あらすじ
人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。
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Posted by ブクログ
TVで観て気になり読みました。
手の倫理とは何?何書かれていくのだろうと不思議に思い読み進めていくと、具体例にラグビー、伴走ランナー、介護、ボクシングなどが出てきて、納得させられ、倫理という難しいタイトルにも関わらず具体例がすごくわかりやすく楽しい一冊でした。
Posted by ブクログ
倫理は原則として一般化されたことがらを対象とするのではなく、個別の文脈の中で極めて現実的な態度としてのジレンマ、悩み、迷いとともに生じるものであり、明確な答えがない不安定さと隣り合わせである。しかしこのような不確かな時代だからこそ、倫理的である姿勢は重要なのであり、またそうであることで創造的な議論ができるのであるから、私たちが倫理について考えることは極めて重要なことだろう。
本書では、多様な意見があるときに、「多様性」という言葉をもって相対主義的な不干渉の姿勢を示すことの無責任さを、まさしく倫理の観点から指摘している点が印象深かった。つまりどれほど多様でも、私たちはなおも考え続け、語り続けなければならないのであり、これこそが倫理的なふるまいであると。
そしてもちろん本書の議論の主題である触覚についての洞察も興味深い。西洋哲学における触覚についての解釈の潮流と変遷に触れたうえで、不確実性を乗り越える信頼にはじまる接触、そしてその後のコミュニケーションとしての「ふれる」の特性へと議論が展開されていく。ふれることは極めて生成的な物理的メディアであると結論づけられるかと思いきや、その極致には絶対的な距離感のある「さわる」の伝達の要素があるという指摘は興味深かった。
わかりやすい解説で読みやすく、なおかつ学びの多い良書でした。
Posted by ブクログ
触覚をみくびっていた自分に気付かされた
思い返せば印象強い記憶って触覚と共に残されている
普段、人の体に触れさせていただく数少ない職種であるからこそ、触覚についてより意識をしていきたいなと感じた
Posted by ブクログ
倫理と道徳を区別して、倫理とは一般の存在しない、個人が線引きを行うことで作られる、ある種の創造性を含んだものであることが提示される。「多様性」のような、ビッグワードやスローガン的なものに吸収されていく、あわいのある存在を見落とさないようにしたいと考えようになったのは、本書の指摘が大きかったかもと思う。
具体的な状況と普遍的な価値のあいだを行き来することで、倫理的な行為を深化させることや、他者性についても言及があり、一章だけでもパンチライン多数。ってかまえがきの時点でめっちゃおもしろい。
ふれるという行為の相互性、また介入性が、いかにさわるという一方向的なものと異なるか。
伊藤さんは利他という概念について話すときも、常に自己へと向かう矢印に他者を経由させるようなイメージを展開している気がする。
信頼と安心の違いについて、安心というものは保険をかけるような一方向性の願望であり、信頼とは一方向の願望の中にも、相手がそれを裏切ったとしてもよしとする、双方向的な考えがあることを指摘している。これも自分にとって人間関係の大きな指針になる考えだった。
100%の安心はありえず、それを求めるがために複雑化するシステムの無限後退を、信頼というものがどこかで堰き止めてくれる。仕事しててもめちゃくちゃ感じる。
例として挙げられる注文を間違えるレストランや、ブラインドランの話などもとても興味深い。
ユマニチュードという革命を読みながら、改めて手に取った一冊
Posted by ブクログ
手で感じた感覚、手によって感じた感覚、それはいつだって臨場感を持ってリアルに蘇ってくる。
同じように手を触れても相手によって感じ方は違う。受け取り方が違うのもあるし、感情や環境にも影響を受ける。
Posted by ブクログ
全編興味深く、面白かった。前編にあった道徳と倫理の違いが、最後に私たちを揺さぶりかける。
子供は親にさわってほしいのではなく、ふれてほしいのだろう。
Posted by ブクログ
たしか土井善晴先生と中島岳志先生の対談の中で聞いて読もうと思ったのがきっかけ。
「ふれる」ことの対称性や信頼から安心への変化。「ふれる」ことによるコミュニケーションの深さ、生成モードによる信頼の育みなど、視覚や聴覚によるコミュニケーションだけではどうしても信頼と安心の構築が難しいと感じるのはこの辺りが関係しているのかもしれない。
それに人にふれるということだけではなく、道具や食材に語るようにふれることでその内面性を感じられるようになりたいと思ったりもした。
Posted by ブクログ
今日の世の中を覆っている合理性や生産性という価値観は違う、ふれることを通じて得られる非合理で生々しい感覚に価値を見出そうとしている。今日に必要な思想だと思った。
Posted by ブクログ
人が人にさわる/ふれるときの交流、スポートや介助などさまざな関わりの場面で触覚がもたらす
コミニュケーションや人間関係の可能性について綴られています。
全体的に哲学的な内容ですがそもそもの「さわる」と「ふれる」、「道徳」と「倫理」の違いなど
テーマに深入りするワードに関する説明がとてもわかりやすくより興味をそそられました。
触覚は視覚に比べて情報を得るために要する時間が長く、繊細に扱わないと信頼関係を損なう可能性も大きい。
それでも相手とのより深い相互理解を得るための「ふれる」ことの重要性にとても納得がいきました。
人との関わり合いなど見つめ直したくなる一冊でした。
内容の割に文体が丁寧でわかりやすいので興味がある方にはとてもおすすめできます。
Posted by ブクログ
ーー信頼があるところにだけ、メッセージは伝わっていくのです(p.165)
コミュニケーション論としても、教育論としても、演劇論としても読むことができる本。
「手」という「距離ゼロ」のメディアを通じて、私たちは「生成モード」のコミュニケーションを行なっている。当たり前のことを改めて言葉におこしてもらうことで、今、自分やその周囲の人たちに何が欠けていて、何が可能なのか、何が起きているのかを、今までとは違った視点で捉え直すことができた。
また、ブラインドランナーの方と伴奏者の方の言葉が印象深い。
Posted by ブクログ
ふれる、と、さわる、にはじまり、手を介したコミュニケーションや、未だコトバに至らない思いがダイレクトに伝わる感覚などを、様々な事例や筆者自身の体験から、丁寧に言葉を連ね、分析されています。
そのありありとした感触や、相手に委ね、相手からも委ねられる感じが、言葉による思考、分析、コミュニケーションとはまた違ったありようを示されていて、そのようなふれ合いの持つ可能性を感じさせてくれました。
Posted by ブクログ
親鸞会などのいう難度海よりも、小舟にすがる生き方のほうがいいと思っていた。つまり、道徳で安らぎを得るよりも、その場その場を悩み、オロオロする倫理がいいと改めて思わせてくれた。
それから、する対されるの関係でなく、お互いにあるというのも、J哲学を超えて、西田幾多郎の主客不分離を思わせた。
Posted by ブクログ
筆者の論考の基になるのが視覚障害者との(触覚による)コミュニケーションなのだが、そこから触覚によるコミュケーションの要素をキーワード(伝達モードと生成モード、共鳴、などなど)として抽出していく様が鮮やかで、とても面白い。
最終章では触覚の「不埒」で扇情的な側面(触覚のその素晴らしい特性から、思ってもみない欲望や衝動が掻き立てられてしまう。セックスの翌日に入浴介助をすれば不快な重なりが生まれることもある)にも触れる。
ただそれは決して不道徳なことではなく、普遍的な善を追求する「道徳」を相対化し、むしろ現実的な場面に即し、悩みや葛藤を伴い、そしてより創造的な、「倫理」の世界に近づいていくものだとする。
「触覚は道徳的なものではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」と締める最終文まで全て腑に落ちて、でも新たな発見も随所に散りばめられた素晴らしい論考だと感じた。
Posted by ブクログ
触覚や「手」を用いたコミュニケーションに関しての本
「さわる」と「ふれる」の違い
「さわる」が一方的な物理接触を表すのに対し
「ふれる」は、触れられる方の受容が必要で、安心と信頼によるもの
また、双方向性があり、コミュニケーションとしても成り立つ行為
ゼロ距離の先、マイナス距離として内部の情報まで知ることができる可能性を持つ
タイトルの「倫理」という単語の意味
「道徳」は「こうあるべきという概念」
「倫理」は道徳を前提にしつつも、ケースによって個別に悩み考え導き出す個人の最善手
タッチレスの時代
新型コロナ禍を経て、感染予防の観点から接触の忌避、またはハラスメント予防のためのタッチレス化
だからといって昔のように触れ合おうというわけでもない
ただ、それでも「触れる」「触れ合う」という行為で成されるコミュニケーションもあるという事は覚えておきたい
冒頭で紹介されている、とある体育科教育学の方のお話「体育の授業が目指すものは、他人の体に失礼ではない仕方で触れる技術を身につけさせることだと思う」という言葉
本書を要約すると、大まかにわけて三つ
1.人に「ふれる」と、表面の情報だけでなく「奥にある動き」も感じられる
2.「ふれる」と「さわる」違いはふれられる側が意思決定するため不確実性があり、「ふれる」にはふれられる側からの信頼が必要
3.非対称に思われる「ふれる」と「ふれられる」も、切り替わる事があり、「ふれる」コミュニケーションには双方向性がある
安心とは「ひどい目に遭う可能性を意識しないでいい状態」であり、信頼とは「ひどい目に遭う可能性があるにもかかわらず、それでもひどくならない方を期待して、賭けること」
視覚や聴覚に比べて、触覚は情報量の観点から下位の感覚と位置づけられる事があるが
触覚だからこそ、ゼロ距離以上にマイナス距離という内面まで感じられる場合がある
手を用いたノンバーバルなコミュニケーション
個人的に面白いと感じた試み
柔道の試合を伝えるための工夫
手ぬぐいの両端を二人が持ち、盲者が真ん中を握る
両端の二人は選手同士の動きを翻訳して手ぬぐいを動かす
柔道をやってたからわかるけど、組み手は結構重要な要素
それだけで相手の意図が伝わってくるものもある
全盲の人の柔道は両者組み合った状態から始まるし
目が見えなくとも何となく相手の動きがわかるというのは実感している
個人的な触れる体験の話でいうと
年老いた祖母の手首を握ったときに、以前よりもさらに老いを感じた時があって
張りがなく体温をあまり感じない質感に驚いた事があった
当時、祖母は認知症で殆ど意思疎通はできなかったわけで
お互いにどう感じたのかというのはよくわからない
ただ、肌と肌が触れ合う事で伝わる情報の複雑さについてはわかる
あと、祖父が亡くなった際
納棺のときに凍った躰に触れた時に一瞬でも感じてしまった嫌悪感
あれは触れたのではなく触ったからなのだろうか
とも思った
もう既に生命が失われているという事の喪失感とそれに伴う忌避感なのかな
最近の話だと
よく行くバーのバーメイドさんが、冷え性なので手を差し出してきて確かめさせてくれた事
相手の手の冷たさを感じるという事は、私の体温が相手側に伝わっているという事でもある
そして、そんな行為をできるほど嫌悪感を抱かれていないという安心感
「ふれる」と「ふれられる」の相互関係と信頼感とはこういうものなのでしょうね
その時に他に話したのは、迷惑客が軽口とともに臀部を叩いてきたので退店願ったという話
これは冒頭でも語られているように痴漢行為に属するもので、「さわる」行為
多分、日常でも「さわる」と「ふれる」の違いを認識できていない人や、一方は「ふれる」と想っている事でも「さわる」になってるケースもあるのでしょうね
ちなみに、この本を手に取ったきっかけは「理想的本箱」で紹介されてて
購入はしていなかったけど心の積読にしてたのを遂に買ったという経緯がある
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人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。
[本書の内容]
序
第1章 倫 理
ほんとうの体育 フレーベルの恩物 まなざしの倫理/手の倫理 倫理と道徳 「倫理一般」は存在しない 不確かな道を創造的に進む 蟻のように 「多様性」という言葉への違和感 一人の中にある無限
第2章 触 覚
低級感覚としての触覚――「距離ゼロ」と「持続性」 モリヌー問題――「対称性」 触覚論が人の体にふれるには 触感はさわり方しだい ヘルダーの触覚論 内部的にはいりこむ感覚 「じゃれあい」か「力くらべ」か 「色を見る」と「人にふれる」 ラグビーのスクラム 距離があるほど入っていける
第3章 信 頼
GPSに見守られた学生 安心と信頼は違う 結果的には信頼の方が合理的 リスクが人を生き生きさせる ハンバーグが餃子に 「ふれられる」とは主導権を手渡すこと だまされる覚悟で委ねてる 無責任な優しさで生きている 「もしも」が消えるまでの三年間
第4章 コミュニケーション
記号的メディア 物理的メディア 使える方法はいろいろ使う 伝達モード 生成モード 「さわる」は伝達、「ふれる」は生成 ほどきつつ拾い合う関係 相手の体に入り込み合う 死にゆく体を「さわる」 「できなさ」からの再編集 「介助」アレンジメント―― 複合体
第5章 共 鳴
ロープを介したシンクロ 足がすくむ あそびから生まれる「共鳴」 ロープが神経線維 「伴走してあげる/伴走してもらう」じゃない関係 「伝える」ではなく「伝わっていく」 隙のある体 見えるように曲がっていく あえてハンドルを切る 生成モードの究極形態 あずけると入ってくる
第6章 不埒な手
介助とセックス 別のリアリティへの扉 「うっとり」のタイムスリップ 手拭いで柔道を翻訳する 勝ちたくなっちゃう 目で見ないスポーツ 不道徳だからこそ倫理的でありうる
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Posted by ブクログ
数年前から気になっていたけど、
リアル書店ではなかなかお目にかかれなかったこちら。
なんといつもの工夫舎さんに
「ありますよ」
と、難なく言われてようやく購入。
講談社選書メチエの本自体はじめてだ〜。
ざっくり言うと、触覚のお話。
普段、私たちは何かを認知する時、
視覚に頼ることが多い。
対象物と距離をとることにより、安全に観察することができる。
古代から認知の方法として、最も尊ばれたのが、視覚、次に聴覚。
嗅覚、味覚がさらにその下、触覚は1番低級な感覚として捉えられていたんだそうだ。低級かどうかはわからないけど、確かに何かを認知する時、「触る」ことが1番ハードルが高い(低級からのこの言い回しはとても紛らわしいが)ように思える。
対象物との距離をとれないことは、時にリスクになり、触覚はともすれば距離感0からさらにマイナスにもなり得る、大変センシティブな感覚だという。
「さわる」と「ふれる」の定義や、
「道徳」と「倫理」の定義、
はたまた、「安心」と「信頼」の定義など、ある文脈においてはどちらでも意味が通りそうな些細な言葉を丁寧に解きほぐしながら、手でさわる、手がふれる、その倫理を説いていく。
めちゃくちゃ面白い。
手が持つ、触れることへの対称性。
そんなこと意識してなかったけど、
たとえば誰かとの抱擁が安心するのは、
ふれられて、ふれているその対称性や
また、お互いがお互いの身体の輪郭を確かめる…世界に存在する各々の身体を他人の身体で確認し確認させる交換性を感じるからなのかもしれない。
つまりこれは、信頼のある相手という前提条件はあるが。
そして触覚は今起きている文脈とは違う認知を、その生々しさゆえに容易に呼び起こす感覚でもある。
だからこその倫理。
ここは道徳ではなく、倫理。
しっかりした哲学的理論も含みつつ、著者が経験したいろんなケースを引き合いにして、やさしくわかりやすく文章で書かれているので、
手に入れるまでの時間に比べて
読み終わるのはあっという間だった。
Posted by ブクログ
「さわる」と「ふれる」。その似て非なる言葉。ケアすることが日常の私も、よく分かる感覚。さわることは医学的であり、ふれるはケア的。同じ手が触れ合うということでも、こちらの気持ちは相手に伝わっていると感じるし、自分でも触られた、ふれられる、は大きく違うし、言われなくても体で分かってしまうもの。
とても興味深く読んだ。ただ、最後の入浴介助の話はちょっと疑問。介助者は裸になる必要はないし、洋服を着ている、濡れないように防御している(防水エプロンをつけるなど)ことで、ケアの提供だとより認識するのでは、と思う。私の知らない入浴介助で服を脱いでする場合もあるのだろうか。ただ、触覚は本人の自覚以上に体が勝手に反応してしまうということをより分かりやすくするための例としての話だったのだろうか。手拭いを通して柔道を触覚から実況するという試みは面白いと思ったし、手拭いを持つ側が勝ちたいと思ってしまうのも、人間の面白い性だなと思った。
Posted by ブクログ
NHK Eテレ 『理想的本箱』で紹介。
「日本語には触覚に関する2つの動詞があります。 ①さわる②ふれる 英語にすると どちらも「 touch」ですが、それぞれ 微妙に ニュアンスが異なっています。 傷口に「さわる」というと、なんだか痛そうな感じがします。 さわってほしくなくて、思わず 患部を引っ込めたくなる。 では「ふれる」だとどうでしょうか。 傷口に「ふれる」というと、 状態をみたり 、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます‥」
こんな、書き出しで始まります。何やら興味を持ちませんか?
「ふれる/さわる」「ふれられる/さわられる」とはどういうことなのか?触覚ってなんなのか? 著者自身が、体験し、 勉強会に参加し、インタビューし、様々な資料から考察し、 研究し、とても丁寧に親身になって読者に伝えようとします。著者のご性格なのか 読者に対して とても 敬意を払っているような印象を受けます。 そこに好感を持ちました。
最終章では今までの議論を一旦 ひっくり返します。触覚は倫理を語れるほど「いい奴」なのか?と。触覚の不埒さにも焦点を当てています。
一度読んだだけでは全てを理解することはできませんが、 ニュアンスは伝わってきます。
「手の倫理は、接触を通して相手の体を生きさせることと密接な関係があり」不道徳な「不埒さ」をも伴う。だから、他者と手で関わる時は、一方的 、暴力的、伝達的ではない関わり方をしたいし、してもらいたいと痛感しました。
Posted by ブクログ
道徳の倫理の違いについて初めて考えたし本書を通して理解できた、パンチラインは沢山あったけど1番最後の章「不埒な手」でそれまで論じてきたことの根本をもう一度問い直そうとしているのが構造として面白かった、伴走ランナーや身体で感じるスポーツ観戦を実際に体験(体感?)してみたい
Posted by ブクログ
触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。
今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。
一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」
ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」
後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。
今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。
Posted by ブクログ
社会構成主義的な言語によって意味が社会的に構成されているという考えには、なるほどと共感するところが多いのだが、素朴な疑問として、身体性とか、倫理性とか、スピリチュアリティとかをどう考えるのかというのは、もやもやする。
まあ、「そういうものは社会的構成だ」的な説明もあったりするのだが、普通に考えてそうとも言い切れないないだろうと思う。
哲学ではなくて、人と現実的に関係しあうなかでは、そのあたりはなしにはできない。
この本は、基本、哲学なのだが、そういうリアリティとの関係を身近な体験を踏まえながら、少しづつ手探りで前に進めていく感じがよい。
いろいろな話しがでたところで、明確な答えに辿り着くわけではないのだが、その辺りもまた触覚的でいいかな。
やはり、身体というのがあって、そして他者の身体があって、その関係から生まれてくるなにか?そこは言語やロジックだけではなくて、こうやって、すこしづつ近づいていくということが大事なんだろうと思う。
Posted by ブクログ
視覚によるコミュニケーション、言語によるコミュニケーションよりも、もしかしたら、さわるとかふれる、接触面のコミュニケーションの方が相手を理解できる場合もある。信頼や愛がなければ成り立たないコミュニケーションだから
Posted by ブクログ
「さわる」=伝達的コミュニケーション(一方的)
「ふれる」=生成的コミュニケーション(双方向的)
※細かく言えば「ふれる」を超えた「さわる」もあり、一概に一軸上にある2項ではない。
手(触覚)は不道徳な存在でありながら、だからこそ倫理的でありうる(不可抗力的に生成的コミュニケーションを意識させる)という話。手でのコミュニケーションを「接触のデザイン」と捉えているのもおもしろかった。
接触の間、Aの一部でもBの一部でもなく、その間に生まれ更新され続ける独立しない何かがある、この生成的コミュニケーションの話は『かたちは思考する』に通ずるところがある。
Posted by ブクログ
「ふれる」の極地にあえて「さわる」がある。価値転倒。
正直まだまだ概念区分が大雑把で甘いな、と思うところもあったが、倫理とは何かということを考えるにあたっては良書であろう。
道徳法則とは質の異なるものでその場その場で向き合うしかないという原則を前提としつつ、触覚が道徳を揺さぶる力を持つことを手がかりに、倫理というものが「人と人との違いという意味での多様性よりも、自分の中にある異質なものとの出会いである」という主張にはすごく納得させられた。現在の哲学はやはり健康的すぎるとも思う。
Posted by ブクログ
特に触覚に興味があったとあるタイミングで、後半を読み終えた。
不道徳な触覚が持つ倫理性。私はどのようにして社会的成熟度を操ることができるだろう。
Posted by ブクログ
さわるとふれるの違いは奥が深い。
多様性のところの
多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩は一歩間違えば「みんなやり方が違うのだから、それぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。
つまり、多様性と不干渉は表裏一体であり、そこから分断まではほんの一歩なのです。
Posted by ブクログ
書評を見て気になっていた。
手で触れるとさわるとの違い。
手を介したコミュニケーションと、人との距離の取り方。
触感や皮膚感覚が人の感覚に働きかける割合。
いろいろ考えさせられる。
特に最終章の表現は見事だなぁと感心した。
Posted by ブクログ
「ふれる」と「さわる」の違い、手や触感で感じることについて。
人間は視覚に頼りがちで、動物的なイメージから五感の中でも下の方とと見なされているが、実際はどうなのか?ということを作者は様々な方にインタビューをして、掘り下げていく。
全盲の方、目の見えない人の隣で伴走する活動をされている方や介護の現場で働く方など様々な視点を入れながら、本当にさわる・ふれるというのは意外と複雑な構図から成り立っていることをまとめている。
面白かったのは作者も実際に目隠しをしてベテランの伴走者とランニングをした時、ロープで目の見えない人と伴走者を繋げるのだが、2人の息が合ってくるとお互いに走りやすくなり、走り終えてもすっきりした感覚になるらしく、それが不思議だった。
逆にロープを通じて様々な感情や思ったことが相手に感じられてしまうので、ネガティブな感情や緊張を感じてしまうと疲れやすいというのも面白かった。
様々な構図を図式化されてとても分かりやすく、コミュニケーションには信頼が必要、などが分かった。
英語では”touch”という言葉のみだが、日本語は触れると触るの2つが存在すること、そして無意識にその2つの言葉を自然と使い分けていることが印象に残った。医者が「体にふれる」ではなく「体をさわる」の方を自然だったり、逆だと生々しく聞こえてしまう。
普段から目で見ているスポーツを別の方法で体験してみる研究の話も面白かった。スポーツ全般は視覚的に捉えていることが多いが実は体験してみたら全然違うところを意識していることが多いのかなと思った。
後半の方がエピソードなどが増えて面白く感じた。