大江健三郎のレビュー一覧
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小説における舞台としては現実から遠い感じはするが、世間から一方的な印象で除外されてしまう少年たちの姿はいつの時代にも通じる。
置かれた状況から否応なしに犯してしまう行動は残酷なのだが、登場する少年たちには仲間意識、心底にある強さや優しさがある。
そしてところどころにみられる詩的な表現に動揺しながら、樹木や土、腐蝕した(何者かの)匂いまでもが漂う錯覚があり、疫病を恐れて無人になった山里の陰鬱な情景の中に引き込まれていく。
リアルな表現なだけに不快な気分になりながらも、差別問題や疫病に対する意識などの重大なテーマがあり、必要な読書ではあった。
大江健三郎さんが「監禁状態」をテーマにして描いた小説であると割り切って考えれば客観的に読み進めることはできた。
だが『変身』や『砂の女』のように閉じ込められた状況から生じる中での人間的な面白さは感じられなく、絶望的な読後感が残るのは、主人公が子どもであるということや、追い込まれた状況から仕方なくであれ、動物を殺してしまうシーンに耐えられない自分がいるからだろう。
大江健三郎さんの小説では『死者の奢り』『飼育』を読んだことはあるが、この機会に何か読もうと思って出会った本小説が私に与えた影響は、詩的な文章表現であり、その感動を大切にしたいと思う。 -
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本作品「ピンチランナー調書」は雑誌「新潮」に、3カ月に渡って連載されたものを1976年10月に書籍化したものである。私は、高校生の頃から、大江健三郎の初期の作品を中心に読んでいた。この「ピンチランナー調書」が発行されたのも、私が高校生の頃であるが、実際にこの本を読んだのは、大学生の頃だったと思う。当時の私には、この「ピンチランナー調書」は難解すぎるものであったし、ストーリーとしても、当時の私には、決してわくわくするようなものではなく、むしろ、退屈な話に感じられ、途中で読むのを断念した記憶がある。そういう意味では、今回、私にとっては、この「ピンチランナー調書」を読むことは、それから40年以上を経ての再チャレンジであった。今回は最後まで読み通したが、しかし、決して読むことを楽しんだとは言えない。相変わらず難解であったし、ストーリーに魅力を感じることはなかった。
この作品は、「大江健三郎全小説」では、第5巻に収められている。そして、尾崎真理子が書いている「大江健三郎全小説全解説」では、「個人的な体験」と本作品がセットで触れられている。
1963年に生まれた大江健三郎の長男、光は、脳に障がいを持っていた。大江光は後に作曲家となるが、しかし、知的障がいを抱えたままで成長する。「個人的な体験」は、光の誕生の翌年、1964年の作品であるが、それは、主人公である「鳥(バード)」が、脳に障がいを持って生まれた赤ん坊を、父親として受け入れて生きていくことを決意する物語である。
そして、1976年、光の誕生から13年後に書かれた、この「ピンチランナー調書」は、「個人的な体験」のその後の物語として書かれたものとして理解できるのである。
障がいを持った、とある小学校の小学生の父親である小説家「光・父」は、光の同級生である森の父親である、「森・父」および、その子供の森の冒険談を「調書」の形で記録していく。その語りが、本作品「ピンチランナー調書」である。森と、森・父には、「転換」が起こり、森は8歳から28歳に、森・父は38歳から18歳になる。
私の本作品の理解は下記の通りだ。全く的外れなのかもしれないが。
■小説家「光・父」はもちろん大江健三郎がモデルだろう。光・父は、森と、森・父の冒険談を記録する役割をこの小説の中で与えられているが、その冒険談は、森・父のものであってもおかしくない。森・父と森が行動者で、光・父が記録者であるというのは、厳密に考える必要はない。
■森は、核爆弾を道具とした「親方(パトロン)」の企みを阻止することを、天命(宇宙的意思)として与えられている。森は、それを、全ての人類に「代わって」行う者として位置づけられる。すなわち、森は人類にとって、希望という得点を得るための「ピンチランナー」なのである。
■そして、森をサポートする森・父は、森の奮闘に「リー、リー、リー・・・」といった、かけ声をかけて応援する(子供の頃に野球をしたことのない人には分かりにくいが、子供の野球で、ランナーが出た場合、同じチームの子どもたちは、ランナーに対して、そのようなかけ声で応援する。「リー」は「リード」。次の塁を陥れるために、出来るだけ大きなリードをとろうぜ、というくらいの意味)。
■「親方(パトロン)」の企てを阻止できたかどうかは、あまり重要ではない。小説の最後の場面での、森・父の語る、下記の場面が、この小説のクライマックス。
【引用】おれはいま見たものへの感動におののいたよ。あのようにも颯爽たる森の行動を、一瞬なりと見てとるためにこそ、おれはかれを生き続けさせ、育てあげてきたんだと・・・(略)・・・そして胸も喉も破けんばかりにさ、リー、リー、リー、リー、・・・と喚きたてたんだ。【引用終わり】
■すなわち、森は、従って、光は、森・父が、従って、光・父が、要するに大江健三郎が本当には理解し得ない、人類の希望となるかもしれない何事かを成し遂げる天命を帯びている可能性がある。そして、それを、父親である大江健三郎は、「リー、リー、リー」と応援する。そして、もしかしたら、光の「颯爽たる」姿を、いつの日にか見ることが出来るかもしれない。
「個人的な体験」で、脳に障がいを持って生まれてきた赤ん坊の父親になることを受け入れた大江健三郎は、父親として、更に、彼を応援し続けることを引き受けた。そして、それが正しいことであったと深く感じている。
このように理解したが、どうなのだろうか? -
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ネタバレ大江健三郎ならではダンテの神曲を頼りに自作の捉え直しを含んだ「自伝」的小説。
個人的には発表順に氏の著作を読んで来たので、面白く読んだ。ただ、この前に読んだのが「M/T〜」と「同時代ゲーム」の再読だったので、物語としてのダイナミズムは少し欠けるかと思った。
「懐かしい年」というのは、文字通りのイメージの昔を懐かしむという事ではなく、まさにここ数年の流行りの並行世界(しかもタイムリープ)と捉えられるのが面白い。(この後には純粋なSFにもトライすることになる。)
ただ、必ずしもここでの(懐かしい年そのものである)ギー兄さんの死がその(理想的な)世界が失われたことを表すわけではないのだけど、再生に向けた立ち上がりで物語が締めくくられることの多い氏の著作では、喪失感と悲哀を感じるラストになっていると思う。
p.s. (他の方の感想を見て)
ギー兄さんが手紙で「個人的な体験」の添削をするところは哄笑を禁じ得なかった。その上で、添削はすまいと、決断するところまで書いているのにはグッと来た。 -
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雑誌『図書』に連載された著者のエッセイをまとめた本です。
あつかわれている主題はさまざまですが、障がいをもつ息子の光との関係や、彼の音楽活動をめぐる文章が、やや多いように感じられます。心理療法家である河合隼雄について述べた文章でも、河合のことばから著者と息子との関係へと連想が動き出し、河合の「コンステレーション」ということばが、著者とその家族のありかたについて著者自身が考えをおよぼす契機となって、著者のなかで河合の方法論があたらしく息づきはじめたことが述べられています。
著者自身の作品について語った文章では、「雨の木」(レイン・ツリー)をめぐる著者の考えの変遷がうかがえるものが含まれており、興味深く読みました。そのほか、著者の師である渡辺一夫や、ハーバート・ノーマン、ナジタ・テツオ、原広司といった人びととの交流についても語られています。 -
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ネタバレ妹への手紙という形で語られる、四国の山奥にある故郷の村の歴史と伝承、兄弟の逸話。序盤は、現在の生活と村の神話・歴史がリンクするかたちで語られるので頭のなかで整理する必要があるが、次第に神話と歴史にフォーカスされていく。
面白いが、クセのある文章ですこし読みづらい。
以下、村の神話と歴史における主な出来事、および語り手の家族について
・藩を追放された武士集団が「壊す人」を主導として川をさかのぼり、行き詰まりの大岩塊を爆破して、森に囲まれた盆地に隠れ住む。(そのときに流れ出した大洪水によって追跡隊は押し流される) のちに「吾和地(あわじ)」と呼ばれるようになる。
・村の開拓がひと段落したところで、地響きのような音が響き渡り、その影響の強弱によって住む場所の入れ替えが行われる。
・「壊す人」が死んだ直後にふたたび大怪音が鳴り響き「住みかえ」が行われるさなか、「壊す人」の妻であるオシコメが十七、八の青年団を指導して、創建者の老人たちを一掃する「復古運動」を進める。(明らかに文化大革命の江青と紅衛兵がモデル)
・村の独立性を保とうと、藩権力と一揆集団の仲裁をしたり、天皇家との接近を模索した亀井銘助(メイスケサン)と、大正時代の大逆事件の際、天皇に抗議文を送った原重治(牛鬼)。
・大日本帝国に組み込まれることへの対抗として、ふたりの人間をひとつの戸籍に登録するカラクリを思いつく。それを解消しようと村にやってきた大日本帝国軍との五十日にわたる戦争。
・長兄(露一)は徴兵中、精神に異常をきたし精神病院に二十五年間収容される。解放されたあと、天皇に村の独立を要求するために皇居に向かう。次兄(露二郎)は女形として生計を立てている。
・野球一筋の末弟(露留、ツユトメサン)は、マネージャーと一緒にアメリカやハワイに渡り、メジャーリーグ球団や日本の野球チームに売り込みにいく。
・「壊す人」の巫女として育てられた双子の妹(露巳)は、銀座でキャバレーを開いていた時代にアメリカ大統領候補と知り合い、彼の大統領就任後に会見し、村の独立を援助するように要請する。その際に検査を受け癌を宣告され、帰国後に船から身を投げ死んだと伝えられていた。しかし、妹の生存と、キノコのようになっていた「壊す人」を見つけ、いまでは犬ほどの大きさにまで回復していることが手紙で伝えられる。
・語り手である「僕(露己)」は、幼少時代より神主である父に村の神話と歴史を口承によりたたき込まれる。それに興味を持った東京出身の双子の天文学者(アポ爺、ペリ爺)とも親しくするが、父と国民学校校長との諍いが原因になり双子の学者は村を追放されてしまう。そのことを思い悩んだあげく、「僕」は素っ裸になって森をさまよい歩き、村で起こった過去・現在・未来の出来事を垣間見るのだった。 -
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聖書の物語は、神に選ばれた者たちを中心に進行するが
大江健三郎の場合
「選ばれなかった者たちの語り」としての神話を
構想していたようである
例えば「治療塔」のストーリーにそれは明快であるし
また、そう考えれば
解体と再構築の作業を読者に強いるがごとき難渋な文体も
集合的無意識の行なう要領を得ない語りであると
説明することはできる
そしてその根底に
「母」の存在が担保する性善説の世界観があるわけだ
ただし、そういった方向性は
ノーベル賞に「選ばれた」ことで骨抜きになったし
なにより作品として読者を選ぶものだった
「火をめぐらす鳥」
若い頃、伊東静雄という詩人に影響を受けた筆者は
その詩の一節からひとつの世界観をつくっていた
個人の魂は、死後に集まって一体化し
すべての記憶が集合無意識として共有され
その上で魂たちは、それぞれに生まれ直していくという…
結局その世界観は、新しく出た評論に否定されてしまうんだけど
それでも障害を持った長男に接するとき
我々の魂は孤独ではないと信じるに足る瞬間が
確かにあるのだった
「涙を流す人の楡」
ベルギーの日本大使と会食中
とある形の木が見えたもので憂鬱になり
その理由を釈明するという話
それはおそらく
怒れる少年を立ったまま水死させるという
雨の木のイメージではないか
「宇宙大の雨の木」
筆者は「不死の人」について書こうとしている
それは筆者の前にもしばしばあらわれ
なんらかの啓示を与えてくれた人たちのことである
だがフォークナーの「野性の棕櫚」を通じ
「不死の人」とは人ではなく、啓示そのものではないかと
筆者は考えるようになった
イデア論の一種と捉えることも可能だろう
では、そのイデアないし啓示は
いったいどこから来るのであろうか
おそらくは「雨の木」が養分としたもののなかから…
「夢の師匠」
音楽家のTさん(武満徹?)からの依頼で
オペラの脚本を書くことになる
幼い頃出会った二人組の占い師をタネに
話はやがて宇宙移民へと膨らんでいく
「治療塔」の前段階的な作品
「治療塔」
長編「治療塔」の短縮バージョンというか
三幕構成の梗概という体裁
「新しい地球」の人々は
治療塔と呼ばれる遺跡のなかで若返りを果たすのだけど
それはひょっとすると
人として大切な何かを吸い取られたということではあるまいか
「ベラックヮの十年」
十年前、ダンテの「神曲」を読むために
イタリア語の家庭教師を雇ったことがあった
それはうら若き女学生だったが
彼女の性的挑発を見てみぬふりしたことにより
授業は中途半端で終わった
十年後、「神曲」をベースにして
「懐かしい年への手紙」を書き上げたさい
彼女と再会するのだけど
やはりセックスの誘いには乗れず惨めな思いをする
「マルゴ公妃のかくしつきスカート」
とある映像作家が、フィリピーナを囲っている
しかしセックスレスで
フィリピーナは同国人の「救い主」と、時折寝ている
フィリピーナは「赤革のトランク」をいつも持ち歩き
その中に、何かを…
おそらくは子供の死体を隠している
映像作家には、秘密を悪と捉えているふしがあるのだが
その秘密への興味だけが
実はふたりをつなぐ唯一の接点かもしれなかった
「僕が本当に若かった頃」
小説を書き始めた頃、「僕」はアルバイトで家庭教師をやっていた
生徒の繁君は「僕」の小説を読み
それが「成功する小説」ではないことを見抜いた上で
自分の構想を小説にするよう、焚きつけてきた
車で実際に北海道まで旅し
それをロードムービー的に書けという
「僕」もそのプランに乗って、自動車免許をとろうとしたのだが
片眼に問題のあることが発覚し
断念せざるをえなかった
あきらめきれない繁君は、かわりに叔父の靖一さんを誘って
北海道へ旅立ったのだけど
トラックと正面衝突する大事故を起こしてしまった
結局「僕」はこの体験を小説にすることなく
やがて、アンチクライマックス指向を深めていく
しかしひょんなことから繁君と再会することになり
当時の真相を知ることともなった
「茱萸の木の教え・序」
従姉弟のタカチャンは不遇な晩年を送って死んだ
タカチャンは行動の人であったが
大学紛争に加わった際の怪我がもとで、脳障害を負っていた
彼女の死後、関係の深かった人々で文集を作ることになり
「僕」がその序文を担当することになった
晩年、寝たきりになったタカチャンは
本人の印象からかけ離れたような空想的な文章を書いていた
実家の茱萸の木の、迷宮のような枝ぶりのなかに小人が住んでいて
自分の未来を演じているというものだった -
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2021年 41冊目
「性的人間」
性的少数派の嗜好の追及を描いた作品。最初の妻を自殺に追い込んだ嗜虐的趣味のある青年が痴漢行為に傾倒する。孤独感を抱える退廃的な作風を更に冷めた目線で読んでしまうのは令和世代だからかしらん。。独り善がりで作品丸ごと自慰行為を見せられてるようで好みでなかった。
「セブンティーン」
現代において確固たる主義や思想を持ち声高に発言する人はそう多くないだろう。主人公の少年は最初左翼だが、彼の政治意識は観念的なものにすぎない。不安定な10代。ある日右翼の党首の演説を聞いて右翼活動にのめり込む。不吉な変身の瞬間。死を以て人を脅迫し自ら死に飛び込む右翼青年を形付けるのは右だけでなく左だけでもなく日本全体である。万人の実存を見つめた作品。実存と言う深みでは、政治的で道徳的な価値判断は存在しない。 -
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「文学とは、小説とは、哲学とは、そこから見えてくる世界とはこういうものである/こういうものであった」という点においては色褪せず参考になる本だと思う。しかし、「こうなるであろう」という点においてはコロナ前に書かれた本であるため、「本当に?」となる。そのくらいコロナで世界は不可逆に変わってしまった。文学も小説も2人の言う通りエネルギーを無くして、2人の願い叶わず衰退はするだろうけど、そこまでの道筋はこのとき見えていたものと大きく変わってしまったと思う。たとえば誰かの抱えた花束が手放されるのは、花が枯れたときではなく、その人が死んだ時かもしれない。