大江健三郎のレビュー一覧
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大江健三郎が描く、黄金の青春時代とその幻影についての作品。過激な性描写とトピックスが荒々しい青春の光と影を描写する。
若者特有の青春に対する焦燥感や孤独感を、性描写や突飛な行動で荒々しく描写することで、がつがつとした雰囲気を巧みに表現されている。それが読む人の心にずかずかと突き刺さる感じがする。しかし、ずかずか部分が太すぎて、表現が痛い。読んでいて辛い。青春の明るさよりも、野放図に取り組み、跳ね返される、まるでドン・キホーテを地で行っているような。ドン・キホーテは正しいと信じる道を、たとえ勝ち目はなくとも突っ込んで行くという正しさへの希求があるが、本作品では正しいかどうかよりもやりたいかどうか?に重きが置かれている。それが青春だと言われればそうかもしれないが、一方では可物になるのだ、という思いを実現していく精神状態とはいったい何なのか?青春のベースとなるものがやっぱり出自や環境なのか?そこに暗い『叫び声』を感じてしまうのだ...
各人が持つ性癖や出自に縛られ、目指していた夢が破滅へとつながってしまう。それが仲間からの離脱につながり、孤独に陥ってしまう。「荒涼として荒涼と荒涼たり」とつぶやき、孤独と挫折のなかで僕は叫ぶのだ。 -
Posted by ブクログ
知的障害をもつ子どもを持つ親の思いと核開発あるいは原子力発電に関する反対活動とそれに連なる安保闘争の考え方が主なテーマである。
そして、著者がゴーストライターとして記述するという形式で述べることで、大江健三郎とは別人格の少しフワフワした形になることで、喜劇調を醸し出しているのだろうか。
また「転換」という現象で、親子の関係が変化することがまたおもしろい。そこは変化でも交代とも違う転換ということで親子の関係性は保ちつつ、息子は一気に成長した姿を、父親は若々しい肉体を手に入れ、思うとおりの活動に踏み出していけるのだ。
それは著者の願望なのか、それとも世間への訴えなのか?いずれにしろしろ息子は息子としての、父親は父親としての役割を果たしていく、果たしていける世界は素晴らしいと思う。 -
Posted by ブクログ
大江健三郎の初期作品は、いかにも小説らしい小説で、日本的な平穏さ(退屈さ)や湿潤さを抜きにした、それでいて三島由紀夫のような嘘くささはない、期待の作品群だった。それが、障害をもって生まれた息子の誕生によって、残酷な運命の一撃を食らったように彼の小説世界は一転し、私小説ででもあるかのような、個人的なリアルに密着した地点から物語が紡がれるスタイルに変わってしまった。
『個人的な経験』以降の作品は、私はあまり好きではなかったが、「翻訳調」と初期から言われていたぎくしゃくしたまがりくねった文体は健在で、一方、反核、沖縄擁護の運動家としての活躍についていくぶん知っていた。
本書は最近、つまり老年期の大江さんの連載エッセイ集である。
「定義集」というのはアランのを念頭に置いたのかわからないが、本書を読み始めての感触とはそぐわないタイトルだ。確かに、彼流の、英和・仏和を中心とした語義へのこだわりの傾向も見られはするが、いちいち概念を定義していくわけでもなく、日常頭に浮かんだ事柄を雑ぱくに並べたようなエッセイ集となっている。
ブッキッシュな大江さんならではの、多様な外国作家への言及が散りばめられていて興味深く、また、3.11や政局への言及もときどきあって面白いが、これらは本書においてはさほどテーマとして追求されているようでもない。
全般に、文学的な味わいに満ちたエッセイである。
やはり、一流の文学者の文章というものは含蓄が違うし、とにかく面白いなと思う。
「翻訳調」の、リズムやら統辞法がちょっとおかしいような文体は、そういえば、ほとんど常に外国語で小説を書いたウラジミール・ナボコフの例を連想させ、そのぎこちなさがむしろ意味を際立たせる効果を持っているように思う。
大江健三郎氏が、今の日本・世界の状況を見てどう考えるのか、もっとストレートに書かれた本も読んでみたいと思ったが、既に82歳、最近はなかなかおおがかりな著述は難しくなってきたろうか。 -
Posted by ブクログ
試みが成功しているかはともかく、相当意欲的な作品だ。群像での連載時に最初の数回のテンションに、これは!と思ったけど、ギー・ジュニア登場以降について行けなくなり一旦断念。文庫化で読み直したけど、そこの印象は変わらずも何とか読破。しかし、途中でそのようなブレに対して作中の登場人物(真木)が同様の批評をしていたのにはちょっと笑った。
自らのテキストをメタ的に批評する手法、社会状況を個人の体験と重ねて消化しようとする手法。前作では長年の宿題としていた父の死に対し、今回はまた伊丹十三、また後期作品の核であるギー兄さんの死に向き合う。自らの老年の危機、それと直結するアカリ、家族の危機、また、長年のテーマである核へも対峙せざる得なくなるという状況。凡百の作家であればお茶を濁すものを、この作家はとにかく正面切って向き合おうとだけはする。あまりにもテーマが多岐に渡り、商業作品として必ずしも消化し切れていない嫌いは確かにあるが、そのようなスタイルを示す、それで書いてみるということこそがこの作家の本領なのだ。(一点、どうしても残念なのはタイトル。そもそもの着想からいけばしょうがないが、この作家の無二のタイトルセンスを味わいたかった)
老齢の極み(度々失礼)にあって、このように作家として誠実に生きる彼を映し出す作品を我々は読まなければいけないと思う。個々の作品の出来のみがその本を読むかどうかの判断基準にならない、継続的な歴史を持った作家というのは本当に少ないのだ。もっともっとみんな大江を読むべき。今のうちに! -
Posted by ブクログ
とても難しい純文学小説。著者の大江健三郎自身と、自殺した映画監督で大江の義兄、伊丹十三をモデルにしているということで興味深く読んだ。
作家の古義人は、映画監督の義兄、吾良の自殺の理由を探ろうとする。吾良が古義人に残した録音メッセージとの対話や、映画の絵コンテから、共通のトラウマである少年時代の記憶がよみがえる。ただし、その核心は本書からだけではよくわからない。
また古義人の妻であり吾良の妹である千樫も重要な位置づけを担っている。本書のテーマの一つである、「取り替え子」は生み替えともいえるだろうか。趣旨は少し違うが、トニ・モリソンのSulaという本を思い出した。
大江は義兄の自殺を悶々と悔やんだのだろう。さまざまな思想が示され苦しいほどで、本書の大半が話し言葉で書かれていることもあり、一部消化不良である。他の大江作品(というほどは読み込んでいないが)と同じで、読後感がずっしりと重い。