伊藤亜紗のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
「できる」ということはどういうことなのか、科学的な視点から論じている本。
五人の科学者へのインタビューをもとに、著者が考える「できる」論が書かれていて、興味深い話が盛りだくさんでした。
ピアニストの脳と指と「できる」ということ、桑田真澄の投球コントロールから得られること、リアルタイムにコーチングする技術、(ついていないはずの)尻尾をコントロールできるようになる不思議、声を出さなくてもアレクサに指示を出せる?…。
昔なら、ドラえもんがポケットから出してくれたようなテクノロジーが、今は現実のものとなっていて、脳と体の関係が少しずつわかっていく。そして、その技術が、障害のある人への助けになったりする。
私は、伊藤亜紗さんの本を読むのはこれが初めてでした。
以前にも、医療情報を発信しているお医者さん達の話題の中に幾つかの本が紹介されていて、気になっていました。
これ1冊を読んだだけでも、いろいろな気付きをもらえたけれど、伊藤亜紗さんが伝えようとしてくれていることの一部しか受け取れていない気がする。
なので、他の本も読んでみたいと思います。
どんどん「読まなくちゃ」の本が増えていきますねー。
頑張ろうー。
(頑張る先に何かがあるわけではないけれどw) -
Posted by ブクログ
中3生の模試の国語で、伊藤亜紗さんの『「うつわ」的利他』の一部が題材として出題されていて、興味をもったので読んでみました。
「利他」は「偽善」「自己満足」「押しつけ」と紙一重で、特にネットではそんな言葉で全く関係のない赤の他人から揶揄されたり非難されたりする可能性もあって、最近はうっかり親切な行動もとれないような雰囲気があったりもします。だいたい、「偽善」「自己満足」「押しつけ」をすり抜ける「利他」ってどんなものなんだろう。そんな思いがありました。
伊藤亜紗さんの章は読みやすく分かりやすかったですが、いちばん面白く興味深く読めたのは中島岳志さんの『利他はどこからやってくるのか』でした。志賀直哉の『小僧の神様』、チェーホフの『かき』、モースの『贈与論』に出てくる様々な贈与に関する慣習、「ありがとう」への違和感の話…ポロポロと目から鱗が落ちていく…「ふと」とか「思わず」とか、そういう「オートマティカルなもの」に動かされる。きっとそうなんだろうと思いました。
國分功一郎さんの『中動態から考える利他ー責任と「帰責性」』は非常に難しくて、十分に理解できたとは思えていませんが、ここで述べられている「神的因果性」というのは中島さんの章で出てきた「オートマティカルなもの」と同じようなものかな、ととらえると少し分かる気がします。「中動態」については以前別のところで読んで、「そんな態があるのか!」と驚いたのを覚えています。自分の中で何かが動く状態を指す態。こんなことを思いつくなんて、学者さんて本当に本当に頭がいいんだなあ。
「しよう」と思って善いことをするのも、いいことには違いないけれど、「思わずしちゃった」的にできればよりいいのかな。 -
Posted by ブクログ
触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。
今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。
一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」
ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」
後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。
今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。 -
Posted by ブクログ
社会構成主義的な言語によって意味が社会的に構成されているという考えには、なるほどと共感するところが多いのだが、素朴な疑問として、身体性とか、倫理性とか、スピリチュアリティとかをどう考えるのかというのは、もやもやする。
まあ、「そういうものは社会的構成だ」的な説明もあったりするのだが、普通に考えてそうとも言い切れないないだろうと思う。
哲学ではなくて、人と現実的に関係しあうなかでは、そのあたりはなしにはできない。
この本は、基本、哲学なのだが、そういうリアリティとの関係を身近な体験を踏まえながら、少しづつ手探りで前に進めていく感じがよい。
いろいろな話しがでたところで、明確な答えに辿り着くわけではないのだが、その辺りもまた触覚的でいいかな。
やはり、身体というのがあって、そして他者の身体があって、その関係から生まれてくるなにか?そこは言語やロジックだけではなくて、こうやって、すこしづつ近づいていくということが大事なんだろうと思う。 -
Posted by ブクログ
東工大ではここ10年くらいをかけ、「リベラルアーツ」の名のもと、理工系の学生たちに文系的な知を体得してもらう取り組みをしている。本書はその取り組みを中心的に推進してきた池上、上田、伊藤3氏によるもの。各氏の論稿と鼎談を収載している。
自分も含め、文系の人々は理系からっきしって人けっこういるけど、社会に生きたり本読んだりしながら生きている以上、いくら苦手意識をもっていたとしても理系の人のほうが文系分野を取り込みやすいだろう。そして理系の人が文系の素養(リベラルアーツ)を手にすればよりよい世のなかがつくりやすいような気がする。たとえば、科学技術を純粋に探究しているうちに核兵器ができちゃうようなことがあるとして、リベラルアーツや人間の根幹に関する知があれば、倫理的にすべきでないことを止めるなり逡巡するなりといったことができるのではないだろうか。
著者3氏を中心とした東工大での取り組みの様子(特に上田氏執筆の章)は非常に読みごたえがあった。リベラルアーツという新たな方向性(実は東工大のそもそものお家芸だったのだけど)に向かうにあたり、周囲の反対や非難を受けながらも一歩ずつ進めていった軌跡は、いわばリベラルアーツ的な知をもって、東工大にリベラルアーツを植えつけた実践例ともいえるのではないだろうか。
とはいえ、やっぱり「いい大学」だからできたんだろうなとも思う。学生集めや経営に必死な大学では、とてもこんな時間と余裕をかけた取り組みはできないだろうな。
ついでにちょっと批判めいたことを書くと、リベラルアーツの取り組みは「とがったリーダー」を輩出するためのようだけど、リーダーってとがっているほうがいいんだろうかとまず思う。もちろん、とがったリーダーが必要な場もあるだろうけど、そうじゃないタイプのリーダーが最適な場もあると思うから。
さらにいえば、リベラルアーツがリーダー育成と結びつけられているのもちょっと疑問。東工大という「いい大学」の自負として、歯車になる人でなくリーダーになる人を育てるんだっていう意識(エリート意識的なもの)が見え隠れする……と思ってしまうのはひがみだろうか。リベラルアーツが生きるための知だとすれば、それはリーダであろうとなかろうと身に着けるべきことなのでは。