森達也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
以前から気になっていたが、なかなか手を伸ばせずにいた。
それが、このタイミングで購入。
品川のくまざわ書店で、森達也関連の本が3冊もあったのだ。
読んでみて、もっと早く読めばよかったと思ったほど。
マスコミの機能不全を指摘したいがためではなく、
日本全体が陥ってしまった「思考停止」という言葉に気がつくために。
オウム真理教は、明らかに私達の社会から生まれたもので、
理解できないかもしれないが、そこで思考停止するのではなく、
そこから問いを立てることが、知性のするべきことなはずである。
それを怠ってきた日本社会の20年近くの欠落はあまりにも大きい。
1995年以前の日本社会とその言論がどのようなものであったか、当時高校生だった僕には知る由もない。
しかし、断言できるが、この年がターニングポイントだったのだ。
飛躍するが、だからこそ村上春樹は、オウムと阪神大震災の2つにこだわっているのだと思う。
(同じく、オウムを描いた作家として、村上を挙げないわけにはいかない)
その村上がバルセロナの文学祭で、原発について「ノーと言い続けるべきだった」と発言したと言う。
間違いなく、彼は原発や津波をテーマに作品を書くはずである
村上春樹だったら、どのような作品を書くのだろうか? -
Posted by ブクログ
僕はお仕事の一つとして、「お肉はどのように作られて僕らの食卓に届くのか?」というお話をするために、小学校に招かれて授業をすることがごくごくたまにあります。名付けて「いのちの授業」というものです。
僕らが生きていくためには、栄養を摂らなければならなくて、そのためには「他の生き物の生命」をいただかなくてはならないわけで、それを残酷で嫌なことだと思ってしまうと、食べ物を食べることができなくなってしまうわけです。
でも、それでは健康に成長することができなくなってしまうのですから、「他の生き物の命」をいただくことについて、何らかの折り合いをつけなければならないということになるのだと思います。
僕のお仕事からすると、食肉を大切に、ありがたいという気持ちで頂いていただければいいなあ、と思うわけですが、この本ではもっと話を深めて、僕たちが生きていく上で出会う様々な矛盾についても目を向けて、生きていく力を身につけていくことに狙いがあるように感じました。
小学生にも読むことが出来るようにルビのふられた文章は、読みやすく噛み砕いた表現で、この作品を読んだいま、「いのちの授業」に招かれたら、この作品の中からの一節を引いてお話に加えたいと思っています。 -
Posted by ブクログ
ネタバレー彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。
ー真実は一つしかないと、いつから僕たちは思い込むようになったのだろう。
オウム事件関係の死刑執行があってから、村上春樹のアンダーグラウンドを読んで、被害者の言い分は理解できるけど、加害者の言い分になんかしっくりこないところがあった。そこで止まってた時間を動かしてくれた出会いには本当に感謝。オウム側にはオウム側の考えがあって、そこからみたら、私の考えの方が理解しがたいのかも。
森達也に共感できるのは、ただ、純粋に、自分が納得できるような真実が欲しいということ。マスコミが捏造したのでもない、信徒が尊師を信仰しながら言ったのでもない、でも、どちらも、事実で真実を含むことは重々承知で、その上で自分が納得できる根拠のある「真実」が欲しい。傲慢な知的欲求が止まらない。
オウム側から見たら、世間はなんて残酷か。オウムの被害なんてないと感じているから、そう言えるのかもしれない。知れば知るほど、あの時代にオウム側に歩み寄れた森達也ってすげーなって思う。そして、なんであれ、麻原の精神鑑定が行われなかったこと。世間の評価、常識、制度、なにもかも今とは違っていたんだなぁと思う。でも、もし、今同じことが起こったら???時代は変わりゆくけど、人は変わったように見えるけど、根本的にはきっと何も変わってない。同じことが繰り返されて、きっと、平和なんていつまでも訪れないのだ。こういう社会だから、いっそ清算してしまおうなんて思想も、厭世的な私は場合によっちゃ支持するのかもしれない。何か信じるものがないと、人は不安定なのだ。絶対的な神がいて、思考停止できるなら、そんなに楽なことはないでしょう。
ー世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい
いろんな側面を見た作者がこう言ってくれるのは、せめてもの救い。考え続けたい。 -
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筆者は「売国奴」や「非国民」などと嘲笑され、誹謗中傷されることが多いといいます。
たしかに、そういった批判は浴びるだろうという主張ではありますが、筆者の主張に共感できる部分がとても多く、刺激的な1冊でした。
筆者の主張の根幹にあるものは、「暴力に暴力で対抗してはいけない」「いたずらに危機意識を煽るメディア(また、事件報道をはじめ危機感を要求する視聴者)を無批判に受容してはいけない」といったことだと思います。
近年の日本社会に溢れる「治安が悪化している」という雰囲気は、事件報道を見たがる視聴者と、それに応えたマスコミの相互作用で醸成されてきたという筆者の指摘は正しいように思いますし、具体的なデータ(数字)にもとづかない印象による議論も多いと感じます。
たしかに、「理想論」と批判されるようなことも述べられていますが、その”理想”を「現実」のものとするために、何ができるのか、また何をすべきなのかということを考え、また世の中で起こっている事象の”原因”は何なのか、一面的な報道だけでなく多角的な視点から情報を得て考察すること(それにより「恐怖」や「不安」の根源を明確にすること)の必要性を改めて強く感じます。 -
Posted by ブクログ
著者はドキュメンタリー映画監督の森達也氏。彼の映画は、オウム事件など社会問題を中心にした作品が多いようだ。
個々の信条と違うものもあるかもしれないが、彼が本書で伝えるメッセージは強烈であり、筋が通っている。自分の意見をメディアで発表することは、反対の立場の人からの猛烈なバッシングが予想され、とても勇気がいることだと思う。家族にも迷惑がかかるかもしれない。森氏は、社会や日本、そして世界の行方を憂う正義感から、それをあえて声高に訴えている。
例えば、森氏は死刑制度の有効性に疑問を抱いている。死刑だけでなく、終身刑や無期懲役もない国ノルウェーについて書かれた章がとても印象的だった。77人を射殺した犯人は懲役20年で、その間大学で勉強することもできる。刑期を終えれば、住居や就職の斡旋もされる。ノルウェーの犯罪率は、日本と同程度、つまり非常に治安が良いという。一方、厳罰化が進む日本では死刑判決の数は増え続けている。
森氏の主張では、メディアなどで警戒を呼びかけと、必要以上に人々が構えて疑心暗鬼になってしまう。どこか変だと思いながらも、誰も意見を言わなければそれが社会のコンセンサスになってしまうことに、彼は警鐘を鳴らしている。
いろいろ考えさせられる一冊だった。 -
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タイトルは笑える。
職業がエスパーとはどういうことだ。コメディなのか? と思わせて、その実、ものすごい重い題材を取り扱っている。
書き手はドキュメンタリー映像監督。有名な作品はオウムを取り扱った「A」シリーズだそう。
エスパーというものについて、当人以外、いや、もしくは親しい人がエスパーでもない限り、「あ、うんSFとかに出てくるアレだよね」となる。
私は、信じる信じないでいうと、信じてない。
著者も信じる信じないでいうと、そこははっきりとしない。信じるとは言い切れないというスタンスである。
エスパーを職業とする彼らのドキュメンタリーを撮りたいとして、まず、企画書を作り、お金をもらってくる必要がある。
その時、お金を出す人たちは問いかける「本当に信じているの?」と。ネタとしてエスパーを取り扱うのではなくて、職業をエスパーとしているただの人を主体とした場合、企画は通りにくい。その状況すらも著者は語る。
語るとは何か。
なぜ語るのか。
エスパーという、日常ではあまり使わない職業を選んだ彼らに、周囲の人に、わざときつい言葉を投げて反応を見る。そしてそんな言葉を投げる自分に傷つく。しかし、傷つけても、傷ついてもみたいものがあるという姿勢がすごい。
これも数ヶ月前に読んで、言葉が出てこなかったもの。
再読したい。 -
Posted by ブクログ
あるテレビの仕事の取材でベトナム青年がふともらした「僕らの王子は、日本に殺されたようなものなのに、日本人は誰もこのことを知らない」という一言をきっかけにして、戦前の文献などを調べることとなったベトナムの王子クォン・デについての伝記。日露戦争で欧米列強の一国であるロシアに勝ったことはアジアからの期待は大きく、当時フランスの支配下にあったベトナムの人々にとっても憧れの国でもあった。クォン・デは、フランスからの祖国解放のために妻子を置いて、革命家のファン・ボイ・チャウらとともに来日した。しかし、結局は大きな貢献をすることもなく、最後までベトナムに帰ることなく日本の地で亡くなった。
本書はクォン・デの生涯を描きつつ、当時の日本と現在にも通底する日本社会の課題を浮かび上がらせるように書かれている。「クォン・デが来日してから第二次世界大戦が終結するまでの裏面史を描くことで、現在の歪な日本の姿を、少しだけ角度を変えた光源から距離を置いたスクリーンに浮かびあがる映像のように際立たせることは、当初の意図のひとつだった」と書く。
確かに第二次世界大戦に至る日本の歩みは森達也氏の問題意識と直接的に関係している。日本が戦争に突き進んだのは、ドイツやイタリアとは違った形のいわゆる日本的な「民意の暴走」によるものだと著者は解釈する。「日本は、究極的なデモクラシーを体現しながらファシズム国家への道を歩むという稀有な歴史を持つ国なのだ。 (中略) つくづく思う。日本という国は、ずっとこうだった、誰もが確信犯にならないまま、誰もが無自覚なまま、一人ひとりが全体の一部になることで思考停止して、国家としては取り返しのつかない愚策や過ちをいつのまにか犯している」
著者は、もともとはテレビ業界出身の映像の人であり、オウムを追った『A』、『A2』などの社会派ドキュメンタリーの人だ。最近のゴーストライター事件の佐村河内氏を彼の側から描いた『FAKE』なども素晴らしかった。クォン・デの話も当初は映像ドキュメンタリーのフォーマットで形にできないかと検討したが、予算もつけられず、また書籍のフォーマットの方が適しているであろうということでこのような形で進められたと。そして、そのことで著者自身「ターニングポイントになる、とても大切な作品」と言っている。
森さんらしく善と悪との二分法には抗がう。クォン・デを善人としても英雄としても描かない。逆にピュアだが、国の行く末を任せるにはやや頼りない経験不足な人物として描かれる。「この王子は批判や咀嚼の力があまりに弱すぎる。投げるのも直球なら受けるのも直球のみだ。これでは革命は成就しない」と評する。それでも、森さんの思い入れは伝わってくる。あとがきに何度も読み返し、少し涙ぐみさえもするという。
この本を書くための調査の最後仕上げとしてベトナムに行くのだが、そこで想定外のオチが付く。場合によっては全体の構成自体を揺るがしかねない事態だが、それはそれで意味があることなのかもしれない。
戦前のベトナムのこと、当時の日本とアジアとの関係、そしてもちろんクォン・デ自身のことなど全く知らなかったが、面白く読めた。