伊藤亜紗のレビュー一覧
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面白い!という感想が出たら正解なんじゃないかと思った一冊。もちろん、書いてあることや構成に興味が持てない場合もあるかと思います。そうではなくて、目の見えない人の美術鑑賞の仕方、死角がないことなど本書で紹介されるエピソードに対して、すごい!じゃなくて面白い!という感想が出たら正解なのではと思わされました。それは、著者の、すごいという感想は、(無意識に)「見えない人はできないはずなのにできてすごい」という意味になっているという指摘に共感したからです。
本書を読むとあらゆる製品や制度が身体障害がない側ベースで作られているなど、それは当たり前なんだけど、そうなっていることによる優劣感ができていることに気が付かされました。
■第4章がおもしろい
目の見えない人と見える人がグループになって美術を鑑賞する様子が書かれています。ここで大切なのは、見える人による解説ではなくて、見える人なりの解釈や意味を味わうこと。美術にうとすぎるわたしでもこの方法なら楽しめるような気もしました。芸術を味わうってそういうことなのかな。
■第5章の後半でなにか出てきそうで・・出てこなかった
おそらくなのですが、著者も書いているうちに、なにかアイディアや表現の糸口を掴んだのではと思わされた第5章でした。が、文字数の関係で終わってしまったの印象です。一方で、あんたが何を言われたかったのかというとうまく文字にできないのですが、出てきそうで出てこなかった第5章でした。きっと活動は続けられていると思うので次の作品で知りたいと思わされました。
■中学受験の説明文によく出るらしい
目の見えない人はどうやってAをしているのか記述しなさいみたいなことが聞かれるのでしょうか? -
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自分の体に何かしらの不具合を抱えている11人の話。摂食障害、ALS、PEM…色々な人達が登場するけれど、驚いたのは伊藤亜紗さんのインタビューの切り込み方が思いの外、ストレートだったところ。気になったとしても、なんとなく触れにくい事を率直に聞いていて、逆に相手も話しやすくなるのかもと思った。
自分の体でありながら、自由にならない体。この不自由さを様々な工夫や気持ちの持ちようで、なんとかしている。皆さん、明るさが感じられるところもあったりして、ただただすごいなと思ってしまった。
自分で自分の体の居場所をつくる。健康であることに感謝しつつ、不具合があるところも折り合いをつけて付き合っていく。状況に関わらず、自分の心地よさを探していくことは大事だなと感じた。
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全盲の人と言えば、まず私は「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」の白鳥さんを思い浮かべるので、この本にも登場されて、前掲の本を読んだ時の衝撃を思い出した。
そしてこの本でも数々の驚きがあった。
大岡山、富士山、月などは目の見えない人の方が本当の状態を認識されていて、えーっとなった。
「見えない人には死角がない」というのも、すごいこと教えてもらったという感じ。
点字の認識も変わった。
筆者の「障害者」に対する考え方は、すぐには100%納得できないものもあり、自分で改めて考えたい。
「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」はぜひ行ってみたい。
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昔、バイオフィードバックについて知った時、
これはすごいと思った。
肩こりする人が肩こりしにくい姿勢を学習できたり、
骨盤底筋を鍛えて尿漏れしなくなったり、
下腹に適度に力を入れてぽっこりしなくなったり、
いろいろ出来るんじゃないかと思ったのに。
主にリハビリに使われているらしくて、
一般の人が気軽に使える技術になってないのは
どうして?
ちえっ。
と思っていたら、それ以上の技術がわんさと出ていてたまげた。
上手に出来る自分のお手本があると、
上達が早いらしい。
私でも早く走れる様になったり、
ドッジボールで早い球投げられる様になったり、
踊れたり、内股が直ったりする?
ウィスパーボイスをシフトキー代わりにするアイディアはすごいと思うけど、無声入力で耳打ちしてもらえる様になったら、絶対カンニングに使うやつが出そうな気がする。
相棒として組んで動けるようになったら、
おひとり様で動き回るのも楽しくなりそうだけど。
年明けからの国際ニュース見て、
今は21世紀だと思ってたけど実は19世紀だった?
今見ているのは終わりの始まり?
なんて気分になっていたけど、
こうして小さな物語を紡いでいる人たちがいるのは救いだ。未来は少しは明るいのかな、と信じたい。 -
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ネタバレ耳で見て目できき鼻でものくうて口で嗅がねば神は判らず
出口おにさぶろう
対話についての読書会に、オンラインで参加した。知らないおじさんが熊谷晋一郎と伊藤あさの話をしていた。恥ずかしながら読んでなかったので即購入したのがこの本。
障害については大学でもすこし学び、自分なりにある程度理解しているつもり。たが、まだまだだなと感じた。障害者が障害者なりに人生楽しんでいるのは知ってたけど、その一歩先に進んで、そのユーモアセンスにも注目している。
見えないからこそできる美術鑑賞。見えない人の空間認識。見えることで帰って現実が制限されているように、感じた。
もし、自分が見えなくなっても、前向きに笑いに変えて生きていけたらなと思った。
視覚優位の世の中、あえて視覚を閉ざす。そこに新しい発見があるのかもしれない。
わかったつもりの破壊。アンラーン。まさにこの一冊にある。 -
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触覚や「手」を用いたコミュニケーションに関しての本
「さわる」と「ふれる」の違い
「さわる」が一方的な物理接触を表すのに対し
「ふれる」は、触れられる方の受容が必要で、安心と信頼によるもの
また、双方向性があり、コミュニケーションとしても成り立つ行為
ゼロ距離の先、マイナス距離として内部の情報まで知ることができる可能性を持つ
タイトルの「倫理」という単語の意味
「道徳」は「こうあるべきという概念」
「倫理」は道徳を前提にしつつも、ケースによって個別に悩み考え導き出す個人の最善手
タッチレスの時代
新型コロナ禍を経て、感染予防の観点から接触の忌避、またはハラスメント予防のためのタッチレス化
だからといって昔のように触れ合おうというわけでもない
ただ、それでも「触れる」「触れ合う」という行為で成されるコミュニケーションもあるという事は覚えておきたい
冒頭で紹介されている、とある体育科教育学の方のお話「体育の授業が目指すものは、他人の体に失礼ではない仕方で触れる技術を身につけさせることだと思う」という言葉
本書を要約すると、大まかにわけて三つ
1.人に「ふれる」と、表面の情報だけでなく「奥にある動き」も感じられる
2.「ふれる」と「さわる」違いはふれられる側が意思決定するため不確実性があり、「ふれる」にはふれられる側からの信頼が必要
3.非対称に思われる「ふれる」と「ふれられる」も、切り替わる事があり、「ふれる」コミュニケーションには双方向性がある
安心とは「ひどい目に遭う可能性を意識しないでいい状態」であり、信頼とは「ひどい目に遭う可能性があるにもかかわらず、それでもひどくならない方を期待して、賭けること」
視覚や聴覚に比べて、触覚は情報量の観点から下位の感覚と位置づけられる事があるが
触覚だからこそ、ゼロ距離以上にマイナス距離という内面まで感じられる場合がある
手を用いたノンバーバルなコミュニケーション
個人的に面白いと感じた試み
柔道の試合を伝えるための工夫
手ぬぐいの両端を二人が持ち、盲者が真ん中を握る
両端の二人は選手同士の動きを翻訳して手ぬぐいを動かす
柔道をやってたからわかるけど、組み手は結構重要な要素
それだけで相手の意図が伝わってくるものもある
全盲の人の柔道は両者組み合った状態から始まるし
目が見えなくとも何となく相手の動きがわかるというのは実感している
個人的な触れる体験の話でいうと
年老いた祖母の手首を握ったときに、以前よりもさらに老いを感じた時があって
張りがなく体温をあまり感じない質感に驚いた事があった
当時、祖母は認知症で殆ど意思疎通はできなかったわけで
お互いにどう感じたのかというのはよくわからない
ただ、肌と肌が触れ合う事で伝わる情報の複雑さについてはわかる
あと、祖父が亡くなった際
納棺のときに凍った躰に触れた時に一瞬でも感じてしまった嫌悪感
あれは触れたのではなく触ったからなのだろうか
とも思った
もう既に生命が失われているという事の喪失感とそれに伴う忌避感なのかな
最近の話だと
よく行くバーのバーメイドさんが、冷え性なので手を差し出してきて確かめさせてくれた事
相手の手の冷たさを感じるという事は、私の体温が相手側に伝わっているという事でもある
そして、そんな行為をできるほど嫌悪感を抱かれていないという安心感
「ふれる」と「ふれられる」の相互関係と信頼感とはこういうものなのでしょうね
その時に他に話したのは、迷惑客が軽口とともに臀部を叩いてきたので退店願ったという話
これは冒頭でも語られているように痴漢行為に属するもので、「さわる」行為
多分、日常でも「さわる」と「ふれる」の違いを認識できていない人や、一方は「ふれる」と想っている事でも「さわる」になってるケースもあるのでしょうね
ちなみに、この本を手に取ったきっかけは「理想的本箱」で紹介されてて
購入はしていなかったけど心の積読にしてたのを遂に買ったという経緯がある
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人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。
[本書の内容]
序
第1章 倫 理
ほんとうの体育 フレーベルの恩物 まなざしの倫理/手の倫理 倫理と道徳 「倫理一般」は存在しない 不確かな道を創造的に進む 蟻のように 「多様性」という言葉への違和感 一人の中にある無限
第2章 触 覚
低級感覚としての触覚――「距離ゼロ」と「持続性」 モリヌー問題――「対称性」 触覚論が人の体にふれるには 触感はさわり方しだい ヘルダーの触覚論 内部的にはいりこむ感覚 「じゃれあい」か「力くらべ」か 「色を見る」と「人にふれる」 ラグビーのスクラム 距離があるほど入っていける
第3章 信 頼
GPSに見守られた学生 安心と信頼は違う 結果的には信頼の方が合理的 リスクが人を生き生きさせる ハンバーグが餃子に 「ふれられる」とは主導権を手渡すこと だまされる覚悟で委ねてる 無責任な優しさで生きている 「もしも」が消えるまでの三年間
第4章 コミュニケーション
記号的メディア 物理的メディア 使える方法はいろいろ使う 伝達モード 生成モード 「さわる」は伝達、「ふれる」は生成 ほどきつつ拾い合う関係 相手の体に入り込み合う 死にゆく体を「さわる」 「できなさ」からの再編集 「介助」アレンジメント―― 複合体
第5章 共 鳴
ロープを介したシンクロ 足がすくむ あそびから生まれる「共鳴」 ロープが神経線維 「伴走してあげる/伴走してもらう」じゃない関係 「伝える」ではなく「伝わっていく」 隙のある体 見えるように曲がっていく あえてハンドルを切る 生成モードの究極形態 あずけると入ってくる
第6章 不埒な手
介助とセックス 別のリアリティへの扉 「うっとり」のタイムスリップ 手拭いで柔道を翻訳する 勝ちたくなっちゃう 目で見ないスポーツ 不道徳だからこそ倫理的でありうる
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Posted by ブクログ
本書は「詩」がいかにして身体(観者)に作用するかと言う事を通じて、芸術一般についての「装置としての機能」を独自の視点で解説した文章である。
ヴァレリーが語る「装置」とは、おそらく「詩」ないしは、芸術表現における表現が、鑑賞者にいかに作用するか、または作用させる効果を持てるか、と言う問いが主な命題であっただろう。
いわゆる「芸術」と称される学問において、世間一般的な感覚からすると、かなり主観性が強く、尚且つ精神論やスピリチュアルを想起させるのではないだろうか。しかし、本書では「芸術」(詩作)というものがいかにして鑑賞者に作用し、「効果」を持っているのか、と言う事が名言されている。芸術における感動や営み、これは偶然の産物ではなく、確信犯的な諸要素における「行為」であり、決して主観的なものではないと言う事だ。
この様な問や、身体への作用などはある種のコミュニケーション論や「作者 - 作品 - 鑑賞者」という関係性を明瞭にし、芸術におけるアカデミックな働きになると感じた。また、この様な問いはジャンルを横断して、スポーツや演劇?などにも共通するのでは、と直感しています。とても面白い本でした。
補足:
一点懸念する部分があるとすれば、参照しているテキストや文献が人文学が多いのか、抽象度が高く感じる部分が散見されたのがもったいないなと感じた。私自身この本を読みかけなまま放置していたり、忘れている部分が多いので間違っている可能性もあるので、一意見として参考にしてもらえるとありがたいです。 -
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面白い。興味深い。こんな研究してるところがあるんだ!ワクワクする。そんな一冊。
エクソスケルトンで弾き方を体験すると、その後外したあとも複雑な弾き方ができるようになっているのは、凄い。意識が体を縛っていると、体は意識以上のことができない。しかし、目的を意識しないと、体はそれを目指して動けない。そのジレンマを、エクソスケルトンをつけることによって、自分自身が意識している以上のことを体に体験させる。すごいなぁ…
桑田選手の投球フォームを調べると毎回ブレがある。たけど、回転とか投げる方向とかの目的は的確に達成している。選手自身は全く同じフォームで投げているつもりでも、そういう事が起こる。 -
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数年前から気になっていたけど、
リアル書店ではなかなかお目にかかれなかったこちら。
なんといつもの工夫舎さんに
「ありますよ」
と、難なく言われてようやく購入。
講談社選書メチエの本自体はじめてだ〜。
ざっくり言うと、触覚のお話。
普段、私たちは何かを認知する時、
視覚に頼ることが多い。
対象物と距離をとることにより、安全に観察することができる。
古代から認知の方法として、最も尊ばれたのが、視覚、次に聴覚。
嗅覚、味覚がさらにその下、触覚は1番低級な感覚として捉えられていたんだそうだ。低級かどうかはわからないけど、確かに何かを認知する時、「触る」ことが1番ハードルが高い(低級からのこの言い回しはとても紛らわしいが)ように思える。
対象物との距離をとれないことは、時にリスクになり、触覚はともすれば距離感0からさらにマイナスにもなり得る、大変センシティブな感覚だという。
「さわる」と「ふれる」の定義や、
「道徳」と「倫理」の定義、
はたまた、「安心」と「信頼」の定義など、ある文脈においてはどちらでも意味が通りそうな些細な言葉を丁寧に解きほぐしながら、手でさわる、手がふれる、その倫理を説いていく。
めちゃくちゃ面白い。
手が持つ、触れることへの対称性。
そんなこと意識してなかったけど、
たとえば誰かとの抱擁が安心するのは、
ふれられて、ふれているその対称性や
また、お互いがお互いの身体の輪郭を確かめる…世界に存在する各々の身体を他人の身体で確認し確認させる交換性を感じるからなのかもしれない。
つまりこれは、信頼のある相手という前提条件はあるが。
そして触覚は今起きている文脈とは違う認知を、その生々しさゆえに容易に呼び起こす感覚でもある。
だからこその倫理。
ここは道徳ではなく、倫理。
しっかりした哲学的理論も含みつつ、著者が経験したいろんなケースを引き合いにして、やさしくわかりやすく文章で書かれているので、
手に入れるまでの時間に比べて
読み終わるのはあっという間だった。
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「さわる」と「ふれる」。その似て非なる言葉。ケアすることが日常の私も、よく分かる感覚。さわることは医学的であり、ふれるはケア的。同じ手が触れ合うということでも、こちらの気持ちは相手に伝わっていると感じるし、自分でも触られた、ふれられる、は大きく違うし、言われなくても体で分かってしまうもの。
とても興味深く読んだ。ただ、最後の入浴介助の話はちょっと疑問。介助者は裸になる必要はないし、洋服を着ている、濡れないように防御している(防水エプロンをつけるなど)ことで、ケアの提供だとより認識するのでは、と思う。私の知らない入浴介助で服を脱いでする場合もあるのだろうか。ただ、触覚は本人の自覚以上に体が勝手に反応してしまうということをより分かりやすくするための例としての話だったのだろうか。手拭いを通して柔道を触覚から実況するという試みは面白いと思ったし、手拭いを持つ側が勝ちたいと思ってしまうのも、人間の面白い性だなと思った。 -
Posted by ブクログ
「贈与」や「利他」がタイトルに含まれる本が増えていますね。
現代に生きる私たちは、交換や利己によっぽど疲れているのでしょうか。
ただ「贈与」や「利他」に漂う胡散臭さがあるのも事実。
結局人間は純粋に利他的には生きられないのではないか。
最近、私の考えていたことです。
この本を読んで、その考えは合っていると感じるとともに、
利他は意図せずしっかりと存在することも実感できました。
それは自分という器を誠実に生きるということ。
自分が全力になれることを全力でやることが、人類の歴史や系譜に奉仕することになるという作家・磯﨑憲一郎さんの言葉は、私たちの迷いを幾分和らげてくれるのではないでしょうか。
利他を考える前に、自分の器を磨き信じることが大切だなと感じ、今日も私は本を読むのでした。