大江健三郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
集団疎開である村落にきた感化院の少年達の話。
戦後の貧しい暮らし、自然を擬態化した文章が生々しく、リアルに景色を捉えた作品となっている。
感化院の少年達が疫病の流行る村の中に閉じ込められた時の怒り、自活していく壮絶な生死の境目を語った、力強い筆力が魅力的だ。美的感覚的に言えば美しいとは言えない内容だと思うが、生きる為に奔走する主人公の前向きな主張が現れている作品となっている。
ある意味世の中の風情を描いているような感じもした。昨今の小説では主人公ありきで進んで歩く物語が多い。しかしこの物語では世の中とは残酷な人間達が多く存在し、理不尽な犠牲が多く存在する事を生々しく書いたことに意味がある。残酷な事に流されてしまうのか、理不尽なことに屈する事なく正義を内に秘め、貫き通した主人公は物語の中では誰にも助けられやしない。
しかし、そこに未来への糸口が隠されていると教えられたようであった。
文章が下の内容が多く、読み進めるのが少し困難だった為に評価は3 -
Posted by ブクログ
当初、「治療塔」の存在は秘密とされていたのだが
帰還者と残留者の和解事業が進む中で漏洩した情報などから
様々な噂やデマが飛び交うこととなった
その結果、不法に「新しい地球」へと旅立つ者たちや
独自の「治療塔」を建設したという者が現れ
世界に再び混乱がもたらされた
一方で、実際に「治療塔」を体験した帰還者たちの身体からは
すでにその効能が失われつつあった
しかし「治療塔」の分析・再現という基本路線に変更はなく
スターシップ公社も新たな調査船の派遣を決定した
そしてそれが「新しい地球」における
公社側と、不法移民たちとの戦いへと発展していくことになるのだ
「治療塔」を占拠する不法移民たちは
その力を用い、やすやすと死ぬこともないゲーム感覚の戦いを楽しんでいた
つまり「新しい地球」は、メイトリアークの恩寵を受けて
戦士の楽園ヴァルハラと化していたわけだ
公社のエリートたちにとっては、まさに悪夢だった
「治療塔」をめぐる闘いには核兵器まで持ち出され
悲惨な結果を残した
だがなおもあきらめない人々は
「宇宙マーブル・サボテン」から抽出した成分を吸引することで
別次元宇宙へのアクセスを試みようとする
「治療塔」のソフトウェア開発のためにどうしてもそれが必要なのだ
正気と狂気の区別はすでにつかなくなっており
「古い地球」で夫の帰りを待つリッチャンは
もはやかつての祖母と同じく、宇宙に漂う人の魂を思う年齢だった -
Posted by ブクログ
治療塔とは、「もうひとつの地球」に発見された遺跡である
先史文明など存在しえなかったはずの星になぜ
そのような人工物が建っていたのか
誰にもわからなかった
しかも不思議なことに
治療塔の内部空間には人間を若返らせる力があった
そのためキリスト教徒たちは、それを「生命の樹」とも呼んだ
宇宙移民の失敗で「古い地球」に帰還したエリート達は
非エリートを労働力に用い
あらたな貴族社会の建設を目論んでいる
「大出発」の後、古い地球の混乱を生き抜いてきた残留者には
そのように信じて
帰還者に反感を持つ者も少なくなかったが
一方では、帰還者と残留者との間に
禁断の愛が芽生えてしまうこともあった
そこで帰還者たちは、残留者との婚姻を禁止し
厳しい取り締まりの対象とした
治療塔によって変質した「新しい人々」の血統を
保護するためである
治療塔の力を、人類の手で再現するまで
そのようにして純粋な血を守っていかなければ
破壊と汚染の泥沼に落ち込んだ地球を救うことはできない
帰還者たちはそのように考えていた
治療塔とはいわば
生きた人間の「生まれ直し」を実現するための
人造メイトリアークである
しかしそんな大層なものではなく
ただの若返りエステサロンにすぎない、という見方もあろう
バブル期に発表されたこの作品では
いずれの暗示ともとれるあいまいな段階で終わっている -
購入済み
心に残して置きたい言葉
NHK の100分de名著で紹介されて読んでみた。
文学素人の自分には難解で、ダラダラ読みをしつつ何とか読み終えた。
「一瞬よりいくらか長く続く時間」と言う言葉を産み出したことで、この作品は完成していたのだろう。
登場人物たちの「祈り」への考え方の違いも、ストーリーがどんなものであろうと、この一言があれば小説として成り立ったんじゃないかと思わせる強く心に残る言葉だ。 -
Posted by ブクログ
90年代はじめの大江健三郎は
文体に霊的パワーを込めようとして空回りしていた
井伏鱒二から継承したフォルマリズムが
そのための方法論、というよりドグマだった
当時の作品にも現れているように
やがては新しい神話を創造することが目標だったのかもしれない
しかしオウム事件以降
おそらく、ここに収められた古井由吉との対談も転機のひとつだろうが
世界の文学史そのものを多神教的にとらえる方向へと向かったらしい
いずれにせよその鍵は
異なる概念を柔らかく繋げる日本語表現にこそあるようだ
日本語への翻訳による異化作用を用いれば
あらゆる価値観の相違と
ロシア・フォルマリズム本来の用法を超えて
歴史の背後にある、なにか偉大な精神のようなものを
見いだすこともできるというのだろうか -
Posted by ブクログ
伊丹十三が倒錯的な性愛にこだわりつつも
常に社会正義を踏まえて作品づくりをしていたことは
「女」シリーズを見ればよくわかる
そういう、きわめて人間的な矛盾が
彼を一種の自家中毒に追いやったということは
言えるのかもしれない
伊丹の死後
日本の芸術映画をリードしたのは北野武だった
小説家の長江古議人と映画監督の塙吾良は高校時代からの親友である
共に、教師たちから目をつけられる存在だった
しかし同じはみ出し者といっても
自己の内面にこもりがちな古義人に比べ、外交的な吾良は
その分、他者のエゴイズムとまともに向き合いすぎるところがあった
良く言えば自信家、悪く言えば鼻持ちならないやつで
人によっては馬鹿正直と見るかもしれない
のちに塙吾良は、社会派のコメディ映画で商業的な成功を収めるが
それと引き換えに、ヤクザの襲撃を受けたり
イエロージャーナリズムにつきまとわれるようになったりして
ガタガタに疲弊してしまうのだ
そういう苦しさは
例えば「政治少年死す」をめぐってのごたごたを前に
結局は、スッポンのように身を縮めることで
やりすごしてしまった古義人には
まったく、理解できないことだったかもしれない
だから、2人にとって共通の苦い経験である「アレ」の受け止め方も
実はまったく違うものだった可能性がある
…古義人の村の右翼集団にだまされて
米軍将校を相手の性的接待をやらされそうになったあげく
仔牛の臓物を頭からぶっかけられたのだが
吾良にはそれを
単に野蛮人の狼藉として割り切ることができなかったのだろう
ちなみに言うとあの辺は
「アパッチ野球軍」の舞台にもなってんだけどね
まあ吾良にはそういう
「話せばわかる主義」みたいなものがあったのだ
それは言ってみれば、人間の無垢に対するひとつの信仰だった
だから、晩年の吾良から影響を受けた若いガールフレンド・シマ浦は
別の男とのあいだにではあるが
メイトリアークとして、吾良の「生まれなおし」をはかるわけだ
そんなの、実際生まれてくる子供にしてみりゃ
迷惑な思い入れでしかないと思うけど… -
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四国の山奥に生まれた大江健三郎
彼は少年時代、海外の児童文学にふれて広い世界に憧れ
やがて小説家になるのだが
初期の作風は、実存主義的なものであった
それは一口に言えば、外に目を向けようとする自分に対して
抑圧をかけてくる社会への反発であり
そういう社会を象徴する存在として、天皇を仮想敵とするものだった
しかし1964年の「個人的な体験」以降、作風は大きく変化する
きっかけは、脳に障害を持って生まれてきた息子だった
息子の存在は、世界に跳ぼうとする大江にとって
言ってしまえば足枷だったが
そんな息子との向き合いを書いた「個人的な体験」は
国際的な評価を得て
結果的に、大江を飛躍させた
そういったことから、大江は自らの息子を
天皇に対置される存在…トリックスターと定義するようになった
だから、ノーベル賞を受賞した際のスピーチでも
息子・大江光のことは大きく取り上げている
天皇を嫌う自分が、ある意味では天皇主義者と同じく
息子に依存している様は
確かに「あいまいな日本の私」と称するにふさわしいだろう
父親から自立する道のない息子は
ひょっとすると悲しい存在かもしれないが -
Posted by ブクログ
「人生の親戚」…障害をもった兄弟が自殺するというなんて悲惨でどうしようもなくいやな設定を思いつくのだろう。特に知的障害を持つ子どもがというのが。その瞬間の描写や経緯が何度もでてきてやり切れない。これを抱えて生きていく女性に焦点が当たっているのはわかるが。設定の後味の悪さが全てを覆ってしまう感じ。
「治療塔」…エリート層のみが新しい地球へ行く、という設定が面白い。が、そうした科学の進んだ未来設定なのに電話を待ってたり、特急列車で移動したり古い生活スタイルのままなのが踏み込み不足という感じ。とは言え、世の中が行き詰まるとみんな一緒にという美話が通用せず、分断が起こるというのはありそうな話だと思った。 -
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この作品集中に頻出するイメージ、徒労感、屈服感、行動に対する焦燥のようなものは、やはり時代精神を書き取ったものなのだと、あらためて思う。
今読むと(現在にそんなものがあるか怪しいが)時代精神は大きく異なるため、奇異な感触を受ける。であるが青年期特有の焦燥や徒労感に対する敏感さが特異的に強調された、イカレた物語として、十二分に命脈を保っている。いわゆる「一周回って」あたらしい、というべき世界。
世代が大きく違えども、現役作家である大江健三郎と、同じ時代を生きる読者としては、上記のイメージが、再生につながっていき、Rejoyce!に至る道筋に興味を持たざるを得ない。 -
Posted by ブクログ
大江健三郎が描く、黄金の青春時代とその幻影についての作品。過激な性描写とトピックスが荒々しい青春の光と影を描写する。
若者特有の青春に対する焦燥感や孤独感を、性描写や突飛な行動で荒々しく描写することで、がつがつとした雰囲気を巧みに表現されている。それが読む人の心にずかずかと突き刺さる感じがする。しかし、ずかずか部分が太すぎて、表現が痛い。読んでいて辛い。青春の明るさよりも、野放図に取り組み、跳ね返される、まるでドン・キホーテを地で行っているような。ドン・キホーテは正しいと信じる道を、たとえ勝ち目はなくとも突っ込んで行くという正しさへの希求があるが、本作品では正しいかどうかよりもやりたいかどうか?に重きが置かれている。それが青春だと言われればそうかもしれないが、一方では可物になるのだ、という思いを実現していく精神状態とはいったい何なのか?青春のベースとなるものがやっぱり出自や環境なのか?そこに暗い『叫び声』を感じてしまうのだ...
各人が持つ性癖や出自に縛られ、目指していた夢が破滅へとつながってしまう。それが仲間からの離脱につながり、孤独に陥ってしまう。「荒涼として荒涼と荒涼たり」とつぶやき、孤独と挫折のなかで僕は叫ぶのだ。