか。産んだ者の所有権、そんなものなんか、ないと、この偽の母は思う。”
私も所有権とか一心同体とか、ないと実感しましたね、孕んだとき。
”幼い子供と生きる人生の時間は、一貫性のあるキャリアを追求する生き方に比べ、遠回りの獣道。行く先々で、具体的な実りがあるわけではない。生きているものを世話する仕事は、為すそばから消えていく、むくわれない行為からできあがっているのだ。だから逆に、子供のいる女は、あきらめを知ることになる。この世には、できないこととできることがあることを知るようになる。いや、できないことだらけであることを知るようになる。(中略)つまり順当に老いることを学ぶ。”
子どもを育てる育てないにかかわらず、自分にはできないことが多いということを知っておいた方が結局はいい仕事ができるような気がします。
賢いとか、いい学校を出ているとかではなく、自分と違う思考で生きている人に合わせることができる人が、結局は仕事ができている。
子育ても、親の思いを押しつけるのではなく、子どもの気持を汲める方がよいのと同じ。
”ふわりと現れた山尾が、だから私のすべてだと言ってもいいが、そんなふうには言いたくない。どのように山尾と別れていくか。それが、これから先のわたしの課題。”
まったくその通り。
私と別れても問題なく生きて行けるように育てたつもりだから、あとはこっちの問題なんだよね。
”でも山尾は私でよかったのだろうか。黙っていると、須藤さんが言った。大事なのは――血じゃなくて、一人の子供に、誰か一人がずっとついててくれることですよね。(中略)血を、愛する理由にするのは変です。もし、血が家族であることの証をつくる唯一のものであるなら、家族を愛するといっても、結局自分を愛するのとなんら変わらないもん。”
今は自分と違う人を警戒して排除する傾向が強いけど、そういう社会は弱い。
家族であろうとなかろうと、血が繋がっていようといなかろうと、違うことを認め尊重し合うことができないのは、淋しいよね。
”よくできた子は、悪くにしかならない。悪い子なら、よくなることができる。よくできた子は、あるとき、ふっと消えてしまいそうでこわい。”
これもよく思っていた。
「最短コースで生きなくていいよ」と「いい子になってほしいのは親の本音だけど、大人にとって都合のいい子にはならなくていいからね」は実際に子どもに言ってきかせた。
ストーリーが単調なのに、ぐさぐさ刺さる言葉がてんこ盛りでまいった。
ふつうこれほどに読点が頻繁に打たれると却って読みにくくなるものだけど、するすると入ってきた言葉が読点をくさびにして腑に刻まれた感じ。
作家の言葉って怖い。 -
Posted by ブクログ
世に名作と言われている作品を、権威に負けずに、面白くないものは面白くない、わからないものはわからないと語る。
基本的に主観丸出しの、言いたい放題の対談。
でも、文学を鑑賞することって、主観で、自分の捉え方を楽しむってことだから、これで良いのでは。と思う。
対談している2人が実際に小説や詩を創作している、作り手であること、あまたの文学作品を読んでいることから、語っていることも説得力があり、楽しく読める。
対談形式としたのが功をそうしてる。
一人だけで語っていると偏って思えるけど、どちらかが合いの手をいれたり、私は別にそうおもわないけどと流したりすることで、極論に見えることが、色々あるうちの一つの意見として意味があるように思える。
谷崎など、嫌いな作品じゃないものを論じるところの切れ味が鈍くなるのが面白かった。
嫌いな作品をこき下ろすことで、逆にその作品の持つ力や、足りなくても輝いているしぶとさが見えてくるのだなと。
悪口言えるだけの度量の広い作品だからこそ、名作なのではないだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『通勤電車で読む詩集』の続編です。
編者の小池さんは、「はしがきにかえて」で、
「恋するひとは狂気のひとだ。彼らの目は中心を失い虹色になって輝いている。うらやましいがおそろしい。それはもはや、尋常な状態ではないのだから。恋は事件でなく、事故なのだと思う。そんな彼らに恋歌のアンソロジーを薦めてみたところで、読んでいる場合じゃないかもしれない。では恋歌を読むのは誰か。今日も明日も、一見恋とは程遠い現実のなかで、汚れにまみれながら生きている、わたしたちではなかろうか。(中略)
これって恋愛詩?と思われるような作品も、ここにはさりげなく、混ぜてある。でもそれが、わたしの願う恋の姿だ。恋うとは遠いものに橋を渡すこと、そうだとしたら、詩のことばはみんな恋を生きている」と語られています。
前編と同じくすべての詩に小池さんの解説付きです。
私が好きだったものを挙げると
「一目惚れ」ヴィスワヴァ・シンボルスカ
なんて素敵な詩!と思いました。
「報告」宮沢賢治
たった2行ですが、確かにりんとした風景です。
「樹下の二人」高村光太郎
あまりにも有名な詩ですね。
素晴らしいと思います。
「夜のくちびる」大手拓次
「未来」谷川俊太郎
佐野洋子さんに宛てられた詩ですね。
「プレゼント」三角みづ紀
三角みづ紀さんの作品は何作か読みましたが、私もこれに一番惹かれました。
「夢」茨木のり子
「プレゼント」
(前略)
わたしたち
本当は
おらんひとなのかもしれんけど
それでも
このひとが大好きだ
その事実にこころを殴られ
わたしは
不覚にも
泣いてしまう -
Posted by ブクログ
昔の男から突然、男の赤ちゃんを預かった40歳の「わたし」。
以来10余年「山尾」という名の血の繋がらない子を
「わたし」は育ててきた。
そんなシングルマザーの話。
著者の小池昌代さんは母であるが
「狭い血のつながりで
親子のことを書きたくなかったから」
この作品を書いたのだと言う。
脚本家の岡田惠和さんも
他人の集まりである「家族」をよく描くが
血縁ではないだけに
より深い理解や愛情で結ばれることがある。
「家族の絆」こそがすべて、と群れたがる人も多いが
私はそのベタついた感じが苦手で
小池さんが言うように
血のつながりなんぞちっちゃいものだ、と思う。
親と子であればもっと深く大きなもので
つながっているのだ、ということを
小池さんは書きたかったのだろう。
私は子供を産んだことも預かったことも
育てたこともないが
一度、子供を懐に受け入れたら
きっと離したくなくなるのではないかと思う。
女にはどうしようもなく母性というものがあって
だから血が繋がらない子でも
自分の手で育てることができる。
血とは関係なく、その子は自分の子供になる。
そんな「わたし」には男が二人いる。
「男たち」には家庭がある。
だから「遠くの山なみ」だと思っている。
「最後の最後、関わり合いになることもない」が
会えば、想いをつのらせることもある。
「つかのま一つになる」ことをやめることもない。
これもまた母性なのだろうと思う。
子供であろうと男であろうと
人はいつか必ず離れ離れになる。
それでも女は
いや だから女は
それらを自らの体で受け止めるのだ。
それが 人をひねり出す性である女の
特殊能力である以上
決して逃げてはいけないのである。
そんな生々しい作品ではあるが、
小池昌代さんは詩人なので、
キラリと光を放つ言葉や表現が随所に見つかる。
夜空に星を探すような楽しみがある。
また
すぐれた歌詠みである美智子皇后のエピソードを
紹介したりもしていて
エッセイのように読むこともできる。
淡々とした作品ながら
じわじわと心の奥にしみこむ一冊である。 -
Posted by ブクログ
小池昌代の小説らしい小説よりは、散文的な文章が好きな自分にとって「たまもの」は、久しぶりに小池昌代の詩人としての力に魅了された作品だ。
最近の小池昌代の小説は詩的な趣が後退して、こんな事を言うのもおこがましい話ではあるけれど、小説家の描く小説のようになってきたなと思うことが多い。それは筋立てだとか仕掛けだとかという面もあるにはあるが、むしろ言葉の使われ方の違いじゃないかと思う。
登場人物が日記について触れる印象的な場面がある。曰く、私の日記は単語ばかりだと。それがあたかも詩人その人の日記の様式であるように聞こえ、何か重さのあるものを受け止めた感覚が残る。言葉には様々な意味を指し示す矢印が張り付き、堅苦しく言えばそれは定義の問題に帰結するのだろうけれど、もう少し柔らかに言葉の発するものを受け止めたい、と主張する詩人の声が聞こえそうになる。
気付いてみると、この小説の文章には句読点が多い。一つひとつの言葉が文脈の中に埋もれて仕舞わないように、切り出されているかのよう。確かに言葉の輪郭は際立ち、無言で音読する頭の芯で一つひとつ立ち上がる。それはまるで小石を静な池の水面に投げ入れたかのように、小さくはあるが決して見過ごしようのない衝撃を生む。それでいて投げ入れた小石はラムネ菓子でできていたかのように、水に触れた瞬間からたちまち輪郭を失う。残される波紋のみがそこに物理的な力の掛かったことの確かな証拠を示す。波紋は程無くして収まり、再び静な鏡のような水面が現れる。もちろん、時を置かず幾つかの小石が投げ入れられることもある。ほんの少し中心をずらした同心円は呼応するように近づきはするが、お互いの波を乱すことなく行き交い、やがて鎮まる。決して不規則に水面が掻き乱されることは、ない。
言葉の余韻とでも言うべきものが、この本には満ちみちているのである。
しかし言葉は所詮記号に過ぎない。如何に言葉の力を引き出すことが詩人の才であるとしても、波紋はやがて鎮まる。それだけでは後には何も残らない。この散文の中でも触れられているが、音楽のように一瞬だけ空間を満たし、聴衆の心の水面に波紋を広げることは出来るが、終わってしまえば何も残らない。
しかし、この喩えは、楽譜という連想へと繋がる。楽譜に記されているものは記号に過ぎない。しかし、そこに託された音楽という実体のないものは、その記号の組合せを再現する肉体を経て空間の中に立ち上がる。それと同じように言葉という記号の、記号としての再現を促す力を信じ紙面の上に並べて見せることは、写真のように何かをそこに固定する作業ではなく、何かを未来に託すこと、つまりは永遠に固定しないことを目指すものであろう。ひょっとすると写真家が写真に託すものも同じようなものなのかも知れないが、ここでは二次元から立ち上がる三次元的表象の再現性は問われることがない。言葉は、あらゆる意味において自由である。散文の中で言葉は定義された意味を失い、音だけが新な地平を開いてゆく。
それこそが小池昌代の詩人としての魅力。そしてそんな詩人の書く小説を読む楽しみ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ”飾り気がないといえば、わたしほど、心に装飾がない女は少ないと思う。それなりに化粧はする。おしゃれもする。けれど心は、いつも裸だ。裸の心は、傷だらけだが強い。傷つけばさらに強くなっていく。
だけどそれは、何度も言うように、どこかケモノめいた心なのだ。まだかすかに残っている人間の心が、わたしにサビシイという言葉をはかせる。わたしはさびしい。わたしはむなしい。”(P71)
”わたしが眠っているあいだに、深い鍋の中で、この世の現実は、とろとろと煮込まれていく。夢など見ない。わたしが夢そのものだから。”(P240)
粟立つような女性の薄暗い部分から
あっち側との境目をゆらゆらするようなお話ばかり6つの短編集。
詩人であるということがよくわかる
言葉の選び方や曖昧な空気感。
不気味さがじわじわにじんでくる感じも
たまらなく好き。
生き物をモチーフにしている短編集らしく
人間味より動物的。
つのが特によかった。
表紙もタイトルも良い。
無駄がない。
けど一つ一つの話は相当漠然としている。
こういうものが読みたかった。
久しぶりに良い作家さんに出会えた。 -
Posted by ブクログ
自分と他者との関係を、感覚的に詩的に捉えた表現が卓越している。それでいて哲学的といってよいほど深く突きつめられてもいる。
例えば、『石を愛でる人』の一節。手のひらの中で石ころをころがす場面。
「石とわたしは、どこまでも混ざりあわない。あくまでも石は石。わたしはわたしである。石の中へわたしは入れず、石もわたしに、侵入してこない。その無機質で冷たい関係が、かえってわたしに、不思議な安らぎをあたえてくれる」
ここに収められた15本の短編小説は、15通りの「人との関わり」を描いている。
主人公は全て「こいけさん」だが、不躾に入り込もうとして「こいけさん」に拒絶される迷惑な隣人。知らぬ間に入り込んできて「こいけさん」を発情させてしまうが、期待に反して通り過ぎてしまう男。絶対にこちらから入いりこめないにもかかわらず、新たな何ものかを触発させる子ども達。思い出として「中に」刻み込まれているのに、形としては消え去ってしまったものへの郷愁。
入ってこようとして拒絶されたり、入ってきて欲しいのにすり抜けられる。あるいは、既に中にあるのに失われてしまったり、産み落としたつもりはないがなぜか通じたり。すべては、自己と他者との関係について突きつめた思いの詩的な表現である。また、常に「こいけさん」は受身である側からさらりと表現している。
この連休中に読もうと小説ばかり四冊購入した。その中で読みやすいという点ではこの本が群を抜いていた。他は川端康成の名作、藤沢周平の短編集、小川洋子のベストセラーである。同時に何冊か読み進み、読みやすくて面白くて「読めてしまう」ものから読んでいくのが私流だ。2位以下を大きく引き離してゴールしたのが小池昌代のこの本だった。
いつも「なぜだかわからないが」読みやすい。といい続けてきたが、秋以降矢継ぎ早に読んだ小池さんの小説本も3冊目である。いいかげん「わからない」ままではと思い、今回大真面目に分析してみた。その結果だから理屈っぽくて難しい話になってしまった。
まあ、わかりやすくいっちゃえば、女のエロスでしょう。だからといって今回の15編には肉体的に「入って」こられた話はない。そういう意味で官能ではありえなくて、あくまで「感光」であって、「入って」きたのは外界から射し込んできた光である。
『感光生活』とは、光になる経験です。光となって事物を照らす、その目がつくる経験の世界です。と著者自ら説明してくれています。
ですが私は、全く逆じゃないかと感じます。あたかもピンホールカメラの針穴から射す光に、フィルムが「感光」して画像を刻むかのように、その時々様々な他者との関係という光に「コイケさん」が感応して、その時々の色に自由自在に染まって像を定着させている。その自在さ軽やかさこそが著者ご自身もお気づきじゃない「読ませる」魅力なのではないかと思う。
何事も言い切らぬ軽やかさ、なんの解釈も強要してこない気安さ。何の引っ掛かりも感じず読み始め、読み終わってもなにか物足りないにもかかわらず、常に爽やかな読後感。すべては小池さん自体が「感光材」だからでしょ。
ただし、15編のうち唯一『蜂蜜びんの重み』だけは例外とみた。
この1編だけは軽やかな感光材としてではなく、追いつめられながらも作家として生きていく「決意」が、『重み』として込められた物語だと私は見抜いた(あくまでつもり)。
当たってるかどうか、小池さんに聞いてみたいものだ。