森達也のレビュー一覧
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論点が明確だからか、対談本にしては筋ははっきりしている。ただし、というかだからこそ二人の主張は交わらない。
藤井は、自ら行った多くの被害者遺族とのインタビューの後に、死刑存置に自らの意見を傾けることになったという。それは非常にアクチュアルな判断なのだと思う。しかしながら、死刑の存続の主張を、被害者遺族の応報によって立つ限り、被害者遺族がいなかった場合に死刑は必要なのかという根本的な問いに答えることができない。この点については森からも強く指摘されながらも藤井は答えを返すことができていないでいる(と少なくとも私には見える)。
死刑が統計的に犯罪抑止に貢献していない以上(これについては両者とも同意している)、死刑存続に関する根拠が薄れていっているように思える。
ノルウェイでの銃乱射事件で世論がそれでも死刑をよしとせず反対を固辞するという事例は、これもまた一面しか切り取っていないのかもしれないが、衝撃的である。これとは違う意見をノルウェイでも持つものはいると思うが、公人たる法相の意見として語られ、かつメディアがそれをよしとして報道することは何がしかの日本とは異なるコンセンサスが形成されていると言わざるをえない。
また、話は裁判員制度におよび、死刑を含めた量刑判断を負わせることに対する批判と、二審、三審では裁判員裁判が導入されないという矛盾にも言及される。そして、死刑制度の大きな問題でもある冤罪にも当然のことながら触れられる。
この本においては、藤井よりも森の方が明らかに論理的である。自分も多くの点で森の方に賛意する。それでは割り切れないところこそが死刑存続に関する議論なのだろう。 -
Posted by ブクログ
最近気に入ってときどき読んでいる
森達也氏の本。
簡単なすぐに読める本ですが、タイトルがいい。
『たったひとつの「真実」なんてない』
平易な文書ですが、奥が深い文書だと思います。
まったくそのとおり。
またメディアの見方、リテラシーについて著者の
考え方が分かり易く書かれてあります。確かに
メディアはどんどん力を持っているように思えますし
(昔もそうだとおもうのですが)高尚ではなく低俗
になっていると思えます。
メディアは絶対に必要なもの。でも高尚なものや
中立的なものではない。低俗だなあと思えるのは
それは、マス側がそういうニーズをもっているから
鏡であること。
だからこそその扱い方、見方、リテラシーが問われる
ということ。
(引用)
”時おり僕は、人類は何で滅びるのだろうかと考える。
①宇宙人の来襲
②隕石の落下
③氷河期
あなたはどう思う?正解はもちろんわからないけれども
僕は時々、人類は進化しすぎたメディアによって滅びる
のじゃないかと考えている” -
Posted by ブクログ
一応、メディアの端くれの端っこの方で落っこちそうになっている者として、実感としてもよく分かる本でした。
「たったひとつの『真実』なんてない」
その通りと思います。
メディアは最も良い場合でも、真実の一断面しか伝えることしかできません。
それを「ウソ」だと云われても困ります。
捏造は論外ですが、メディアは不完全な存在です。
でも、なくなっては困ります。
「ならば上手に使おう」という著者の呼び掛けに同意します。
もし上手に使えないとしたら、それは最悪の事態を招くことさえあります。
なぜなら、「国の形はその国のメディアによって変わる」からです。
第2次世界大戦後、ニュルンベルク裁判で裁かれたナチスの最高幹部ヘルマン・ゲーリングは、「なぜドイツはあれほどに無謀な戦争を始めたのか」と裁判官に問われ、こう答えました。
「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。ソ連でもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでもそれは同じです。でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民にむかって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です」
まるでいまのどこかの国のようで、いささか戦慄を覚えますが、指導者のメッセージを国民に伝えるのはメディアです。
メディアが戦争の潤滑油の役割を果たすのは、近現代の戦争の特徴です。
国民がもっとリテラシーを身につけて、メディアを使いこなす。
国民のレベルが低ければ、メディアもそれに合わせるし、逆に高くなれば、メディアもそれに合わせざるを得ないのです。
メディアに関わる者も、自覚を持たなければなりません。
著者は「つまり胸を張らないこと、負い目を持つこと」と述べています。
過度に卑下する必要はないとは思いますが、必要な心構えではないでしょうか。
メディアについて考えたい方はどうぞ。 -
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自らKY、ずれている、という森達也氏。その資質が、オウム真理教を内側に入って追った『A』や、放送禁止歌やエスパーなどの一風変わった対象のドキュメンタリの作成につながってきたのではと解説する。その森さんのエッセイ集。
エッセイ集なので、対象を絞った、その中で悩み抜く森さん特有の魅力はこの本にはない。もしくは薄い。
この本の中でも死刑制度や、天皇制に対するメディアの自粛(に代表されるメディアの変質)などへの言及は、すでにどこかで聞いた既視感があるが、きれがある。きれとは、ずれだ。
メディア批判も相変わらず。ここが著者の設定するプロブレマティックの中心にあるからだ。メディアが持つ力に対して、権力ではなく権力性だと主張する。権力とは認めない、と。なぜならメディアは自らの力に無自覚であるからだと。そして、これが大事なのだが、「権力を権力たらしめるのは自覚だ。メディアにはそれがない。だからこそ無軌道になる」と指摘する。いっそのことメディアが権力であればまだしもよかったということも多いのかもしれない。
面白くないわけではないが、森さんの著作を読むのであれば、『A』シリーズや『エスパー』シリーズ、『死刑』に関連するシリーズなど、もう少し骨のあるものをお薦めしたい。もう読んだのであれば、これも。 -
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収められているすべての論考がISによる後藤さんらの殺害が起こる前に書かれている。したがって、ISに対する論考はない。しかし、この本からわかることは、あるいはこの本が思い出させてくれるのはISの行為が、僕らが知ることのできないような特別なものでは決してないということである。
この本は思い出させてくれる。原爆による大虐殺があったこと。ホロコーストのこと。カンボジアでポル・ポト政権がやったこと。ルワンダで隣り合った住民が斧や鉈で殺しあったこと。今もまだスーダンで悲惨が続いていること。そして、かつて日本が東アジア、東南アジアで行ったことを。
人間というのはこういうことをするものなんだ、というところから思考しよう、と言っているのだと思う。僕らもそうなりうるということ。そして、その流れはいつしか止められなくなってしまうこと。そういうことを繰り返してきた人類は、多分これからも繰り返すかもしれないということ。だから、今その流れがまだ小さいうちに止めてしまわなければ・・・・ということ。 -
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当然にしてあるべき食肉加工(=家畜の屠殺)というプロセスがあり、それがあえて目に付かないようにされているということを、子どもに語るように説明した本。この本では、家畜を食べる、ということと、差別について語られれている。著者である森さんはTV向けの映像作成の仕事をしていたときに、家畜を殺して食べる、ということをテーマにして番組作成を企画したが、結局テレビ番組にはならなかった。その理由が、屠殺シーンの問題もさりことながら、それよりも大きかったのが被差別部落の問題だ。
食肉加工という職業が「穢れている」とされて、部落差別の対象となっているということは事実としても知っていた。実際に自分の親も、ときにあまり躊躇いもなくそのことについて具体的な人の名前を挙げて語っていた記憶もある。そして、森さんに言われる通り僕はそれを見ることをしなかった。
2つのこと(家畜を食べるということと差別部落)は事実としてもつながっているが、いずれも見ないことによって助長をしているということでも共通点がある。森さんのメッセージは僕たちはしっかりと自分の目で「見る」という意識を持たなくてはいけない、ということだ。それが森さんの問題意識。彼のオウム問題や死刑の問題にも通じている。その問題意識はどのように共有されるべきなのだろうか。それがこの本の感想。 -
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ドキュメンタリー作家 森達也が、様々な媒体に書いたエッセイをまとめたもの。
複数の媒体にまたがっているが、各章のタイトルとサブタイトルを見ると著者の意図がわかってくる。
第一章 加害者と被害者 - 加速する厳罰化と発せられる罵声
第二章 無知と自覚 - 外なる「悪魔」、内なる「善」という思い込み
第三章 憎悪と報復 - 加虐的に、とめどなく
第四章 同調圧力 - 集団は敵を探し、強い管理統制とリーダーを求める
第五章 覚悟 - 表現するということは
全体としてなかなかまとめづらいので、ここでは、いくつか印象的なフレーズを取り上げる。
・第一章で取り上げられた『苦界浄土』は高橋源一郎にも最上の敬意をもって取り上げられた。「要するに僕はまだ『苦界浄土』を語れるレベルにすら達していない」という『苦界浄土』は一度は目を通しておきたい。
・足利事件などの冤罪事件や死刑囚再審に対する論考の中で、「個人の場合に働くはずの摩擦が効かなくなる。なぜなら「赤信号みんなでわたれば怖くない」状態になるからだ。そしてこの状態が少し続くだけで、赤信号であることすら忘れてしまう」というのは、森達也が常に意識することだ。オウム以来、暴走する組織のロジックや、「しない」ことの冷酷さは著者の大きなテーマだ。
・精神鑑定について、「かつて精神鑑定は、被告人の権利を守るための重要な要素だった。オウム以降、加速する厳罰化の流れにおいて、その意味付けは逆転した。検察側の主張を補強する材料として、恣意的に使われることが多くなった」というのは『A3』での大きなテーマ。検察の恣意性というのは、組織として「しない」ことを選択することでさらに強化されている。拘留請求がほとんど裁判所で受理されるといのが、司法全体で熟考が働かなくなっている証左かもしれない。
・「遺族の感情が死刑の理由になるのであれば、もしも親類や知人をまったく持たない人が被害者となったとき、その犯人の罰は(応報感情を抱く遺族がいないのだから)軽くてよいということになってしまう」という著者はこの点で全面的に正しい。光市星殺害事件に対するメディアと一般市民の声を論じるに当たり大いなる違和感を発する。このテーマは、『「自分の子どもが殺されても同じことが言えますか」と叫ぶ人に訊きたい』にも通じるテーマだ。本書のタイトル『増殖する悪意』もこれを表現している。
・有名なミルグラムの実験を取り上げて、「人の自由意志はこれほどに危うい。簡単に操作される。そして操作されていることに気づかない」とする。また、ホロコーストを例に挙げて、「誰もがヘスになりうる。誰もがアイヒマンになりうる。もちろん僕も。そこからスタートしなくてはダメなのだ」という。オウムの件でいうと信者は「洗脳されていた」ということで済ませてはいけない。
・「メディアはうそをつかない ... 視聴率や部数を上げるために危機を煽り、悪と規定された存在の異常さを強調し、視聴者や読者が望む方向に誘導する(念を押すがメディアが望む方向ではない)」... 最後のところが重要。
「恣意的でありながらルーティン・ワーク。むしろこちらのほうがうそより怖い。なぜなら加工をしているとの自覚がない。後ろめたさや抵抗がない。だからつるつる滑る。こうして「凡庸な悪」が誕生する」というのが、組織の暴走に対する著者の認識だ。「人は普段着のままで買い物帰りに、取り返しのつかない間違いを犯す生きものだ。その意識をもう少しだけ多くの人が持てば、メディアはおそらく変わるはずだ。でも人々が変わるためにはメディアがかわらなければならない。救いのない堂々巡りだ」というのは著者が確信する、マスメディアが必然的に内包する問題だ。
・「恣意性のない編集など存在しない。虚を撮って(自分にとっての)真実を紡ぐ。表現として再構成する。これがドキュメンタリーの作法であり本質だ。事実と表現のあいだに生じる乖離に煩悶して当たり前なのだ」や「情報は常に誰かの意見や思いのバイアスがかかっている。意見や思いのフィルターを透過している。ニーチェが残した箴言である「事実など存在しない。ただ解釈だけが存在する」の意味を、メディアの人たちはもっと噛みしめるべきなのだ」というのは著者のドキュメンタリーとメディア批判に共通する姿勢だ。
・「第一に被害者と遺族の地位は、ほとんど聖域化しており、彼らに反対尋問をするとか、彼らの主張に疑問を差し挟むということはほとんど不可能であるということ。第二に、被害者と遺族が被告人に死刑を望むと発言することを、日本の裁判官が止めるということはなく、実際に多くの遺族は、家族や友人、さらには検察官からそのように後押しされているということだ」。これは著者の意見ではなく、オウム裁判に対する、日本の刑事司法の研究者のデビッド・ジョンソン氏の言葉になる。これは正論でもあるが、実際に通用しない少数派であることも確かだ。
・「宗教は生と死を転換する装置でもある。だから宗教は戦争や殺戮と相性がいい」というのが、著者の宗教に対する考え方。
・拉致被害者の会の蓮池透との対談が掲載されている。蓮池さんは、当初拉致被害者蓮池薫さんの兄で、被害者の会の事務局長を務めていたが、北朝鮮への対応が強硬派に流れるに至り、違和感を覚えて対立し、近年は互いに距離を置いているという。
著者の煩悶と熱意が伝わる。