伊藤亜紗のレビュー一覧
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私の体には数年前からいくつかの障害があり、体の扱いにくさについては日常的に考えることが他の人より少し多めだと思う。そういったこともあり、伊藤亜沙さんの活動は気になっていて、著書も読みたいと思いながら積読が多くなかなか読めずにいました。今回出た本は児童向けで隙間に読めそうなこともあって最初の一冊として手に取りました。
内容としては、体は思い通りにならないものだということ、その上でどう向き合うかについて吃音の例をもってやさしく説明したものです。かなり読みやすい。
そこそこ知っているかもと思っていた「吃音」について、初めて知る内容が多くふむふむと読み進めました。知ってると思い込んでいたなぁ。当事者じゃないと症状に目が行きがちだけど、当事者の方々がどんなことを経験しているか、どんなことを思うか知れたのが良かった。こういう内容が自分の想像力の材料になると思う。
その上で自分の体と対峙する大切さを説いていて、すとんと腹落ちしやすいなぁと。自意識過剰な若い頃に感情的に納得できるかは難しいところですが、若い時に理解していると生きやすくなるだろうなと思います。
自分の体への解像度を上げるためにメタファーで表現しようというのも面白い提案。わたしの障害はなんと表現するとピタッとあてはまるか考え中です。 -
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伊藤亜紗さんは注目している書き手で、ずっと読みたいと思っていながら機会を逸していたのだが、ちくまQブックスで出たので、これならすぐ読めると思い読んでみた。
ほんとにすぐ読めた。
タイトルと今までの著作から、思い通りにならない体について書かれた本だろうと思ったのだが、それは外れてはいないが当たったというほどでもないというか…。
このQブックスのシリーズは、プリマ―新書では難しい層(主に中学生)をターゲットにし、読みやすくわかりやすく文字数も少なくなっているので、それが書き手には制限となっている部分はあると思う。
思うこととは違う体の動き全般を語るには文字数が足りないので、著者が当事者である吃音に絞られて書いてある。そこがタイトルから私がイメージした内容には足りない感じがしてしまった。
読んでないので恐縮ですが『どもる体』を中学生向けにリライトした感じなのではないだろうか。
この本でも吃音について教えられることは多かったのだが、もっと詳しく知りたいと思った。
しかし初めて知ったことも多かった。
例えば連発について「てててててがみ」と言う時、吃音でないひとは「て」が言いにくいんだな、と考えるが、「て」は出ているから問題ない、「て」から「が」に行く行き方がわからないのだ、「てんぷら」なら言えたりする(P39)というところなどなるほど、そうだったのか、と。
思うようにはならない体を受け入れようというメッセージも良かったが、メタファーは中学生にはわかりにくいかな、と思ったし、わかったとしても「可能な限りきみの実感に忠実」な「しっくりくるメタファーをさがす」(p85)のは、難しいと思う。相当な言語的センスが必要。まあ、書いてある「果汁たっぷりのゼリーのふたを汁がこぼれないようにそうっとあける」というのを使わせてもらってもいいんだろうけど、それは自分の実感に忠実ではないと思う人もいるかもしれないしなあ。
でも、吃音の人の実感や、そのしくみを中学生にわかりやすく書いた本は少ないから、これはこれで良いと思う。大人は『どもる体』を読む方がいいかもしれない。 -
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最近推しの学者さん、伊藤亜紗さんと福岡伸一さんの組み合わせに、読まなきゃと刺激を受ける。
藤原辰史さんからは『ナウシカ考』につながる話題があって、あー、買って良かったなと、満足。
全体を統括しているのは、ロゴス(言葉・理性)とピュシス(自然)というキーワードだ。
そもそも、ウイルスも、人間のピュシスとしての生に深く関わる存在である。
だから、ウイルスを根絶させる、戦って人間が勝つという言葉に違和感を覚えるということだった。
そこで、ロゴスとしての社会は、人の生き方をコントロールするために手を伸ばす。
行動に制限をかけ、相互に監視を強め、それを善いこととして一方的に価値づけてしまう。
アフターコロナの世界では、そうした大きなシステムに対して疑いの目を持つことの必要性を説く。
けれど、私たちは、安全で清浄な社会に、随分と深く浸ってきたのではないだろうかと思う。
危険で汚いものは、悪と見なしていることと、同じ意味でもある。
そのことが、システムとサービスによって、さらに徹底され、維持されて欲しいと願っている。
これは結局、『ナウシカ』の墓所と変わらない。
私たちは、ナウシカと共に墓所を破壊出来るか?
三人の視点は、これかこれ!と整然と分けられるものではなく、ぐちゃぐちゃと入り混じった混沌に向けられている。
伊藤亜紗の「さわる」と「ふれる」の違いも、藤原辰史の「もれる」の生命との結びつきも、考えてみると、とても面白く魅力的だ。
科学への比重から哲学へ。
分析しても見えなかったものを、直観する。
先日読んだ『科学と哲学』ともピタリと符合して、良かった。 -
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教養って何なんだろう?自分の根っこを太くするって言ってもどうしたらいいのだろう?このような疑問に対して、ある程度はこの本を読んでイメージできたが、やはり難しい。
すべてを疑う、クリティカルシンキング、とがるなど、理解はできても実行するとなると難しいと思う。それを少しでも意識しながら生活することが大切なのだろうか。本書にも述べられているように、特に今のコロナ禍においては、多くの情報が錯綜し、メディアの報道すら一部分しか見えていないかもしれない。自らも正確な情報をとりにいき、かつそれをも疑い、それらの知識をまとめて考え運用し、ベストな選択、行動をする。今の状況は、平時に比べると本書に述べられていることを意識しやすい世の中なのではないだろうか。 -
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東工大の「リベラルアーツ教育」を構想した面々、池上彰ら実施にあたった人々の問題意識の高邁さや努力は素晴らしいと感じる。東工大については、今野浩のエッセイにもたびたび触れられていたが、理系学生に人文知の薫陶を与えようという意識が非常に高く、般教の教授連も大物が就くらしい。とはいえ、そもそも「リベラルアーツ」は高等教育の場で身につくというものであろうか?。
本書の中でも何度か出てくるように、試験、試験で能率を追求する知的訓練で鍛えられた「優秀な学生」は、「教養」の涵養にも効率を重視する。人文知の世界の「基本書」は、どれも数をこなせるようなものではない。しかし多くの学生は、いわばよくできた「知のカタログ」欲しさに、基本書の梗概あるいは「書評」的なものを、次から次とこなすだけで、「教養」を手に入れた、と満足するだけのような気がする。
高等教育で教養を教育できる、というのは、リベラルな教員が抱く幻想ではないか。特に、東工大のような理系畑では、専門で自分の地歩(学士号でもよいが)を築くためだけにでも、文系の5倍の時間を要求されているはずだ。現代の理系学生は、寺田寅彦とは異なる時代に生きている。驚異的に膨れ上がった科学技術体系を自分なりにモデル化して脳の回路に埋め込む必要があるのだ。教養なるものに無際限に時間を費やす余裕はないであろう。
もちろん、小学校などで、啓発スキルに優れた良い教師に巡り合った経験がある一握りの優れた学生は、世界全般について広い興味を持ち続け、多忙な専門の学習の間にも、自身の根と幹を、太く、広くする営為を、自身でコツコツと積み重ねているだろう。結局は個人の幼少時からの心がけと積み重ねである。大学生になってから教養、教養と言っても、雑多な知識を脳のどこかに書き込むにすぎない。既に遅いのではないだろうか。 -
ネタバレ 購入済み
新たな視点に気づかされます
2020年中学入試では栄光学園、中大附、東京都市大附で出題、高校入試では東京学大附で出題された。
先日、目の見えない人に道を聞かれて、説明にとても苦慮したことがあって読んでみた。
実は足の裏から多くの情報を得ているとか、美術館で絵画鑑賞するとか、驚きの世界であった。
大切なのは、見えている人が強い、見えない人は弱いという無意識の上下関係を作らないこと。
「見えないことが障害ではなく、見えないことで何かができなくなる、そのことが障害である」という言葉が胸に突き刺さる。
障害者が引け目を感じない世の中であってほしい。 -
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リオデジャネイロでのパラリンピックが盛り上がりは2020年に向けて障がい者スポーツへの関心のギアを一段階上げると思います。NHKの放送もソチの時は教育テレビの福祉番組が中心にあったように覚えていますが今回は総合テレビでスポーツとしての中継が存在感を増していました。本書も社会福祉的な論点ではなく身体論としての切り口が新鮮でした。手に取ったのは以前にたまたまお話を伺った5人制サッカーの日本代表の落合啓士選手がインタビューに答えているのを見つけたからなのですが、その際、見えている時代にサッカーを見てからその後ブラインドサッカーに入る選手より、初めからの選手の方が可能性が高いかもしれない、と言われていたのを思い出しました。失ったものを取り戻す、のではなく、持っているものを強める。身体論としての障がい者スポーツが時代に投げかけるメッセージは大きいと思います。
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美しさや醜さを感じる働きを感性と呼ぶ。この感性について考察するのが美学という学問だ。本書は、私たちが人間の身体を美しいと感じたり見にくいと感じたりする事態について、何が起こっているのかを哲学的あるいは歴史的に検討する。
著者が強調するのは、感性は個人的なものではなく、社会的・規範的なものだという点だ。すなわち、私たちが何かを美しいと思う時、私たちは社会で美しいとされる基準の影響を受けているということだ。このことを論じるために、本書は「太っていること」の日的評価が時代によって変遷したことが示される。時代=社会の変化によって、個々人の美醜の判断も左右されるのだ。
現在醜いとされるものあるいは美しいとは捉えられないものも、違う美的評価へと開かれているというのが著者の主張である。
私自身が興味深かったのは、現在は美しいと評価される「山」の風景がかつては醜いとされていたという指摘である。滑らかな球こそが美しく、でこぼこは醜いという価値観から、自然の美しさが認められるのも、歴史的な変化である。感性がいかに揺らぐものであるかよく伝わった。
誤植・疑問メモ
pp.81-2 「ホッテントット」の話。急にポルトガル人が出てきて、説明不足。
p.83 『女性弄ぶ博物学』 -
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利他とは何か、という題名だったので利他の本質について追求していく本なのだと思っていたが、「利他」という事柄をそれぞれの専門家がそれぞれ定義づけし、考察するような内容となっており、「利他についての諸考察」等の題名の方がしっくりとくる気がしている。
様々な角度から利他を語り、全体を俯瞰して見るとぼんやりと全体像が見えてくるような。
まるで、ピカソの多視点画をみながら全体像を探っているような本だと思った。
しかし、この本を読んで最終的に絵の全体像が見えてこない気がするのは、各専門家が利他について相互に刺激を受け、お互いの観点を踏まえた一段上の視点を提示するのが少ないからだろう。
せっかくこれだけの人材を持ち寄り、研究しているのであればもっと各専門家の視点がクロスオーバーしながら語るような内容があつくても良かったのではないかと思う。