森達也のレビュー一覧
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大変面白かったです。
クォン・デの最期から現代の場面に戻ったときの、1本の映画観終わった感。物語の中に入り込んでました。
他の方のレビューでドキュメントというより小説とあり、筆者もあえてそうした面もあると後書きにありましたので、物語と書かせてもらいました。
ただ、人物の感情描写はフィクションでも大まかなエピソードは実際のことだと思いますし、現代に戻ってからの展開はドキュメントですよね。そちらもやるせなさがいっぱいですが、子孫に会えて誤解を解けたことは慰めでした。 -
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読むべき本。
読んでよかった本。
まもなく森達也の映画「福田村事件」が公開される。福田村だけでなく、他の土地でも同様の事件が起こったことが最近の新聞記事に掲載されていた。
関東大震災で6000人の朝鮮人がら虐殺されたことはよく知られている。その時、訛りのある地方出身者が同様に虐殺された。その一つが「福田村事件」だ。
普段は善良な隣人がなぜ大量殺人の歯車になるのか。
その謎を解こうとする本だ。
先日「キエフ裁判」という映画を見た。ウクライナのバビ・ヤールでのユダヤ人とウクライナ人の大量虐殺を指導したドイツ兵の裁判記録だ。ドイツ兵士たちは(アイヒマンがそうだったように)一様に、命令に従っただけで、自分には逆らう権限は無かったと証言する。彼らは粛々と裁判を受け、皆礼儀正しい。
映画の後半は、一般市民の証言だ。生々しい耳を覆うばかりの虐殺の目撃談。何千人もの人間を、抵抗しない子どもも女も次々と踏みつけ銃殺し掘った穴に生き埋めにし、手榴弾を放り込む。
先ほどの礼儀正しい人たちがなぜこんなことをできるたのか?
ハンナ・アーレントはこれを「凡庸な悪」と呼んだ。
アイヒマンは「私の罪は従順だったことだ」と言った。
グレゴリー・スタントンの
「良識ある人々が虐殺に手を染めるまでの過程」にはこうある。
①人々を「我々」と「彼ら」に二分する。
②「我々」と「彼ら」に「こちら側」「あちら側」に相当する名前を付与する。
③「彼ら」を人間ではない存在(例えば動物や害虫、病気など)に位置付ける。
④自分たちを組織化する。
⑤「我々」と「彼ら」の間の関わりを断つ。
⑥攻撃に備える。
⑦彼らを絶滅させる。
⑧証拠を隠蔽して事実を否定する。
これはどこででも起こりうることだし、現に起こったこと、そして今まさに起こっていることだ。
人間は個である限り、他者の痛みを想像できる。
しかし、「不安や恐怖を刺激された時、一人でいることが怖くなり、集団の一部となろうとする。」
現代ではSNSという仮想空間が集団の擬似的意思となって人間を個から集団の一部にする。集団の相は、「ちょっとした刺激で突沸や接触凍結」を起こし一瞬にして変化するという。
「集団」と「刺激」これがキーワード。
この二つが合わさったとき、「虐殺のスイッチ」が入る。
森達也は言う。都合の悪い歴史から目を逸らす限り、
「断言する。ならば僕たちは、同じことを繰り返す。」 -
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食卓にのぼるお肉。それはもちろん生きていた牛や豚や鶏だった。のは誰でもわかる。では、生きていた動物はどうやってお肉になるのだろう。食卓から見つめる構造的暴力。
いわゆる食育的な、「いのちの授業」的な本を、森さんが書いたんだろうか?という疑問と、森さんなら食肉の問題をどういう視点で書くんだろうか?という好奇心があって手に取ったのは、実はこちらより前に出版されたよりみちパンセ版。
半分は予想通りで、森さんは食肉加工業者の歴史をたどって現代まで生きる差別に切り込んでいて、森さんを知らない人が読んだらけっこう頭を殴られたような衝撃なんじゃなかろうかと思った。この本で語られる差別というのは、実は非常に根深くて今でも生きているんだな、と気づいたのは時折関西方面に行くようになったごく最近のことだ。それまで差別というものに関して、実感する機会もじっくり学ぶ機会もほとんどなかったといっていい。それは、こういったことがこの国ではアンタッチャブルの扱いを無言の圧力の内に受けているからだろう。でもその同調圧力の中で、この問題が無かったことになるならば次に起こるのは同じ歴史だ。だから、森さんが口を酸っぱくしてこの本に書いているように、「知ること」はこの国や人を理解しようとする上でこの上なく大切なのだろう。穢れを誰かに押し付けて、それを見なかったことにして平然と生きることに、私たちは慣れすぎている。
ところでこの本のカバー、五十嵐大介さんだ。となると「リトル・フォレスト」といっしょにお楽しみください。 -
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オウム真理教のドキュメンタリー映画『A』の監督、森達也氏が作品上映までの道程を記した本書。ドキュメンタリー畑を歩んできた氏の文章はやはりドキュメンタリー的である。点の集合で絵柄が浮かび上がる点描画のように、遠目に見ると一つの像が現れるモザイクのように、本筋には無関係のような描写を書き込むことで、本筋の輪郭を浮き彫りにする。
オウム真理教にレッテルを貼らず、内部から見た外部を描くことで、オウム真理教の真実を描こうという試みは、ゆっくりと森氏に迷いをもたらす。それは、
①真実は一つではなく無数にある
②信じない者が信じる者に肉薄できない
③ドキュメンタリーに中立はありえない
という三重苦となり、難産の末に『A』を完成させる。『A』は社会の歪みを描いたドキュメンタリーであった。
本書のテーマを一言で言えば「無自覚の自覚」であろう。思考停止を自覚的に選んだ信徒と思考停止に無自覚な多くの人々。思考停止を自覚的に選んだ信徒は自覚的であるだけまだいい。無自覚に思考停止に陥った人は無自覚ゆえに、そして思考停止ゆえにそれに気づくことはない。そこには無自覚をどう自覚するかという難問が横たわっている。 -
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仏教、キリスト教、イスラム教(とユダヤ教)の出自とあらましが分かりやすく解説された本。とてもおすすめ。
人類史、世界情勢、自国・他国文化を理解する上で必須の教養だと思う。
それに海外文学、特に古典名作を読む上で、その地の宗教について知っていると理解が深まる。
他所の宗教はさておき、自分が拝んでいる相手が何であるか、どこから来たのかくらいは把握しておきたい。
・「創造主」「救世主」「悟りを開いた人」「精霊」を全て「カミ」という分類で一括りにしている現状は解せない。
そのいい加減さがいかにも日本の宗教観らしいとも言えるが、よく見てみると全く異なった存在。その中から一体何に手を合わせるのか、何を信じるのか、自由に決められたら良いと思う。そのためにも勉強は必須。 -
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■生きづらさの果てにあるもの、その究極形態の一つが自殺といえる。
自殺した本人の遺書や遺族らへの聴き取りをもとに厚生労働省が集計した過去10年間の自殺原因・動機別の統計がある。それを見ると成人の場合、ずっと「健康問題」が第1位であるが、20歳未満ではその割合が年々減少し代わって「学校問題」が第1位となっている。また、小中学生を中心に「家庭問題」も増えている。
近年の日本では経済格差の拡大が大きな社会問題となっているが、それとともに「経済・生活問題」も自殺原因としてよく指摘されるようになった。事実、成人の場合ではそれが全体の2~3割を占めるようになっている。しかし20歳未満ではそれほど多くはなく、5%にも達していない。こうしてみると若年層の自殺では健康問題や経済問題よりも人間関係に関わる問題の比重が大きいと言える。
■人間関係に関わる問題に通底しているのは孤立状態の深刻さであるといってもよい。
■配偶者と死別した人・離婚した人・未婚の人は結婚して家庭を持っている人と比べると自殺率が3倍以上も高くなる。自殺が孤立の病であるといわれる所以である。
■2020年は20歳未満の自殺者も際立って増加した。自殺率の上昇はすべての年齢層で見られた現象であるがその倍率は若年ほど高い傾向を示している。20歳未満では前年比の2倍で過去最多となった。特に10代の女性で増加率が凄まじかった。
人間関係の孤立感と人生の不遇感は男性より女性の方が強く刺激されやすい構図になっている。2020年はとりわけ若年層の女性において社会的孤立が深刻化した年であった。
■「居場所がないと感じること」にストレスを覚える人は男女ともに年齢が低くなるにつれて多くなっており、20歳未満で最高値を示している。
■ニーチェも言っているが「その人にとっての一番の弱点がその人を救う」ということがある。 -
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辛口の映画評論家は絶滅危惧種なのか。
確かに平坦な褒め言葉ばかり並べる映画評ばかりだ。
新聞の書評、映画評を読むのは年寄りだけだそうだ。
そうなのか、今はそんな時代なのか。
私は未だに読んでるけど。
確かに誰かの映画評を頼りに映画を観に行く事はまま有る。しかしキネマ旬報すら信じられないなら何を頼りにすればいいのか。
邦画を見なくなって久しい。
学生時代、キネマ旬報のベストテンを見て「サード」を見て「赤い髪の女」を見て「曽根崎心中」を見て「太陽を盗んだ男」を見て「泥の河」を見た。
全てが面白かった。
大阪映画サークルに入っていた。
自主映画上映に面白い企画が沢山あった。
今の若い連中は何を観てるんだろう。
考えさせる一冊だった。 -
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2005年に発売された「一冊でわかる」シリーズの『政治哲学』の岩波現代文庫版。
<目次>
第1章「政治哲学はなぜ必要なのか」、第2章「政治的権威」、第3章「デモクラシー」、第4章「自由と統治の限界」、第5章「正義」、第6章「フェミニズムと多文化主義」、第7章「ネイション、国家、グローバルな正義」、解説「政治哲学はどのようなものとなりうるのか」、岩波現代文庫版あとがき
<レヴュー>
訳書の体裁は2005年版とほぼ変わらないが、文庫版では紙幅の都合で図版をカットしたとのことで、特にロレンツェッティの寓意画がないのは少々もったいない気がする。とはいえ代わりに参考文献リストがさらに充実したものとなっている。扱っているトピックは多くの政治理論の概説書と共通しており、政治哲学の存在理由、そもそもなぜ政治的権威≒国家が必要なのか、その統治形態としてのデモクラシーの価値如何、統治の目標あるいは制約原理としての自由や正義、そしてこうした主題を扱う際に前提となる枠組みに挑戦しているとされるフェミニズム、多文化主義、グローバル・ジャスティス論といったものである。ただし類書と比べた際の大きな特徴は、理論家の名前や専門用語の類いが最小限しか登場せず、むしろどのような«考え方»によってそれぞれのトピックにアプローチすればよいのかという部分に焦点を当てるかたちで議論が進むことだろう。その意味で、導入科目のテキストの候補に挙げやすい一冊である。また当然、政治哲学という分野がいったいどういうものなのかをある程度知っている人間にとっても、平易な言葉で進められる論述は非常に魅力的である。もちろんこれは、原著者の努力もさることながら、訳者二人の推敲の賜物でもある。また訳者による解説・文庫版あとがきも政治哲学という分野の近年の動向を簡にして要を得たかたちでまとめてくれており、非常にありがたい。 -
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オウムのドキュメンタリー映画「A」の撮影について、森監督自身が振り返っている本。
オウムサリン事件で、マスコミはろくな取材もせずに、あらかじめ用意されたストーリーに沿って、視聴者が望む形のレポートを量産する。
オウム内部では、外部世界と隔絶し、外のことを考えずに純粋培養的に生活をしている。
この外の世界と中の世界のはざまでもがいている荒木さんを取材することで、オウムの生活から外を見ることで新たな視点を得ようとする。
オウム、マスコミともに自らの主義主張で相手の立場での視点を失っている。その主義、ストーリーに乗れないものは排除される。
森監督の企画も、テレビ局の考える「企画」としてわかりやすく狙いを語る安易な制作に乗れないために、排除され、フリーでの撮影に追い込まれる。
マスコミの客観性とは本来何なのか、矛盾がたくさんある。
ドキュメンタリーとは、だれかが感じ取った事実なので、主観でしかありえない。その覚悟を持ったうえで、最初からストーリーを付けずに、ただオウムを取材する。
その中で「結局何もわからない」ということでしかない。
これだけの解明されていない謎、カオスに満ちた状況に対して、ただただ対峙するという作品を仕上げるということが、なかなかないことなのだなと改めて思う。 -
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オカルトについて、賛成でも反対でもないニュートラルな視線から改めて見つめ直した森氏のルポルタージュ。
世の中なんでもかんでも黒か白かみたいな現代において、森氏のニュートラルな視線は冷静かつ論理的で読んでいて安心します。
山羊羊効果についての考察も面白いし、日本心霊科学協会などの団体のリーダーに直接インタビューする場面はなかなか知的スリルを味わえます。
てゆうかそんな公益財団法人があるなんて!
他にも森氏本人が体験した説明のつかない事象など…
子供の頃超常現象にハマっていろんな本読んだ身としてはこの本でまた考えをアップデートできて読んでる間ワクワクしてとても楽しかったです。
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コロナ禍での様々な出来事、事象をテーマ別に同じ執筆陣が1年半にわたり3回に分け論じていくという企画自体が素晴らしい。なるほどそれは戦後ということでは未曾有の長期にわたるインシデンスだからこそできる企画。しかも全く他人事ではなくリアルタイムで自ら関わっていく物語でもある。
しかも戦前では、自己であれ他者であれ何らかの規制とバイアスがかかったものになっていたはずだ。さらに現在のように圧倒的に世界中の情報が瞬時に手に入る環境ではない。
このことから今現在だからこそ出来る企画、やるべき企画、読むべき企画であることは間違いない。
執筆陣に偏りがないとは言えないが(いや、ある筋に言わせれば十分に偏っているだろう)それぞれ情報の正確さ透明さ先見性には、少なくともポジショントークだけは忌避する頑なさがあるという点で信頼がおける。 -
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渾身の一作。
これ、おかしくね??
が詰まっている。
地下鉄サリン事件が起きた当時、私はまだ小学校に入ったばかりで、麻原彰晃が逮捕されたとき、学校から帰ると母親がテレビにかじりついていたことをよく覚えている。
ショーコーショーコーショコショコショーコーアサハラショコー♪の歌を無自覚に歌って親に怒られたりしていた。
とにかくとっても悪くてひどいことをしたひとたち。ということだけが私の中には残って、その後特に自分の頭で考えることをしてこなかった。
野田秀樹のキャラクターを見たときに、少し興味がわいたけど、それもそんな捉え方ができるのかっていうようなレベル。
先日森達也さんの別著書を読んで、このA3が気になって初めて自分の中でこんなにオウムの一連の事件に向き合う時間を得た。
結論から言うと、読んですごくよかったし、向き合ったのはオウムではなくて、今の私たちのような気がした。
こんな国に住みたくないなと思った。
人を、ことを、感情の赴くままに裁いて、無かったことにでもできると思っているのだろうか。
結局私たちはみんなで忘れる、復讐をするっていうことに、裁判を使ってしまったのではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば、私は麻原彰晃になんの感慨もない。
自分はあの事件の時、子どもだったし、母親がテレビにかじりつくようなことなんだっていう変な興奮があっただけだ。
それもなんか、すごい映画の中で起きてるようなハラハラするようなことが起きていて、それは成功しないといけないんだっていうようなこと(上九一色村の突入)。
だから恐怖をリアルには知らない。
その私がこの森さんからの報告を見ると、単純にこの一連の犯人とされていた人たちの人権ってどうなってるんだろうと思った。
本当に色々な人生があって、そのどれも誰にも分かりえないようなもので、それなのにそれを分かったかのように、あるいは分かろうとしないで人の命を勝手に裁くことが人間にしていいことなんだろうか。
普通に、こわくね?
と思う。