【感想・ネタバレ】何があってもおかしくないのレビュー

あらすじ

生まれ育った田舎町を離れて、都会で作家として名をなしたルーシー・バートン。17年ぶりに帰郷することになった彼女と、その周囲の人々を描いた短篇9篇を収録。卓越した短篇集に与えられるストーリー賞を受賞した、ピュリッツァー賞作家ストラウトの最新作!

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Posted by ブクログ

ストラウトの作品の中で最も好きな小説となった。
今まで読んだ本のベスト10にも入りそう。
なんて作家なんだろう!エリザベス・ストラウト。
ストラウトを好きな全ての人と語りたい気分になるほど。

まず、「標識」がいい。
いきなり持って行かれた。

それから、「妹」。
これは、また。
口紅をしたヴィッキー…。

ルーシー・バートンとその兄姉は、いわゆる「虐待」を受けていた兄妹なのだった。(3冊のルーシー本の中で、これを最後に読んだのだけれど)その影はずっとルーシーを語る上で欠かせないものではあった。でもそれをルーシーはとうに乗り越えて今の自分がいるわけで、具体的にどんなことが過去にあったのか、この本でようやく明らかになるのだ。
「虐待」と言っても、本人たちにはその自覚があるわけではなく、もちろん両親にもそんな自覚は無かっただろう。ただ、みんなが毎日を必死に生きてきただけだ。
いい思い出ももちろんあるし、親に愛情がないわけでもない。愛し方がわからないだけ、とも言えるだろう。
ただ、貧困と過剰な躾とネグレクトのようなものがあったということだ。今の言葉で、それは「虐待」と名付けられるものが。
それを自分の中に含み込んで三人はそれぞれの人生を生きてきた。
そうなのだ。三人はそれぞれ、過去を処理しながら今の自分になっていったのだ。
それらが出会う「妹」の掌編は、この小説の中で最も重要な一編だ。

そして、さらに大事なことは、そんな家族はどこにでもいる、ということだ。
ルーシーと少しでも関わった人々の人生の一片が語られる他の掌編で、彼ら彼女らが決して脇枠ではないことを読者は知ることとなる。
ルーシーと同じだけの重さを持つ人生を彼ら彼女らは歩んでいる。

要するに、世界はそういうもので重層的にできているということだ。
ストラウトの小説が我々をつかんで胸を揺さぶるのは、その切なさをる途方もなさを感じさせるからだ。


どんどん好きになる作家だ。

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2024年05月20日

Posted by ブクログ

アメリカの田舎の人たちの生き方が丁寧に描かれていた。
淡々としていながら、クライマックスが訪れたり、少しずつ繋がっていたりする。

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2019年05月25日

Posted by ブクログ

著者の前著「私の名前はルーシー・バートン」のスピンオフのような短編集で,ルーシー・バートンと何らかの繋がりがある人(あるいは,さらにそこから孫繋がりしている人)達9人それぞれが主人公の9つの短編からなる.
自分もそうなのだが「私の名前はルーシー・バートン」を読んでいなくても全く支障は無い.
この主人公達は,皆が心に何かを抱えている.それを丹念に,かつ,淡々と綴っているだけ,といえばそれだけなのだが,心を揺さぶられる.仕掛けの一つが,各短編の主人公達が必ず他の短編で少しだけ登場(といっても言及されるだけの場合が多いが)することで,二つの違った角度から「何か」を見ることによって,人物や出来事の造形に膨らみがでているように思う.

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2019年03月17日

Posted by ブクログ

ある人物やものごとを 異なった視点から見ると違う景色が見えてくるという話が好きなのだが、それを畳みかけてくる連作短編集。登場人物が言わば数珠つなぎになって、新しい人格を持つ者として姿を表すと、その都度ハッとさせられる。変な人ばかりとも言えるが、本人はそうは思っていないこともある。平凡な人々にもそれぞれに深い物語と理由(言い訳)がある。面白くて途中でやめられなかった。
前作を読み直さなければ。

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2019年01月15日

Posted by ブクログ

家族がテーマの?作品群

どうということない日常がいつの間にか異化される。
相変わらずドロっとした読後感

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2024年12月17日

Posted by ブクログ

幸せな家庭も、不幸せな家庭も、はたから上っ面を見ても分からない。だから人の人生を羨むことも、比べることも意味などない。

まさにその通りなのだが、私の大事な人生だって同じことだよ、いいことなんて続きもしないし、辛く惨めな傷と記憶を抱え込んで、尽きることのない不安と苦労を受け止めていくのが人生だよ、みんな変わりはしないよ、この残酷ともいえる真実を達観したかのように受け止めて、人生なんてそんなもん、とうそぶく境地には、僕はまだまだ至れない。

本書では、短編ごとの登場人物が己と誰かを語り、また語られ、あちこちに顔を出す。そうやって多面的に描かれて一つの像を結ぶのかというと、そうではない。むしろ逆ではないだろうか。
これまた当たり前の話だが、人は一つの真実でできているわけではない。
昔見せてくれたふとした優しさも、誰にも曝け出せない秘密も、頭をよぎる底意地の悪い思いも、同じ人物のキャラクターだ。本書からは、そのことをまざまざと感じる。

エリザベス・ストラウトは、重荷を背負いながら生きていく人々が垣間みせる様々な瞬間を描く。簡単に人生を肯定したり、祝福したりはしない。いつか終わる日まで人生は進むし、それはきれいごとではない。
だが、だからこそ、人は辛いときにそっと心を温めるための何かを、もはや言った本人も忘れたかもしれない誰かの一言や、陽だまりに誰かと並んで見た景色なんかを、後生大事に抱えて生きていくのだろう。
そんな御守りなしに歩くには、人生は長すぎる。

季節が巡ると芽吹き、束の間の花期を迎える宿根草のように、ひとときの美しさを繊細に伝えててくれる。泥にまみれたような誰の人生にも、救いの瞬間はある。
エリザベス・ストラウトの本を読むと、そんなことが浮かんでくる。


 “彼は手を引っ込めて「そうかもしれないな」と言った。ちょっとだけ付け足すように、本当のことも言った。「愛してるよ、シャーリー」それから天井に目を向けた。一瞬、ニ舜、妻の顔を見ていられなかった。”

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2024年09月28日

Posted by ブクログ

前作「私の名前はルーシーバートン」の登場人物を主人公にした連作短編。登場人物が多く2代に渡るので途中こんがらがってしまった。 しかし名作であり心に残る作品だった。最後に出てくる主人公が無意識に死を感じたのか、あやまりたい、と言う思いが強くなっていく。対象はない。共感する。人生振り返ってあやまりたいとか、そこやり直したいと振り返る事が多くなってきた。良い作品。ルーシーバートンこれからも読み

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2023年05月09日

Posted by ブクログ

読む順番として
著者の前著「私の名前はルーシー・バートン」は
今回の作品読後に読みたかったなと残念な気分になりました。

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2021年02月22日

Posted by ブクログ

人生について考えさせられる一冊。表面的なことでは、何も分からないし分かったつもりになる事さえ罪の様な気がする。

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2020年04月25日

Posted by ブクログ

何気ない日常
どーってことない生活
その中にあるちょっとしたこと
ホントになにがあってもおかしくない

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2019年05月23日

Posted by ブクログ

しっかり二度読み返した。とはいえ難しい話ではない。各篇に一人の話者がいて、ほとんどモノローグで、自分とそのすぐ近くにいる人々について語る、ただそれだけの話だ。特に何があるというわけでもない。貧しい暮らしを送ってきた中西部、イリノイの田舎町の人々の話である。田舎町の常として、人々はほとんどが知り合いで、一族の昔のことまでよく知っている。中には、人に知られたくないこともあるが、田舎人の楽しみというのは、他人に噂話をすることだ。それもひとかけらの遠慮もなく。

全九話。ひとつひとつが互いにどこかでつながっている。ひとつの話の中で話題に上る人物が、次の話の語り手を務めている。そうやって、多くの視点で多層的に語られることで、トウモロコシ畑と大豆畑とがどこまでも続く中西部にある田舎町アムギャッシュの佇まいや、そこに生きる人々のつましい生活が、鮮やかに、というのではない。薄汚く、わびしく、嫌らしく。それでいて、泥水の中にきらりと光る滑石のような、悲哀の底に沈む救いのようなものが最後に顔をのぞかせる。やりきれない話の集積の中、それが唯一の救いとなる。

九つの短篇をつないでいるのは、若い頃に町を出て行き、今はニューヨークに住む作家ルーシー・バートンその人である。立志伝中の人物というのは、こういう人のことをいうのだろう。子ども時代は相当貧しかった。父はベトナム戦争から帰って来ておかしくなった。いわゆるPTSDである。母親は仕立物をして一家を養った。子どもは三人。長男がピート、長女がヴィッキー、末っ子がルーシーである。

学校でもいじめられた。それでもルーシーは学校から帰りたがらなかった。その頃のことを用務員をしていたトミー・ガプティルは今もよく覚えている。巻頭を飾る「標識」は、そのトミーが語り手をつとめる。トミーは自分の酪農場が火事になり、借財を返すため土地を売って学校の用務員になった。トミーは時々一人暮らしのピートの家を訪れるが、ピートはそれを喜ばない。トミーの酪農場の火事は父の仕業で、トミーはそれを思い知らせるためにやってくるのだと思い込んでいる。

実は、トミーはずっと自分が搾乳機の電源を切り忘れたせいだと思っていた。ピートの父は仕事中手淫をしているところを雇い主のトミーに見とがめられたことを疎ましく思っていたのだ。トミーは火事に遭ったことを悔やんでいない。何が大切なのかを教えてくれた神の啓示だとさえ思うほどに。トミーは笑われると思って誰にも言っていなかったそのことをピートに話す。根っから善良なトミーの存在は、この田舎町の救いであり、この小説を静かに照らす灯りでもある。

人物相関図が必要と思えるくらい関係が入り組んでいる。まず、ルーシーの同級生でナイスリー姉妹の末娘パティは、高校の進路指導を担当していて、ヴィッキーの娘ライラに、子どもがいないことを性的な経験がないせいだと揶揄される。実は、夫は継父に性的虐待を受けて不能になり、パティはパティで母親が他の男と寝ているところを目撃して以来、性行為を嫌悪しており、夫婦仲はよかったが子どもはできなかったのだ。勢いでライラに汚い言葉を吐いたパティは翌日謝罪し、ライラもパティに心を開くようになる。

小説の深部で常に響いているのが、戦争後遺症であり、児童虐待であり、性的少数者の問題であることは論を俟たない。それが表面上に浮び上ることはないが、様々な要因が相乗的に積み重なり、とんでもないところで問題を起こす原因になっている。戦争にさえ駆り出されていなければピートの父もチャーリー・マコーリーも、性に溺れたりせずにすんでいただろう。すっかり変わってしまった夫の扱いに疲れた妻は子どもに辛くあたり、ルーシーたち兄妹は虐待に近い扱い受ける。

パティの姉のリンダや、パティの同僚で仲のいいアンジェリーナの家族の話も挿まれ、ルーシーたち兄弟と同じく貧しい暮らしをしていたメイベルとドティー兄妹も立派になった姿を見せている。ゴミ箱の中に入り、まだ食べられる食べ物を漁っていたメイベルは今では空調会社の社長に収まっている。ドティーはB&Bの経営者だ。二人の逸話も味わい深い。ルーシーとの距離の遠近により、語られる内容の深さや軽さに変化があって、深刻になりがちな話の中で程よいバランスを保っている。ただ、その中にもやはり性的抑圧は姿を覗かせている。どこまでいってもそれはついてくるのだ。

アムギャッシュに久しぶりにルーシーが帰ってきて、三人兄妹が再開する話が「妹」。視点人物は兄のピートである。有名人になった妹を出迎えるために、ふだんしたこともない掃除をし、ラグまで買いに走る兄が微笑ましい。しかし、兄や姉の昔話を聞くうちにルーシーはパニック発作を起こしてしまう。会いたくて帰っては来たが、帰郷は蓋をして覆い隠していた過去を一挙に引きずり出してしまう。作家となった今でも、ルーシーは真実に向き合うことができない。ルーシー・バートンの思いもかけない脆さが痛々しいが、ピートやヴィッキーの真情が垣間見え、読んでいてうれしくなる。読者にとって、ルーシーが実在するようにピートもヴィッキーも生きているのだ。

『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評がうまいことを書いている。「なぜストラウスを読むかと言うと、その理由はレクイエムを聴くのと同じだ。悲しさの中にある美しさを経験する」。そういう小説世界が好きなら絶対にお勧めである。いうまでもなく『私の名前はルーシー・バートン』の続編、いわば姉妹編である。『史記』でいうなら「本紀」に対する「列伝」。短篇集ながら、フォークナーのヨクナパトーファ・サガにならって「アムギャッシュ・サガ」の誕生と呼びたい。『私の名前はルーシー・バートン』を読んでから読むと面白さは倍増する。

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2019年01月19日

Posted by ブクログ

私の名前はルーシーバートンの続編というか、2部の本の半分という 本。おかしな人たちがでてきて、貧困に育つということについて考えることになる。

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2021年06月08日

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