伊藤亜紗のレビュー一覧
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これまでの筆者の本とは少し様子の違う内容となっています。主に体の学習やできるようになることについて、最近のテクノロジーを通して見えてきたことについて書いている印象です。
紹介されているテクノロジーが興味深いことはもちろん、それを通して身体がどのように学習をしており、できるがどのように作られていくのかを見る視点となっている気がしています。
特に技能向上の行き詰まりに対して自分のこれまでの運動の枠から出た運動の仕方を示すことで枠から出ることなどは興味深かったです。自分だけの理論では自分の枠から出れず、言葉だけだと枠から出難いが、即時性を持ったテクノロジーによる学習がそれを可能にするなどは可能性を大いに感じるものでした。
できないことに注目してきた筆者が、できることについてまとめた本と理解していますが、序盤で出てきたできることの選択肢が今後も増えてくる中で、何をすべきで何がすべきでないのかは多方面から検討されるべきという点はとても共感をしました。 -
Posted by ブクログ
大塚国際美術館に行くにあたり、今まで全く縁のなかった西洋美術について色々勉強していた時に出会った本。
ギリシャ神話や聖書、画家たちの経歴などを知ることで鑑賞に厚みが出てはきたけれど、この本に書かれてあるような視点こそ、美術鑑賞には必要不可欠な要素だと思う。世界史が好きで、それと結び付けて鑑賞出来たらいいなと思っていた。
「美術って、その時代を生きた人の感じ方が真空パックされているタイムカプセルみたいなもの」
史実だけでなく、その時代の人の感性までも感じ取ることができたら、こんな素敵なことはない。次回に美術館に行った時は、前回とは全く違う見方ができそうだ。 -
Posted by ブクログ
「できる」ということはどういうことなのか、科学的な視点から論じている本。
五人の科学者へのインタビューをもとに、著者が考える「できる」論が書かれていて、興味深い話が盛りだくさんでした。
ピアニストの脳と指と「できる」ということ、桑田真澄の投球コントロールから得られること、リアルタイムにコーチングする技術、(ついていないはずの)尻尾をコントロールできるようになる不思議、声を出さなくてもアレクサに指示を出せる?…。
昔なら、ドラえもんがポケットから出してくれたようなテクノロジーが、今は現実のものとなっていて、脳と体の関係が少しずつわかっていく。そして、その技術が、障害のある人への助けになったりする。
私は、伊藤亜紗さんの本を読むのはこれが初めてでした。
以前にも、医療情報を発信しているお医者さん達の話題の中に幾つかの本が紹介されていて、気になっていました。
これ1冊を読んだだけでも、いろいろな気付きをもらえたけれど、伊藤亜紗さんが伝えようとしてくれていることの一部しか受け取れていない気がする。
なので、他の本も読んでみたいと思います。
どんどん「読まなくちゃ」の本が増えていきますねー。
頑張ろうー。
(頑張る先に何かがあるわけではないけれどw) -
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中3生の模試の国語で、伊藤亜紗さんの『「うつわ」的利他』の一部が題材として出題されていて、興味をもったので読んでみました。
「利他」は「偽善」「自己満足」「押しつけ」と紙一重で、特にネットではそんな言葉で全く関係のない赤の他人から揶揄されたり非難されたりする可能性もあって、最近はうっかり親切な行動もとれないような雰囲気があったりもします。だいたい、「偽善」「自己満足」「押しつけ」をすり抜ける「利他」ってどんなものなんだろう。そんな思いがありました。
伊藤亜紗さんの章は読みやすく分かりやすかったですが、いちばん面白く興味深く読めたのは中島岳志さんの『利他はどこからやってくるのか』でした。志賀直哉の『小僧の神様』、チェーホフの『かき』、モースの『贈与論』に出てくる様々な贈与に関する慣習、「ありがとう」への違和感の話…ポロポロと目から鱗が落ちていく…「ふと」とか「思わず」とか、そういう「オートマティカルなもの」に動かされる。きっとそうなんだろうと思いました。
國分功一郎さんの『中動態から考える利他ー責任と「帰責性」』は非常に難しくて、十分に理解できたとは思えていませんが、ここで述べられている「神的因果性」というのは中島さんの章で出てきた「オートマティカルなもの」と同じようなものかな、ととらえると少し分かる気がします。「中動態」については以前別のところで読んで、「そんな態があるのか!」と驚いたのを覚えています。自分の中で何かが動く状態を指す態。こんなことを思いつくなんて、学者さんて本当に本当に頭がいいんだなあ。
「しよう」と思って善いことをするのも、いいことには違いないけれど、「思わずしちゃった」的にできればよりいいのかな。 -
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触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。
今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。
一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」
ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」
後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。
今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。 -
Posted by ブクログ
社会構成主義的な言語によって意味が社会的に構成されているという考えには、なるほどと共感するところが多いのだが、素朴な疑問として、身体性とか、倫理性とか、スピリチュアリティとかをどう考えるのかというのは、もやもやする。
まあ、「そういうものは社会的構成だ」的な説明もあったりするのだが、普通に考えてそうとも言い切れないないだろうと思う。
哲学ではなくて、人と現実的に関係しあうなかでは、そのあたりはなしにはできない。
この本は、基本、哲学なのだが、そういうリアリティとの関係を身近な体験を踏まえながら、少しづつ手探りで前に進めていく感じがよい。
いろいろな話しがでたところで、明確な答えに辿り着くわけではないのだが、その辺りもまた触覚的でいいかな。
やはり、身体というのがあって、そして他者の身体があって、その関係から生まれてくるなにか?そこは言語やロジックだけではなくて、こうやって、すこしづつ近づいていくということが大事なんだろうと思う。