小川高義のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
『グレート・ギャツビー』との接点は映画版(2013年)くらいで、観た当初は訴えたい内容が何も伝わってこなかった。
原作に挑戦した今でも掴みどころがないのには変わりないが、どことなく記憶に足跡を残す物語である気がしている。
舞台は「狂乱の20年代」と呼ばれた、1920年代のアメリカ。
自動車に映画館、ジャズ・ミュージックで彩られた豪華なパーティーと、作品の端々でギラついたアメリカが垣間見られる。タイトルの『グレート・ギャツビー』自体、まさに「ギラつき」の代表格ではないだろうか。
しかし、当の本人であるギャツビーさんは全くの謎に包まれた人物で、それこそ掴みどころがない。
誰も彼の出身や経歴について知らず、「夜な夜な屋敷で豪華なパーティーを開く謎の大富豪」としか認知されていない。そのパーティーに招待されるのは、よほど特別な人物とされている。(パーティーは、基本的に飛び入り参加自由)
ギャツビー邸の隣に引っ越してきた青年キャラウェイは、ある日ギャツビーからの招待を受け、以降交流を深めていくことになるが…
「人間には四種類しかない。追われる、追う、動きたがる、動きたがらない」(P 130)
小説の登場人物というのは、ルックスや動向を通して、読者側に手に取るように伝わってくるものだ。一方でギャツビーは…映画版でギャツビーを演じたレオ様を何とか当てはめたものの、読書中はイマイチ手応えがなかった。
だが物語が進行するにつれ、実は意中の人を射止めようと、あらゆる策を講ずる情熱家であることが明らかになっていく。それまで大富豪の余裕をちらつかせていたのに、段々と落ち着きのなさも露呈していく…。(事故の後、かの女性の邸宅前に佇む場面が今も忘れられない)
経済も恋愛もイケイケどんどんな時代に、珍しく純情な男がいるもんだと妙に感心したし、ようやく実態という名の尻尾を掴んだ気分だった。
結局キャラウェイほか一部の人間(読者含む)を除き、誰も本当のギャツビーを知らないまま、彼は物語から退場する。
どことなく記憶に足跡を残したものの、まだ何か物足りないような感覚が残っていて、本編終了後はいささか不安になっていた。そんななか、面白い切り口の視点が訳者あとがきに書いてあったので、最後に引用したい。
ギャツビーのことばかり書いてきたけど、本書は彼のような富裕層と庶民階級との対比がはっきりと描かれており、特にそれぞれの立場によって自動車との関わりが違っているのだとか。
前述の通り自動車は20年代の産物で、ギャツビーもまたカーライフを謳歌している。現代のガソスタ的役割も果たす自動車修理屋のウィルソンは、ギャツビーらとは対極の位置にあった。当初サービスする側だった彼は、ある自動車事故を機に車に関わることを放棄する。
新興成金のギャツビーとはまた違う形で、ウィルソンも時代への反乱を起こしていた、という見解には、目から鱗がボトボト落ちたな…。
これで私のギャツビー考が終わったとは思えないから、いつかまた考察本を持ち込んでくるだろう。その時はどうか、ギャツビーのような温かい眼差しで見守ってください…。 -
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ネタバレルーシーの日記を読んだのか。
この本は、ただ思い出した事をパラパラと書き留めた状態なのだが、繋がってまとまってる。
続編が気になる。
他人の親切で生きている。
人の事は分からない。
自分の事も自分でもわからないんだと思う。
トラウマは、愛でしか治せないと思う。
誰しもが何かしらのトラウマがあるだろう。
ルーシーがウィリアムの財産を放棄したのは、自分に受け取る価値が有るとは思えないんじゃないか。自己肯定感。
貧乏、夫婦、家族。
人は自分の知っている、見たことあるものにしかなれないんじゃないかな。
父、母に似ないように整形をする。
外見を変えても、考え方や性格とか似ている。
お金と環境と教育が人を形成する。
ルーシーは家族を愛しているという気持ちはあるが、愛し方を知らない。
母も父も愛し方を知らなかったんだろう。経験したことが無かったからか。
人は進んでいる。
立ち止まってはいない。
自分を病気にしない生き方、正直な自分で生きていけば良いのかな。
自分探しをしたところで、自分のことも他人の事も実際のところはわからないだろうし、思い出話は事実と違ってるし。
ただ前進しているのは確か。
好きに心地よく生きよう。
最期は死ぬ。
他人の思い出の中の自分も事実と違っているだろう。
愛が全て。
たくさん愛して愛されて愛を循環して生きていけたら幸せ。
ルーシー!!自分を愛すること! -
Posted by ブクログ
エリザベス・ストラウトが作り出した作家“ルーシー・バートン”(愛称はボタン)の作風は本作でも全開で、一人称によるストーリーの語りの中にルーシーの脳内コメントがビシバシと差し込まれ、記憶の連鎖と浮かび上がる追憶がおもむくままに、あちらこちらへ回想が飛び回る。
その辛辣な観察眼と人物評は、ときに嫌味や意地悪な視線でもある一方で、その鋭さと深さが胸の奥まで届く瞬間があってハッと心を揺さぶられる。
それはまるで、手練れのボクサーがジャブで翻弄しながらリズムを作ったところで、ストレートパンチを鮮やかに差し込むかのよう。
その言葉は、ラウンドを重ねていくにつれて、けっこう、効く。
しかしなんとも一筋縄ではいかない作家だ。
『私の名前はルーシー・バートン』と同じく、本書も現在地から過去を回想する形式なのだが、回想の中で、更に過去の様々な断片が思い出されていき、前作『私の名前は…』と『何があってもおかしくない』で埋まっていなかったピースがはまっていく様は見事。
記憶の螺旋階段をぐるぐると降りて、ルーシーの意識の深部へと巧みにいざなわれていくかのようであり、終盤にかけてはルーシーの独白による心の流れ取り込まれて、共にたゆたってゆく体験となる。
そしてふと気づくと、ルーシーの想いが自分の記憶の呼び水となる。両親のこと、結婚して築いた家庭のこと、いつでも周囲との間にうっすらと薄い膜があるように感じていた気持ち、大切な人を傷つけたこと。
ルーシーの想いと僕の想いが、ぼんやりと交互に浮かんで流れてゆく。
ルーシーの心の流れと共にたどり着く地点は、いわば数多の作家が書き、誰しもが一度は思うこと。
しかし、言葉に込められた想いの信頼度が違う。
ここにいたるまで長い旅路があったのだと、作りごとではないのだと、そう信じさせてくれる確かなつよさがある。
ああルーシー。あぁエリザベス! 読み終わるとそう嘆息したくなる。
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Posted by ブクログ
幸せな家庭も、不幸せな家庭も、はたから上っ面を見ても分からない。だから人の人生を羨むことも、比べることも意味などない。
まさにその通りなのだが、私の大事な人生だって同じことだよ、いいことなんて続きもしないし、辛く惨めな傷と記憶を抱え込んで、尽きることのない不安と苦労を受け止めていくのが人生だよ、みんな変わりはしないよ、この残酷ともいえる真実を達観したかのように受け止めて、人生なんてそんなもん、とうそぶく境地には、僕はまだまだ至れない。
本書では、短編ごとの登場人物が己と誰かを語り、また語られ、あちこちに顔を出す。そうやって多面的に描かれて一つの像を結ぶのかというと、そうではない。むしろ逆ではないだろうか。
これまた当たり前の話だが、人は一つの真実でできているわけではない。
昔見せてくれたふとした優しさも、誰にも曝け出せない秘密も、頭をよぎる底意地の悪い思いも、同じ人物のキャラクターだ。本書からは、そのことをまざまざと感じる。
エリザベス・ストラウトは、重荷を背負いながら生きていく人々が垣間みせる様々な瞬間を描く。簡単に人生を肯定したり、祝福したりはしない。いつか終わる日まで人生は進むし、それはきれいごとではない。
だが、だからこそ、人は辛いときにそっと心を温めるための何かを、もはや言った本人も忘れたかもしれない誰かの一言や、陽だまりに誰かと並んで見た景色なんかを、後生大事に抱えて生きていくのだろう。
そんな御守りなしに歩くには、人生は長すぎる。
季節が巡ると芽吹き、束の間の花期を迎える宿根草のように、ひとときの美しさを繊細に伝えててくれる。泥にまみれたような誰の人生にも、救いの瞬間はある。
エリザベス・ストラウトの本を読むと、そんなことが浮かんでくる。
“彼は手を引っ込めて「そうかもしれないな」と言った。ちょっとだけ付け足すように、本当のことも言った。「愛してるよ、シャーリー」それから天井に目を向けた。一瞬、ニ舜、妻の顔を見ていられなかった。”
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Posted by ブクログ
不思議な書き方をする作家だ。
真っ白な画布のあちこちに、ちょこちょこっと描き込みをしていく。決して余白を埋め尽くしてはいかない。
更に細々としたエピソードは、動き出して大きなストーリーを物語る訳ではない。
それでも、こんなことがあった、あんな話をした、といったピースで埋められていくと何かが見えてくる。
いや、正解に言うと、何か書かないものがあることがわかってくる。
思わせぶりな要素はない。むしろ情報はたくさんあって、上手く読み手を空白の渦の中心へ誘ってゆく。
ここに時間の遠近法が加わるところがまた、心憎くて唸らされる。
“いまとなっては昔なのだが、私が入院して、ほぼ九週間に及んだということがある。これはニューヨーク市内での話で、夜にはクライスラー・ビルが光の点を並べた幾何学模様の夜景としてベッドから間近に見えていた。”
この出だしの一文では、いまどこにいてどうしているかはわからない。
これもまた、不連続な点を行き来しているうちにおぼろに見えてくるものがある。
貧しかった子供時代。町で奇異の目で見られても背を向ける家族。母からの不完全な愛。
その中で家族の重苦しい関係性の原因となっているのはおそらく父親の暴力だ。ここが描かれない空白の渦の中心にあるものなのだろう。
第二次世界大戦での従軍によって精神に葛藤を抱える父親によってもたらされたとおぼしき、家族のいびつさ。
憎み切ることも、捨て去ることもできない。愛情は確かにあったと思うが、どこまでが確かな記憶なのかはわからない。
それでもルーシー・バートンはこう記す。
“だが、私はこう考える。この世界に無から生じる人間なんていやしない。”
結果として彼女が自分の新しい家族を手放すことになった経緯。これもまた詳しくは書かれないものの一つ。浮気もあったのだろうが、それだけではないだろう。
元夫の、戦後にドイツを去ってアメリカに渡ったドイツ人の父親についてーナチスの影と、スイス銀行に預けられた莫大な遺産。それらが僅かに原因として示唆されるが、それもまた、いまとなっては昔の話。
これが私だ。私の名前はルーシー・バートンだ。彼女がそう言って、“いま”、この物語を語り始めるに至るまで、どれだけの葛藤と痛み、そして長い時間が流れたのか。
家族について向き合い、自分について語ることは容易いことではない。読後にしみじみと想う。
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Posted by ブクログ
いろいろな作家、評論家が「名作」と言っているので、いつか読もうと、なるべく知識を入れないように人生を過ごしてきた。読んだときの楽しみや驚きが減るから。
題名を知ってから数十年、ついに読みました。
一回目読んだときはまだるっこしい会話や表現が多く、結末も唐突でなんだこりゃと思ったけど、それだけではないはずと、二回目。ああ、これ「信頼できない語り手」だなと。そして、はっきりと山岸凉子の絵で再生された。
この作品が文学界に激震を起こし、物語の世界を塗り替えたのは確かだなと思った。似たような小説、マンガ、映画を読んだ、見たことがあるから。
山岸凉子で再現されたのは「ハーピー」や「スピンクス」や「ストロベリーナイトナイト」「バンシー」など、似た作品(物語る人物ではない視点から見たとき真実が明らかになる物語)を山岸作品でたくさん読んだから。孤独な独身の女性が幸せな妄想を抱いて破滅するような作品を、山岸凉子はたくさん描いていて、その雰囲気にも近い。ちょっとホラーテイストなところも。
語り手のガヴァネスの身の上は少ししか書かれていないが、田舎教師であった父が奇行を繰り返していたことがちらっと出てくる。流し読みすると見逃してしまうが、この辺りに彼女の不幸な出自が伺われるし、だからこそ裕福で見た目も良い紳士の雇い主との上昇婚を夢見たとしても不思議はないと思う。
ヒントをあちこちに散りばめてあるところも、深読みしたい読み手には嬉しいところだろう。イギリスのガッチリとした階級社会の歪みも感じる。(ガヴァネスは普通の使用人より上だが、教える子どもよりは下という苦しい立ち位置)
現代の小説をたくさん読んでいる人には今更感はあるだろうし、エンタメ作品ほどすっきりと「実はこうなんです」と示されているわけではない。読み手の解釈に任されている。でも、だからこそ、世界中の作り手たちを刺激したのではないかと思う。
読書好きなら、やはり読んでおきたい名作だと感じた。死ぬまでに読みたいと思ってたけど、読んでよかった。 -
Posted by ブクログ
不思議な魅力に満ちた本。
ミセス・ナッシュがルーシーに一揃えの服を買ってくれるエピソードや、パーティで出会った53歳くらいの女が出会い系サイトで人生が変わったという話を見ず知らずのルーシーに話す場面とか、淡々とした語り口の中に、深く刺さるシーンが同じ温度で差し込まれ、ハッとさせられることしばしば。
訳者の語り口なのか、エリザベス・ストラウトの本来の語り口なのか、わからないのだが。
繰り返される、「ああ、ウィリアム!」
という呟きは作者本来のものなので、きっとストラウト自身の語り口をうまく訳者が翻訳したということかな。
ルーシーシリーズの、順番的には3番目の本なのだが、他の2冊が短編集の形式で、それぞれの最初の短編をつまみ読みしてるせいで(笑)、ルーシーのことなんとなく知ってるから問題なく読めてしまった。
でも、大方の人間関係はわかるようにした上で、パズルの隙間を埋めていくような書き方をしてくれているので、どの本から読んでも大丈夫だと思う。
3冊(すぐに4冊目が出るらしいが)全部読んでパズルがハマるのを楽しみに次々と読んでいくことにしよう。