池澤夏樹のレビュー一覧
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日本からネパールへの森介の冒険以外は、理屈っぽくて小説としてはつまらない本でした。特に宗教関連の部分と妻からのメールは退屈でしつこく最低でした。いつ読むのをやめようかと思いながら2ヶ月近くだらだらと読んでようやく終わりました。ですがこれは最後まで読まなければならない本でした。この本が出たのは20年以上前のこと。東京電力が犯した原発の大爆発による世界的放射能汚染のはるか前。温暖化などまだ話題にもならない頃。真山仁さんのベイジンもそうですが、原発や金儲け第一主義の危険性は知識のある方々にはかなり前から周知のことだったのでしょう。それ以外にも沖縄問題の本質や政治家と資本家の悪の連携ぶり、腑抜けのマスコミ、子どもの問題、自民党がぶっ壊した倫理や道徳など、著者の見解に多く同意しました。そして20年過ぎた今、すばらしい新世界はますます遠くに離れてしまいました。もはや新世界実現のためには人類の滅亡しかないのかも知れません。それにしてもやっぱりつまらない小説でした。
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Posted by ブクログ
ネタバレ実際にフランスに行ってみると、日本とのあまりの違いに反発することもありますが、その一方で素晴らしいところもたくさんあります。自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです。自分の国しか知らないと比較が難しい。例えば、北朝鮮です。今、我々が外側から見て、「民衆はさぞや不幸だろうな」などと思いますが、結構幸せかもしれない。一つしか知らない人間は、かなり幸せなはずです。自分と他を比較するようになると、人間は不幸になります。
しかし、さらに比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる。だから、フランス文学やヨーロッパ文学を学ぶのは、他者を体験することでもあります。
人間をピュリスムでもって、潔癖主義的な形で追い詰めていくことの危険性というものがある。モンテーニュと同時代のジャン・カルヴァンを描くことで、その潔癖主義に日本的なファシズムとの類似性を認めているのでしょう。禁欲という形で追い詰めていくと、自分で勝手に禁欲するならいいけれども、最終的には自分が禁欲できるということを盾に、人にも禁欲を強いていくことになる。こうして共産主義ともファシズムともよく似た、人口抑圧社会が出来上がってしまう。
カルヴァンみたいな超禁欲人間がいるとすると、そういう人たちを偉いと言う人たちが必ず周りにいる。そうすると、禁欲的な規範に合わない人間を切り捨てていく。ところが、誰もが同じ禁欲的な規範に従って生きることは無理なので、そのひずみが、ゆがんだ形で現れてくる。
これは別に、モンテーニュの時代に限ったことではなく、現在のイスラム原理主義などにも当てはまります。キリスト教とイスラム教は違いますが、結局は似たようなことになる。
これまでのファシズム批判は、自分は反ファシズムの側に立って、相手を一方的にやっつけるというものでしたが、ファシズムの権利は、人を引き付ける、ある種の禁欲主義の魅力があるのです。同じように共産主義にも禁欲の魅力がある。若い人は特にそういうのに惹かれる。堀田さん自身も共産主義のかなり近くまでいったこともあるし、そういうのに惹かれた面もあったかもしれない。同時に、危険性も非常によく分かっている。それと似た状況は、戦後の日本で何度も出てきました。それは別に、時代を問わず、過去にもあったものです。堀田さんが『海鳴りの底から』で描いた島原の一揆のように、禁欲を一つの核に据えた原理主義的な宗教運動があった。それを英雄的に描くということではなくて、全体として描くとなるとどうなるかというのが堀田さんの大きな課題だったと思います。
たいていの宗教は地域主教から出発しています。地域的な、かなり土俗的な主教から出発するけれども、その宗教が大きくなってくると、途中からある種の普遍宗教に変わらざるを得なくなる。キリスト教がその典型です。
もともとキリスト教は、エルサレムのユダヤ人コミュニティの閉鎖的で小さな地域宗教でした。それが、ギリシャ人の社会に広がりローマに行く。ローマからさらにヨーロッパ各地にどんどん広がっていく。そうすると、さまざまな人たちをその宗教に取り込まなければいけない。それまではユダヤ人コミュニティの小さな地域宗教だったものが、普遍宗教に変わらざるを得ない。「カトリック」とはそもそも「普遍的」という意味の言葉です。
普遍宗教に変わらざるを得ないということは、民族とか肌の色とか、言語とか、そういうものに関係なく、普遍的な価値観を持つということです。そうなると、さまざまな人間を一元的にまとめる必要が出てくる。そのためには、ある種の禁欲というものを核に据えないと、たくさんの人を引き付けることはできない。これは共産主義もファシズムも全部同じです。普遍性を持つには、禁欲性への歩み寄りをしていかないと駄目なんです。
しかし、そうなってくると、普遍的な物差しに合わせて、その物差しに合わない人は切り捨てていいんだということになってきます。だから、普遍性を持つことが逆に党派性を呼び込んでしまう。普遍主義的党派性とでも言ったらいいかもしれない。普遍主義的党派性とは形容矛盾のようですが、これは地域的な党派性とはまた違うものです。
例えば、地域政党なり地域主義は、それは確かに排他的ではあるけれども、普遍的な排他性は持たない。つまり人間と人間でないものとを線引きして、同じ人間なのにこの人たちは人間ではないとするようなことはあまりしないものです。よそ者は排除するけれども、よそで生きる分にはかまわない。その党派性は村や地域あるいは国の枠を超えない。
ところが、これが普遍的なものになると、非常に危険です。堀田さんは戦前のファシズム、それからの戦後の左翼運動に関わっていくうちに、その危険性に気づいたのだと思います。
『漢奸』という小説は、堀田さんの上海での体験を基に書かれたものです。堀田さんは、日本が戦争に負けるということが分かってから上海に行って、何年間か、かなり自覚的に現地にとどまっていました。当時上海は日本の占領地で、そこで日本が管理する中国語の御用新聞を出していたのです。この小説は、その時に文芸欄を担当していた中国人の詩人記者の話です。「漢奸」というのは、要するに裏切り者のことですね。民族を裏切ったものという意味です。その詩人は実に善良で、しかも日本語で訳されたシュールレアリスムを日本語で勉強して、シュールレアリスムの詩を書いていたのです。およそ政治とは関係ない中国の青年なのですが、貧乏で小さな家に家族がいっぱいいるために、棺おけを部屋の中に置いて、その中に横になって詩を書くという人だったのです。
日本が降伏して、その後上海を中国国民党の政府が占領する。同時にそれを中国共産党が包囲する。二重スパイか、三重スパイかわからない人たちがいろいろ暗躍する中で、その善良な詩人は売国奴として懲役刑の判決を下される。歴史の歯車の上に乗っかって生きているというときは、自分が善良であっても、正しいことをやっていても、あるいは好きなことを一生懸命やっていても、それでいいのだということではないのだな、ということを強く感じた作品ですね。
自分がわずかに経験した戦争と戦後の間にも、そういうことがいっぱいあるのだな、と思いました。
ですから僕が漫画を描いたり、何か書く時にも、これはどういう意味を持っているのか、自分はどこまで見渡してこれを書いているのか、自分がどんなに善良にこれをやりたいと思ってやったことでも、その裏側にはどういう意味があるのか、それから自分がどうしてやりたくなったのか、何によって自分は突き動かされているのか、突き動かされているものは本当にいいものなのか、そういうことを、ちゃんと考えてやらないと、この詩人記者と同じとんでもない運命になると思っているのです。これは非常に雑な受け止め方だと思うのですが、この二作品『広場の孤独』と『漢奸』という小説から受けた衝撃は、その後自分がアニメーションという職業をやっていく上でも、ずいぶん自分の最後のしんばり棒みたいになった体験でした。
実際には、その後の自分の判断をふり返ると、決定的な瞬間に何度も間違えた選択をしてきました。
イデオロギーというか、自分が空想した主義主張で判断して、自分の眼で見た時の違和感や心のすみに浮いた疑問を軽視したからです。堀田さんの文学は、自分で見、自分で感じたことで、思想を組み立てるものだったのに、まぁ、僕の判断は情けないものですが。 -
Posted by ブクログ
本書は、池澤夏樹さんが東日本大震災に寄せたエッセイ、コラムを再構成したものです。
表題は、ポーランドの作家ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集からの引用とのこと。
本書では、被災者や困難と闘った人に光を当てたり、ジャーナリズム向けに書いたりするのではなく、単に震災の全体像を描こうとしたようです。
動揺、哀しみ、怒り、希望などが綴られ、思考を重ね練り上げた良質な言葉が並びます。池澤さんの様々な想いが行間から立ち上がるようです。
印象的だったのが、池澤さんの日本人観と震災後の日本の歩みの記述でした。先日読んだ、外国人ジャーナリストのルポの視点と同様だったためです。
良くも悪くも「諦めのよさ、無関心等の姿勢」の指摘、そして、被災地の復興の具体の希薄さ、日本の電力事業の再編の遅さ・逆行など、改めて自分自身への戒めを含めて、考えさせられました。
被災直後の中学校の卒業生答辞に「天を恨まず」という言葉がありました。「天が与えた試練というにはむご過ぎる」けれども、「運命に耐え、助け合って生きていくことが私たちの使命」だと。
単なる美辞麗句との捉え方もあるでしょうが、本書のタイトルに通じ、個人的に絶賛肯定します。
喪失を受け入れ、傷を癒すための時間(言い換えれば記憶の忘却)は必要で、しかしこれは記憶の風化との戦いでもありますね。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこういう、家族の一代記ものはもともと好きで読み応えもあった。
軍人として、天文学者として、そしてキリスト教信仰者として信仰との矛盾に悩みながらも生きる主人公とその妻たち(先妻の死亡後に再婚)が魅力的だった。特に2番目の妻のヨ子(ヨネ)さんが魅力的だった。
終戦後、彼女が夫に向かって言う
ヨ子「でも終わりました。次は勝てばいいのですよ。平和のための戦に」
利雄「そんなものがあるか」
ヨ子「平和と繁栄の日本を造ってかつての敵を見返す」
軍人だった利雄がヨ子と再婚したのはよかったなと感じた。彼女によって短い戦後の人生ではあったけど利雄は救われたのではないかと思った。
靖国神社の扱いについてここはいまだ難しいところだと思うけれど、利雄の言うように「(山本五十六元帥の魂が)郷里長岡に帰られたとわたしは思いたい。戦争はもう終わったのだからもう軍人たちを束ねておくことはない。それぞれ生まれた土地に戻ればいいのだ」には共感。祀られながら縛り付けられていないかという部分もあるので。亡くなったことを美化するのではなく、国のために夢途上で亡くなられた方の鎮魂の場ではないだろうかと感じた。二度とそういう犠牲を国が個人に強いることの無いよう、戒めとする場ではないか。
妹トヨの告白
「あの時、わたしは本当に聞いたのでしょうか、愛をもって死を補えという天使の言葉を。(略)それでも、今この時の苦しみが癒やされるならば、わたしはこの身を捧げよう。」については、違う方法はなかったのか。末次郎(後に事情を理解して夫となる)や生まれてくる子ども(武彦)に背負わせるものは大きくなかったか。献身とは少し違うように感じた。
また「信じることは観測に依らない。観測を必要としないのが信仰である。
証拠はわたしの心のなかにある。」何を信仰していても証拠ではない、信仰する心こそが勁さと感じた。
「母性は職業意欲より強い」という箇所は利雄の実感かもしれないが極度に母性を美化するのはなぁと思った。結果としてヨ子は利雄や゙家族を働きながら支えていくのだけれど。
また、Mと加来の友情もよかった。特に加来の殉職について
「加来は死を選んだ。軍人の人生には、戦場で死ぬということが初めから織り込まれている(略)敗軍の将として国に帰る屈辱よりはここで自分の人生を閉じるという方を選んだ。するべきことはした、と自分に言ったのだろう。その判断は部下たちによっても共有されたのだろう。潔いと人は言うだろう。しかし加来がそこまでに積み上げてきた能力と体験を日本は失った。」という箇所について、戦争によって死を美化してはいけない。犠牲を強いられたこと、その人自身を失わせたこと、そういう状況に追い込んだ当時の軍部の暴走こそ憎むべきではないかと思った。
また、加来の俳句から始まる
『「つはものの 疲れ犒う(ねぎらう) 月夜哉」
(略)戦争はよいことではない。言うまでもなく世界は平和であるのが望ましい。しかし人は、富と領土と覇権を求めて争う。あるいはそれを奪われないようにと言って戦う。
(略)戦争は避けられない。だから、戦いになった時に負けないように普段から不斷の努力で防備を固める。それが軍というものだ。軍は盾であると同時に矛でもある。守るのではなく攻めるものにも使える。そして攻めているのではなく守っているのだというのにも使える。』というてころは信仰者であり、軍人でもある利雄の辛さ、苦しさも裏に感じた。
ここは
「主は日本人とアメリカ人を区別されない。ただ、どんな形にせよ戦争が終わることを望んでおられる。どんな平和でも戦争よりはいい」という形で利雄なりの解釈をしているようにも思える。
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Posted by ブクログ
ネタバレ讃美でも、無味乾燥な研究でもなく、ほどよい熱量で、忌憚ない解説。
まずは、文学としての体裁が整っていないという前提をハッキリ。
その上で、物語伝承記録書と歴史の記述を同時に行っているから、その歪みも後々把握しづらい文章になっている、と。
現在の天皇制に対しては言及を控える、というくだりも、いいスタンス。
にしても日本書紀、万葉集と、数十年単位で文章の筋合いがかなり異なるとか、ますます興味惹かれる。
旧約聖書、ギリシャ神話、 西アフリカの伝説など、縦横無尽なのも、よい。
ちなみに107p「アジア大陸の上に架かった虹としての日本列島と南西諸島」、つい最近何かの本で読んだばかりのはずなのに、何だったか……意義深い地図。
民俗学や文化人類学と関連づけて深堀りしたい、が。
こうの史代「ぼおるぺん古事記」再読、池澤夏樹訳、「ワカタケル」、町田康「口約 古事記」とか、落ち着いて手を伸ばしたい、が。
なかなかね。