星野智幸のレビュー一覧
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自分とは何者か?俺が増殖して自我が崩壊していく筋書きは安部公房の『箱男』を思わせるが、自身の内面をどこまでも掘り進むと同時に、社会の中で存在を見失ない大衆の平均像の中に自分を解体して全体の中に溶け込んでいく感覚は、『幼年期の終り』の裏側の暗黒面を描いたようにも受け止められる。(アーサー・C・クラークの壮大なイメージは本書ではビールを飲んだ後のハモり的な卑小なイメージに変換されてはいるが‥)
解説で中島岳志が全体主義との関係を論じており、結末部分では戦争経験者の語り継ぎにも通じるものを感じるが、この種の経験を実感を持って伝えることの難しさ自体が、本書のもう一つのテーマなのかもしれない。
設定は極端に現代的でありながらも、普遍的な小説の資格を獲得している。 -
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「ありえたかもしれない世界」。
それを、「社会」の視点で想像させてくれる小説だと感じた。
東畑開人さんの書評を読んで、読みたいと思っていた長編の小説。
オウムなど、私たちの世界で本当にあったことは、一貫して架空日記の中で記載される。
主人公の生きる世界が決して希望だらけのユートピアとして描かれている訳ではない。
それでも、その世界では、主人公は少しずつ息ができるようになっていることを実感し、その幸せを噛みしめるような場面もある。
一方で、架空日記の中の自分は、いつまでも自分を消えるべき存在として描かれる。
世界は昔と比べて生きやすくなったのかもしれない。それでもそこからこぼれ落ちる人もいる。そこから分断が生まれていってしまってもいる。
自分とは何か?普通とは何か?対話や相互理解とは何か?
どうすればこの社会は生きやすくなるのか?どうすれば誰も取り残さない社会を作れるのか?
人の遺伝子に刻まれた業とどう向き合えばいいのか?人類は前に進めるのか?
様々なことを考えさせられる小説だった。 -
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ネタバレ4年ぶりに再読。直前に宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』を読み、それを道標にまたこの作品を読みたくなった。
私なりにこの作品の構造を整理してみる。
ヤソキチがメガトンを辞めると言った時の大樹の反応などに例えられるように、【俺】たちは自分より劣っている存在によって自分の存在価値を感じているのである。
同時に自分も誰かから見下されていたり、同調圧力に晒されたりしていて、自分の存在価値が不安定であることを許せないのである。(「均」的考え)
自分が固有で特別な存在でありたいという思いから、自分を見下したり圧力をかけたりする【俺ら】を「削除」し始める。
しかし元々他の【俺】を見下すことで自分の存在価値を確かめていた【俺】にとって、【俺ら】を「削除」することは自分の存在価値が消失する危機に晒すことになる。
【俺】は食われながら、自分は相手に必要とされていることに気づき、喜びを感じる。また【俺】は【俺】を食いながら、【俺】のおかげで自分が生きていることに気づく。
『〈私〉時代のデモクラシー』では、〈私〉が〈私〉であるためには、〈私〉を認めてくれる存在、他者が必要である、と述べられている。
自分を大切にすることと相手を尊重すること。この2つは相反しているように見えて、実はお互いが必要とし合っているのだ。
この両立を実現するには、【俺】そして【俺ら】を信用することができるかどうかにかかっている。 -
ネタバレ 購入済み
何度も読み返している
読後感がやみつきになる星野智幸。
特に「毒身温泉」はわたしの中で普段忘れていたり見えなくなるけど核ともいえる部分を刺激する、大事な作品。
独身をテーマにしているが、自立しながら他者と虚でないコミュニケーションを築くには、という読み替えも出来るかと思う。(虚でない、、とは上手く表現出来ていないが。馴れ合いでない、だけでも言い表せない)
「ブラジルの毒身」も大好き!「日輪の翼ごっこ」とは笑ったが、ダンス対決からの解放感が気持ちいい。ムズムズと踊りたくなるような、肉体の重さを伴った作品。 -
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この本での「俺」ってなんだろう。
クローン?コピー?
はじめは分からないまま読んでいた。
しかし、読み進めていくうちに、
「俺」には色んな一面があるんだと気がついた。
くだらないことも考える、
真面目なことも考える。
他者よりも優秀でありたい、
でも疲れた時にはだらけていたい。
そんな面を誰しも持ち合わせているから、
俺たちはみんな「俺」なんだ。
そう考えると、全く気が合わない人でも、案外自分に似ているのかもしれない、という気になる。
「自分」について考えるいい機会になった。
解説の、
「自分を演じながら他者とつながるのは疲れるが、1人でいるのは寂しい。
だから自分を演じなくてもよい他者とつながりたい。」
という言葉に共感した。
ここ数年感じている、具体的じゃないモヤモヤした寂しさは、この言葉に集約されるのだと思った。 -
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*ネタバレ、っていうほどないです。
文章から、作家の波打つ動脈のようなものが感じられた。
今にもちぎれそうな、破裂しそうな血管と、その中に流れる熱い血潮。
喉にへばりつくような空気感、臭気、粘り気。
星野智幸の小説にはこういう「気候」がよく用意されてるけど
わたしこれが好きだなー。
この『無間道』という小説からは
すぐに読みとれるストーリーはない。
主人公の動きを追うようなストーリーじゃなくて
3章にわたって繰り返される構造が
「物語」として浮き上がってくる。
たぶんだれでも気づくだろうな。
「これは無限ループのおはなしだ」って。
物語の構造自体がストーリーを引き寄せ、
それはまた小説全体の書き方にも及んでる。
だからきっと本当に読むべきは
その無限ループじゃないんだ。
「無限ループ」っていう言葉から想像されるのは
<まったく同じことの繰り返し=無意味>だと思うんだけど
この小説で感じられる反復は、ずれを、ともなっている。
繰り返しているんだけどずれている。
ずれているんだけど繰り返してるといえる。
似ているけど違っていて、違っているけど同じに思える。
ずれてるからそこに、
新しい意味がまた繋がっていくんじゃないかと
新たな可能性を見つける可能性があるんじゃないかと
思えてしまうんだ。
ありえない世界のリアリティを
疑わせない描写力。
さすが命の懸けられた小説だったと思います。
読むほうのわたしも、何度か死にましたw
というか今生きてるのか、
生きてる証拠ってなんなのか、
「自分」が生きてるってどうしたら確信に至れるのか
だからもしかしたら死んだことあるのかもしれないとか、
わからなくなって危なかったよ。
でも絶望はしなかった。
大きなテーマでもあると思うけど「自殺」という問題。
ここでは、「自逝」か。
境界を飛び越えても終われない人の道。
自殺に救いはないという定説ができそうな小説です。
映画化はできんよね。
無残に腐った逝体の描写ばかり際立って
小説のメインであることばの細工を伝えることが
むつかしくなるから。
何回も読める小説でした。 -
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若松英輔さんと平野啓一郎さんの名前があるし、と軽い気持ちで手にした本。そして、長らく積読本。今回、ようやく読み始め、初めて世田谷事件の被害者家族である入江杏さん主催のミシュカの森という会があることを知った。そして、その会の講演をまとめたのがこの本であることも初めて知り、心して読まねば、との気持ちになって読んだ。
平野啓一郎さんの話では、死刑について考えさせられ、東畑開人さんの話では、居場所についてを考えた。特に居場所の話は自分レベルで考えられたと思う。そして、自分にとっての居場所について考えられた。もっと居場所を作らなくては、とも思う。居場所、座っていられる場所。立っている場所は落ち着かず、疎外感を感じる。だから、座ればいいのだ、そこが居場所になる。体と心は繋がっているのだと改めて思わせてくれる、話の流れだった。と思ったことが、私の文章では伝わりにくいとは思うが、私としては腑に落ちた。 -
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1965年生まれの鬼村樹(イツキ)の1976年から2022年までの人生を、彼の別のありえた人生ともいえる「架空日記」も交えて、追っていく。
600ページを超える大作で、読み進めるのはたいへんだったが、一人称の悩みや性の悩みなど、自分にも重なる部分もあって、本当に生に苦悩するイツキの人生を追体験するような感じだった。
イツキ自身も認識しているが、イツキは人との出会いに本当に恵まれていると思う。イツキのような生きづらさを抱えた人が、それぞれの人生のタイミングでこんなに波長の合う人たちと出会うということは奇跡に近いと思う。そういう意味でも、この小説自体が壮大な「架空日記」ということでもあるのだろう。
本書を読んで、人生の分岐点、あり得たかもしれない人生といったことについて思いを馳せた。 -
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家電量販店のカメラ売り場で働く永野均は、ファストフードの店で隣の客檜山大樹の携帯電話を持って帰ってしまう。その電話に檜山の母から電話がかかってきて、つい話し込んでしまった翌日、家の帰ると檜山の母がいた。人違いだというと、「母親の顔も忘れてしまったの?」…。
オレオレ詐欺で騙してしまったという罪悪感の話かと思いきや、自分が知らぬ間に檜山大樹になってしまい、別の永野均、同じく永野均と名乗る大学生が現れるという、不思議な展開になっていく。
単に似た人が現れて入れ替わっていったり、檜山家が自分を息子と間違えて…という話かと思いきや、俺がどんどん増殖していくというSF展開になっていく。
自分(俺)が増えていくというところと、設定が数通りに変わっていく違和感を感じつつ読み進めていくが、後半になると俺がどんどん入れ替わっていくという結構ハードなSFに。
筒井康隆や安部公房を読んできた人には、ほう、そういう展開をという結構新鮮に読めると思われる話。まあ、タイトルからして筒井康隆っぽいなと読んだあとに思うであろう。
でもまあ、低評価をしている人は、後半が意味不明という人なのだろうな。
固有名詞を惜しみなく突っ込んでいったり、直接的な表現が多かったりと、シャープな書き口で、大江健三郎賞という、純文学的かと構えて読むとそういうものではなかった。
なかなかの掘り出し物であったね。 -
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ネタバレ未解決事件の遺族である入江杏さんが主宰する集まりの場「ミシュカの森」。
そこへ招かれた方々が「悲しみとともにどう生きるか」をテーマに様々に語ったことをまとめた一冊。
六人の方それぞれの悲しみに対する向き合い方に考えさせられたり理解が深まったように感じたり。
第4章東畑開人さんの「アジールとアサイラムとパノプティコン」という話が興味深かった。避難所と収容所。シェルターと管理所。
そしてその後の対談の中で「自分の物語を物語ることによる癒し」という話がなされます。河合隼雄先生が物語によって生きる力や癒しを得られるというようなことをいくつかの著作の中で語られていたことを思い出しました。
読みながら自分は、物語として書くのが難しければジャーナリング的(思いついたことをそのまま書き出すことでストレス軽減や心を整える効果をえる手法)にとにかく書いてみるというのが救いの一つになるかもしれないと思いました。
第5章平野啓一郎さんの話の中で「当事者でないからこそ書けることがある」ということが話されています。本書とは全く関係ありませんが看護や介護などでも、対象者が身内ではないから必要なケアを感情を込めることなく施せるという意味合いで、そういう側面があるのではないかと思いました。
誰かの辛い話を聞く時、共感することも大切だけれども理解ができない・共感できないからこそ受け止めてあげられるということもあるように思います。
当事者ではないということも状況によっては大事な時もあると思います。
同じ平野さんの話の中で加害者に対する処罰感情が強いあまりに、被害者遺族に対し「亡くなった人に対する思いが薄いのでは」というようなことを言ってしまう人がいるがあってはならないことである、ということが話されていました。
以前読んだ「家族が誰かを殺しても(阿部恭子)」の中に「遺族らしくない」とバッシングする人の話があったのを思い出しました。
平野さんの話の中には他にも、自身の提唱する「分人」の考え方や死刑制度についての意見(これらも本で出されています)、警察や司法に対する不信感など考えさせられる意見がたくさんありました。
入江さんがあとがきの中で、「被害者遺族らしく生きろ」という外圧について書かれているのを読んで辛くなりました。誰であっても勝手に世間から枠を当てはめられて生きさせられるような不条理さに甘んじることはないと思います。
でもどんなに辛いだろうと思います。理解も共感も及ばないだろうけれども、自分にできることは忘れないということくらいでしょうか… -
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岸本佐知子さんの編んだ書き下ろしアンソロジー、タイトルに惹かれてまず読んだ津島佑子の短編「ニューヨーク、ニューヨーク」が素晴らしかった。読みながら、読み終わってから、幾つものことを思った。
「ニューヨークのことなら、なんでもわたしに聞いて。それがトヨ子の口癖だった、という」冒頭のセンテンスを読んで、わたしも数年前の夏に数冊の本を読むことで行ったことのない「ニューヨークのことはもう分かった」と嘯いたことを思い出す。そこには彼女がニューヨークを思うのと同じように個人的で特別な理由があったのだけど。
その後に元夫と息子がこの世にいない彼女について語り合うことで明らかになり“発見”される、今まで知り得なかった「彼女の孤独や哀しみやささやかな矜持や希望」あきらめ、恨み、失望は、編者あとがきで岸本さんが書いているように「私たちみんなが心の奥に抱えているもの」なのだと思えた。少なくとも、わたしは同じようなものを抱えていた。改めてそれらを見つめることになる。さらにその語り合い、解釈を通して「なにか肝心なものが欠けた存在」では、と思いはじめる元夫、名無しの“男”の人生に自分を省みて、思い出し落ち込み、わたしも「少し涙ぐむ」。
そして、もういない人を語りあうこと、あるいは不在になったときに語られることについても考える。別の方向からの印象を聞き、ぶつかり合いすり合わされることで、新しい印象が浮かび上がる。それは勿論“正解”ではないのだけど、新たな、あなた、わたしが描き出される。何処までいっても憶測でしかないそれを、真実とその人自体だと思い込む、そうせざる得ないことは、実はとても恐ろしいことなのではと思い至る。しかし、人も含めた世界はそうやってしか捉えることが出来ないのなら、それは真摯に語られるべきだ。この小説のように。そんなことを少しこじつけて思う。とても素晴らしかったけれど、予想していなかった怖い思いもした短編小説だった。太宰治の娘だということはさっき知った。「電気馬」も読んでみたい。