伊藤亜紗のレビュー一覧
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「利他」に偽善的なものを感じつつも、必要なものだよなあという気持ちもあり、興味のあるテーマなので読んでみた。
正直3章以降は難しすぎたのだけれど、伊藤亜沙さん、中島岳志さんの文章に、何度も視野を広げてもらった。以下、特に印象的だった部分のメモ。
伊藤亜沙さんの文章では、効果的利他主義という考え方を知った。徹底的な「評価と比較」をして行う利他だ。
例えば、他者のために働きたいと考える若者が、限られた給料のNPOに就職したりせずに、ウォール街でお金を稼いで寄付する方を選ぶというような考え方となる。
利他の原理を「共感」にしないのが目的らしい。共感によって行う利他では、ふだん出会うことのない遠い国の人や、そもそもその存在を意識していない問題にアプローチできない。
また、共感を得られないと助けてもらえないというプレッシャーにもつながる。助けが必要な人はいつも相手に好かれるようにへつらっていなければならない。
中島岳志さんは、贈与は支配と絡まってくるという。
哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して支配的な立場が生まれてしまう。
物をあげるという行為は、もらった側に負債の感覚を与えてしまうからだ。
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「できない→できる」のためには未知のやり方で体を動かす→意識が正しいやり方を体に指示する→しかし未知なので意識は正しくイメージできない→体はそれを実行できない
と言うジレンマを超えるジャンプ。これを可能にしているのが、体の「ユルさ」。体は、意識を超えて「ゆく」のです。
これがこの本の趣旨。この実践方法として色んな具体的な例、研究者を紹介している。
例えば、元ジャイアンツピッチャーの桑田のピッチングフォーム、バーチャルしっぽを振る実験、など医療に応用したり、アスリートや演奏家の技術向上に使ったり、新たな科学技術のヒントになったり、面白い実験ばかりだ。とても書ききれない。
読んでいて、ひとつ思い出した。
小学生くらいの頃、親にスケートリンクへ連れて行ってもらった。もちろん初めてだし、どうやれば滑れるのか分からずずっとリンクの縁を手すりを伝っているだけだった。
そこで親がとった行動だが、、。スイスイと上手く滑っている大人、当時の私からみた大人だから、20代前半くらいだったかもしれない、そんな男性に声をかけ、「この子連れて一周だけ回ってもらえない?」と頼んだのだ。今の時代なら多分やらないだろうが、私はそのお兄さんに連れられてへっぴり腰で一周した。
そしたら、驚くことに後は1人で楽々スイスイ滑ることができたのだ!お兄さんに連れられて滑る間に完全に体が覚えてしまった。ほんの一周だけの練習で!私の親、エラい!
インドアでこもりがちな私と違い、体を動かすのが好きな親は、習得の秘訣を自然体で知っていたのだろう。まさにこの本の趣旨に沿う体験だった訳だ。
いや違う。また思い出した。この本の紹介文を読んだ時に、自分のスケート体験を思い出した。だからこの本を読みたいと思ったのだった。 -
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脳に作用して体の「できる」を研究した例を挙げている。「脳を操る」の領域であり、悪用される危険性に少し言及しつつも、スポーツや学習、リハビリなどに非常に有効な方法を示している。
非常に読みやすい。VR技術を使っての練習で効率よく「わざ」を習得できる話など、根性論だけで間違った方法で練習して身体を壊してしまうことを防げるという話が出てくる。脳は「学習することはできても、身につけてしまったことを忘れられない」習性もあるというのが印象に残った。勉強にしても、ここで紹介されている学者の一人は小学生の頃、「効率よく学習効果を出すために、先生の教えることを感動して聞くように自己暗示をかけていた」とか。
技術以外にも、学習は記憶だけでなくその時の環境や状況とセットでインプットされるなど、自分の普段の行動にもあてはまる話があった。 -
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【目次】
第1章 体の声を聞く
第2章 体、この不気味なもの
しゃべれるほうが変。
勝手にやってくれてる
ふたつの「ん」
「ん」と「ぶ」のあいだ
体の身になって考える
体のアイデンティティ
第3章 体がエラーを起こす
連発
体が試行錯誤してる
吃音は「あいだ」で起こる
「伝える」と「伝わる」
楽にどもれている
第4章 恥ずかしいのはいやだ
難発
三島由紀夫『金閣寺』
眠る前の孤独
敵でもあり味方でもある
自分をつくる
第5章 自分らしい体
言い換え
固有名詞の壁
本当じゃない自分が出てくる
ずれるから発見する
どもることで自分をとりもどす
体の多様性
第6章 メタファーを味方につけよう
体について探求するために
現実の多様な見方
きみだけの「言葉」を獲得する
相手にきみになってもらう
体を信頼する -
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数値化すればするほど減っていく利他性。言動が内発的な利他性から、外発的もしくは内発的な利己性になってるから?
人は信頼してる時、他者の自立性を尊重。悩んでる人に対して諭すことなくツンツンして自らの解決を待つ感覚
利他とは聞くことを通じて相手の隠れた可能性を引き出すこと、と同時に自分が変わること
二つそれぞれあるのに、不ニであり、一に似たのも。主語が2人の考えに似てるような気がした
現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証とされるが、現実世界の説明としては非常に脆弱。むしろ矛盾のまま表現できる方がよほど現実的です。
計算された利他は、本質的な意味では利他にはなりえない。
自分がした利他の行動に対する相手の言動に過干渉にならず、任せたり信頼する姿勢 -
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東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。
「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。
そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。
それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。
では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。
では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。
ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
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「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
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→ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。
なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。
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「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。
とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
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→物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。
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たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
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→当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。
といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。 -
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NHK Eテレ 『理想的本箱』で紹介。
「日本語には触覚に関する2つの動詞があります。 ①さわる②ふれる 英語にすると どちらも「 touch」ですが、それぞれ 微妙に ニュアンスが異なっています。 傷口に「さわる」というと、なんだか痛そうな感じがします。 さわってほしくなくて、思わず 患部を引っ込めたくなる。 では「ふれる」だとどうでしょうか。 傷口に「ふれる」というと、 状態をみたり 、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます‥」
こんな、書き出しで始まります。何やら興味を持ちませんか?
「ふれる/さわる」「ふれられる/さわられる」とはどういうことなのか?触覚ってなんなのか? 著者自身が、体験し、 勉強会に参加し、インタビューし、様々な資料から考察し、 研究し、とても丁寧に親身になって読者に伝えようとします。著者のご性格なのか 読者に対して とても 敬意を払っているような印象を受けます。 そこに好感を持ちました。
最終章では今までの議論を一旦 ひっくり返します。触覚は倫理を語れるほど「いい奴」なのか?と。触覚の不埒さにも焦点を当てています。
一度読んだだけでは全てを理解することはできませんが、 ニュアンスは伝わってきます。
「手の倫理は、接触を通して相手の体を生きさせることと密接な関係があり」不道徳な「不埒さ」をも伴う。だから、他者と手で関わる時は、一方的 、暴力的、伝達的ではない関わり方をしたいし、してもらいたいと痛感しました。 -
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これまでの筆者の本とは少し様子の違う内容となっています。主に体の学習やできるようになることについて、最近のテクノロジーを通して見えてきたことについて書いている印象です。
紹介されているテクノロジーが興味深いことはもちろん、それを通して身体がどのように学習をしており、できるがどのように作られていくのかを見る視点となっている気がしています。
特に技能向上の行き詰まりに対して自分のこれまでの運動の枠から出た運動の仕方を示すことで枠から出ることなどは興味深かったです。自分だけの理論では自分の枠から出れず、言葉だけだと枠から出難いが、即時性を持ったテクノロジーによる学習がそれを可能にするなどは可能性を大いに感じるものでした。
できないことに注目してきた筆者が、できることについてまとめた本と理解していますが、序盤で出てきたできることの選択肢が今後も増えてくる中で、何をすべきで何がすべきでないのかは多方面から検討されるべきという点はとても共感をしました。 -
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大塚国際美術館に行くにあたり、今まで全く縁のなかった西洋美術について色々勉強していた時に出会った本。
ギリシャ神話や聖書、画家たちの経歴などを知ることで鑑賞に厚みが出てはきたけれど、この本に書かれてあるような視点こそ、美術鑑賞には必要不可欠な要素だと思う。世界史が好きで、それと結び付けて鑑賞出来たらいいなと思っていた。
「美術って、その時代を生きた人の感じ方が真空パックされているタイムカプセルみたいなもの」
史実だけでなく、その時代の人の感性までも感じ取ることができたら、こんな素敵なことはない。次回に美術館に行った時は、前回とは全く違う見方ができそうだ。