角川書店のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ平家の栄華~滅亡までを歴史的事実をベースに描かれた物語。これまで全く歴史に興味が持てず手にとっていなかったけれど、めちゃくちゃ面白かった。
角川のビギナーズクラシックスは古典の忠実な訳(訳を読んでもよく分からないような言い回し)ではなく、現代の私たちに分かりやすいような意訳になっているところもポイントが高い。
家系図や図版もあるので、頭が混乱することなく読み進められる。
これまで清盛と言われても、あ~なんか有名な歴史の人物ね、ぐらいの知識だったけれど、この物語を通してかなり独裁的な政治をしていて傲慢な人だったんだろうなと分かった。
斬りたくなくても上からの命令であれば斬らなければいけない武士としての苦しさ、女性の立場や人権のなさ、幼い子供にも容赦ない敵軍。
今の世界からは想像もできないような世界で、そりゃみんな極楽浄土を求めて出家するよね、というような残酷さだった。
私はこんな世の中生きていけない!
特にラストの壇之浦の戦いで清盛の妻時子と清盛の孫であり8歳の安徳天皇が入水自殺してしまうのが一番衝撃だったな、、、
時子の選択が正しいのか、私には分からずで、苦しかった。
いったいどれだけの事が事実で、どれぐらいの脚色がされているのかは分からないけれど、作品としてとても良かったのでまた読み返したい。
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Posted by ブクログ
239P
私芥川龍之介の藪の中が小説の中でも一番レベルで大好きで、それも今昔物語集に元ネタがあるんだよね。芥川龍之介ファンは今昔物語集読むよね。
芥川龍之介は今昔物語集からインスピレーションを受けてるらしいけど、今昔物語集って独創性が凄い濃いなと思った。
ポリコレ時代になる前の方が、本当に面白い不細工を主人公にした作品とか、本当に美しいレズビアン作品が見られた気がする。創作において政治的に管理されることがいかに芸術を殺すかという事が分かる。
「【コラム】 酔っぱらいの出家を認めたシャカ 人を見て教えを説くという方便を重んじたシャカは、酔ったはずみで出家したことを許した。巻第一第二十八話。 ──仏教よりも古いバラモン教の信者がいた。ある日、べろべろに酔ってシャカの前に現れ、出家して仏教の信者になると言い出した。 それでも、シャカは出家させた。酔いが覚めて、彼が自分の姿を見ると、頭は丸坊主で法衣を着ているではないか。びっくり仰天して、その場を逃げるように立ち去った。 シャカは弟子に語った。彼は酔ったいきおいで出家した。けっして本心ではない。それでも出家したことが縁となって、やがて悟りを得ることになろう、と。そのうえ、仏教には飲酒を禁じる不飲酒戒があるのに、飲酒が出家の動機になったことを認めて、この男には特別に飲酒を許した。とりわけ出家を重視したためである。──「偽りても賢を学ばむ〈ン〉を賢といふ〈ウ〉べし」(『徒然草』第八十五段)の実例。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 シャカ臨終の場面である。シャカ最期の言葉は驚くほど俗臭が強い。あらゆる煩悩を断ち切ったはずのシャカが、煩悩の最たるもの、恩愛(親子の情愛)に執着しているのだから。 息子ラゴラの手をとって、もろもろのブツダたちに息子の加護を頼んでいる。むしろ、息子に人生の無常を説いて聞かせるべきなのに。これでは、われわれ凡人と、少しも異なるところはないではないか。 事実、正式な経典には、こうした俗人シャカの言葉はないという。とすれば、この最期のシャカは、日本人が独自に発想したシャカ像ということになろう。 その理由をこう説明する。シャカも今まだ人間である以上、息子との親子関係と弟子との師弟関係とでは、どうしても差が出てくる。やはり親子の情愛は抑えきれないものなのだ。まして、凡人ならば親子の情に溺れるのも無理はない。シャカはそうした人生の真理を示したのだ、と。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 息子の出家に猛反対するシャカの妻 シャカは、息子ラゴラを出家させて、仏の道を歩ませようとしたが、妻のヤシュダラは猛反対する。巻第一第十七話。 ──妻が反対する理由は、はっきりしていた。シャカと結婚して、たった三年で、シャカは私を捨てて王宮を出てしまった。それなのに、残されたわが子を取り上げるとは、慈悲心のあるブツダとも思えない、と言って泣いた。 また、シャカが出家した以上、王位を継ぐのはラゴラしかいない。だから、出家させるわけにはいかない、と。 しかし、シャカは言う。母親の情愛はどんなに美しくとも、短い人生の間だけだ。死ねば母子は別々の世界に移る。永遠の闇に落ちる。それよりは、息子が悟りを開けば、母を救うことができる、と。 さらに、お前と私は過去世において、永遠の夫婦として愛し合おうと誓った仲ではないか。あの時の志を忘れたのか、と。 ヤシュダラの眼前に、二人の誓い合う情景が浮かびあがった。彼女は黙ってラゴラをシャカのもとに送りだした。── 子どもの教育問題から、夫婦間のみぞが明るみに出る。おシャカさまもそうだったのか。私たちに親近感を抱かせるお話である。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「女が出家すると、子どもが生まれなくなる。男子は仏法を維持するために必要なのだ、と。 しかし、叔母はあきらめず、シャカの高弟アナンにとりもってもらう。アナンは、シャカの実母マヤ夫人が亡きあと、叔母が母代わりにお育てした恩を強調して、叔母の出家を許すよう勧めた。 シャカはしぶしぶ、厳しい戒律を守るならばとの条件付きで、叔母の出家を許した。── 女人成仏・女人往生という言葉が生まれるきっかけとなる話である。一見、男女を差別しているようだが、女性が戒律を守りぬくことの難しさを、シャカは懸念していたのだろう。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「ところで、二人の天狗は、湯治中に京の木こりと温泉で鉢合わせした。木こりはあまりに風呂場の中が臭いので、頭痛がして帰ってしまった。のちに日本天狗が人にのり移って語ったことを、この木こりが聞いて、温泉の一件を思いだして人に語った。── 大国に対する小国の勝利という国家意識が反映されていて興味深い。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「無我夢中で息子のもとに泳ぎ着き、なんとか岸にたどりつこうとしたとき、溺死寸前の母の姿が目に映った。しかし、二人同時に助けることは不可能だ。法師は考えた。生きてさえいれば、子はまた授かる機会がある、けれども、母は今失えば二度と会えない、と。そう決断すると、愛児を捨てて、母のもとに泳ぎ着き、岸に引き上げた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 力士と力女のこと──聖なる血のパワー 男の力士(当時は濁音で「りきじ」)に対して、女の「力女(りきにょ)」が古代の日本には存在した。現代感覚では、力女と聞けば、女子プロを思い浮かべるのがせいぜいだろう。 ところが、なんと、時の政府が、全国に力女の推薦を呼びかけているのだ。しかも、この力女、年金にあたる無税の田まで支給されている。それほど力女が貴重視されていた。 そこには、生まれながらの強力は血筋によるものであり、聖なるパワーの発動だという信仰がある。だから、強力の持ち主を集めて、相撲を取らせたり、力くらべをさせたりして、国家安泰・五穀豊穣を祈願したのである。 たんなる見せ物になったり、職業化したりするのは、後世も江戸時代になってからのことだ。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「色香と鞭で若い男を調教する、盗賊団の美人首領 人に知られざりし女盗人の語(巻第二十九第三話)【訳文】 今は昔、いつごろのことだったか。侍ふうで、年は三十くらい、すらりとした長身ですこし髭の赤い男がいた。 ある夕暮れ、男が □ □のあたりを歩いていると、通りに面した一軒の家の窓の陰から、チュッチュッと口を鳴らし、手をさし出して招く者がいた。男は近づいて、「わたしに用ですか」と聞いた。 すると、女の声で、「お話ししたいことがありますの。そこの戸は閉まってみえますが、押せば開きます。開けて中にお入りなさい」と誘った。男は、事情が飲みこめないまま、戸を押し開けて中に入った。 女が現れて、「その戸に鍵をかけていらして」と言うので、鍵をかけてそばに寄った。つぎに、女が、「お上がりなさい」と言うので、座敷に上がった。そして、簾の中に呼び入れたので、入ってみると、きれいにととのえられた女部屋に、二十歳くらいの、とても色っぽい美人がたった一人座って、にっこり笑いかけながら男を招いた。 男は女のそばに寄った。これほどまでに女が親しげにせまる以上、男たるもの黙って引き下がるわけにはいかない。とうとう二人は肌を合わせた。 ところで、この家には女のほかに誰もいないので、どういう家なのか、と男は不審に思っていた。しかし、一度抱いてから、女の魅力にとりつかれてしまい、日の暮れるのも知らず、二人は寝ていた。 やがて夜になって、門をたたく者がいる。使用人もいないので、男が出て行き、門を開けると、侍ふうの男二人と女房ふうの女一人が、下女を連れて入ってきた。そして、雨戸を閉めて、明かりをつけると、見るからにうまそうな料理を銀の食器に盛って、女と男、二人の食事の世話をした。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 芥川龍之介の『藪の中』の原話である。黒沢明監督の名作『羅生門』は、その『藪の中』を映画化したものだから、『今昔物語集』『藪の中』『羅生門』は三人兄弟の仲ということになる。 ただし、大きく違う点は、『今昔物語集』が夫の眼前で犯される場面を、たった一文で書き流したのに対して、『藪の中』と『羅生門』は三人の心理を詳細に分析してみせる。 夫と男の二人を評価する基準も、『今昔物語集』の場合、現代人の道徳観とは反対の印象を与える。女の着物を奪わず夫の命を助けたといって、男をほめる。逆に、すきだらけの愚か者、と夫をこきおろす。犯罪につながる行為かどうかよりも、男子たるものの本分を尽くしたかどうかが問題なのだ。そこには、きめ細やかな心の葛藤よりも、その場にふさわしい行動を重んずる視点がある。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 そうして、あらためて女に近づき、じっくりと眺めまわした。年は二十歳ほど、身分は低そうだが、色気たっぷりの美人だ。男は、すっかり頭に血がのぼり、何もかも忘れて、女の着物をはぎとりにかかった。 女は、抵抗する手段もないので、言われるとおりに着物を脱いだ。男も着物を脱ぎ、女をかき抱いて交わった。妻が無抵抗のまま男の言いなりになるさまを、夫は木にくくりつけられたまま見ていたわけだが、いったいどんな思いだったろうか。 やがて、男は起きあがり、もとどおり着物を着ると、箙(矢をいれる武具)を背負い、太刀を取って腰に帯び、弓を手にして馬にまたがり、女に向かってこう言い放った。「かわいそうだが、どうしようもない。おまえさんは置いて行くよ。けど、おまえさんに免じて、だんなを殺さないことにしたんだ。馬は、はやく逃げるのに必要だから、もらっていくぞ」と言い終わるや、全速力で馬を走らせ、去っていった。どこへ向かったのか、わからない。 男が去った後、妻は夫の縄を解いてやったが、夫は、われを忘れたふぬけづらをしている。女は、「あんたっていう人は、なんて頼りないの。この先こんな調子じゃ、ろくなことがないわ」と怒りをぶつけた。夫のほうは返す言葉もなく、ふたたび妻を連れて丹波へと向かったのだった。 あの若い男はたいしたものだ。女の着物を奪い取らなかったのだから。それに比べて、この夫はなんともふがいない。山の中で、初対面の男に弓矢を渡すなんて、愚の骨頂である。男の正体はついにわからずじまいだった、と語り伝えているとか。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「姨捨山伝説は棄老説話のひとつである。労働力として役に立たない弱者を抹殺したり、遺棄したりするのは、食糧不足が原因だという。飽食三昧の現代からは、想像もつかない非人道的な話だが、肉体労働にたよる農耕社会では、洋の東西を問わず、共同体のおきてとして受け入れられた痕跡がある。『今昔物語集』巻第九第四十五話も、似た問題を扱う。 ──古代中国に厚谷という若者がいた。彼の父は、年老いて役立たずの祖父を山に捨てた。そのとき厚谷は、祖父を運んだ輿(担架)を持ち帰った。わけをたずねた父に、やがて父さんが年老いたら捨てるのに使うためだ、新しく作るのはむだだから、と答えた。身ぶるいした父は、祖父を山から連れ帰り、親孝行をつくした。──」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 老人の知恵が国難を救い、棄老国が養老国となる 同じ棄老説話でも、ハッピーエンド型がある。たとえば、巻第五第三十二話。 ──古代インドに、七十過ぎの老人を捨てる棄老国があった。ところが、親孝行の大臣は、老母を捨てられずに自宅の密室にかくまっていた。 そのうち、隣国から、難題が解けなければ侵略する、と脅迫された。それは、馬の親子の識別、木の本末の区別、象の体重測定といった三つの難題だった。頭をかかえた大臣だったが、結局は老母の知恵によってみごと難題を解くことができ、国難を救うことができた。 事の真相を知った国王は、今後は老人をだいじにする養老国とするむねを布告した。──」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 『今昔物語集』は日本最大の説話集であり、貴族文学の『源氏物語』に肩を並べる庶民文学として、平安王朝を代表する横綱文学である。しかし、その出生を洗えば、まさに謎だらけの本としか言いようがない。編集の年次も編者(または作者)も、むろん目的もわからない。しかも六百余年もの間、公表されることなく歴史の闇に眠っていた。ようやく研究者の目にとまったのは、江戸時代も半ばのことである。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「『今昔物語集』は、まるで闇に葬られたかのように、人目にふれることなく眠り続けてきた。『源氏物語』が公表と同時に華やかな脚光を浴びたのに比べると、無残の一語に尽きる。 あれほど巨大な説話集ならば、編集の背後に大がかりなプロジェクトがあったに違いないのだ。とうてい一個人の文才のなせるわざではない。にもかかわらず、すっぱりと命綱を断ち切られたように姿を隠すとは、とても尋常とは思えない。たとえ計画が中止になったとしても、編集に関与した人間がこの世にある限り、そのいきさつは史料の断片に痕を残すのがふつうであろう。 中世の長い時代にも、限られた文人貴族や宗教人などの間で、ひそやかに回覧されていたらしいことを伝える記事しか残っていない。それも『今昔物語』七帖(あるいは十五帖)とあって、現在の『今昔物語集』三十一巻と同じなのかどうかも怪しい。『今昔物語集』が、特有の欠字・欠文・欠話が物語るように、未定稿・未完成の作品であることは明瞭である。しかし、歴史の闇に隠れる理由が不明瞭なのだ。もしかしたら、編集の責任者が落命するような不測の事態が発生したのではなかろうか。編集事業を後継できないような決定的な事件が起きたのではなかろうか。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「こうした『今昔物語集』の構造や説話の形式からも、論理的で明晰な頭脳を持つ編者の風貌が思い描かれる。彼の国際的な視野の広さ、柔軟な思考は、現代においても十分敬服に値しよう。十二世紀に、これだけの祖先いや国際人がいたことを、私たちは誇りに思わなければならない。 彼は、おそらく旅に生き、旅に死ぬ文人ではなかったかもしれない。万巻の書の中に埋もれた生活をする学者だったかもしれない。しかし、『今昔物語集』を読むとき、彼の人生観・世界観が、けっして狭い空間に押しこめられた性格のものではないことに気づく。彼の思考は、あくまでも柔軟かつ現実的であり、志は高遠である。彼こそは二十一世紀に求められる日本人像の一つではなかろうか。『今昔物語集』の希有にして奇異なる説話群は、強烈なインパクトをもって読者(あるいは聴衆)の俗心を打つ。ついで、人間世界の背後にある聖なる力に目覚めた読者は、心の中に新しい秩序の芽生えを感じはじめる。この秩序こそは、歪んで汚れきった現在の秩序を打破して、明るい未来へと人々を導くものにほかならない。それを編者は、『今昔物語集』の登場人物とともに、泣き、笑い、怒り、悲しむうちに、自然に導かれるように配慮した。 政争と戦乱に明け暮れた平安末期にあって、編者の眼は、来たるべき中世の夜明けを見すえている。斜陽化した王朝貴族の背後から、疾駆してくる武士団の凜々たる勇姿が、彼の眼にはっきりと映っていた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「こうした『今昔物語集』の構造や説話の形式からも、論理的で明晰な頭脳を持つ編者の風貌が思い描かれる。彼の国際的な視野の広さ、柔軟な思考は、現代においても十分敬服に値しよう。十二世紀に、これだけの祖先いや国際人がいたことを、私たちは誇りに思わなければならない。 彼は、おそらく旅に生き、旅に死ぬ文人ではなかったかもしれない。万巻の書の中に埋もれた生活をする学者だったかもしれない。しかし、『今昔物語集』を読むとき、彼の人生観・世界観が、けっして狭い空間に押しこめられた性格のものではないことに気づく。彼の思考は、あくまでも柔軟かつ現実的であり、志は高遠である。彼こそは二十一世紀に求められる日本人像の一つではなかろうか。『今昔物語集』の希有にして奇異なる説話群は、強烈なインパクトをもって読者(あるいは聴衆)の俗心を打つ。ついで、人間世界の背後にある聖なる力に目覚めた読者は、心の中に新しい秩序の芽生えを感じはじめる。この秩序こそは、歪んで汚れきった現在の秩序を打破して、明るい未来へと人々を導くものにほかならない。それを編者は、『今昔物語集』の登場人物とともに、泣き、笑い、怒り、悲しむうちに、自然に導かれるように配慮した。 政争と戦乱に明け暮れた平安末期にあって、編者の眼は、来たるべき中世の夜明けを見すえている。斜陽化した王朝貴族の背後から、疾駆してくる武士団の凜々たる勇姿が、彼の眼にはっきりと映っていた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
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Posted by ブクログ
223P
竹取物語は話も知ってるし、映画でも見たし、古文の授業でもやったけど、改めて読んだら、本当に面白いな。日本最古の物語が花鳥風月の月がテーマのSFっていうのが美しいなと思う。日本人は昔から自然を愛でる民族なんだよね。西洋SFが「未知への征服」だとすると、竹取物語のSF性って「異界への哀しみ」なんだよね。そこがすごく日本的で、美しい。あと改めて読むと、かぐや姫って「男性たちの欲望を全部すり抜ける存在」でもあるから、現代的に読んでもかなり面白い。求婚者たちへの無理難題も、ただの意地悪じゃなくて、「所有されない」というフェミニズム的な意思表明に見えてくる。
日本最古の物語の竹取物語は「何故女性が結婚しなければならないのか」っていうウーマンリブの物語らしいw日本は根っからのウーマンリブ国家だよね。
「【寸評】 竹取は、稲作中心の農耕社会のなかでは、身分の低い職業とされた。ここに登場する竹取のじいさんも、つましい暮らしをする貧しい老人というイメージを越えることはない。 ところが、古代では、竹の強い生命力は神秘を感じさせ、竹製の祭具は神霊を招き寄せる力があると信じられていた。今でも、こうした信仰の名残が地方の民俗行事に見られる。 すなわち、竹取のじいさんは、神事にかかわる仕事をしていることになる。じいさんの姓である讃岐氏は、神事をつかさどる一族に属していたという説もある。そうすると、神霊が天くだるようにして竹の節に宿った、かぐや姫の親代わりをつとめる資格があることになろう。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 世の中の若い男という男はみんな、身分の上下もおかまいなしで、何とかして、このかぐや姫を自分のものにしたい、妻にしたいと、彼女のうわさを耳にしては恋にもだえていた。 邸に仕えている者でさえ、簡単には彼女の姿を見ることができないのに、この男どもときたら、夜もろくろく寝ないで、邸のまわりの垣根や門に穴をこじあけ、なかをのぞき見しては、うろうろいらいらしていた。 このとき以来、こうした行動(夜這い)を「よばい」(求婚)というようになった。 彼らは、かぐや姫をひと目でも見ようと、まともな人間なら考えつきもしないような場所までうろついてみるが、何の効果もない。邸の使用人にせめてひと言でもと、話しかけてみるが、てんで相手にされない。 それなのに、一日中邸のまわりから離れずほっつき歩く貴公子たちがたくさんいた。かたや、熱のさめた連中は、「むだ足をふんで大損しちまったなあ」とぶつくさ言いながら、離れていった。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
【寸評】 名だたるプレイボーイ五人の登場である。常識ある男性なら、当然あきらめるような状況でも、彼らはあきらめない。何といっても執念がある。プライドなど、とっくに捨てた。いや、プレイボーイとしてのプライドがあるのだ。 どんな悪天候でも、どんなにじいさんに断られようと、めげない。一見すると、かぐや姫恋しさに、理性を失っているように見える。どっこい、熱意の下には、しょせん女は結婚するものという先入観と、いつかはじいさんも折れてくるという打算とが隠されている。 じいさんの断り方が、実の子ではないと言って、かぐや姫の意思を重んじるのも、当時の男尊女卑の風潮にあっては、めずらしい。じいさんの好人物ぶりを示すものだが、やがて、親が子に対してもつ所有欲にけがされていく。また、このプレイボーイたちも、自己過信から、悲喜劇の主人公を演じるはめになるのだ。 さて、注目したいのは、プレイボーイの階級が、皇族・大臣・大納言・中納言と、貴族社会の最上層をランク順に完全網羅していることだ。はんぱではない。ということは、作者が、執筆計画のはじめから、ねらった目標なのである。あとは、最高位の帝がほしいだけだが、最後のトリにちゃんと登場して、ますます作者の意図の計画的であることを立証している。 『竹取物語』の作者は、古い時代の伝奇物語という作品の印象からはほど遠い、きわめて合理的な頭脳の持ち主らしい。登場人物は、皇子・右大臣・大納言・中納言と、階級順に現れ、舞台も、天竺・蓬萊・唐土・日本・宮中といったぐあいに、遠近の順序をきちんと守っている。この整然とした構成は、たんなる思いつきや気まぐれから発想できるものではない。作者は明晰な論理思考を好むタイプだったようだ。 五人の貴公子についても、それぞれモデルとされる実在人物が史書に現れるので、作者の能力・気質からみて、『竹取物語』を執筆したねらいも、単純・素朴なものとは言えないだろう。モデルについては、それぞれのコラムを参照していただきたい。 ──「石作の皇子と庫持の皇子」*、「右大臣阿部御主人」*、「石上麻呂足」*。 なお、「色好み」という言葉については、「解説」*を参照していただきたい。
「「うれしいことを言ってくださる。じいは、もう七十を過ぎて、今日死ぬか明日死ぬかもわからないほど、残り少ない命です。さて、この人間界では、男というものは女と結婚し、女というものは男と結婚することになっております。そうして、子孫が栄えていくのです。ですから、こんなふうに、姫が結婚しないでいて、よいわけがありません」「どうして結婚などということをするんですか」「姫は異界のお方ではありますが、身は女です。じいがこうして生きている間は、生活に困らず、気楽に独身を通すこともできましょうがねえ。やはり将来のことを思うと、五人のお方が姫との結婚を望んで、長い間こちらに通いつめている状況を、よく考えぬいたうえで、どなたかおひとりを選んで結婚なさい」「わたくしはたいして美人でもありませんから、相手の本心を確かめないで、結婚したあとで浮気されたら、やはりだまされたと後悔するに決まってます。それだけが気がかりです。だから、どんなにすばらしい方であっても、相手の愛情の深さを確かめたうえでないと結婚はできない、と考えているのです」」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「それは、提示した条件の異常な難題ぶりからも明らかなことだ。かぐや姫の言うことなら何でもハイハイのじいさんでさえ、難題の異常ぶりに気づいて、どうしたものかと、頭を抱えるしまつなのだ。仏の御石の鉢、蓬萊の玉の枝、火鼠の皮衣、竜の首の珠、燕の子安貝、どれをとっても、はなっから無理を承知で出した難問である。取って来られるわけがない。そこが、かぐや姫のねらいだった。 つまり、かぐや姫は、自分のほうから結婚を拒否すれば、自分やじいさん夫婦の立場が悪くなることを懸念して、相手のほうから結婚を辞退するように仕向けたわけなのだ。実際、のちに彼女自身の口から告白することになる。 五人の求婚者たちとて、解決不可能な難題であることに気づかないはずはない。けれども、ライバルに対する意地があり、自分に対する過信もある。彼らは、顔をひきつらせながら、対策に取り組むはめにおちいった。 それにしても、五人が同じ品物を探して競い合うのならまだしも、五人がそれぞれ違う難題をふっかけられるのだから、たまらない。かぐや姫の意地悪さは、まさしく、はんぱじゃない。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 蓬萊山 * 蓬萊山は、古代中国の思想が生み出した幻の島で、実在しない。東の海にぽっかり浮かび、遠くから見ると雲のようだが、近づくと水の下にある。のぞきこむや、大風に船が引き離されるので、誰もたどり着けないのだという。 仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられたので、諸王があらそって、蓬萊山を探索させたというから、御苦労な話である。有名なところでは、秦の始皇帝が不老不死の薬を望んで、徐福という神仙術に通じた男を派遣した。蓬萊山をついに発見できなかった徐福は、日本の熊野あるいは富士山を訪れ、やがて定住したという話が伝わっている。マルコ・ポーロの黄金の島、ジパングを考え合わせると、どうも日本には古来から神秘な島というイメージがつきまとっていたようだ。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 山のすばらしさときたら最高です。この世にたとえるものがありませんでしたが、なにしろ、この枝を折り取ったものですから、どうにも気が落ち着かなくて、船に乗って、追い風に吹かれて、四百余日かかって帰ってきました。 神仏に願をかけたおかげか、こうして、難波から昨日帰京したというわけです。まったくもう、潮に濡れた衣服も着替えないで、まっすぐこちらにやって来ました。──」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 山のすばらしさときたら最高です。この世にたとえるものがありませんでしたが、なにしろ、この枝を折り取ったものですから、どうにも気が落ち着かなくて、船に乗って、追い風に吹かれて、四百余日かかって帰ってきました。 神仏に願をかけたおかげか、こうして、難波から昨日帰京したというわけです。まったくもう、潮に濡れた衣服も着替えないで、まっすぐこちらにやって来ました。──」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 日本人の月に対する関心の深さは、月の異名の多さが一番よく伝えている。新月、三日月、弓張り月(上弦の月・下弦の月)、望月(十五日)、十六夜月、立ち待ち月(十七日)、居待ち月(十八日)、寝待ち月(十九日)、宵闇月(二十日)、有明月(夜明けの空の残月)など。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 結婚しない女 なぜ結婚しなければならないのかというかぐや姫の問いには、現代でも通用する新鮮な問題意識が感じられる。男性に従属することを拒否するウーマンリブの思想がうかがわれるからだ。 結婚を拒否するのは、姫が地上の人間ではないからと説明されるが、それだけが原因ではないだろう。むしろ結婚を拒否させるために、作者が、わざわざ彼女を異界の人として設定したとも考えられるのだ。 さらに、注目したいのは、五人の求婚者たちと帝とを差別せず、帝の権威を特別扱いしないことだ。帝の求婚に対して、たしかに断り方は丁寧だが、結婚を拒否する点で変わりはない。 地上のあらゆる権威を否定的にながめる作者の視線には、人間の真実を追求しようとする気迫が感じられる。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「「家来という者は、命を捨てても主君の命令を遂行しようと考えるのが当然だ。竜の首の珠は、日本にない物ではなく、インドや中国にしかない物でもない。竜は、この日本の海山から昇り降りする物だ。いったい何を考えて、お前たちは、手に入れるのは困難だと言うのか」 家来たちは、ふるえあがって、「命令とあらば、いたしかたありません。どんな困難であろうとも、殿の命令に従って、探索にでかけましょう」と答えたので、大納言は機嫌を直して、「お前たちは、このわしの家来として公認されている。わしの命令に背いてよいわけがない」と、にんまりうなずいて、竜の首の珠取り作戦を発令した。食糧のほかに、所有する絹・綿・銭など、金めのものをすべてかき集めて、軍資金として与え、出動させた。「お前たちの作戦成功と無事帰還のために、わしは心身を清めて祈願して待つことにしよう。竜の首の珠を取るまでは帰ってくるなよ」と、大納言は厳命した。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 古代貴族の男女関係では、「見る」ことは特別な意味をもっていた。女性にとって、男性に姿を見られることは自分の魂を所有されることに等しかった。それは、結婚を承諾することにつながっていく。だから、簡単に見られてはならないのである。 どうせ、正面から面会を申し込んでも断られるのが当然だから、男性は女性のすきをねらって「垣間見」した。女性のほうも、「垣間見」される心準備をしたのである(「成人したかぐや姫のもとに群がる求婚者」*参照)。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 帝とかぐや姫が、互いに歌や手紙をやりとりして、心を通わすうちに、三年ほどの月日が流れた。 その年の春の初めから、かぐや姫は、美しい月が出ているのをながめては、ふだんよりも物思いに沈むようになった。「月の顔を見るのは不吉なことですよ」 そう言って止める人がいたが、ややもすれば、人目を盗むようにして月をながめては、激しく泣いた。 七月の十五夜のこと、かぐや姫は縁側に出て座り、月を仰ぎながら、深く物思いに沈んでいた。姫にお付きの侍女たちは心配して、竹取のじいさんに注進した。「姫さまは、いつでも月に心を寄せていらっしゃいましたが、このごろのようすは、ただごととは思われません。ひどく嘆き悲しむような悩みごとが、あるに違いないのです。どうか、十分に御注意なさってください」 じいさんも心配になって、かぐや姫の部屋を訪れた。「こんなに物思いに沈んだようすで、月をながめているのは、どんな心境からですかな。けっこうずくめのこの世のはず」「ながめていますと、人の世の営みが、しみじみと心にしみるように感じられてくるのです。悩み嘆くようなことは、何もありません」」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 月と狂気―月の顔を見るのはタブー 英語のルーナティック( Lunatic)は、ラテン語ルーナ(月)から派生した語で、「精神異常者」という意味だ。もとの意味は、「月に影響された」である。古代、月が発する霊気を受ければ発狂するという信仰があった。月は狂気の源と信じられていたのだ。 日本語「月」の語源は「尽き」だという説がある。太陽と違い、輝きが尽きる時期があり、それを時間の単位とするからだ。これに従えば、「年齢が尽きて老いる」「命が尽きて死ぬ」といった暗いイメージが生まれるのもわかる。月を見るなという禁忌が生まれるのも無理からぬことだ。 ブラジルでは新生児を月光から隠して狂気から守るというが、これに類した慣習は広く世界各地に見られる。『竹取物語』だけでなく、『源氏物語』や『更級日記』でも月を見ることをタブーとしているが、こうした民俗は今なお日本の各地に残っている。 この月を、かぐや姫の生まれ故郷とした『竹取物語』の作者のねらいは何だったのか。興味はしんしんとして尽きない。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 八月十五日に近い、ある夜のこと、縁側に出て月見をしていたかぐや姫は、はげしく泣きじゃくった。今はもう、人目もはばからず、泣きに泣いた。これを見て、じいさん・ばあさんたちは、おろおろしながら尋ねた。「いったい、どうしたというんです」 かぐや姫は、泣きながら、思いもよらぬ秘密を明らかにした。「前々から申し上げようと思っていましたが、申し上げたら、必ず動揺なさると思って、今まで黙っておりました。けれども、そう隠してばかりもいられないと思って、打ち明けるのです。そもそも、わたくしは人間界の者ではありません。月の都の者なんです。それなのに、以前いた天上界での約束があったので、それに従って、この人間界にやって来ました。でも今はもう、帰らなければならない時期になってしまいましたので、今月の十五日、わたくしの故国から迎えの人々がやって来ようとしています。逃れようがなく、どうしても帰らなければなりません。おふたりがどんなに嘆かれるかと思うと悲しくて、この春以来、ずっと悩んできたのです」」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 十五夜の月―仲秋の名月 仲秋にあたる旧暦八月十五日夜をとくに十五夜と呼んで、満月の観賞をする風習がある。季節感あふれる行事として、今もすたれることなく続いているようだ。 この十五夜の月には、月見団子とサトイモ・サツマイモなどを供え、ススキを飾るので、芋名月ともいう。 仲秋の名月を愛でる観月の行事は、九世紀ごろ中国から伝来したといわれるが、『竹取物語』の成立時期を合わせ考えれば、それが直接に反映しているかどうかは明確ではない。 満ち欠けする月に生命力を感じて、信仰心を起こし、供物をささげる風習は、農耕社会に共通する古代からの習俗だ。『竹取物語』の場合も、かぐや姫は月神の子として、下界に降り立ったと考えることもできる。 月の黒い斑点を兎に見立てるのは、日本・中国とも同じだが、中国ではヒキガエルもいるとし、日本では餅をついていると想像する。日本には日本独特の月の信仰があったと考えたほうがよい。 また、十五夜を一年の境とする古代の民俗が今に伝わり、月光を利用したり、綱引きをしたりして、一年の運勢を占う地方も少なくない。 ちなみに、旧暦九月十三日夜の月を十三夜といい、やはり月見をする風習がある。平安時代に始まる日本固有の行事といわれ、十五夜の芋名月に対して、豆名月・栗名月あるいは後の月ともいう。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 小さ子の話―カラシナの種 * 一寸法師に桃太郎、力太郎に瓜子姫。彼ら昔話の主人公に共通するのは、非常に体が小さいことである。古語では「小さ子」という。 不思議な誕生のしかたも共通している。桃太郎は桃から、瓜子姫は瓜から、それになんと、力太郎は不精者のじいさんとばあさんの垢から生まれている。してみると、竹から生まれたかぐや姫も同じ仲間だと言ってよい。だが、決定的な違いがある。かぐや姫は何もしないということだ。当然だが、鬼退治はしないし、結婚もしない。しかし、何もしないように見えて、ほんとうは何かを果たしたはずである。でなければ、罪をつぐなうために人間界に下りてきた意味がない。その意味を読者に考えさせるのが、実は作者の重要なねらいだったのではなかろうか。そこに、昔話と物語との最大の違いがあるようだ。 ところで、かぐや姫の発見当時の大きさを、菜種の大きさだとする場面がある。この菜種は現在の菜種ではなく、カラシナの種子だといわれる。直径一、二ミリで、かぐや姫の体の小ささを誇張表現したものだが、『法華経』の文句を応用したものといわれている。 ちなみに、香辛料の「和からし」は、これを粉末にしたものだ。マスタードはカラシナの別種セイヨウカラシナから作るが、その種子はやはり小さなもののたとえとされ、『新約聖書』に「天国は一粒のマスタードシードのごとし」とあるのも、仏典と発想が共通していておもしろい。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「じいさんは、現実には地上の時間で十年足らずしか経っていないことを十分承知している。承知のうえで、天人の探しているかぐや姫は十歳くらいだろうから、よそにいるはずだと理屈をこねた。かぐや姫を失いたくない親心のなせるわざなのだ。 むろん、そんな理屈が天人に通じるわけがない。ただ、じいさんのうその罪はそれほど重くはないと弁護はできる。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 かぐや姫の着た羽衣 羽衣を身に着けて昇天する天女の話は、日本にも数多く伝わっているが、かぐや姫のように夜に昇天するケースはほとんどない。なぜなら、彼女たちは鳥の化身だからだ。地上の男から取り戻した羽衣は、まさに鳥の羽である。 ところが、かぐや姫の着た羽衣は、飛行の機能をもたない。姫は、天人として変心はするが、鳥に変身することはない。姫の羽衣の場合は、天人の資格を得るためのものであって、飛行の道具ではないのだ。飛行の道具は、別に「飛ぶ車」が用意してある。 この羽衣には、神事を行う前に心身を清めて、神聖な体になるために着用する衣という古代の宗教観念がみられる。単なる飛行の道具となるのは後世である。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「自由に想像力を羽ばたかせて、楽しく読もう いったい、『竹取物語』をどんなふうに読めばよいのか。何か、読み方に独自の規準があるのだろうか。 ある学説は、五人の貴公子のモデルを徹底的に洗い、最終的に藤原体制を批判する書であると結論する。とてもリアルで説得力に富むものの、それだけでは、なぜかぐや姫でなくてはならなかったのか、意味がわからない。 また、ある SFファンは、かぐや姫を、宇宙船に乗って地球に飛来した異星人に見立てる。科学的空想をふくらませるには好都合のお話だが、それで終わってしまっては、文学の香りが消し飛んでしまう。」
—『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
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Posted by ブクログ
★★
256P
古文って音として聴いた方が理解出来るよね。
古事記めちゃくちゃ面白い
角川のビギナーズクラシックス日本の古典シリーズ、登録者数が1000以上でめちゃくちゃ人気なんだね。原文、現代語訳、寸評、コラムとかかなり詳しくて面白いからかな? #読書
古事記 が成立したのは、一般的には 712年(和銅5年) とされています。
「【訳文】 わたくし安万侶が陛下(元明天皇)に申し上げます。 宇宙の中心の浮遊がおさまり、凝固してきたものの、まだ生命の兆しや物体の形がはっきりとは見えません。何と名づけたらよいのか、どんな活動をしているのか、だれにもわかりませんでした。 けれども、そこから天と地が初めて分かれ、三神(アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ)が現れて、世界の創造にとりかかりました。ついで、男女という両性がはっきりと分かれ、男女二神(イザナキ・イザナミ)が現れて、万物の生みの親となったのです。 このイザナキが亡き妻イザナミを慕って死者の国(黄泉の国)を訪れたあと、ふたたびこの国(葦原の中つ国)に戻って、死の穢れを払う禊をいたしました。清流で目を洗うと日神アマテラス、月神ツクヨミが生まれ、海水で身を清めるとたくさんの天つ神・国つ神が生まれました。 このように、天地創造の時代は、はるか遠くておぼろげですが、今に伝わる神話・伝説によって、日本列島の誕生を知ることができます。 また、原始の時代はよくわかりませんが、古代の賢人のおかげで、神々が生まれ、人間の世界が始まるようすを知ることができるのです。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「例えば、アマテラスは天神、オオクニヌシは国つ神、スサノオは天神だったが、乱暴を働いたために天上界から追放され、国つ神に落とされた。天神は高天の原系の神で、これに対して、葦原の中つ国に土着していた神々を国つ神と呼び、出雲系の神が多い。日本神話はこの高天の原系と出雲系の神々の抗争・和睦のドラマでもある。 登場する神々の名はみな、その能力・役目などを表示しているが、今では意味不明なものも多い。イザナキ・イザナミを例にとると、イザは愛に誘う意であり、キは男性、ミは女性を表している。つまり性愛を表示する神名である。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 「神」は「ゴッド( God)」ならず 一神教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など)のただひとりの神(ゴッド)を信仰する人々にとって、日本の八百万の神々など、とうてい理解できないらしい。狐を敬うお稲荷さん、学者(道真)を拝む天満宮、武将(家康)をあがめる東照宮、それどころか戦死者を祭る靖国神社など、来日した宣教師たちは狐につままれた気分だったろう。動物はおろか、原罪を背負った人間を信仰するなんて、もってのほかだった。 しかし、日本人にとっては、『古事記』に登場する神々ばかりでなく、この世ならぬ能力や徳をもっていると感動すれば、人間はもちろん狐や石ころだって、みんな神さまになれるのだ。この宗教観の違いは、永遠に交わることがない。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 次には、三つ子のように三島から成る隠岐の三子島を生んだ。またの名を押し凝り固まったという意でアメノオシコロワケという。 次に、筑紫島(九州)を生んだ。この島もまた、身は一体だが顔は四面あった。これもそれぞれの顔に名があった。四面はそれぞれ、日(太陽)にちなんで、筑紫の国を白く輝く日のシラヒワケ、豊の国をトヨヒワケ、肥の国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケ、熊曾をタケヒワケと名づけた。 次には壱岐の島を生んだ。別名を海中に立つ一本の柱に見立ててアメヒトツバシラという。 次に対馬を生んだ。別名をアメノサデヨリヒメという。 次に佐渡の島を生んだ。 そして、最後に五穀豊穣の意をこめた大倭豊秋津島(本州)を生んだ。別名をアマツミソラトヨアキツネワケともいう。こうして、八つの島々を生んだので、日本列島を大八島国というのである。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 イザナキ・イザナミの男女神が結婚して、人間の子どもを生むのではなく、国土を生むというのが、政治色の濃い日本神話らしいところである。 この一段、かなり露骨な性行為の描写でよく知られている。世界の神話にも類例のない奇抜な場面だが、眉をひそめることなく、古代の性教育のなごりくらいに考えるのも楽しいではないか。『古事記』には、この種の実際的な知識の言い伝えがあちこちに顔を出している。 最初の子に失敗するというのは、東南アジアの神話にも共通する発想で、試練を耐え抜かなければ成功しないという経験上の知恵が神話に反映したものという。 ヒルコ(水蛭子)には「日る子」(日神の子)説と「蛭児」(ヒルのような児)説とがある。「日る子」説は「日る女」(天照大御神)と音がうまく対応するところから着想されたが、ここでは「蛭」という用字に従い、ヒルのように骨なしの児としておこう。 こうして日本列島を生んだ後も、二神は自然界に必要な数々の神々を生んだが、火神の出産でイザナミは死んだ。 怒ったイザナキが火神の首をはねたところ、剣についた血の中から神々が誕生する。神々はいずれも雷神・剣神である。のちに国譲りの段で活躍するタケミカズチも、このとき誕生した。 母神を焼き殺した火神が父神に斬り殺されて、その剣の血から、国土平定の特使に任命される剣神が誕生した。ここには王権をつらぬく聖なる血と剣の信仰がある。王権は血のあがないと剣の威力によって守られるのだ。 火の神の「ヒ」は音を転じて「ホ(火・穂)」となり、オシホミミ、ホノニニギ、ホオリ、と王権継承者の名の核となっている。この火神の誕生と死によって、王権は地上界から、さらに地底の黄泉の世界へと拡張していく。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「禊は、水で身を洗って罪・穢れを祓い清めることをいう。(コラム「禊と祓はどう違うか」参照*)。この、禊から統治者が誕生するという設定は、政治家たるものの必要条件に清潔感・透明感が求められることを示している。もっとも、これは神さまの世界の話で、欲まみれの人間どもの世界で条件が守られるかどうかはきわめて不透明だが。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 武装したアマテラスの勇姿は、ワグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」に登場する乙女の戦士ワルキューレを思い起こさせる。こちらは北欧神話だが、戦う乙女ほど力と美の偶像にふさわしいものはない。ここに至って、アマテラスは天上・地上に君臨する戦いの女神に変身した。この戦う女神像は神功皇后へと引き継がれていく。「ウケイ(誓約)」は神意を受けるための占いの一種で、さまざまな解釈があるが、およそ次のように想定されている。神意を求める者がある行為をする場合、その結果についてあらかじめ神意を割り当てておくのである。つまり事前に条件を設定しておくのだから、その約束は守らなければ意味はない。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 さすがのアマテラスもスサノオの非道ぶりに恐れをなし、天の岩屋戸を開き、その中にこもってしまった。日神の隠れた天上界(高天の原)はまっ暗になり、地上界(葦原の中つ国)も闇に包まれてしまった。こうして日光のない夜だけがいつまでも続いた。 だが、そんな暗黒の世界につけこんで、無数の悪神・悪霊どもが大はしゃぎを始めた。その喧噪は、群れ騒ぐ夏蠅のように世界を覆い尽くし、あらゆる災いが至る所で発生した。 世界の危機を感じた天上の神々は、天の安の河の河原で会議を開き、タカミムスヒの子の知恵の神オモイカネに対策を求めた。対策の内容は次のようなものだった。 まず、永遠の光に満ちた常世の国の長鳴鳥を集めて鳴かせた。光を呼ぶ鳴き声が悪神・悪霊を恐れさせて追い払う。 次に、天の安の河の川上にある堅い岩石を金敷用に運び込み、鉱山から鉄鉱を採取して、鍛冶の男神アマツマラを呼び、鏡作りの女神イシコリドメに命じて、この二神に大きな鏡を作らせた。鏡は映るものの魂を呼び込む。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「次に、玉作りの神タマノオヤに命じて、たくさんの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾りを作らせた。玉は日神を誘い出す霊力をもつ。 次に、言霊の神アメノコヤネと祭祀の神フトダマを呼んで、聖なる天の香具山に棲む雄鹿の肩骨を丸抜きに抜き取り、同じ山にある樺の木(または桜桃)で肩骨を焼いて、その裂け目で神意を占わせた。 こうした準備を整えたうえで、次のような儀式が執り行われた。 まず、葉のよく茂った天の香具山の榊を根から丸ごと掘り取って、その上の枝にたくさんの大きな勾玉を長い緒に通した玉飾りをつけ、中の枝に大きな鏡を掛け、下の枝には楮の白い幣と麻の青い幣を下げた。これらを、フトダマが神に献上する品々として捧げ持ち、アメノコヤネが荘重な祝詞を唱えた。 次に、強力の男神アメノタジカラオが天の岩屋戸の脇に隠れ立ち、芸能の女神アメノウズメは天の香具山の聖なる日陰葛を襷にしてかけ、聖なる真折の葛を髪飾りにして、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の岩屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神がかりして乳房を露わにし、裳の紐を陰部に垂らした。それを見て、天上界が鳴り響くほどに大勢の神々が爆笑した。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「ところで、アマテラスが岩屋戸にこもることだけに目を奪われてはならない。アマテラスがこもると闇の世界となり、現れると光の世界になる。この光と闇は、世界の政治情勢をそのまま反映している。光の明るさはアマテラスの政治力の大きさに比例しているのだ。もはや一個人の鎮魂という秘儀の枠を超えて、この神話は国家の政治のあり方を問う領域に踏み込んでいく。 岩屋戸神話を理解するには、鎮魂祭をその一部とする大嘗祭の全体を見渡す必要がある。大嘗祭は天皇即位の年に行われる国家最大の行事であり、天皇政治の聖典『古事記』に浸透しないはずはないからだ。皇位継承に必要な三種の神器のうち、鏡と勾玉がここで用意されている。残る神剣は、次の話のお楽しみ。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 さて、物語はのっけから兄弟神のいじめにあう場面を出して、読者の同情心と義憤を大いにあおるしかけだ。 鰐に毛皮を剝がれた白兎を助ける話は、医療の神オオナムチの一面を紹介している。蒲の花粉を止血・鎮痛に用いるのは民間療法だが、医療に通じることは為政者の資格として重要だった。古代では素朴な科学知識が民心をつかむのに最も効果があった。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「大和の勇者が戦いの日々に明け暮れ、酒と女を好んだのに対して、出雲のオオナムチはやはり女好きだったものの、なかなかの文化神である。土地柄、大陸文化の刺激を受けていたせいかも知れない。 オオナムチは艶福家で女性にもてた。越の国のヌナカワヒメ(沼河比売)とも愛の讃歌を歌い上げている。だが、糟糠の妻スセリビメには頭があがらず、恐妻家ぶりを見せる。 スサノオの娘で正妻におさまったスセリビメは、自分からオオナムチに求婚した情熱娘で、気性も激しくやきもち焼きだった。「スセリビメ」という名の意味はよくわからない。スサノオのスサがスサブから来て、勢いに乗って暴れる意とすれば、スセリビメのスセリも語源は近いように思う。 愛する男のために父を裏切る娘、スセリビメの果敢な行動力は父のスサノオそっくりである。系譜には見えない名で、オオナムチをオオクニヌシにするための使命感に燃える出雲出身の女神とだけ想像しておこう。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 古代の出雲大社──雲を衝く巨大神殿 二〇〇〇年四月五日、発掘調査中の出雲大社の境内で、本殿を支えた巨大な柱根が出土した。直径約一メートル以上の丸太三本を束ねて一本の柱にしてあり、現在のものと比較すると三倍以上にもなる。 出雲大社には、その昔、本殿の高さが現在の二倍、現在約二十四メートルだから、四十八メートルだったという伝承が残されている。およそ十四、五階建てのビルの高さだ。 かつて、この伝承が木造建築として可能かどうかを、建設という立場からコンピューターで復元に挑戦したプロジェクトチーム(株式会社大林組)があった。結果は合格。階段は百七十段、高さ三十メートル、長さは百九メートルに達したという。 今回の巨柱発見も、疑問視されてきた伝承が、現実に可能であることを裏づけるものだ。八雲立つ出雲に、今に倍する高さの神殿がそびえ立つ偉容を、想像するだけで胸が熱くなるではないか。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「降臨に随伴する神々の顔ぶれを見ると、天の岩屋戸神話に登場した神々がここにもいることに気づく。それも当然で、天孫降臨と岩屋戸と、この二つの神話の源が同じだからである。どちらも大嘗祭の秘儀を母胎とする神話であり、『古事記』神話の核心部を形づくっている。 三種の神器もきちんと揃った。岩屋戸神話ではまだ草薙の剣がなかったが、スサノオの献上を受けて神器に加えられた。剣は武力の象徴であり、今後の王権の拡張・維持には欠かせないものである。 ところで、岩屋戸の前で踊ったアメノウズメがここでも活躍する。降臨の先導役を買ってでたサルタビコを尋問するのがウズメで、その眼光に強い霊力のあることをアマテラスが認めている。ウズメは天上界最高の霊能者だった。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 山神のオオヤマツミ(大山津見の神)は、娘イワナガヒメ(石長姫)が実家に戻されたことにひどい屈辱を感じて、こんな絶縁状をニニギに送りつけた。「私の娘二人を一緒に差し上げた理由は、姉娘イワナガヒメを差し上げたのは、天神の子孫の寿命が、大雪にも大風にも損なわれず、いつも巌のように永遠不滅であれと、また、妹娘コノハナノサクヤビメ(木の花の咲くや姫)を差し上げたのは、木の花がはなやかに咲くように子孫が繁栄してほしいと願って、神意を受けるために、二人一組で献上したのです。ところが、このようにイワナガヒメを実家に返して、サクヤビメ一人を妻とされました。その結果、天神の子孫の寿命は、木の花のようにはかなく短い定めになってしまうことでしょう」 これが起源となって、今に至るまで、歴代の天皇の寿命は長久ではなくなったのである。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「トヨタマビメは不思議に思い、門の外に出て見て、たちまちホオリの美貌に一目惚れしてしまった。互いに見交わす顔と顔、激しく情熱を交わした後、トヨタマビメは父の海神ワタツミに、「門のところにとてもりっぱな方がいます」と伝えた。 娘の言葉を確かめるため、父神はみずから門の外に出て男を見た。「この方はアマツヒコ(天孫)の御子のソラツヒコ(太子)でいらっしゃる」と驚いて、すぐに宮殿に招いた。珍しい海驢の皮の敷物を何枚も敷き重ね、その上に絹の敷物を何枚も重ねて、ホオリを座らせた。たくさんの結納品を用意し、豪華な食事でもてなして、娘のトヨタマビメと結婚させた。 こののち、ホオリは三年の間、海神の宮殿でトヨタマビメと結婚生活を送った。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】『古事記』の中でもっとも文学の香り高い物語として有名な章段である。たんなる兄弟争いのように見えるが、真のねらいは王権の拡張にある。 先代のニニギは山神の娘と結婚して山の支配権を獲得したので、当代のホホデミは海神の娘と結婚して海の支配権を獲得する必要があった。この二つが揃って、国土の支配権は万全なものとなるからだ。 しかも、山神は地の神であり、海神は水の神でもあったから、五穀豊穣のためには絶対に必要な神々である。ホノニニギが穀神の名であることを思い起こせば、地と水の必要性を納得できよう。 これを、天と海山との荘厳なる聖婚にたとえることもできよう。海山の神霊に守護された天子こそは「豊葦原の瑞穂の国」の真正なる支配者である。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「その一方、『出雲国風土記』には、娘を食われて復讐の念に燃え、神に祈願したところ、鰐たちが集まって犯人の鰐鮫を教えたので、怨みを晴らすことができたという話が載っている。当時の出雲地方には鰐鮫が多く生息し、被害者も多かったのだろう。赤褌や長い六尺褌が鮫よけになるというのは俗信にすぎない。 ちなみに、日本は鮫を最もよく利用する国といわれる。鰭がお馴染みのフカヒレとして輸出されるほか、肉は蒲鉾などに加工される。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 さらにまた、タカギは夢の中でイワレビコに、「天神の御子よ。これ以上、奥に入ってはなりません。邪神どもがたくさんおります。今、天上界から八咫烏を遣わします。その八咫烏が道案内をしますので、飛んでいく後ろについて進みなさい」とさとした。 その教えのとおりに、八咫烏の後ろをついて行くと、吉野川の合流点に着いた。そこに、筌(細竹を編んだ筒型の道具)をしかけて魚を獲っている人がいた。天神の子イワレビコが「おまえは誰か」と尋ねたところ、「私は国の神で、名はニエモツの子と申します」と答えた〔これは阿陀(五條市。阿田)の鵜飼の祖先である〕。 また進むと、尾のある人が井戸の中から出てきた。その井戸の水は光っていた。「おまえは誰か」と尋ねたところ、「私は国の神で、名はイヒカと申します」と答えた〔これは吉野の首らの祖先である〕。 そこから山に入ると、また尾のある人に出会った。この人は岩を押し分けて出てきた。「おまえは誰か」と尋ねたところ、「私は国の神で、名はイワオシワクの子と申します。今、天神の御子がおいでになると聞きましたので、お迎えに参りました」と答えた〔これは吉野の国栖の祖先である〕。 さらに、道なき道を踏み越えて宇陀(宇陀市)に入った。この難渋した行軍にちなみ、地名を宇陀の穿(菟田野区宇賀志)とつけた。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 オオタタネコがオオモノヌシの子孫であることを言い伝える話にこんな物語がある。 あのイクタマヨリビメは容姿端麗な美人だった。ところが、夜半、すうっと鍵音もたてずヒメの寝室に忍び込んできた男がいた。見れば、容姿も態度も最高の男である。二人は一目で相思相愛の仲になり、親に秘密の同棲生活を始めたが、まもなくヒメは妊娠してしまった。 当然のことながら、娘の体の異変に気づいた両親は、「おまえは妊娠しているようだが、夫もいないのに、どうしてそんな体になったんだ」と問いつめた。「とてもすてきな方が現れて、名前も知りませんが、毎夜、私のもとに通ってきて、いっしょに過ごしているうちに、いつの間にかできてしまったの」とヒメは答えた。 返事を聞いた両親は、男の素姓を知りたいと思い、娘に向かって、「赤土を床のあたりに撒き散らし、糸巻に巻いた麻糸を針に通し、その針を男の着物の裾に刺しておきなさい」と教えた。 娘は教えどおりにして、翌朝、見てみると、針に通した麻糸は戸の鍵穴から通り抜け、糸巻にはたった三輪の麻糸だけが残っている。これで、男が鍵穴から抜け出たことがわかった。その糸をたどって行くと、三輪山に至り、神社で終わっていた。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
そうですね。古事記 は、現代の感覚で読むとかなり「生々しい」「性的だな」と感じる場面があります。
たとえば有名なのは、伊邪那岐命 と 伊邪那美命 が国生みをする場面です。
柱を回って出会ったあとに性交によって島々を産む描写があり、「女から先に声をかけたので子がうまく生まれなかった」という話まで出てきます。
また、
* 男根を連想させる表現
* 性交や出産の直接的な描写
* 求婚歌や寝所のエピソード
* 兄妹婚・近親婚的な神話構造
* 「見る/見られる」ことへの性的タブー
などもかなり多いです。
でもこれは単なる“エロ”というより、古代では「性=生命力・豊穣・神聖な力」という感覚が強かったからなんですよね。
農耕社会では「産むこと」が世界そのものの生成と直結していたので、性描写が神話の中心にある。
だから 古事記 は、
* 神話
* 政治的正統性
* 呪術
* 性と生殖
* 歌謡
が全部混ざった、不思議なテキストなんです。
しかも文章が妙に官能的なところもある。
たとえば求愛の歌のやり取りなんかは、かなり艶っぽいです。『万葉集』に近い感覚もあります。
逆に、後世の儒教的・近代的な「性は隠すもの」という価値観で読むと、「えっこんなに露骨なの?」となりやすいですね。
「【訳文】 垂仁天皇がサオビメを皇后にしていた時のこと、サオビメの兄サオビコ王が実の妹に、「夫の天皇と兄の自分とでは、どちらを愛しているか」と尋ねた。妹の皇后は「それは兄上のほうを愛しています」と答えた。 すると、サオビコ王は謀反の計画を妹に打ち明けて、「おまえがほんとうに私を愛しているならば、私はおまえと二人で天下を治めようと思う」と誘い、十二分に鍛えた鋭利な紐小刀を妹に与えて、「この小刀で眠っている天皇を刺し殺せ」と、そそのかした。 一方、天皇はそうした陰謀を知るよしもなく、皇后の膝を枕にして、心安らかに休んでいた。この時機をとらえて、皇后サオビメは紐小刀で天皇の首を刺そうと、三度それを振り上げたが、つらくてつらくて、刺すことができない。皇后の流す涙は天皇の顔の上に落ちた。 この涙に天皇は目が覚めて起きあがり、皇后に、「不思議な夢を見た。佐保(奈良市)の方からにわか雨が降ってきて、急に顔を濡らしたのだ。それに、錦の模様のある小さな蛇が、私の首にぐるぐる巻きついた。この夢は、いったい何の前兆だろうか」と打ち明けた。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
古事記を読めば日本人がどんな人たちなのか、どういう文脈からきたやつらなのか、割とわかるからすき。そうそう日本人ってそういうとこあるよね、ワハハつって
「兄は、自己を主張できない妹の純真な性格を知りぬいた上で、政治的野望の生け贄にした。夫を愛することと、兄を愛することは次元の異なる愛なのに、二者択一を迫ったあげく、天皇刺殺を命じた。 暗殺計画が未然に発覚しても、なおも自らの一言ゆえに兄に組みするサオビメ。家名と氏族の運命に翻弄される姿が哀れである。嫁ぎ先よりも実家を選ぶ女性はどうしても支配階級に多い。 敵陣にありながら、赤子に名をつけ、子育ての方法を示し、しかも後妻候補まで推薦する皇后。これを見て天皇はためらいを捨てた。 愛することの苦しみを描いて、『古事記』最高の芸術度を示す。この章段に限って言えば、女性の守り伝えた物語であると断言できる。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
古事記や日本書紀も、初読ではあまり要領が得られなかったのだけど、
多少は民俗学や神道教学の知識を身につけた今になって読むと、一言一句が極めて示唆に富んでいることに気がつく
内容自体は平易なので誰にでも読むことができるが、その意味では読者に対して相応の知識を要請する典籍ではある
【伊弉諾神宮】
『古事記』・『日本書紀』の冒頭「国生み神話」に登場する、国生みを果たされた伊弉諾尊と伊弉冉尊の二柱をお祀りする神社です
拝殿は工事中でした。
#伊弉諾神宮 #兵庫県淡路市 #淡路島 #淡路国一宮 #パワースポット
『山』(39)
『三輪山』
奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山。古来大物主大神が鎮しずまる神の山として信仰され『古事記』や『日本書紀』には御諸山、 美和山、三諸岳と記されている。高さ467m周囲16km面積350haのお山は松・杉・檜などの大樹に覆われる。
「【寸評】 父に愛されていないという悲しみを、叔母のヤマトヒメにぶつけるヤマトタケル。父に愛されたい一心で戦いに明け暮れた日々は何だったのか。──ヤマトタケル物語の中でも胸にしみる名場面である。ヤマトヒメがタケルの愚痴には応じないところがいい。甥の運命を見通している霊能者は神剣と火打ち石を授けて、新たなる戦場に送り出す。その優しさは女神のようだ。『古事記』のみならず古典文芸における叔母の地位は、実母よりもはるかに重いものがある。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 オトタチバナヒメが海神の怒りを鎮めるために荒海に身を投じた(口絵・裏)。その七日後、海岸に櫛が流れ着いた。このさりげない一文が感涙を誘ってやまない。 オトタチバナヒメの名は武蔵の国橘樹郡出身のオトヒメ(美女)の意。このオトタチバナヒメほど英雄ヤマトタケルにふさわしい妻はいない。一生を戦場で送ったタケルにとって、ヒメは戦陣の妻だった。 夫の勝利を願って一命を捧げたヒメに、タケルは足柄山から「吾妻はや」と呼びかけてその霊を慰めた。 走水の海は「潮の流れの速い海峡」という意味。当時、東海道の終点である常陸の国(茨城県)に行くためには、走水の海(浦賀水道)を渡り、上総(千葉県)に上陸するのが最短のコースだった。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 戦い終わった英雄は必ず故郷をめざす。だが、剣の霊力に見離された英雄は、ひとり滅びの道を歩むほかなかった。「一本松」を自分の分身に見立てるほど、絶望的な孤独感がタケルをむしばんでいく。今ようやく剣を置き忘れる過ちに気づいたタケルだったが、時すでに遅かった。 やがて、故郷にたどりつけないという死の予感に襲われはじめた。「倭は国のまほろば」という望郷の念をこめた絶唱が悲しく響く。長く苦しかった戦いの疲れが死病を呼び込んで、英雄ヤマトタケルはここに倒れた。 いかなる英雄も剣霊に見離されたならば滅びるほかない。この刀剣信仰は、『古事記』の敬神思想を太く鋭くつらぬいている。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】『古事記』と『日本書紀』とは異母兄弟 日本の神話のほとんどが『古事記』と『日本書紀』に収録されている。日本神話のことを、書名の末尾を合わせて「記紀神話」というのも、二書が神話集の代表だからである。その点からすれば二書は兄弟ともいえる。が、事はそう簡単ではない。 この兄弟、父親は天武天皇であることは確かだが、母親が違う異母兄弟なのだ。『古事記』の母親役は太安万侶、『日本書紀』の母親役は舎人親王(天武天皇の子)。だが、公的に認知されているのは『日本書紀』で、『古事記』のほうは官選の歴史書から無視された日陰者扱いだ。その理由はいろいろ取りざたされているが、真相は今ひとつはっきりしない。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「オオクニヌシも、あの因幡の白兎の話は『日本書紀』には出てこない。敵役にはもったいないからかどうか、その辺の事情はわからないが。 さらに、ヤマトタケルにいたっては人格ががらりと変わる。『古事記』では、兄を殺したり、父から見捨てられたと叔母に訴えたりする不肖の息子だが、こんな話は『日本書紀』にはまったくない。『日本書紀』のヤマトタケルは父の命令に従って、勇んで蝦夷征伐におもむく自慢の息子である。どだい『古事記』の「倭建命」と『日本書紀』の「日本武尊」では、見た目にも違いすぎるというものだ。 挙げればきりがないので省略するが、『日本書紀』には「一書に曰はく」として、異文がたくさん出てくる。要するに、出所不明の兄弟が何人もいるのだ。 というわけで、日本神話をきちんと読むには、『古事記』『日本書紀』の二書を、読み比べる必要があるのである。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「神功皇后には卑弥呼ばかりか、アマテラスの戦う女神像も重なる。そもそも『古事記』に登場する女性像は、男性像よりも力強く輝いているものがはるかに多い。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「阿礼は、天皇の最も近くで最も信頼され、天皇の私的な極秘任務を遂行する立場にあったのである。阿礼は、天武天皇が校定した内容(原『古事記』)を暗唱するとともに、漢字の読み方および発声の仕方(節回し)について、天皇から直接に指導を受けた。 いささか語弊はあるが、彼は一種の録音・再生装置として用いられたのである。今ならパソコンで簡単に保存できるが、当時こうした記憶力抜群の人間は、いろんな分野で重用されたに違いない。いわゆる語部もこうした人間であったろう。 しかし、たんに記憶力だけで選抜されたのではない。阿礼の出身が記憶力以上に重要な資格条件だった。稗田の家系はアメノウズメを祖とする猿女である。猿女は宮中の鎮魂祭などで神楽舞に奉仕した女性である。この秘儀に奉仕する家には、皇室の系譜にまつわる伝承が歪曲されずに伝わっていた。これが阿礼を『古事記』編集に起用した最大の理由であった。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「さて、これまでも述べてきたように、『古事記』は系譜部分と伝承部分の二部構成になっている。系譜部分には天皇の続柄・名・皇居・年齢・治世年数・后妃・皇子・皇女・事績・御陵などを記してある。伝承部分には神話・伝説・説話および歌謡などを収めてある。 系譜は『古事記』を心柱のように貫いているが、神々の名を記した神統譜と歴代天皇を記した皇統譜があり、二つは連続している。この接続部にあって、両者を媒介しているのが天孫降臨の神話である。天神から天孫へ、そして天皇へと途絶えることなく系譜は脈々と続く。してみると、『古事記』は、ある名言を借りれば、「天皇の、天皇による、天皇のための書」と言い換えることができそうである。」
—『古事記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
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Posted by ブクログ
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源氏物語をきっかけに日本古典文学読み漁ってるけど、めっちゃ面白い。
「ちなみに、ギリシャ語「スコレ( schole)」は「暇( leisure)」の意であったが、のちに「学校( school)」を意味するようになったという。ゆとりのある時間という点で「つれづれ」と相通じるものがある。思いの外「つれづれ」はグローバルな側面をもっているようだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「やがて、退屈だ、ひまだ、という否定的な判断が入る。『徒然草』の作者兼好は、そうした否定的な意味を、逆転させて、積極的な精神活動のきっかけに用いた。そこに、新しい発想の転換がみられる。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「男の身に付けたいことは、政治・法律に関する実学、漢詩・和歌を作り、管弦楽器を演奏する芸術である。さらに、朝廷内のさまざまな規則や慣例などに詳しくて、人の模範となるのは、すばらしいことだ。字は達筆で、すらすらと書き、宴席にあっては美声で拍子をとり、酒は遠慮するものの、ちゃんと相手をする。これが最上の男である。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「家柄と容姿は、生まれつきでどうにもならない。だから、後天的な努力で、男の夢を実現しようと思ったら、学問と社交術を身に付けることだという。学問は人に敬意を表され、社交術は人に好意を抱かせる。酒は、ほどほどに嗜み、歌もうまいほうがよいとなれば、現代にも十分通用する出世の本道ではないか。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「ここに登場するプレイボーイは、やはり『源氏物語』の主人公を思わせる。恋多き光源氏もまた、ハントの成功率は百パーセントではなかった。絶世の美男子も、振られることがあった。ただ、失敗しても、女性を恨まない。女性を人間として愛するからだ。そんな、こだわりのない明るさと、自然な若気の至りとが、彼の魅力の源泉である。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「命あるもので、人間ほど長生きなものはない。かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏蟬のように夏だけで春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでも、なんとものどかな話ではないか。もしも命に執着すると、たとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう。どうせ、永遠には住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか。長生きすると、恥かくことも多くなる。長くとも、四十そこそこで死ぬのが無難というものだ。 その年齢を過ぎると、容貌の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て、社交的にふるまおうとする。さらに、日没の太陽のような老齢の身で、子孫を溺愛し、彼らの繁栄を見届けようと、長命を望み、世俗の欲望ばかりが強くなり、深い感動の味わいもわからなくなっていくのは、なんとも救いがたい気がする。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 四十そこそこで死ぬのが理想的だ、とは長命者に無礼であろうか。ただ、兼好の時代は、平均寿命およそ三十歳。四十歳にもなると、四十の賀という長寿の祝いをした。だから、この点を割り引いて考えよう。 問題は、長寿が肉体的な若さよりも精神的な若さを失うことの恐さを指摘していることにある。心身の老化によって、恥じる心をなくし、本能を抑えきれなくなることへの嘆きが伝わってくる。長命は必ずしも長寿とは言いがたいのが現実なのだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 栗栖野 栗栖野は、京都市山科区内にある。この栗栖野の近く、山城の国山科の小野庄(京都市山科区山科)に、兼好の隠棲の地があったとされる。一三一三年九月に、水田一町を九十貫文で買い取った文書が残っていて、小野庄はその水田の所在地であった(一三二二年に売却)。水田の権利書には、「兼好御房」と記されてあり、この時点で、すでに出家をしていたことがわかる。年齢は、推定三十一歳である。コラム「財テクに励んだか」参照*。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 筧・閼伽棚 筧(懸樋)は、山間・山麓などの井戸を掘りにくい場所に、谷川の水を引くための給水装置。竹を二つに割って、節を取ったものや、木をくり抜いたものを用いる。「閼伽」は、もと梵語で、水の意。インドでは、供物を捧げるときに水を添える習慣があり、そこから供養の水を意味するようになった。中国では、供物を入れる容器を指したが、やがて仏に献ずる浄水を意味するようになった。閼伽棚は、おもに建物の西側に寄せて、高さ約一メートルの位置に作り、その中に供物の水を入れた器「閼伽桶」などを置く。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「気持ちのぴったり合うような相手と、心静かに語り合い、おもしろい話題や人の世の無常などを取り上げ、本音を吐いてすっきりするのは、楽しいに決まっている。しかし、そんな相手はいるはずもないので、相手の意に反しないように、気を遣いながら向かい合っているとしたら、逆に孤独感が湧いてくるのではないだろうか。 互いに言いたいことを言い合うと、相手の意見が、なるほどと耳を傾ける価値はあるけれども、自分と少し異なる場合もある。そういう相手とは、「自分はそうは思わない」などと反論し、「そういうわけでそうなのだ」などと論じ合ったら、退屈しのぎにはよいだろうと思う。けれども、実際には、人の世を嘆く話題のときでも、自分と少し合わない相手の場合、雑談している間は我慢できるが、ほんとうの心の友に比べると、遠く及ばないものだと思い知らされて、なんとも寂しくなってしまう。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「独り灯火のもとで読書して、作者や登場人物など、知らない昔の人を友とするのは、何よりも心が安らぐ。 書は、『文選』の感銘深い巻々や『白氏文集』『老子』『荘子』などがふさわしい。我が国の博士たちの書いた本も、昔のは心にしみる内容のものが多い。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 ひとり旅でも、ふたり旅でも、家族旅行でもかまわない。自分の住みかをちょっと離れて、よその土地をのぞくだけで、日常生活でたるんだ心がしゃっきりする。未知のものに向かい合うときの、新鮮な心のたかぶりが、旅の魅力であることを、兼好は言い当てている。 あれこれ旅費を工面し、その揚げ句が疲労困憊であっても、旅が心の垢を落とす意義は変わらない。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「どこでもよい、ちょっと小さな旅をすると、目が覚めるような新鮮な気分になるものだ。 あちこち見て回ると、自分の住んでいる所とはずいぶん違うものだと、改めて感じさせられることが多い。そんな旅の思いが、残してきた家族への情愛をかきたてて、「ああしろ、あれを忘れるな」などと、気配りの細かい便りを書かせるのだ。 楽しい旅のなかでは、何にでも心配りが細やかになってくる。携帯品までも引き立って見え、才能ある人や美しい人などは、ふだんよりいっそうすばらしく見えるものだ。 遠く離れた寺院・神社などに誰にも言わず出かけて、泊まりがけで祈願するのもなかなかいいものだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「話題を季節に戻そう。冬枯れの景色は、秋に優るとも劣らない。庭の池の水際に紅葉が散りとどまっていて、その上に霜が真っ白に降りている朝、遣水から水蒸気が煙のように立ちのぼる光景は、なんとも風情がある。 年も押し詰まって、誰もがみな、忙しく動き回っている時分は、じつに感慨深いものだ。また、荒涼たるものとして誰も目もくれない師走の月が、寒々と澄んだ光を放つ二十日過ぎの空は、心に深くしみてくる感じがする。 宮中では、御仏名の法会が行われ、また、荷前の勅使が出発するなど、おごそかで胸に迫るものがある。このころは、公の儀式・行事が集中していて、新年の諸行事の準備に重ねるようにして催される光景は、すばらしいの一語に尽きる。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 ちょっと、こむずかしい話になるが、季節の移り変わりを賞美することは、四季それぞれを単独に賞美することと、根本的に違う。春・夏・秋・冬の四季の美を、個別に味わうのではない。春夏秋冬の連続した季節の流れに、心身をまかせて、季節との一体感を味わおうというのである。この態度こそが、日本人独特の自然観を形作っているといえる。 移り変わる自然のすがた、流転・流動する人の世のすがた、何もかもが無常である。しかし、この無常に、悲哀だけを感じるとすれば、それは偏見でしかない。兼好にとって、無常は人間が生きる世界の本質なのであり、逆らうことなく、心身をあずけるべきものなのだ。 無常だから、どうだというのか。涙しても、笑っても、そうした人間の感情とは、いっさい関わらないからこそ、無常の価値はある。言い換えれば、無常の前では、人間皆、平等である。あらゆる差別を超えて、同じ出発点から、人生を始めることができる。それを保証するのが、無常観なのだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「心静かに思い出にふけると、何事につけ、過ぎた昔の恋しさだけがどうしようもなくつのってくる。 人の寝静まった後、秋の夜長の暇つぶしに、雑多な身の回りの品々を整理して、保存する必要のない書き損じの紙などを破り棄てる。その中に、今は亡き人が文字や絵を遊び書きしたものを見つけると、一瞬にして心はその人が生きていた当時に戻ってしまう。 今生きている人の手紙でさえ、月日がたって、これをもらったのはいつの年でどんな時だったか、と思いをめぐらすうちに、しみじみとした気分に引き込まれる。 まして故人の使いなれた道具類が、人情とは無関係に、いつまでも当時のまま残っているのを見るのは、たまらなくせつないものだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 『徒然草』全段のなかでも異彩を放つ章段だ。兼好は自分が逆立ちしてもかなわない人物を紹介する。事細かに盛親僧都の行動を描いているのを見ても、羨むどころか、兼好は憧れさえ感じているようだ。盛親僧都は実在したことは確かだが、伝記の詳細は不明である。兼好は実際に見て知っている人物なのかもしれない。それほど生き生きした人間像が描かれている。自分がなろうと努力しても及ばない理想の自由人を、盛親僧都に見いだしたのだ。尊敬と憧憬の念がすなおに伝わってくる名文だ。末尾の一文「徳の至れりけるにや」に兼好の思いのすべてがこもる。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 人の名を聞くと、すぐにその人の顔が心に浮かんでくるような気がするのに、本人と実際に会って見ると、想像どおりの顔をした人はいないものだ。 遠い過去を記した物語を聞いても、現在ある人の家の、あの付近で起こった出来事だろうかと推測され、登場人物についても、現にいる実在人物になぞらえてしまうのは、人間誰もがこんなふうな心理になるものなのだろうか。 また、何かの機会に、今、人が言っていることも、我が目で見ている物も、我が心に浮かぶことも、いつだったか、過去にあったという気がする。確かな時間は思い出せないけれど、確実に存在したという気持ちがするのは、自分だけだろうか。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「話すそばから、「うそ」がばれるのも気にしないで、口から出まかせにしゃべり散らすのは、すぐに信頼できない話と判断される。また、自分でも事実らしくないと疑いながら、他人の話をそのまま、小鼻をぴくつかせながら、得意げに受け売りするのは、彼自身に「うそ」の罪はない。一方、こういう軽薄な「うそ」に対して、危険な「うそ」がある。いかにも事実らしく、話のところどころを自信なさそうによくわからないふりをして、そのくせ、話の筋道はきちんと合わせて語る「うそ」は、誰もが信用するので、恐ろしい。また、自分にとって名誉になるように、他人から言われた「うそ」の場合、言われた当人は、文句をつけて全部否定することはしない。また、誰もが喜ぶような「うそ」は、自分独りだけ「事実とは違うのに」と否定してみたところで、逆に白眼視され否定されそうな危険があるので、黙って聞いているうちに、話の証人にまでされて、「うそ」は、ますます事実として確定していく。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 兼好と吉田 兼好の血筋は、吉田神社の神主卜部氏につながっている。神官の名門卜部氏の分家筋に当たり、祖父・父とも宮廷に仕えている。平安京の守護神として春日明神を祭る吉田神社(京都市左京区)にちなみ、後世、吉田氏に改姓した。ただし、それは兼好の死後のことだから、卜部兼好が正しく、吉田兼好は江戸時代の俗称である。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「時間をもてあます人の気が知れない。何の用事もなくて、独りでいるのが、人間にとっては最高なのだ。 世の中のしきたりに合わせると、欲に振り回されて迷いやすい。人と話をすると、ついつい相手のペースに合わせ、自分の本心とは違った話をしてしまう。世間とのつき合いでは、一喜一憂することばかりで、平常心を保つことはできない。あれこれ妄想がわいてきて、損得の計算ばかりする。完全に自分を見失い、酔っぱらいと同じだ。酔っぱらって夢を見ているようなものだ。せかせか動き回り、自分を見失い、ほんとうにやるべきことを忘れている。それは、人間誰にもあてはまることだ。 まだこの世の真理を悟ることはできなくとも、煩わしい関係を整理して静かに暮らし、世間づきあいを止めて、ゆったりした気持ちでほんらいの自分をとりもどす。これこそが、ほんの短い間でも、真理に近づく喜びを味わうといってよいのである。 日常の雑事、義理づきあい、もろもろの術、我利勉なんかとは縁を切れ、というふうに『摩訶止観』(中国天台宗の根本聖典)にも書いてありますよ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 人間、一人ぼっちじゃ生きられない。が、社会人として、他人といっしょに生活すると、今度は自分を貫くことがむずかしくなる。そこで、ぜひとも「つれづれ」の時間を、自覚的に確保することが必要だ。「つれづれ」を活用して、自分の置かれている立場をチェックしてみよう。そのうえでなら、大いにエンジョイしてもかまわない。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「ほんとうに教養のある人間は、知ったかぶりをしない。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 いわゆる完全主義を批判した一段である。中途半端で手抜きだと見えるが、じつは完成によって終わるのをきらい、ものの命が永く続くように願う心から出たのだ。不完全なものには、後で完全なものになるという楽しみがある。これは祝意をこめた人生の知恵だ。 ほんらい金ぴかなはずの仏像よりも、金箔の剝げた黒ずんだほうをありがたがるのは、命の長さを尊んだからだ。不祝儀の金額が割り切れる偶数で、祝儀のは奇数にするのも同じ発想だ。奇数には、割り切れて終わるまで、先の命がある。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 ことわざ「朱に交われば赤くなる」の応用編である。 愚者が、自分を絶対基準にして他人を評価するのは、よくある話だ。自分だけがすべてだから、愚者は相手をまねる余裕もない。ただ、中傷と憎悪に終始する。 さて、まねる余裕のある人間は、どうすればよいか。そのとき、善事をまねるか、悪事をまねるかで、人間の価値は決まると、兼好は言う。 実際に何をまねるかが問題なのだ。人格は、まねることによって、向上するからだ。ちなみに、「まねる」は「学ぶ」の語源である。 偽善とか偽悪とか、言葉のあやに騙されてはならない。偽善には否定的な臭いがあるが、うそでも善事を積み重ねれば、人格者へと向上していく。偽悪の場合も同じで、冷やかし半分で悪友とつきあっているうちに、犯罪者の仲間入りをしてしまう。──人間の本性にある弱点をとり出して注意を促している。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「偽善とか偽悪とか、言葉のあやに騙されてはならない。偽善には否定的な臭いがあるが、うそでも善事を積み重ねれば、人格者へと向上していく。偽悪の場合も同じで、冷やかし半分で悪友とつきあっているうちに、犯罪者の仲間入りをしてしまう。──人間の本性にある弱点をとり出して注意を促している。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 「山奥に猫またという怪獣がいて、人を食うそうだ」という噂がたつと、それに輪をかけて、「何も山奥でなくても、この街中だって、猫が年取ると、猫またになって、人の命を奪るというのになあ」と言う者までいる。この噂を聞いて、何阿弥陀仏とかいう名の、連歌で暮らしをたてていた、行願寺付近に住む法師が、独り歩きが多いから気をつけなくっちゃ、と心配していた。 そんな折も折、ある所で連歌の会があり、深夜遅くなって一人で帰ることになった。ちょうど、家の近くの小川のほとりで、あの噂の猫またが、その通りすうっと足元に近づくと、ぱっと飛びついて首の辺りに嚙みついた。完全に正気を失った法師は、振り払う力もなくして、腰が抜けてしまい、「助けてくれ。猫まただあ。猫まただあ」と叫んだので、近所の家々から、大勢明かりをともして、駆けつけると、何と近所に住む僧ではないか。「どうされた」と言って、川の中から助け起こすと、連歌の賞品の扇や小箱などを懐中にしまい込んでいたが、それもみな、川の中に落としてしまった。法師は、九死に一生を得たかっこうで、這いずりながら家にたどりついた。──実は、法師の飼い犬が、主人の帰りを知って、喜んで飛びついたんだとさ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「男は、人々のあざけりを無視して、続けて言うには、「そういうわけで、人間誰しも、死ぬのがいやならば、だからこそ、今ある命を愛するべきなのだ。命ながらえる喜びを、毎日たいせつに楽しまなくてはいけない。愚かな人間は、この楽しみを知らず、物欲に振り回されてあくせくしている。命という宝を忘れて、やたらと快楽や金銭という別の宝ばかり追い求めていては、いつまでたっても心満たされることはない。そんなふうにして、生きている時に、生きる喜びを楽しまないで、いざ死ぬ時になって死を恐れるならば、私の言う理屈とは合わない生き方をしていることになる。 つまり、誰もが生きる喜びを楽しもうとしないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないからではなく、人間はいつも死と隣り合わせに生きているという自覚がないからなのだ。あるいはまた、それが、生きるとか死ぬとかいう次元にとらわれないで生きているというのならば、それこそは人生の真理を悟っているといってよい」と語ると、人々はいっそう男をばかにして笑った。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 財テクに励んだか―土地売買証書 * 1 * 2 兼好は、世捨て人といっても浮浪者ではないから、ある意味では悠々自適の生活を楽しむ自由人である。しかし、実家は神道の名家であっても富裕ではないので、生活費をどうやって工面したか気にかかるところだ。 兼好三十一歳、一三一三(正和二)年九月一日付の土地売券が残っていて、それによれば兼好は六条三位有忠から、山科小野庄(京都市山科区山科)の田一町を銭九十貫で買い取っている。九十貫という大金を持っていたことに驚くが、厳しい契約条件をつけているのに二度びっくりする。免税対象にすること、契約破棄の徳政令を適用しないこと、契約違反したら元金の一・五倍を支払うこと、延滞したら備中国(岡山県)の土地を引き渡すこと、など。まるで不動産屋顔負けだが、財テクに励む経済人兼好の一面をうかがわせて興味深い。 証書は当時の業者が作成したとしても、兼好が私たちの先入観以上に資産家だったことは確かだ。銭一貫 =米一石(百五十キロ)という当時の条例をもとにして、今の標準米価十キロ四千円をあてはめれば(大ざっぱだが)、約五百四十万円となる。田の一町は約九十九アール(約三千坪)。田圃が安いかどうかは、現在と金銭感覚が違うので判断できないが、いわゆる隠者といっても無一文の生活ではないことがわかる。 親友頓阿に米銭をねだる歌が残っているが(コラム「よき友、頓阿」参照*)、金のある人間ほどケチだそうだから、それとこれとは矛盾しない。晩年に金持ちの権勢者と交遊していることからも、体面を保つだけの資産は持ち合わせていたとみてよい。親兄弟ともに教養も地位もある人物だから、実家からそれなりの財産分与を受けたのかとも想像する。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「木登りの名人といわれた男が、人に指図して、高い木に登らせ、枝を切らせた時のことである。 非常に危険だと思われた間は、何も言わず、切り終わって降りてきて、軒の高さほどになった時に、「足を踏みはずすんじゃないぞ。注意して降りろよ」と、声をかけた。そこで、「これくらいの高さなら、飛び降りたってちゃんと降りられるだろうに。どうしてそんなことを言うのかい」と聞いてみた。すると、この名人は、「それなんですよ。高くて目がくらみ、枝が折れそうに危ないときは、本人自身が慎重ですから、注意する必要がありません。失敗というものはきまって、なんでもないところで、やらかすものなんですよ」と答えた。 地位も教養もない男だが、言うことは聖人の教えに一致している。蹴鞠も、難しい鞠をうまく当てた後で、気を抜くと、必ず蹴りはずし、落としてしまうということだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「彼らに対して、醜い顔を取り替えろとか、取った年を取り戻して若返れとか、無理な注文をつけているのではない。芸の衰えを自覚したなら、どうして直ちに引退しないのか。年の衰えを自覚したなら、どうして閑静な生活に移って、体を休めないのか。修行の怠惰を自覚したなら、どうして原因は自分にあると、自己批判しないのか。 だいたい、人に好かれないのに、大勢の中に入ってつきあうというのは恥なのだ。容貌が醜く、思慮に欠けるのに公務につき、無学なのに博学の人とつきあい、芸が未熟なのに達人の座に加わり、白髪頭なのに血気盛んな若者と張り合い、まして、自力では不可能なことを求めて、思いどおりにいかないことを悩み、実現しそうもないことを期待して、おどおどしたり、ぺこぺこしたりするのは、他人から与えられた恥ではなくて、自分の強欲に引きずられて、自分で自分自身を辱めているのだ。しかも、この強欲が消えない原因は、死(無常)という大事が、今目前に迫っていることを、はっきり自覚しないからだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「彼らに対して、醜い顔を取り替えろとか、取った年を取り戻して若返れとか、無理な注文をつけているのではない。芸の衰えを自覚したなら、どうして直ちに引退しないのか。年の衰えを自覚したなら、どうして閑静な生活に移って、体を休めないのか。修行の怠惰を自覚したなら、どうして原因は自分にあると、自己批判しないのか。 だいたい、人に好かれないのに、大勢の中に入ってつきあうというのは恥なのだ。容貌が醜く、思慮に欠けるのに公務につき、無学なのに博学の人とつきあい、芸が未熟なのに達人の座に加わり、白髪頭なのに血気盛んな若者と張り合い、まして、自力では不可能なことを求めて、思いどおりにいかないことを悩み、実現しそうもないことを期待して、おどおどしたり、ぺこぺこしたりするのは、他人から与えられた恥ではなくて、自分の強欲に引きずられて、自分で自分自身を辱めているのだ。しかも、この強欲が消えない原因は、死(無常)という大事が、今目前に迫っていることを、はっきり自覚しないからだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 鏡に映るわが醜貌に衝撃を受けた高僧が、以後、人前に姿を現さなかったという。この僧の行動をどう評価するか、意見は分かれよう。醜貌と社交とは別問題として、僧の行動を否定することもできる。しかし、兼好は、己の恥を自覚する人間として、高く評価した。あまりにも自己批判のない人間、恥知らずの人間が多すぎる。ソクラテスではないが、人生究極の課題は、汝自身を知れ、という言葉に尽きる。そして、この鋭い舌鋒を、最終的に、兼好は自己自身に向けているのだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 満開の桜や輝く満月だけを追いかけるようでは、美に対するセンスがない。ほんとうの美は、肉眼よりもむしろ心眼によって、心の銀幕に映し出される。その景色は、自分の心が能動的に描き上げたものだ。それに比べると、屋外の景色は、外から押しつけられた単なる受動的な映像にすぎない。目を閉じて、まぶたの裏に花や月のさまざまな情景を自由自在に描いてこそ、自然の美を心底から自分のものにしたといえる。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「いったい、桜や月を、そんなふうにばかり肉眼で見て楽しむものだろうか。桜咲く春は家から花見に出かけないでも、明月の秋の夜は寝室にこもったままでも、心眼で桜や月を見て楽しむほうが、むしろ天候に左右されず自由に想像できる点で心強く、楽しみが増すというものだ。教養人は露骨に愛好心を見せず、興味を示す態度もあっさりしている。反対に、無教養な人間に限って、何事もしつこく興味をあらわにする。花見の時も、桜の木に大げさな身ぶりで、やたらと体を寄せて、じっとねちこく見つめ、また、酒を飲み連歌をして、どんちゃん騒ぎをする。しまいには、桜の大きな枝を何のためらいもなく折ってしまう。こういう連中は、野山に遊ぶと湧いている清水に手足を突っ込み、雪が降ると地面に降りて足跡をつけたがる。どんなものでも、そのものに触れずにあるがままに見て楽しむことができない。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 祭見物の描写だが、現代にもそのまま通用する。祭ほど人間の品格をあらわにするものはない。目をむいてかぶりつくように見る人間と、むっつりと眠っているようにしている人間と、この二つのタイプは、いつの時代にも存在する。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 無常の美とその鑑賞法 ものの盛りの美しさだけに、最高の評価を与えてよいものだろうか。ものの始めや終わりは、たんなる未熟や衰退でしかないのであろうか。いや、最盛の美は必ずしも最高の美ではない、と兼好は断言する。「よろづのことも、始め終はりこそをかしけれ」と、始めの美も盛りを含み、終わりの美も盛りを蔵し、そして最盛の美も始め・終わりの美を包んでいることを指摘した。 始め・盛り・終わりの三態を総合した全体美こそが無常の美なのだ。だが、その美は肉眼で視覚的に堪能できる種類のものではない。磨き上げられた心眼によってしか味わうことのできない美である。兼好は、単なる盛りの美が肉体的・感覚的な快楽美であり、その閉じられた美にとらわれて、精神的・理知的な美を追求しようとしない怠惰を叱ったのだ。美の鑑賞は、あくまでも主体的な心眼によらなければならない、と。 こうした美の鑑賞法は、兼好の独創ではなく多くの先覚がいる。ただ、兼好のように理路整然と説いて、その普及に努めた者はいなかった。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「およそ人情味がないように見える者でも、味のある一言を吐くことがあるものだ。 ある恐ろしい顔つきをした関東の荒武者が、仲間に向かって、「お子さんはおいでか」と尋ねたところ、「一人もいません」と答えたので、「それでは、そなたは人間の情愛はおわかりにならないな。薄情な方だと思うと、恐い気がする。子どものいるおかげで、情愛というものについて、自然に自覚できるようになるものですよ」と話していたが、まさに当然のことである。 確かに、親子の情愛の道に心を尽くさなければ、こんな荒武者の心に思いやりが生まれるはずもない。親不孝者でも、自分で子どもを持ってはじめて、自分に対する親の情愛の深さというのを自覚するのだ。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「人間というものは、生活が安定しないと、平常心を失ってしまう。だから、経済的に追いつめられると、盗みを働くようになる。政治が乱れて、経済生活が破綻すれば、犯罪者は急増する。人々を経済的に苦しめ、その結果、犯罪に導いておきながら、それを罰するのは人々にとって気の毒だ。 では、どのようにして人々に政治の恩恵を与えればよいかというと、政治家や官僚が、贅沢や浪費をやめて、人々の生活に目を向けて、農業(基幹産業)を奨励すれば、間違いなく人々の生活は潤うようになる。 経済的に不自由しないのに、欲にかられて悪事をする人間こそ、ほんものの盗人といってよい。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「大した用事もないのに、人を訪ねるのはよくない。たとえ用事があって訪ねたとしても、用が済んだらさっさと帰るのがよい。そこに長居するのは、相手にとって非常に迷惑なものだ。 他人と向かい合って話していると、相手に合わせる気持ちが無意識に働いて、つい言葉数が多くなる。そのために、体も疲れるし神経も休まらない。やがて、いろんなことに支障が起きはじめ、心の通わない時間が流れていく。お互いに無益なことだ。だからといって、いやそうな顔をして話すのも感心できない。用があるのに長居されたりして、気分が乗らない場合は、我慢するよりも、かえって素直に都合の悪い事情を説明したほうがよい。 ただし、自分と気が合って相手になってくれればよいが、と期待している相手側の主人が、うまいぐあいに用事もなく時間が空いていて、「もうしばらく、いらっしゃい。今日はゆっくり話しましょう」などと言ってくれる場合は、早々に引き揚げる必要はない。古代中国の賢人、阮籍は親友が訪ねると青い眼をして歓迎したというが、そういうことは誰にでもあることだ。 ちなみに、これといった用事もないのに親しい友人が顔を見せて、のんびりと世間話をして帰って行くのは、訪ねる楽しみと訪ねられる楽しみとが一致してじつに快い。また、手紙の場合も同様で、「久しく御無沙汰いたしまして」などと、近況報告だけ記してあるものは、面倒な頼みごとがなくて大歓迎である。」
—『徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
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「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛きものもついにはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」
—『平家物語』作者不詳著
「聖徳太子の十七箇条の憲法に、「人間はみな心を持っている。人間の心は、ものごとにとらわれる性質がある。あちらが正しければ、こちらは誤っている、こちらが正しければ、あちらは誤っている、と、決めつけてしまうが、正しいか誤っているか、その判断の絶対基準は人間が定めることはできない。お互いに賢くもあれば、愚かでもある。賢と愚とは一つの環のようにつながっていて、両者が分かれる端というものはない。だから、たとえ相手が怒っても、相手が悪いと決めつけず、自分のほうに間違いがないか反省すべきだ」とあります。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「皇子誕生により念願の外祖父になれたのは、厳島信仰のおかげであった。清盛は夫婦で厳島神社(広島県)に月詣でしていた。 清盛が安芸守の時、高野山の根本大塔を修理したが、弘法大師の幻から厳島の修理を依頼された。厳島の修理後、夢に天童が現れ、小長刀を授かった。さらに、大明神からの託宣で栄華を約束されたが、悪行があれば子孫までは及ばない、と戒められた。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「敗れて目覚める」この言葉好きなんです、相手を軽んじ過ぎれば痛い目に合う。
負けて言い訳するより、勝った相手から学び力を付ければ良い。
学校で習った平家物語を復習すると人生と似ている。
「盛者必衰の理を表す」だからこそ学びアップデートするのです、人は死ぬまで勉強だから。
平家物語ってマジでジャパンで一番美しい物語すぎる 「祇園精舎の鐘の声」から始まるこの壮大な話は「さるほどに寂光院の鐘の声、今日も暮れぬと打ち知られ、夕陽西に傾けば、御名残惜しうは思しけれども、御涙を押さへて、還御ならせ給ひけり」て、寂光院の鐘と徳子の往生で終わるんだよ スゲーよ
「橋合戦〈はしがっせん〉 * 1 * 2【あらすじ】 奈良に向かった高倉の宮は、強行軍の疲労から六度も落馬したので、宇治の平等院(京都府宇治市)で休息した。そこへ、追撃してきた平家の大軍が、宇治橋のたもとまで押し寄せてきた。ところが、宇治橋の橋板が外されていたため、先陣部隊は川に押し落とされて溺死した。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「その時、新田入道がこう言ったのです。『今ここを渡らなければ、末代まで武士の恥となる。溺死して死ぬならそれでかまわん。さあ、渡るぞ』と号令して、馬を並べた馬筏を組んで、みごとに渡り切りました。坂東武者(関東武士)の心得として、目前の敵を対岸にして、川の深い浅いなど問題にはしない。この宇治川の深さ・速さは、利根川に比べてどれほどのものか。さほど優劣の差はありますまい。後に続け、方々」と叫んで、真っ先に馬を乗り入れた。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「奈良炎上〈ならえんしょう〉【あらすじ】 高倉の宮の謀反に加勢した罪で、奈良(南都)を攻略するという風聞が立ったので、僧兵たちはいきりたった。平家方の使者はすべて追い返し、球技用の球を清盛に見立てて打ったり踏んだりした。また、派遣された警察部隊をも攻撃した。 十二月二十八日、ついに清盛は、重衡を軍司令官に任命、四万の大軍で奈良を攻略した。乱戦となったが、衆寡敵せず僧兵団は撃破された。 その夜、平家軍が民家に放った火は、折からの強風にあおられて、猛火となって南都を襲った。東大寺も興福寺も焼け落ち、南都はさながら焦熱地獄の惨状を呈した。 翌二十九日、重衡は京に凱旋したが、喜んだのは清盛だけで、法皇・上皇はじめ、みな驚きと嘆きの色を隠せなかった。これは天下の衰微する前兆であろう、と思われた。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「新院崩御〈しんいんほうぎょ〉 ──一一八一【あらすじ】 一一八一(治承五)年正月。宮中の諸行事は、関東の争乱、奈良の戦火によってすべて中止され、陰鬱な新年を迎えた。 南都の高僧たちの処分が行われ、寺院は荒廃するばかりだった。 正月十四日、高倉上皇は、不穏な政情を嘆くあまり病床に臥し、二十一歳の若さで崩御した。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「紅葉〈こうよう〉【あらすじ】 故高倉上皇は風流を愛し、また慈悲深い人柄だった。まだ十歳のころ、大切にしていた紅葉の山の落葉を、掃除係が酒を温める燃料にしてしまったが、とがめるどころか、かえって詩句を引いてその風流を愛でたという。また、強盗に女主人の衣装を奪われて泣いていた女童を憐れみ、新たに衣装を授けたこともあった。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「慈心坊〈じしんぼう〉【あらすじ】 また、清盛は慈恵僧正(天台座主良源)の生まれ変わりだといわれた。清澄寺(兵庫県宝塚市)の慈心房尊恵という僧は、夢うつつの間に、閻魔庁の大法会の読経に招待されたが、その時に閻魔法王から、清盛は慈恵僧正の化身であり、天台宗の仏法を擁護するために再来したのだと教えられた。尊恵が清盛にその話をすると、非常に喜び、尊恵に官位を授けた。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 文武両道は日本男児の理想である。『平家物語』の忠度像は、入念な修整を経て、武士の鑑となった。一軍の指揮官として、片腕を落とされながら奮戦、壮烈な戦死を遂げたが、遺体の箙には歌を結びつけてあった(巻九・忠度の最期* 1参照)。また、家集を編むほどの歌才は母譲りでもある、と父忠盛と母の贈答歌が載っている(巻一・鱸*参照)。ここでは、俊成(定家の父)との師弟愛が忠度像に深みを加えた。後世の能・浄瑠璃にも登場回数は多い。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「猫間〈ねこま〉【あらすじ】 帰京した康定は、法皇に鎌倉の情勢を詳細に報告した。法皇はじめ近臣たちも、威厳のある頼朝という人物評価に大満足であった。頼朝には武門の指導者にふさわしい風格があった。ところが、もう一方の指導者義仲は、色白の好男子ではあるものの、無作法で横暴な言動が都人の反感を買っていた。 たとえば、猫間中納言(猫間は地名)を動物の猫扱いするなど、無礼きわまりなかった。また、牛車の乗り方をも知らず、牛飼いを困らせたあげくに斬り殺した。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 十七歳の美少年の若武者が戦場に散るだけでも、女性の紅涙を絞るだろうに、そこに父子の情愛を投影するのだから、たまらない。『平家物語』の哀話のなかでも、落涙の最多量を誇りそうだ。ただ、無抵抗に近い敦盛の非力ぶりは、いただけない。敦盛の一家は楽才に恵まれ、兄経正は琵琶の名手だ(『竹生島詣で』*・『経正の都落ち』*参照)。 本話に取材して、室町時代には能『敦盛』歌舞伎の世界で採用がいっそう盛んになった。とくに有名な作品に『一谷嫩軍記』がある。 なお、熊谷直実(現在は「くまがい」と読むのが一般的)は、この事件がきっかけで出家し、法然(浄土宗開祖)の弟子になったという。しかし、史書によれば、叔父との領地争いで訴訟に敗れたのが真因らしい。口べたで損な性格が、逆に文芸の世界では愛されている。」
—『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
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本書は「ビギナーズ・クラシックス」と銘打ったダイジェスト版であり、平家物語を早送りで読んでるような感じですが、あらすじのまとめ方が良く、物語の流れがよく理解できます。
もともとは琵琶法師が語る「語り本」のため、文章のリズムもいいんでしょう。
印象深いエピソードも多く、読むほどに引き込まれる大変魅力的で面白い物語です。
■悲劇の賢人・平重盛
「此一門にあらざらむ人はみな人非人なるべし」(平家にあらずんば人にあらず。「人非人」とは身分の低い人、宮中で栄達できない人という意味)と言うほどに栄華を極めた平家一門。
しかし、清盛の嫡男である重盛の死後、その権勢にも翳りが見え始めます。
重盛は、絶対的な権力を誇る父・清盛に対し、その行いを時には強く諌めることもあり、清盛もその諫言を渋々聞くこともありました。
清盛と後白河法皇の対立が深まる中、重盛は清盛の暴政に心を痛め熊野参詣を行い、「子孫が繁栄するならば父の悪心を和らげよ、繁栄が父一代限りなら我が命を縮めよ」と祈願します。
果たして、事態は後者となり、重盛は43歳にして病死し、世は挙げて彼の死を惜しむことに。
悲劇の賢人ともいわれる重盛ですが、その死後に清盛の独裁体制は強化され、他の武士や公家たちの強い反発を招くことになり、平家は滅亡への道を歩み始めるのです。
■熊谷直実、敦盛を討つ
一ノ谷の合戦で平家軍は敗走。
熊谷直実は敗走する平家軍を追走し、海岸に馬を走らせていると、沖に逃れようとする華やかな鎧武者を発見し、水際に呼び戻します。
直実は鎧武者と組みあい、取り押さえ首をかこうとすると、その姿は年の頃十六、七の美少年でありました。
息子と同じ年頃の鎧武者に思わず息をのみ、命乞いもしない潔い態度に、直実は「なんと立派な若大将か」と感嘆し助けようとするが、味方の追手も迫る中、泣く泣く首を切るのです。
そして、直実が鎧武者の鎧をほどくと、錦の袋に入れた笛を腰にさしていたことに気づきます。
「なんと哀れな。今朝、一ノ谷の場内で管弦を奏していたのはこの方々だったのか。都の高貴な方は、なんと風流なことか」と直実は感嘆し、その笛を司令官の義経に見せて次第を語ると、参謀の者たちもみな涙を流します。
直実が打ち取った鎧武者の名は、当年17歳の貴公子・平敦盛。
幸若舞の題材にもなったこのシーンには、落涙を禁じえません。
■那須与一
船上の扇を射落とすあまりにも有名なこのシーン。
弓の名手である与一をしても、最初は大役を固辞しますが、これが義経の怒りを買い、やむなく覚悟を決め弓を引くことに。
源氏も平家もこの時ばかりは静まり返って見守る中、もし射損じることがあれば自害やむなしという覚悟で、いざ矢を放つと、扇に見事に突き刺さる。
扇がはらはらと海に散り落ちたその瞬間、平家は船べりを叩き、源氏は箙(えびら。矢を入れる筒)を叩いてどよめき、両軍ともにその見事な腕前を称賛。
この瞬間、戦場は敵味方問わぬ一大エンタメ会場に変貌したのでした。
しかしこのシーン、激戦の中にあって、貴族武士としての一面も持つ平家からのなんとも風流な挑発であり、歴史に残る名場面だと思います。
■灌頂(かんじょう)の巻
平家物語では、第十二巻において平家の血統が完全に途絶えます。
それに続く「灌頂の巻」は、その後の建礼門院(清盛の娘であり高倉天皇の皇后)の晩年を描くものです。
後白河法皇がお忍びで建礼門院を訪ね、人生の儚さを憂うという幕引きの役割を担っており、物語全体に流れる「諸行無常」を感じさせる、なんとも切ないエピローグです。
戦乱からこの静けさへの落差が、栄枯盛衰の儚さを一層際立たせています。
本書を読み終えてから、やはり全文をみたいと思い、続けざまに尾崎士郎氏の「現代語訳平家物語」を読んでいます。
全文ゆえ700ページ近い大作ですが、諸行無常の世界観をじっくりと嚙みしめたいと思います。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる者久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
人の世は儚きもの、栄えているものもいつかは必ず衰え滅びる。
美しき無常観。
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Posted by ブクログ
「おくのほそ道」と言えば
“月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、、、”の冒頭の言葉で始まる松尾芭蕉の名作である。又
平泉での “夏草や兵どもが夢の跡”
立石寺での “岩にしみ入る蝉の声”
酒田で “暑き日を海に入れたり最上川”
越後路での “荒海や佐渡に横たふ天の河”などなどの有名な俳句で知られている。私には これくらいの知識しかなかった。一度読んで見たい気持ちはあったが とても無理、無理とあきらめていた。
そんな時 この角川の“ビギナーズ・クラシックス の日本の古典”シリーズの「おくのほそ道」と出会う。
最初に思ったのが、なんと読みやすいことか。
現代語訳、ふりがな付きの古文、解説文、エピソード、イラスト、地図や写真付き。初心者には盛り沢山の案内本だ。さすがの古文音痴のの私でも 途中で投げ出さず 最後まで楽しんで読めてしまった。
46歳にして 150日間かけて 約2400km(江戸・深川〜東北〜北陸〜大垣)を歩き通した芭蕉。
身体の不調、悪天候、宿探しにも苦労しながらも
それでも 旅に人生の真の意味をつかもうと歩く。不屈の精神を感じる。
もっと早く出会いたかったが、これからは
座右の書ではないが、手元に置いて 折々にまた読み返したい。
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Posted by ブクログ
ブク友さんたちの影響で、短歌に触れる機会が増えました。
それにつれて「自分はどんな歌が好きだったんだっけ?」「どんな歌が作りたいんだろう」と考えるようになりました。
教科書で見た歌、子どもの頃ハマった百人一首の歌…
いろいろありますが「万葉集」はいつか読んでみたい本でした。
とはいえ全巻(20巻 4500余首)を読むのは多分一生無理、そこでビギナー向けのこの本を選びました。
口絵に高校時代に関心を持った額田王の絵があり、下記の歌が載っていたことも選ぶ時の決め手になりました。
巻頭を飾る雄略天皇の歌(おおらかでちょっと鼻につく男子なところが面白かった)
の次に紹介されている額田王の歌
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
この歌はずっと自分を励ましてくれた歌です。
この本では全4500余首の中から140首を選び、歌の解説とともに時代や歌人の背景、そして近代短歌壇が万葉集をどのように評価していたのかなどについてわかりやすく解説してくれています。
万葉集は天皇から作者不詳の人までの歌が載っているところも興味をそそります。
気に入った歌は抜き書きしたので。折に触れて読み返したいです。 -
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平家物語のダイジェスト版
原文と現代語訳は主要なエピソードに絞られているが、その他のエピソードも、合間に概要と説明があり、平家物語の全体像がしっかり分かるようになっている。現代語訳は分かりやすく、原文もルビが細かく振っており、どちらも読みやすい。合間に解説が挟まれるとともに、巻末に系図や年表等がついており、ビギナーズクラシックスの名の通り、古典に馴染みのない初心者にも親切な作りになっている。平家の武士たちの死に様には、後の時代の武士たちの価値観の原型となるエピソードも多く、より詳細な訳注付きの全文や研究書を読み進め、平家物語の世界をもっと味わいたくなった。 -
Posted by ブクログ
「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
はい、ビギナーズ・クラシックスは『平家物語』です(ベベン)
冒頭に挙げたのはあまりに有名で、日本文学史上最高の名文とも言われる書き出しですね(ベベン)
当然16歳以上の日本人は全員暗記してるわけですね(ベベン)
ここでお役立ち情報をひとつ、もし万が一あなたが海外でパスポートを紛失してしまった場合は直ぐに現地の日本大使館に連絡して「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」と言えば直ぐにパスポートを再発行してくれます(ベベン)
それにしてもこの角川ソフィア文庫の『平家物語』ビギナーズ・クラシックスは入門書としてたいへん素晴らしい出来となっております(ベベン)
何が素晴らしいって、原文と訳文の全ての漢字にふりがなが振ってあるんですよ!(ベべベン)
これは、ぜひ音読してほしいという願いが込められた配慮らしいんですが、すご〜くたいへんだったと思います(ベベン)
そしてぜひとも多くの人に手にとって音読してもらいたいと思いました(ベベン)
書き出しの文がいかに素晴らしいかってのは声に出すことで、より感じられると思います(ベベン)
そもそもこの『平家物語』ってのは(ベベン)琵琶法師が琵琶の音色に乗せて(ベベン)、口伝にて今の世に伝えられた物語なので(ベベン)読んで気持ちいい(ベベン)、聞いて気持ちいい(ベベンベン)文章になっているんです!(ベベベーン)って琵琶の音邪魔だわ!( ゚д゚ )クワッ!!
ベベンて琵琶の音色だったんだねっていう(わいのレビューの後ろで琵琶をかき鳴らす琵琶法師を想像して下さい)