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私芥川龍之介の藪の中が小説の中でも一番レベルで大好きで、それも今昔物語集に元ネタがあるんだよね。芥川龍之介ファンは今昔物語集読むよね。
芥川龍之介は今昔物語集からインスピレーションを受けてるらしいけど、今昔物語集って独創性が凄い濃いなと思った。
ポリコレ時代になる前の方が、本当に面白い不細工を主人公にした作品とか、本当に美しいレズビアン作品が見られた気がする。創作において政治的に管理されることがいかに芸術を殺すかという事が分かる。
「【コラム】 酔っぱらいの出家を認めたシャカ 人を見て教えを説くという方便を重んじたシャカは、酔ったはずみで出家したことを許した。巻第一第二十八話。 ──仏教よりも古いバラモン教の信者がいた。ある日、べろべろに酔ってシャカの前に現れ、出家して仏教の信者になると言い出した。 それでも、シャカは出家させた。酔いが覚めて、彼が自分の姿を見ると、頭は丸坊主で法衣を着ているではないか。びっくり仰天して、その場を逃げるように立ち去った。 シャカは弟子に語った。彼は酔ったいきおいで出家した。けっして本心ではない。それでも出家したことが縁となって、やがて悟りを得ることになろう、と。そのうえ、仏教には飲酒を禁じる不飲酒戒があるのに、飲酒が出家の動機になったことを認めて、この男には特別に飲酒を許した。とりわけ出家を重視したためである。──「偽りても賢を学ばむ〈ン〉を賢といふ〈ウ〉べし」(『徒然草』第八十五段)の実例。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 シャカ臨終の場面である。シャカ最期の言葉は驚くほど俗臭が強い。あらゆる煩悩を断ち切ったはずのシャカが、煩悩の最たるもの、恩愛(親子の情愛)に執着しているのだから。 息子ラゴラの手をとって、もろもろのブツダたちに息子の加護を頼んでいる。むしろ、息子に人生の無常を説いて聞かせるべきなのに。これでは、われわれ凡人と、少しも異なるところはないではないか。 事実、正式な経典には、こうした俗人シャカの言葉はないという。とすれば、この最期のシャカは、日本人が独自に発想したシャカ像ということになろう。 その理由をこう説明する。シャカも今まだ人間である以上、息子との親子関係と弟子との師弟関係とでは、どうしても差が出てくる。やはり親子の情愛は抑えきれないものなのだ。まして、凡人ならば親子の情に溺れるのも無理はない。シャカはそうした人生の真理を示したのだ、と。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 息子の出家に猛反対するシャカの妻 シャカは、息子ラゴラを出家させて、仏の道を歩ませようとしたが、妻のヤシュダラは猛反対する。巻第一第十七話。 ──妻が反対する理由は、はっきりしていた。シャカと結婚して、たった三年で、シャカは私を捨てて王宮を出てしまった。それなのに、残されたわが子を取り上げるとは、慈悲心のあるブツダとも思えない、と言って泣いた。 また、シャカが出家した以上、王位を継ぐのはラゴラしかいない。だから、出家させるわけにはいかない、と。 しかし、シャカは言う。母親の情愛はどんなに美しくとも、短い人生の間だけだ。死ねば母子は別々の世界に移る。永遠の闇に落ちる。それよりは、息子が悟りを開けば、母を救うことができる、と。 さらに、お前と私は過去世において、永遠の夫婦として愛し合おうと誓った仲ではないか。あの時の志を忘れたのか、と。 ヤシュダラの眼前に、二人の誓い合う情景が浮かびあがった。彼女は黙ってラゴラをシャカのもとに送りだした。── 子どもの教育問題から、夫婦間のみぞが明るみに出る。おシャカさまもそうだったのか。私たちに親近感を抱かせるお話である。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「女が出家すると、子どもが生まれなくなる。男子は仏法を維持するために必要なのだ、と。 しかし、叔母はあきらめず、シャカの高弟アナンにとりもってもらう。アナンは、シャカの実母マヤ夫人が亡きあと、叔母が母代わりにお育てした恩を強調して、叔母の出家を許すよう勧めた。 シャカはしぶしぶ、厳しい戒律を守るならばとの条件付きで、叔母の出家を許した。── 女人成仏・女人往生という言葉が生まれるきっかけとなる話である。一見、男女を差別しているようだが、女性が戒律を守りぬくことの難しさを、シャカは懸念していたのだろう。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「ところで、二人の天狗は、湯治中に京の木こりと温泉で鉢合わせした。木こりはあまりに風呂場の中が臭いので、頭痛がして帰ってしまった。のちに日本天狗が人にのり移って語ったことを、この木こりが聞いて、温泉の一件を思いだして人に語った。── 大国に対する小国の勝利という国家意識が反映されていて興味深い。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「無我夢中で息子のもとに泳ぎ着き、なんとか岸にたどりつこうとしたとき、溺死寸前の母の姿が目に映った。しかし、二人同時に助けることは不可能だ。法師は考えた。生きてさえいれば、子はまた授かる機会がある、けれども、母は今失えば二度と会えない、と。そう決断すると、愛児を捨てて、母のもとに泳ぎ着き、岸に引き上げた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 力士と力女のこと──聖なる血のパワー 男の力士(当時は濁音で「りきじ」)に対して、女の「力女(りきにょ)」が古代の日本には存在した。現代感覚では、力女と聞けば、女子プロを思い浮かべるのがせいぜいだろう。 ところが、なんと、時の政府が、全国に力女の推薦を呼びかけているのだ。しかも、この力女、年金にあたる無税の田まで支給されている。それほど力女が貴重視されていた。 そこには、生まれながらの強力は血筋によるものであり、聖なるパワーの発動だという信仰がある。だから、強力の持ち主を集めて、相撲を取らせたり、力くらべをさせたりして、国家安泰・五穀豊穣を祈願したのである。 たんなる見せ物になったり、職業化したりするのは、後世も江戸時代になってからのことだ。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「色香と鞭で若い男を調教する、盗賊団の美人首領 人に知られざりし女盗人の語(巻第二十九第三話)【訳文】 今は昔、いつごろのことだったか。侍ふうで、年は三十くらい、すらりとした長身ですこし髭の赤い男がいた。 ある夕暮れ、男が □ □のあたりを歩いていると、通りに面した一軒の家の窓の陰から、チュッチュッと口を鳴らし、手をさし出して招く者がいた。男は近づいて、「わたしに用ですか」と聞いた。 すると、女の声で、「お話ししたいことがありますの。そこの戸は閉まってみえますが、押せば開きます。開けて中にお入りなさい」と誘った。男は、事情が飲みこめないまま、戸を押し開けて中に入った。 女が現れて、「その戸に鍵をかけていらして」と言うので、鍵をかけてそばに寄った。つぎに、女が、「お上がりなさい」と言うので、座敷に上がった。そして、簾の中に呼び入れたので、入ってみると、きれいにととのえられた女部屋に、二十歳くらいの、とても色っぽい美人がたった一人座って、にっこり笑いかけながら男を招いた。 男は女のそばに寄った。これほどまでに女が親しげにせまる以上、男たるもの黙って引き下がるわけにはいかない。とうとう二人は肌を合わせた。 ところで、この家には女のほかに誰もいないので、どういう家なのか、と男は不審に思っていた。しかし、一度抱いてから、女の魅力にとりつかれてしまい、日の暮れるのも知らず、二人は寝ていた。 やがて夜になって、門をたたく者がいる。使用人もいないので、男が出て行き、門を開けると、侍ふうの男二人と女房ふうの女一人が、下女を連れて入ってきた。そして、雨戸を閉めて、明かりをつけると、見るからにうまそうな料理を銀の食器に盛って、女と男、二人の食事の世話をした。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【寸評】 芥川龍之介の『藪の中』の原話である。黒沢明監督の名作『羅生門』は、その『藪の中』を映画化したものだから、『今昔物語集』『藪の中』『羅生門』は三人兄弟の仲ということになる。 ただし、大きく違う点は、『今昔物語集』が夫の眼前で犯される場面を、たった一文で書き流したのに対して、『藪の中』と『羅生門』は三人の心理を詳細に分析してみせる。 夫と男の二人を評価する基準も、『今昔物語集』の場合、現代人の道徳観とは反対の印象を与える。女の着物を奪わず夫の命を助けたといって、男をほめる。逆に、すきだらけの愚か者、と夫をこきおろす。犯罪につながる行為かどうかよりも、男子たるものの本分を尽くしたかどうかが問題なのだ。そこには、きめ細やかな心の葛藤よりも、その場にふさわしい行動を重んずる視点がある。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【訳文】 そうして、あらためて女に近づき、じっくりと眺めまわした。年は二十歳ほど、身分は低そうだが、色気たっぷりの美人だ。男は、すっかり頭に血がのぼり、何もかも忘れて、女の着物をはぎとりにかかった。 女は、抵抗する手段もないので、言われるとおりに着物を脱いだ。男も着物を脱ぎ、女をかき抱いて交わった。妻が無抵抗のまま男の言いなりになるさまを、夫は木にくくりつけられたまま見ていたわけだが、いったいどんな思いだったろうか。 やがて、男は起きあがり、もとどおり着物を着ると、箙(矢をいれる武具)を背負い、太刀を取って腰に帯び、弓を手にして馬にまたがり、女に向かってこう言い放った。「かわいそうだが、どうしようもない。おまえさんは置いて行くよ。けど、おまえさんに免じて、だんなを殺さないことにしたんだ。馬は、はやく逃げるのに必要だから、もらっていくぞ」と言い終わるや、全速力で馬を走らせ、去っていった。どこへ向かったのか、わからない。 男が去った後、妻は夫の縄を解いてやったが、夫は、われを忘れたふぬけづらをしている。女は、「あんたっていう人は、なんて頼りないの。この先こんな調子じゃ、ろくなことがないわ」と怒りをぶつけた。夫のほうは返す言葉もなく、ふたたび妻を連れて丹波へと向かったのだった。 あの若い男はたいしたものだ。女の着物を奪い取らなかったのだから。それに比べて、この夫はなんともふがいない。山の中で、初対面の男に弓矢を渡すなんて、愚の骨頂である。男の正体はついにわからずじまいだった、と語り伝えているとか。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「姨捨山伝説は棄老説話のひとつである。労働力として役に立たない弱者を抹殺したり、遺棄したりするのは、食糧不足が原因だという。飽食三昧の現代からは、想像もつかない非人道的な話だが、肉体労働にたよる農耕社会では、洋の東西を問わず、共同体のおきてとして受け入れられた痕跡がある。『今昔物語集』巻第九第四十五話も、似た問題を扱う。 ──古代中国に厚谷という若者がいた。彼の父は、年老いて役立たずの祖父を山に捨てた。そのとき厚谷は、祖父を運んだ輿(担架)を持ち帰った。わけをたずねた父に、やがて父さんが年老いたら捨てるのに使うためだ、新しく作るのはむだだから、と答えた。身ぶるいした父は、祖父を山から連れ帰り、親孝行をつくした。──」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「【コラム】 老人の知恵が国難を救い、棄老国が養老国となる 同じ棄老説話でも、ハッピーエンド型がある。たとえば、巻第五第三十二話。 ──古代インドに、七十過ぎの老人を捨てる棄老国があった。ところが、親孝行の大臣は、老母を捨てられずに自宅の密室にかくまっていた。 そのうち、隣国から、難題が解けなければ侵略する、と脅迫された。それは、馬の親子の識別、木の本末の区別、象の体重測定といった三つの難題だった。頭をかかえた大臣だったが、結局は老母の知恵によってみごと難題を解くことができ、国難を救うことができた。 事の真相を知った国王は、今後は老人をだいじにする養老国とするむねを布告した。──」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「 『今昔物語集』は日本最大の説話集であり、貴族文学の『源氏物語』に肩を並べる庶民文学として、平安王朝を代表する横綱文学である。しかし、その出生を洗えば、まさに謎だらけの本としか言いようがない。編集の年次も編者(または作者)も、むろん目的もわからない。しかも六百余年もの間、公表されることなく歴史の闇に眠っていた。ようやく研究者の目にとまったのは、江戸時代も半ばのことである。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「『今昔物語集』は、まるで闇に葬られたかのように、人目にふれることなく眠り続けてきた。『源氏物語』が公表と同時に華やかな脚光を浴びたのに比べると、無残の一語に尽きる。 あれほど巨大な説話集ならば、編集の背後に大がかりなプロジェクトがあったに違いないのだ。とうてい一個人の文才のなせるわざではない。にもかかわらず、すっぱりと命綱を断ち切られたように姿を隠すとは、とても尋常とは思えない。たとえ計画が中止になったとしても、編集に関与した人間がこの世にある限り、そのいきさつは史料の断片に痕を残すのがふつうであろう。 中世の長い時代にも、限られた文人貴族や宗教人などの間で、ひそやかに回覧されていたらしいことを伝える記事しか残っていない。それも『今昔物語』七帖(あるいは十五帖)とあって、現在の『今昔物語集』三十一巻と同じなのかどうかも怪しい。『今昔物語集』が、特有の欠字・欠文・欠話が物語るように、未定稿・未完成の作品であることは明瞭である。しかし、歴史の闇に隠れる理由が不明瞭なのだ。もしかしたら、編集の責任者が落命するような不測の事態が発生したのではなかろうか。編集事業を後継できないような決定的な事件が起きたのではなかろうか。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「こうした『今昔物語集』の構造や説話の形式からも、論理的で明晰な頭脳を持つ編者の風貌が思い描かれる。彼の国際的な視野の広さ、柔軟な思考は、現代においても十分敬服に値しよう。十二世紀に、これだけの祖先いや国際人がいたことを、私たちは誇りに思わなければならない。 彼は、おそらく旅に生き、旅に死ぬ文人ではなかったかもしれない。万巻の書の中に埋もれた生活をする学者だったかもしれない。しかし、『今昔物語集』を読むとき、彼の人生観・世界観が、けっして狭い空間に押しこめられた性格のものではないことに気づく。彼の思考は、あくまでも柔軟かつ現実的であり、志は高遠である。彼こそは二十一世紀に求められる日本人像の一つではなかろうか。『今昔物語集』の希有にして奇異なる説話群は、強烈なインパクトをもって読者(あるいは聴衆)の俗心を打つ。ついで、人間世界の背後にある聖なる力に目覚めた読者は、心の中に新しい秩序の芽生えを感じはじめる。この秩序こそは、歪んで汚れきった現在の秩序を打破して、明るい未来へと人々を導くものにほかならない。それを編者は、『今昔物語集』の登場人物とともに、泣き、笑い、怒り、悲しむうちに、自然に導かれるように配慮した。 政争と戦乱に明け暮れた平安末期にあって、編者の眼は、来たるべき中世の夜明けを見すえている。斜陽化した王朝貴族の背後から、疾駆してくる武士団の凜々たる勇姿が、彼の眼にはっきりと映っていた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著
「こうした『今昔物語集』の構造や説話の形式からも、論理的で明晰な頭脳を持つ編者の風貌が思い描かれる。彼の国際的な視野の広さ、柔軟な思考は、現代においても十分敬服に値しよう。十二世紀に、これだけの祖先いや国際人がいたことを、私たちは誇りに思わなければならない。 彼は、おそらく旅に生き、旅に死ぬ文人ではなかったかもしれない。万巻の書の中に埋もれた生活をする学者だったかもしれない。しかし、『今昔物語集』を読むとき、彼の人生観・世界観が、けっして狭い空間に押しこめられた性格のものではないことに気づく。彼の思考は、あくまでも柔軟かつ現実的であり、志は高遠である。彼こそは二十一世紀に求められる日本人像の一つではなかろうか。『今昔物語集』の希有にして奇異なる説話群は、強烈なインパクトをもって読者(あるいは聴衆)の俗心を打つ。ついで、人間世界の背後にある聖なる力に目覚めた読者は、心の中に新しい秩序の芽生えを感じはじめる。この秩序こそは、歪んで汚れきった現在の秩序を打破して、明るい未来へと人々を導くものにほかならない。それを編者は、『今昔物語集』の登場人物とともに、泣き、笑い、怒り、悲しむうちに、自然に導かれるように配慮した。 政争と戦乱に明け暮れた平安末期にあって、編者の眼は、来たるべき中世の夜明けを見すえている。斜陽化した王朝貴族の背後から、疾駆してくる武士団の凜々たる勇姿が、彼の眼にはっきりと映っていた。」
—『今昔物語集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』角川書店著