岡本隆司のレビュー一覧
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「一つの中国」、今日もニュースで習近平が「台湾の統一」について改めて発言したと報じていた。恥かしながら私はこれまで「一つの中国」とは単に「台湾の統一」のことだと思っていたのだが、台湾は「一つの中国」の一部分にすぎないことが分かった。わかったんですけれども、とにかく情報量が多すぎて、私の知らないことばっかり(学校の歴史の時間に習った事件、人物は最低限の知識として)で、驚きの連続でした。内容は深くても、文章というか語り口はとても柔らかで、平易で頭の中にすっと入ってきます。
未来を知るには過去から学ぶ、それが歴史を学ぶ意味だと思うのですが(磯田道史先生もおっしゃっている)、中国という巨大な国とどう付き合うべきか、中国がどこへ行こうとしているのか、この本を読めばなんとなくわかる気がしました。
今、この時代に読んでおくべき本だと思いました。 -
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歴史学の権威と言えるであろうお二人(同じ著者であることに後から気づいたが、君塚先生の『物語イギリスの歴史』も面白く、かつ分かりやすかった)による対話形式なので、読みやすいが、話がどんどん展開していって情報量も多く、ページ数に比して非常に読み応えがあった。今流れているニュースだけではなかなか理解できない各国の意図を知れたのは大変有益だった。
また別の見方もあるのだろうが、たとえ浅くとも自分の理解をまとめておくと、、
・中国が台湾にこだわるのは、「ひとつの中国」を体現しないと元々多民族国家で本当はバラバラで示しがつかなるなるから
・ロシアがウクライナにこだわるのは、ナポレオンやヒトラーから攻め込まれたから
・アメリカはいつも極端に振れるので、トランプさんがやっているのも珍しいことではない!?(私見だが、二大政党制が過ぎるのかもしれない)
帯にある、国民国家=善では確かにないかもしれないが、帝国はやっぱり悪なような。。というより、建前上、国民国家なのだが、上記のような理由で権威主義的に振る舞わざるを得ず(と諦めてしまうのも良くないが)、帝国は現代でも生きているということか。 -
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中国を理解するうえでとても良い本です。多くの方にオススメしたい。
最終ページにこんなことが書かれています。
「日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくありません。これは容貌・言語に差異の大きい西洋人に親近感を覚えるのと、まさに対蹠的です
では、なぜそう感じてしまうのか。」
私は、この本を読んで少し理解できるようになりました。それは
「およそ西洋的ではない中国という国家を、頭から異質な存在としてとらえてしまっています。」とのこと。
「中国は歴史的に多元的な社会構造を持ち、14世紀の寒冷化とモンゴル帝国の崩壊を契機に、統合の困難さが顕在化した。(中略)現在も「一つの中国」と多元性の矛盾に苦悩している。中国理解には、西洋中心の歴史観を脱し、独自の歴史的背景を踏まえる視点が不可欠である。」とのことです。 -
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岡本隆司、君塚直隆「帝国で読み解く近現代史」(中公新書ラクレ)
現代では国民国家=善、帝国=悪と捉えられがちだが、19世紀末の世界は帝国だらけだった。イギリスのように本国の中では国民国家だが、海外では帝国という存在もあった。本書では東洋の大帝国の清朝と西洋の帝国である英国との出会いに始まり、産業革命を経て強大化した英国が清にアヘン戦争を仕掛ける迄になること、それに触発された日本が大日本帝国になること、第一次世界大戦でドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシア、トルコ、清という従来の帝国が一掃されたこと、それらに変わりアメリカとソ連が新たな帝国になることなどについて語る。冷戦後の世界でのアメリカ、ロシア、中国の振る舞いをどう捉えるかなど、考えるべきことは多そうだ。
1. 欧州では16世紀に大航海時代を迎えスペインなどが新しい帝国を形成する。科学革命や軍事革命を経て産業革命が起こり、非ヨーロッパ地域への優位を確立する。中でもイギリスは中央銀行や国債のシステムで軍事費を賄う体制が整った。
2. 欧州の皇帝はローマ皇帝の後継者。西の神聖ローマ帝国と東のビザンチン帝国。オスマンはコンスタンチノープル占領後も東方教会の総主教座を保護し、東の皇帝でもあった。ロシアはイワン4世の時に皇帝を自称したが18世紀になって欧州から皇帝として認められた。その後、ナポレオンが皇帝を称し、皇帝のインフレが進んだ。
3. 東洋では中国の皇帝が天下全体をおさめる建前であったが、海を隔てた日本も天皇を称していた。朝鮮は中国(清)に朝貢する王国であったが、日清戦争後に大韓帝国皇帝を称した。清や日本より格下である訳にいかなかった。大韓帝国は北方異民族の清に対し、明の伝統を継ぐ中華の皇帝だと自らを位置付けた。
4. 皇帝が多民族を束ねるタイプの帝国は第一次世界大戦でほぼ没落した。変わって本国では国民国家であり、周囲に植民地を抱えるタイプの帝国が増えた。その中でアメリカ、ソ連、イギリスと日本、ドイツ、イタリアが第二次世界大戦を戦い、米ソ体制に至る。
5. 第一次大戦後、アメリカは日本を抑えようとするが、英仏はまだ日本に同情的であった。彼らは満洲国設立までは対ソ防衛の面で許容できたが、日本が上海を攻撃した時点で完全に敵となった。この頃から日本は外交的な勘を失い破滅へ向かった。 -
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岡本隆司「二十四史」(中公新書)
中国文明は公的な歴史書(正史)を作ることにもっとも熱心な文明だった。史記、漢書から明史に至る二十四の正史の編纂についての解説。
史記:前漢時代に司馬遷があらわした神話時代から前漢の武帝の頃までの通史。それまでの歴史書は「春秋」のように年代順に記録を書いていくものだったが、司馬遷は王ごとの年代記(本記)、王以外の歴史上の人物(諸侯から経済人、侠客まで)の伝記(世家、列伝)を組み合わせることで生き生きとした歴史叙述を可能にした。司馬遷自体は儒家ながら、儒家の思想一辺倒でなく世の中を描こうとした。
漢書:後漢時代に班豹・班固の父子は史記を引き継ぎ、前漢の一時代を切り取った歴史書を書いた。勝手に歴史を書いたとして班固は投獄されたが明帝が評価して完成を命じた。後続の王朝が前代王朝の歴史書を公的な文書として作成するという仕組みが生まれた。また班固は儒家としての正しさという観点で歴史を評価する面が強い。
三国志:西晋時代に四川省出身の陳寿が私的な著述として三国志を書いた。没後、西晋王朝は有益な書物として公認した。地元の蜀ひいきな書き方も含め、物語としても面白く名著として多く筆写され、解説や小説・三国志演義なども派生することになる。
後漢書:三国志普及の後、南朝・宋の時代に、范曄は後漢の歴史を紀伝体で表そうとした。事実をそのままに記述しようという姿勢がみられる。
宋書:南朝は宋・斉・梁と移ったが、梁の武帝の時代に沈約が宋書をあらわした。
魏書:北方では遊牧民系の多くの政権が乱立、その中で鮮卑出身の北魏が北朝といえる政権になった。ただ遊牧民の伝統を守るか漢化するか国内は揺れ動いた。同時代史を描こうとした崔浩が一族ごと処刑されるような事件もあり文献記録があまり残らない。北魏滅亡後、漢人官僚の多い東の北斉と、遊牧の伝統にこだわる西の北周に分裂。北斉は漢化路線の正統性を訴える意味もあり、魏収に魏書を編纂させた。無理な正当化や事実の改変もあるとして後世の評価は低い。
五代史:南北朝の各王朝や統一を成し遂げた隋も短命に終わった。唐の太宗の時代に梁書・陳書・北斉書・周書・隋書の編纂が始まり、太宗死後に完成した。その後、李延寿は南北朝時代をまとめた書物として書くことを志し、南史、北史を書き上げた。その評判はよく、個々の断代史はあまり読まれなくなった。
旧唐書:唐の後半は群雄割拠がつづき、後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代の各王朝も短命だった。その中の後晋の時代に旧唐書が書かれた。完成度は高くないが、その後の契丹の攻撃で唐代の史料の多くが焼失しており、史的資料を残した意義は大きい。
新唐書:宋代に入り、もっと充実した史書を作りたいと言う機運が高まり欧陽脩を中心に新唐書が作られた。
旧五代史・新五代史・資治通鑑:宋の太宗が宋による統一をアピールすべく旧五代史を編纂させ、欧陽脩はそれを大改訂した新五代史を作成。その後、司馬光は通史である資治通鑑を作成した。資治通鑑は編年体であり、古い資料を丹念に収録、忠実な記録を目指した。その後、編年体では読みにくいということで通鑑紀事本末という、記事を事件ごとにまとめた、今日の歴史書に近い本が出された。さらに朱子は記事を五分の一にスリム化した資治通鑑綱目を出した。
遼史・金史・宋史:元のクビライは南宋を滅ぼした後、前代の史書の編纂を命じ、順帝のころに完成した。
元史:朱元璋が明を建国後、まもなく元史の編集を命じた。短時日で作成されたこともあり重複や配列の齟齬、表記の不統一が目立つ。元の歴史についてはモンゴル語で書かれた元朝秘史による必要がある。また明の時代は通俗的な出版物が多く出版される大衆的な時代、三国志演義や十八史略などがよく読まれた。
明史:清の康熙帝のころ明史の編纂が始まった。清の時代は考証学が進み、根拠の乏しい説話を排し、事実に沿った記述をしようという傾向が強い。
清史稿:中華民国北京政府は1914年に清史館をもうけて清史の編纂にかかり14年後に清史稿が出された。清の旧臣を中心に清の治世に肯定的な筆致だった。孫文らの南京政府はこれを認めず発禁とした。その後、台湾で1961年に清史が発行され、大陸では2001年に清史の編纂が始まったが未刊行である。 -
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袁世凱
現代中国の出発
著:岡本 隆司
岩波新書 新赤版1531
清末の奸雄、袁世凱の一生を記した書。
河南省の名家に生まれた、袁世凱は、科挙の暗記中心の受験には不向きで、軍人を目指すことになります。
官僚の世界では、科挙にうかって、任官をすることを、正途、そうせずに官界に入ることを、雑途といっています。つまり、袁世凱は雑途、裏口のルートを目指したのでした。
当時李鴻章が義勇軍淮軍をもって治安の維持を図っていました。同郷のよしみで、袁世凱は、李鴻章の軍に入隊します
日本との関係、1870年代から清と日本の衝突を繰り返していた。琉球問題と、台湾出兵で戦争寸前にまで至ります
壬午変乱 1882 に朝鮮の旧軍が暴動を起こし、韓国政府の要人が殺される事件が発生します。
そのときに、暴動が日本人と日本大使館を含めて死傷者がでました
日本は、朝鮮の地政学的に重要地とみていて軍隊を含めた使節を派遣し、朝鮮政府に交渉をはじめた。
一方、清も、朝鮮の宗主国として、軍を派遣して、ソウルに向かう。このことが後の日清戦争のきっかけになっています。
甲申政変 1884 に朝鮮政府の中の改革派が、大院君を拉致し、日本の勢力を背景として政変を起こした
これに対して、清軍も出兵、国王を奪取した清軍が、日本人遺留民40名を凌辱、虐殺した
1885 李鴻章と伊藤博文の間に、天津条約が締結 朝鮮に影響力を残したい清と、朝鮮進出をもくろむ日本との立場が明確になった
その後、朝鮮は、ロシアの勢力へ協力を得ようと変わっていく
一方、清は、袁世凱を朝鮮に派遣して、朝鮮の内政外交に干渉させようとしている、すなわち、朝鮮が清の属国であることを立証しようとつとめていた
1894 東学党の乱が発生し、袁世凱が率いる清軍はこれを鎮圧した、しかし、日本が在外公館の保護を名目にしてソウルに出兵してきた。袁世凱は、朝鮮政府と日本政府の間で調整しようとしていたが、うまくいかなかった。これが、日清戦争の原因である 日本軍はその後南下し、中国軍とぶつかった。李鴻章ひきいる清軍である。結果は日本の圧勝、李鴻章は淮軍の責任者から解任され、北洋大臣を免ぜられた
袁世凱はその後、李鴻章の後継として、淮軍を立てなおすことになる。北洋軍閥の中心となったのである
当時清朝政府には、日本との戦争にまけたことから、日本との関係を見直して、日本のやり方を採り入れようという動きが現れた。これを変法という。変法とは、日本をモデルにした変革運動をいう
変法の推進者が、光緒帝を担いで、西大后を幽閉する計画とたてる、袁世凱にも要請がくるが、西大后を動かしてこれを阻止する。ここで、袁世凱は裏切り者というレッテルが張られることとなる
この時期、義和団がおこる。これは、外敵を打ち払い本来の中国に戻そうという、中国の尊皇攘夷運動である
しかし、その勢力拡大を恐れた、清政府は列強と協調して、袁世凱に義和団を弾圧させた
その後、空席になっていた北洋大臣に、袁世凱が就任する。袁世凱は新たに連れて来た2万の兵をもって、義和団の残党の掃討戦を行った。
その後、7万以上に増えた兵力を北京の南・北、保定、長春、天津、済南に分けて都市を警護した。
北洋六鎮といい、当時の中国の最強軍である
光緒帝、西大后の崩御の後、清は立憲君主制をめざした
義和団以降、信用が地に落ちた清からは、各省が独立を宣言するようになっていく。それを取りまとめていたのが中華民国の孫文である
構図は、北洋六鎮の袁世凱と、中華民国の孫文の対立であった。軍事的には袁世凱が有利であったが、両者は武漢で停戦協定が結ばれ、清政府は反乱各省との交渉権を袁世凱にゆだねた。
こうしたなかで、清は、袁世凱+孫文の新しい勢力に禅譲する形で、その歴史は終わる。これが辛亥革命である。最後の宣統帝は、廃帝となる。ここでも、袁世凱は、寡婦と幼児をあざむいて政権を奪取した悪人としての評価を受けている。
もともと、袁世凱には政治的な理念もなく、清の政策延長上で、統治を続けていたため、第2革命、第3革命が発生する。
中国は、清の延長としての国家のあり方ではなく、新しい形態でのを国家をあり方をめざしていたからである。
目次
はじめに 袁世凱と日本人
第一章 朝鮮
第二章 台頭
第三章 北洋
第四章 革命
第五章 皇帝
おわりに 袁世凱とその時代
あとがき
参考文献
袁世凱略年譜
索引
ISBN:9784004315315
出版社:岩波書店
判型:新書
ページ数:240ページ
定価:780円(本体)
2015年02月20日第1刷 -
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1725
262P
岡本隆司(オカモト タカシ)
京都府立大学教授。1965年、京都市生まれ。現在、京都府立大学教授。京都大学大学院文学研究科東洋史学博士後期課程満期退学。博士(文学)。宮崎大学助教授を経て、現職。専攻は東洋史・近代アジア史。著書に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会・大平正芳記念賞受賞)、『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会・サントリー学芸賞受賞)、『世界のなかの日清韓関係史』(講談社選書メチエ)、『李鴻章』『袁世凱』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会・樫山純三賞、アジア太平洋賞受賞)、『清朝の興亡と中華のゆくえ』(講談社)、『世界史序説』(ちくま新書)、『近代日本の中国観』(講談社選書メチエ)、『増補 中国「反日」の源流』(ちくま学芸文庫)など多数。
当然ながら、海岸線に近いところでは湿気が多いため、湿潤気候になります。逆にいえば、水から遠い内陸地方は乾燥気候になる。これがごく簡単な気候・地域の区分の大前提です。そして前述のとおり、環境が違えば、そこに生きる人々の暮らし方も違ってきます。
具体的に一瞥を加えておきましょう。ステップの草原地帯はおおよそ、北緯四五度から五〇度にかけて東西に長く延びています。東は大興安嶺山脈の東麓あたりにはじまって、モンゴル高原を経て、中央アジアのジュンガル盆地やカザフ草原、さらに西方の南ロシア草原から東ヨーロッパのハンガリー平原までの広がりがあります。そこでは草本植物がそれなりに繁茂していて、牧畜に適した自然環境をなしています。 そういう地域では動物も生きていけるので、人間としては、その動物を家畜化して牧畜を行うという暮らし方が可能になります。その動物から生み出される乳製品や肉に頼って生活を送るわけです。
ただし、乾燥地域の草原は一定の季節、一定の地域しか、植物が育たないことがほとんどです。そのように物資の乏しい条件下で牧畜を継続するには、必然的に草原から草原へと移動を繰り返す、不安定な生活にならざるを得ません。それを表現した言葉が「遊牧」で、ここでいう「遊」とは一つの場所に留まらないことを意味します。人間の生存には、とても厳しい条件です。 農耕民と遊牧民の違いは、服装をみれば、一目瞭然です。形状も違いますし、そもそも原材料が異なります。農耕民の服は植物の繊維から作られました。それに対して遊牧民の服は、動物の皮革が元になっています。
農耕民と遊牧民の違いは、服装をみれば、一目瞭然です。形状も違いますし、そもそも原材料が異なります。農耕民の服は植物の繊維から作られました。それに対して遊牧民の服は、動物の皮革が元になっています。 もちろん違うのは衣食ばかりではありません。風習・習俗そのものからして、大きく異なっていました。
たとえば遊牧民は、老人より若者を尊び、敬老の精神がありません。また父兄が死ぬと、その妻を子弟が娶りますから、いわば「略奪婚」同然です。農耕民たるわれわれ日本人の感覚では、考えられないようなことばかりです。
以下は、司馬遷『史記』の「匈奴列伝」に出てくるエピソードです。『史記』はご存じのように、紀元前一世紀・漢王朝の時代にできた中国初の体系的な歴史書で、匈奴は当時最大の遊牧国家でした。漢と匈奴は当時の東アジアを二分したライバル国家同士です。
ただし、それぞれの地域で人々が暮らしていたとしても、それだけで歴史が生まれるわけではありません。たとえば、同図に描かれてすらいないアメリカ大陸にも、すでに住む人々はいたはずですが、世界史にはいっさい登場しません。歴史とは、人々の生態がわかる記録と常にワンセットで生まれるものだからです。しかもそれは、後々に続くプロセスまで見通せることが条件です。
そのため、まず自然と言語が発達します。また紛争解決の手段として、記録を残そうという話にもなるでしょう。昨今のクルマならドライブレコーダーを設置することができますが、当時は画像も映像も残せないので、文字として残すしかありません。こうした積み重ねによって、遊牧世界と農耕世界との境界地域を中心に、文字記録ひいては「古代文明」が発達していったと考えられます。
言い換えるなら、中国史は、ユーラシア各地に共通する「古代文明」発展プロセスの東ブロックとして始まったわけです。それぞれの文明は、まったく単独で栄えたわけではないでしょう。どこかで発明されたものが、シルクロードを通って各地へ伝播し、発展に寄与したと考えるほうが自然です。
そもそも「中国」や「中華」とは、中央・中心・真ん中という意味です。つまりは「センター」であって、アイドルグループよろしく一番偉い、ということですが、この国を「中国」という名称・固有名詞で呼ぶようになったのは、二〇世紀に入ってからです。それまで、英語のChinaを意味する漢語は、その時々の政権名だったのです。
つまり都市にしろ文字にしろ、東アジアでは中国を中心に、共通の文明を発展させていったわけです。それは遠く隔たる地方の人々の暮らし方や慣習、文化にも及びました。そこで中国は、自分たちが周囲とは違う、突出した中心であるという観念を発達させていきます。そういう文化・文明の中心である黄河流域を「華」「中華」「中原」「中国」と呼び、その中で分立する邑や国の支配層を「諸侯」と呼びます。「中原」も「中国」も中心地というくらいの意味の漢語です。
その名称から、とかく日本人は中国が当時の世界の流通センターだったようなイメージを抱きがちですが、それは違います。中国はあくまでも当時の流通路の最東端だった、またシルクしか持ち出すものがなかったと考えたほうがいいでしょう。
ちなみにこのあたりの政権は、以後の南朝もそうですが、中国で初めて日本の交渉相手になった国でもあります。「呉」は日本語で「くれ」とも読みますが、それは呉が日本から見て日が暮れる西方にあるという意味でもあります。また「呉服」は、もともと中国から来た服という意味でした。
実際、古代文明が栄えたのも、農耕ができる乾燥地域でした。あるいは日本でも、まず奈良や京都のような高地が都になっています。それだけ生産性が高く、多くの人口を養えたということでしょう。
ちなみに、このような塩の徴税・専売の制度を「塩政」といいますが、何も宋に始まった話ではありません。古くは漢王朝の時代から、塩とともに生活必需品である鉄にも、税金をかけていて、その是非を問う「塩鉄論」というような記録も存在します。それが制度化したのは、唐の後半期のことで、令外の官として「塩鉄転運使」という官職を設けて、その徴収に当たらせていました。
「五代十国」の時代、揚州を首都にして主要な塩の産地をかかえていた呉と、そのあとを継いだ南唐が、この塩政のシステムを大いに利用します。両国がきわめて豊かだったのは、そのためです。宋はむしろ南唐のシステムを踏襲したわけですが、こうして財政本位で商業を興し貨幣を流通させた結果、貨幣経済・商業化が民間にもひろがっていくようになったのです。 塩の専売はすぐれて権力と密接な関わりにありますが、ほかの商業も多かれ少なかれ、課税の対象になっていて、これを「商税」といいます。専売とあわせて「課利」という表現もあります。この課利と土地税が、政府税収の二本柱となりました。
クビライが紙幣の兌換として準備したのは、銀・貴金属だけではありません。少量で価値のあるものとして、そこに塩も加えたのです。 これも前章で述べたとおり、中国では唐や宋の時代から塩を国家の専売にしていました。一部の商人しか扱えないことにした上で、原価の何十倍または何百倍もの税金をかけたのです。特権を得た商人は多額の税金を納めるのと引き換えに、生活必需品の塩の取引を一手に引き受けて、莫大な利益を得るようになります。クビライはこの塩政制度を踏襲し、さらに活用しました。
そしてもう一つ、国家として「中国」を名乗るのも、このころからです。これまでは、王朝名しかありませんでした。しかし清朝にアイデンティティを見出せず、むしろそのやり方に不満を持つ多くの官僚や知識人にとって、「清国人」とか「清人」と呼ばれることには違和感がある。そこで国名が必要だと考えるようになったのです。
では、どう名乗るのか。当時もいまも、欧米は中国をChinaと呼んでいます。そこに漢字を当てはめて「支那」。これは古来の仏典にある漢語で、当時の日本人も普通に使っていました。これに倣って、中国の人士も自分たちは「支那人」であるといいはじめたのです。今日では蔑称のようなイメージがついてしまいましたが、当時はこれが最先端の呼称でした。
しかし、「China=支那」はあくまでも外来語です。日本人が「ジャパン人」とは名乗らないように、やがてかれらも自らの言葉で自称しようと考えます。それが「中国」です。もともと「中国」という言葉は、「中心の国」を意味する一般名詞として存在しました。自尊を込めて、それを固有名詞に変えたわけです。 もともと「因俗而治」、在地在来の体制を尊重し、むしろバラバラの状態で発足した清朝ですが、こうして末期になってようやく、国民国家として均質一体になろうという気運が高まりました。概念や国名にそれがよく表れています。しかしながら、その実質的な統合作業は、二〇世紀に持ち越されることになったのです。
中国にとって二〇世紀は、革命の時代でした。 まず一九一一年には、辛亥革命が起きています。図表8‐1の旗印は、清朝の中央政府から離脱した地方の省政府を表しています。とくに南方に集中していることがわかると思います。
国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていたわけですが、蔣介石としては、日本より先に共産党を潰すことを画策します。まず国内を一元化して、日本と戦う態勢を整えようと考えたわけです。実際に共産党に打撃を与えて、陝西省の山あいにまで追い詰めました。しかし国民政府の東北軍のリーダーだった張学良に強引に説得されて、共産党と和解します。これを西安事件といい、やがて共産党と共闘して日本に対峙することになります。これによって日中の全面戦争に至ります。
そのあげくに行き着いた先が、一九六六年から約十年にわたって繰り広げられた文化大革命です。下層の人々を持ち上げ、上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わりました。 その反動のように打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線です。共産主義のイデオロギーと支配体制は残したまま、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して豊かさを追求しようとしたわけです。その姿は、中華理念と皇帝専制を残したまま、明朝の対外秩序を転換させた清朝と重なります。
ちなみに日本は、地域構造も社会構造も歴史的にみれば、非常に単一的均質的です。だから西洋近代に直面した際、国民国家の形成も容易でした。そういう日本人の感覚からみると、中国社会は想像を絶するほど複雑怪奇なのです。 日本の中だけをみていれば、日本は多様だといえるかもしれません。日本史の研究では、そういう議論もさかんです。しかし中国に比べれば物の数ではありません。
清朝は辛亥革命によって倒れ、中華民国が誕生します。英米と深く関わっていました。また第二次大戦後には、毛沢東が率いる中国共産党が中華人民共和国を樹立します。こちらはソ連・共産主義とコミットしていますから、ベクトルはまったく逆のようにも思えますが、実は「国民国家をつくる」という目標を掲げた点では共通しています。
あくまでも国民国家をつくって、西洋や日本に対抗するための取り組みが中国の「革命」であったわけです。 ところがその「革命」・国民国家形成というイデオロギーと、歴史的に多元性をきわめてきた現実の間には、容易に埋められない深いギャップがあります。だから、埋まるまで永遠に「革命」を続けなければいけない。それが、今日の中国の姿でしょう。
たとえば中国政府は、かねてより「一つの中国」というスローガンを政策的立場として掲げています。国是といっていいかと思いますが、中国大陸のみならず、台湾も香港もマカオもすべて統一国家中国の支配下にある、というわけです。 しかし、これほど欺瞞に満ちた言葉はないでしょう。現実として中国は複数の民族問題、国境問題も抱えています。
この制度は今の中国の問題であると同時に、多元的で地域ごとに習俗・慣行がまったく違うため、統治の仕方も違っていたという中国の歴史を反映しています。しかもその境界線も曖昧なことが、統治をいっそう複雑にさせています。歴史的な多元性を国民国家というパッケージで一つにまとめることができるのか。「革命」が始動してから今なお抱え続けている中国の大きな課題なのです。 当然ながら、台湾も「一国二制度」には注意を払い、警戒しています。大陸が敵視し、経済の低迷を招いている現在の蔡英文政権を生み出した原動力でもあります。
言い換えるなら、アジア史において政教分離は成立しにくいということです。多元性の強い社会で安定した体制を存続させるには、宗教のような普遍性を有するものがどうしても欠かせません。複数の普遍性を重層させねばならない場合は、なおさらです。ヨーロッパで政教分離が成立したのは、そもそも社会も信仰も単一均質構造でまとまっていたからです。分離しても社会が解体、分裂しない確信が、その背後に厳存しています。仮にアジアで政教分離を実施したら、たちまち体制や秩序はバラバラになって混乱をもたらしてしまったでしょう。
そして現代は、欧米スタンダードの時代です。意識するとしないとにかかわらず、あらゆる物事は欧米の基準でできあがっていますし、それをわれわれは、やはりあたりまえだと思っています。 歴史の見方も同じです。そもそも「歴史学」という学問が西洋発祥であり、いわゆる西洋中心史観に則っています。それは西洋史の専門家にかぎらず、たとえば日本史やアジア史の専門家の中にも、そういう見方をする人が少なくありません。
つまりリアルな中国を知るには、西洋化したわれわれ日本人の既成概念をいったん削ぎ落としたうえで、中国のリアルな歴史の積み重ねと向き合う必要があります。それができれば、中国人の発想や言動も、もう少し理解しやすくなるはずです。 西洋とその史観しか知らなければ、偏った見方になって、世界を見誤りかねません。中国や中国人に対する違和感・偏見も、そこに由来するのではないでしょうか。 世界には、日欧とは違う歴史があると知ることが、われわれ自身の歴史観を見つめなおし、既成概念を反省し、打破する機会になればいいと思っています。中国史を学ぶことは、その有効な題材なのです。
われわれはとかく、「中国」というものが古来一貫して存在したように思いがちである。しかし目前の現代は、長い歴史の一コマであり、いま「中国」と呼ぶ対象も、あくまで世界史の一部として、たえず変化してきた。あたりまえのことである。それでもつい中国・東アジアの歴史を世界と切り離して考えてしまう、そんな知的習癖を自他ともに改めていきたい。「つなげて学ぶ」という小著のタイトルは、編集担当のみなさんにお任せしたものながら、そんな筆者の思いを端的に代辯してくれる。 -
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第一章 「中華帝国」のあけぼの 大唐帝国
1 唐の太宗 名君はつくられる
2 安禄山 「逆臣」か「聖人」か
第二章 カオスの帝国 五代
3 馮道(ふうどう) 無節操の時代
4 後周の世宗 最後の仏敵
第三章 最強の最小帝国 宋
5 王安石 「拗ね者宰相」
6 朱子 封建主義を招いた「道学者先生」
朱子は東洋のアリストテレスのような人だったのかな。
それは言い過ぎか。朱子が体系化・理論化したのは儒教のついてだけみたいだし。
第四章 再生した帝国・変貌する帝国 明
7 永楽帝 甥殺しの簒奪者
8 万暦帝 亡国の暗君
第五章 挫折する近代 明
9 王陽明 「異端」者の風景
10 李卓吾 「儒教の反逆者」
第六章 蘇る近代の変革 清末民国
11 康有為 不易の思想家
12 梁啓超 「彷徨模索」した知識人 -
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内藤湖南を軸に戦前戦後の知識人の中国観を辿る本書のモチーフは、彼らの中国へのアプローチが、意識的にせよ無意識的にせよ、いかに西欧的な枠組みにとらわれていたかという問題意識である。それは西欧の物差しではかった自己の理想像を中国に投影してきた結果でもある。西欧が我々の到達すべき理想であるならば、中国は克服ないし指導すべき遅れた社会と見做され、逆に西欧が克服すべき堕落であれば、中国は連帯すべき同胞になる。前者においては資本主義の確立、後者においては社会主義の実現が目指されていた。いずれも西欧社会をモデルにした歴史発展の段階論に中国を当てはめて理解しようとする点で変わりない。それでは中国の実像は見えてこないというのが著者の主張である。
「反骨のリベラリスト」石橋湛山が大陸の権益を捨てよと説いたのも、中国のナショナリズムの内実を直視せず、西欧や日本のそれに重ね合わせて同情していたに過ぎない。宮崎市定にせよ谷川道雄にせよ、湖南の学統を受け継ぐ京都学派も論敵の東大歴研系学者と同じマルクスの発展史観を基準に中国を見ていた。中国という対象を虚心に見つめ、借り物の概念装置によらず、その多様性をあるがままに掴もうとする態度を誰より持っていたのは湖南である。それは湖南が原勝郎や内田銀蔵といった西欧の史学方法論を身につけた同僚との学問的交流の中で自身の時代区分論を練り上げながらも、そのバックグラウンドは漢籍であったこととおそらく無関係でない。惜しむらくは、湖南とかなり近しい中国認識を持ちながら庶民階級の位置づけでは湖南に同意しなかった矢野仁一との間に論争がなかったことだ。哲学における京都学派で西田幾多郎と田辺元が交わしたような熾烈な論争がもしあれば、湖南の中国認識はより深められたかも知れない。ともあれ歴史家が心すべきは、概念や理論をよくのみこまないまま現実の対象にあてはめたり、事象をじっくりと見ないまま、概念を張り付けて理論化してしまうことへの自戒であるという指摘は重要だ。
アジアの老大国であり隣人である中国にどう向き合うか、これはアジアで例外的に西欧的な近代国家を形成し得た日本において知識人の思想的立場の大きな試金石であった。福沢の脱亜論に始まり、大陸進出の是非、そして時代区分論争に至るまで、中国は彼らの思い描いた日本のあるべき姿のネガでありポジであった。その意味で本書はまさしく「もうひとつの近代日本思想史」と言ってよい。これは本書の帯に書かれた宣伝文句だが、出版社が考えたにせよ、著者の意図を案外ストレートに伝えているように思う。小著ではあるが、学説史として、思想史として、そして社会科学方法論としても読みごたえのある力作である。 -
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日本は客観的にみてどうだったのかがわかる。
島国発展遅い。文字を使うようになったのは6世紀ごろかぁ。いまもIT化もろもろで遅れをとっている。
日本が中国をコピーし、中国が日本をコピーする。
日本がバルブ崩壊後、中国もコロナ後くらいに崩壊している。日本もかつて鎖国をしたが、中国も情報を遮断している。GAFA製のほうが中国のよりもスマートで使いやすいかなと思うので、アメリカのIT技術が中国を完全に侵食してしまったら、中国の経済発展は見込めないだろう。とりあえず歴史は繰り返される。
福沢諭吉よ。
とりあえず日本人は日本にいて、中国人は中国にいて矛盾を抱えて生きている人も多いんじゃないかと思う。ほかの国はどうなのだろうか。
日本が中国と比べて、小さくまとまっているのは、いまも昔も変わらないのか。
世界史編とセットで読むと面白い。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ一般大衆のために分かりやすく書かれていて、ありがたかった。娯楽として歴史を楽しむのに最高の本。
人々の生活は、環境によって大きく変わるんだなと思えた。
農耕民⇔遊牧民、気温の急激な変化、大事。
宗教、金、権力などだんだん複雑化していく...。
ギリシャ・ローマ→中国→日本の順番で新しいものが来た。日本かなり田舎だな。
この歴史の流れを知り、実際に中国中心都市に行ってみると中国プライドというものがないのかねという気持ちになる。寿司やサンリオや日本のコンビニなど日本の文化に攻め込まれ終わった感がある。
四川省は海から遠いから、今も昔も田舎なのか。加油加油
中国は全体としては、非効率な争いは意外と避けたいようだった。今も昔も同じじゃないか。
中国とロシアの関係性を見ても。
中国は省ごとにかなりが個性がある。個性を保ちつつ、統一をはかっている。難しいことだ。中国人一人ひとりも中国国内の個性を把握し切れていないはずだ。
官僚の必要性が少しわかった。
インターネットやスマホの普及により、世界中の若者は似通っているのではないか。中国は将来的に統一できる?
モンゴル帝国強すぎ。ワロタ
まさかの地球寒すぎて崩壊。
思ったより、物々交換から通貨への話の割合が多い。
中国は爆発的に人口が増えたけど、多くがヒエラルキーの下の方にいて、めちゃくちゃ格差広がったじゃん。
シルクの内容が多い。お茶の話もある。アヘンは