森達也のレビュー一覧
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森達也の本も新鮮さがなくなった。
それは、森達也の主張に共感することがなくなったということではなく、その逆に彼の主張がほとんど摩擦なく腑に落ちるようになったからなのかもしれない。
タイトルからして、2015年9月に採決された安保法制についての話かと思うかもしれないが、本書はそれ以前に書かれた森氏のエッセイをまとめたものである。単純に時系列に並べたものではなく、2008年から2014年に書かれたもの(ほとんどは13年から14年)を次の4つの章のテーマにそれぞれを振り分けて編集されたものだ。見ればわかる通り、戦争についてのことだ。
第一章 すべての戦争は自衛意識から始まる
第二章 「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に聞きたい
第三章 戦争の責任はA級戦犯だけにあるのではない
第四章 それでもこの国は再び「戦争」を選ぶのか
森氏は、このエッセイ集の中でもたびたび言及している通り、こういった戦争に対して反対の声を上げるたびにネットでブサヨと言われてディスられてきたという。自分は、小林やすのりの著作なども共感して読んできたので、いわゆる左翼ではないと思う。もちろんのこと右翼でもないのだが。その自分として、森さんの主張はバランスがとられていると思う。これに対して、自虐であるとのレッテルを貼って見えないところから(匿名の立場で)こぶしを放つようなことをする輩については全くいただけない。
森さんはもともとがマスコミの人であり、その立場でのマスコミ批判を繰り返す。その中で、特定秘密保護法が成立した翌日に『ETV特集 戦場で書く~作家・火野葦平の戦争~』とその翌日の真珠湾攻撃の日に『NHKスペシャル日米開戦への道 - 知られざる国際情報戦』を放送したことに対して、ある種の意図と姿勢をもって政府と違う視点を出したものとして高く評価している。もちろん、政府の意向に沿った番組を作るNHKの報道局に対しては絶望的に批判的だが。
2014年12月時点で書いているというエピローグで、次の映画作品の撮影をしているという。そいつを楽しみにしたい。どんな映画かは書かれていないが、できれば映画館で観たいな。 -
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見えにくいから、見ようとする。聴こえにくいから、聴こうとする。分からないから、考える。自ら取る行動のひとつだったとは。そんな一歩の無い、ものすごくスムーズで分かりやすくするテレビ・メディア。メディア。悲劇も喜劇も日常。
163頁〜引用、
ベトナム戦争において米軍が敗退した最大の理由は、国内外に高まる反戦の世相に抗しきれなくなったからだ。そのきっかけの一つは、そもそもの戦争介入が米軍の謀略によって始まったことを暴くペンタゴン・ペッパーズの存在やソンミ村事件などの実態を、メディアがスクープしたからだ。
ところが存在しない大量破壊兵器を大義として始まったイラク戦争に対しては、なぜか世相に火がつかない。こうぞうはべとなむせんそうとほぼ同じなのに、イラク戦争に対しては、メディアを、受容する人たちの意識が喚起されない。
その理由の一つは、メディアの質の変化にあると僕は考えている。ベトナム戦争の時代の戦争報道の主流はスティール写真だった。一秒の何百分の一。しかもモノクロがほとんどだ。つまり欠陥したメディア。ところが今の戦争報道の主流はビデオ。情報量はスティール写真とは比べものにならないくらいに増大したのに、人の心は喚起されない。揺り動かされない。(中略)表現の本質は欠陥にある。
メディアは徹頭徹尾足し算だ。
310頁
かけてもいい、国家に救われた命より殺された命のほうがはるかに多い
316頁
透明人間にペンキをかければそのアウトラインは浮かび上がる。国家とはそのようなものだ。実体はない。でも前提するからには実体があると信じなければならない。だから色とりどりのペンキをかけて、法令や政治や統治や憲法や人権や刑罰や軍隊や税金などの輪郭を浮かび上がらせねばならない。
前提でありファンタジーでもあるのだから、その内実は「思われる」ことによって具体化する。
317頁
私にとって国というのは、そこに暮らす人たちのできるだけ多数の幸福を実現するためのしすてむであってほしいと思っています。たとえるなら国はマンションの管理組合、政治家は管理組合の理事のようなものです。人は何かに帰属しないと生きていけないとしても、マンションの管理組合に帰属することで自己のアイデンティティを確立する人などいないはずです。乱暴かもしれませんが、国なんて本来その程度のものなのではないかなと思わなくもないです。
350頁
殺されるかもしれないとの恐怖はすさまじい。そして殺すときの良心の負荷もすさまじい。心を壊さないことには殺せない。そもそも語りたくないことに加え、壊れているから記憶が定着しない。だから語りたくても語れない。なぜ人が人に対してこれほどに残虐なことができるのか。その理由がどうしてもわからない。
こうして加害の記憶は途絶え、被害ばかりが語り継がれる。だから戦争の実相がわからない。加害の記憶を思い出さないことには、憎悪と報復の連鎖は止まらない。
351頁
「もしもまた同じような状況になったら絵鳩さんはどうしますか」との質問に対して、ゆっくりとマイクを手にした絵鳩は、「私はまた、同じようにするでしょう」と言った。
「皆さんもそうです。それが戦争です」
辛そうだった。苦しそうだった。でも絵鳩はごまかさない。決して隠さない。… -
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オウム真理教は、自分が大学のときに上京して初めて一人暮らしをした杉並区永福町が、彼らが立候補した選挙区になっていたので、毎日駅前で「しょ~こ~、しょ~こ~、あ・さ・は・ら・しょうこ~」という歌を聞き、なぜか今もって理由がわからない象のかぶり物をした若者たちが井の頭線永福町の駅前でチラシを配っているのを見ていた。
その後の1994年3月、就職前の卒業旅行で乗り継ぎ地のモスクワ空港で成田への帰国便を待っているときに、やたらと白衣の日本人が目についた。時折ヘッドギアをつけている人が混じっているのを見て、ロシアでは何か変な医療旅行が流行ってるのかと思っていたら、乗り込んだアエロフロートの飛行機のビジネスクラスのシートの一角を、さっき見た白衣の日本人が占めており、その中に麻原彰晃の姿を認めたことで合点がいった。成田空港でトイレに行くのもお付きのものがぞろぞろとついて回るのを見てすごいなあと思う一方、滑稽な人たちだなと思っていた。
彼らが、その一年後、あんな大事件を起こすとは思わなかった。
上の件は、飲み会で散々ネタにした後、裁判の行方も気にせず、日本が忘却するのと同じように、自分の中でも忘却するに任せていた。
その後、村上春樹が上梓した『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』を読み、オウムのことを思い出したが、やはり深くその意味を考えることがなかった。著者がいう「忘却」に、自分も同調している側のひとりであった。最近になるまで映画『A』や『A2』の存在も知らず、もちろんこの『A3』という本もその存在自体が目に入っていなかった。麻原彰晃と同じ飛行機に乗って、そのことをネタにして自慢げに話していたのにも関わらず。
オウム事件と同じくらい、オウム裁判には注目が集まるべきだったと思う。
森達也がオウムに出会ったのはある意味では我々にとって幸運だったのかもしれない。
来年の2015年は、あの年から20年になる。 -
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オウム信者と、信者側から見た周りの人々を描いたドキュメンタリー映画『A』、『A2』を撮った森達也のオウムに関する著作。それまでの「A」は、撮影対象者の荒木広報部長やオウム真理教のイニシャルだったかもしれないが、この『A3』は麻原彰晃のイニシャルだという。公判で見た麻原彰晃の姿と、それに対する周りの反応とのギャップに愕然としたことが本書の執筆の出発点となっている。その上で、あの地下鉄サリン事件にまで至ったオウム事件の意味を月刊誌への連載という形で問い続ける。真実の追求をすることなく、迅速な審理(死刑判決)に傾く裁判に対して反発する。あの事件についてはその動機も、事件に至ったメカニズムも明らかになっていないのだと焦る。その焦りにも関わらず、審理は閉じられ、麻原への今後の接見も行われることなく死刑判決は確定され、早晩処刑される身となっている。そして、この本も売れず、忘却にさらされていくのは耐えられないという著者の焦りが伝わってくる。
著者が麻原彰晃の審理を初めて傍聴したのは、2004年2月、一審の東京地裁の判決が出されるときであった。そのときに、正常とは思えない挙動不審な麻原の様子に対して、メディアでは一様に卑劣な詐病や不遜な態度であったと報じ、死刑を強く求める論調に終始したことに著者は違和感を思えた。さらには、日常的に失禁をし、接見時に自慰行為まで行っているという話を聞きおよぶ。明らかにおかしい。何故一度治療をした上で裁判をやれないのか。そもそもリムジンでの謀議というストーリーも、あまりにも単純で矛盾が多すぎる。この大事件に対して、司法とメディアはその役割を放棄しているのではないか。著者のその思いの表出は、実際のところ多くの批判を受けることとなるのだが。
著者は、連載の期間中に、麻原の故郷八代市にも行って取材を重ねる。そこでは、一種報道においてタブーにもなっているチッソによる水俣病の原因ともなった水銀汚染の視覚障害への影響についても言及する。早川、新実、中川、井上といった側近にも直接取材しているし、麻原の次女にも接見時の様子を語らせている。神仙の会の時代の麻原についても当時の関係者を取材し、薬事法違反で逮捕されたときに取調べを行った刑事にも取材を重ねる。その上で出てくる主張にはしっかりと受け止めないといけないと思うのだ。
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本書において提示された問題は大きく三つあると言える。
一つ目はオウム事件を起こした組織共同体の問題。ここには問題を麻原個人の資質に帰するべきではないという問題提起が含まれている。二つ目が司法の問題。特に裁判における精神鑑定の問題が挙げられる。三つ目は、メディアの問題。この事件を境にメディアが変質してしまったとでもいう主張に全面的ではないにせよ頷ける。著者からすると、メディアに携わる一人として特にここには忸怩たる思いがあるのだろう。
著者は、ナチスのホロコーストを主導したアイヒマンについて本文で一度、文庫本で追加された最終章の中でさらにもう一度触れている。その意図は、オウム事件をどうしようもない悪人が世間に対する悪意をもって起こした事件であるとしてはいけないというメッセージである。検察が裁判用に描くような、極悪人たちがリムジンの中で計画した謀議だったとしてしまうことは許されない。その思いの底には、オウム信者に誰よりも多く取材を行ってきたジャーナリストとしての矜持もあるだろう。
著者は、保坂正康の『あの戦争は何だったのか』を引きながら、こう書く。
「最悪の事態はこうして起きる。何度も書いてきたように、かつての日本だけでなく。ヒトラーのナチスドイツにしても毛沢東の文革にしてもスターリンの大粛清にしてもポル・ポトのクメール・ルージュにしても、幹部や側近がトップの意向を過剰に忖度しながら暴走するという組織共同体の負のダイナミズムは、まったく珍しいことではない。
オウムの場合はこの構造に死と生とを転化する宗教のダイナミズムが加わり、さらにはトップの位置にあった麻原がほとんど盲目で、おまけに最終解脱者を自称していたとの要素が相乗する」
著者の結論はこうだ。「麻原と側近たちは互いにレセプターであり、互いにニューロンだ。危機意識という神経伝達物質のやり取りを続けながら、互いに互いを刺激し続けてきた。そして同時に麻原は、側近たちにとっては唯一のマーケットであり、側近たちは麻原にとってかけがえのないメディアだった。」ー 「過剰な忖度」という言葉が著者が事件の本質を示すキーワードとして何度も出てくる。官僚的組織共同体における側近の過剰な忖度とそれによる組織としての暴走、ということであれば誰しもいくつか心当たりも出てくるであろう。
アイヒマン裁判への言及からは、著者が麻原の裁判に期待するところがどういうものなのかが見える。
「この判決(アイヒマンの死刑判決)が意味を持つためには、アイヒマンと(おそらくはヒトラーも含めての)ほかのナチス幹部たちのほとんどが凡庸な存在であることを、多くの人が認識することが前提だ。彼らは悪ではない。行為が悪だったのだ。そして彼らは自分たちでもある。その認識を持ったうえで歯を食いしばりながら、有罪を宣告せねばならないのだ。」
しかし、現実の裁判はまったくそのような方向に向かうことはない。
本書の記述を見る限りにおいて、麻原は心神喪失状態にあると言っていいように思う。顔や体を引き攣らせて、失禁や脱糞を日常的に行う人間に対して、それを否定することはできない。少なくとも早期段階にて正式な精神鑑定を受ける必要があっただろう。それがなされなかった背景には、心神喪失状態と判断されることにより免罪されてしまうことや、少なくとも結審までの時間が伸びることを恐れたことがあったのだろうか。サリン事件が起きたことは事実であり、オウムが実行犯であることも動かしがたい事実だ。そうであれば、現状の司法の即して死刑求刑に値することには疑いはない。裁判を罪に対する懲罰を決する場とする立場であれば、なぜにこんな茶番のような裁判に時間とお金を使うのかということになる。しかし、著者はこういった意見とは立場を大いに異にする。殊に、これだけの事態を結果として社会が起こしてしまったことに対して、真実と論理を明確にすることが必要だと訴えるのだ。そのために麻原の治療が必要であれば、その時間と手間をなぜに惜しむのか、という主張だ。麻原や側近を単に死刑にして、それ自体で何かの益があるわけではない。社会に対して抑止になるわけでもない。ここで長期的に犠牲になるのは、社会システムと司法システムだ。永遠に失われてしまう事実について、それを急いで失う理由がない。
司法システムに関する問題提起の中でも大きなものは精神鑑定にかかわる部分となる。明らかに訴訟遂行能力に強い疑義がある中でも裁判を押し進めることは、司法における精神鑑定の意義を揺るがせにしてしまった恐れがある。特に精神鑑定の結果に検察や裁判所の意図が色濃く反映されてしまうことを結果として是認することは長期的に見て瑕疵を残すこととなるのではないか。司法であっても、法ではなく組織や空気によって動いてしまう前例を作ることは、後に暗黙的にも影響を与えることになるのではないか。組織共同体の中での過剰な忖度、ということではオウムという組織だけでなく、司法の組織の中にも存在していることを皮肉にも示していさえするのではないだろうか。
そして、過剰な忖度については、メディアという組織にも図らずも浸透することとなった。
著者は、麻原彰晃の「圧倒的な質量」という表現をするが、メディアは彼を絶対悪として名指しし、それに反する言論を自制する空間が醸成された。そこには「空気」に寄り添うという意味での忖度も含まれる。自分はそのような時間軸上での断層があったと判断することはできないが、著者はオウム以降、マスコミ、特にテレビ、の報道の論理が変質したという。そうであるなら、その変化は社会に与える影響において実は大きなものなのかもしれない。オウム裁判の終了は、これらの変化への省察の機会を奪うものだと。著者はオウム事件を機会にモザイクが躊躇なく多用されるようになったという。技術面での機能向上という条件もあったと思うが、過剰な忖度による事なかれ主義の敷衍という事実に他ならない。
もちろん著者が他の著作でも繰り返すように、メディアは受け取り手である消費者のミラーでもある。メディアが変わるためには、まずは受け手たる消費者が変わる必要がある。逆ではないのだ。
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日本は、麻原を世紀の極悪人に仕上げることで矮小化したのではないか。そして熱病のような祭りの後の「圧倒的な無関心」によりオウムの問題をねじれた形で黙殺した。果たしてそれでいいのだろうか、というのが著者による、もはやどこにも届きそうもない問いである。
自分もそのことには同意するのだが、著者は本書の中でも何度も繰り返すように、本書はもっと世間に影響を与えることができてしかるべき本だというように考えている。しかし一方で同時に著者は、世間からの無関心により黙殺されることについても正しく予想している。
上九一色村にサティアンの痕跡はもうないという。悲劇の現場は後世のために残しておくべきではないのか。すでに事件の翌年からサティアンの取り壊しが始まっており、執筆時点で何もなくなったかつてのサティアン跡を見て、この裁判と同じではないか、なかったことにしたい、自分とは異質なものがやったことだということにして安心したい、という心理が検察・マスコミそして一般市民に広がっていることの証ではないのかと著者は問う。自分がその立場にあったかもしれないという責念があれば、その建物を保存しておくべきではないかと思うのではないだろうかと。忘れたい、という圧力にあらがうことが必要だ - それが著者の根本における姿勢になっている。「悪夢の記憶なら抹消すべきでない」。 -
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森達也がテレビのドキュメンタリーの取材をきかっけとして長年追いかけてきた3人の「エスパー」- オールマイティな秋山眞人、ダウジングの堤裕司、スプーン曲げの清田益章 - についてのノンフィクション。ドキュメンタリーと言ってもいいのかもしれない。
スプーン曲げの清田氏は、一時はTVで頻繁に取上げられていたらしいが、自分の記憶にはほとんどない。ユリ・ゲラーの記憶もほとんどないので、ぎりぎり少し前の世代の記憶なのかもしれない。彼らがそんなに稼いでいたというのも驚いた。
スプーン曲げ含めて自分はまったく信用しておらず、トリックに違いないと思っていた。これまで、ラスベガスでクローズアップマジックも見たし、アメリカでホームパーティに来ていたマジシャンが目の前でやってもらったマジックも見た。全くどうやっているのか分からないし、素晴らしい技だと思った。でもタネはあるというのが前提だ。マジックと超能力はタネの有無を前提とするのかの違いがある。
森さんが何か嘘やごまかしをしているとは思えない。また、そこで感じているリアリティも本物だと思う。清田氏の実家で、両親を前にして聞いた幼き頃のエピソード(テレポテーションや宇宙人まで出てくる)の会話も、内容はある意味トンデモないのだが、妙なリアリティがある。3人のエスパーたちもこんなに長きの間、嘘をつくメリットもないだろうし、ダウジングの堤さんは性格なのか、あえてやる必要のないリスクも取っている(しかも時々外す)。この本を読んでいると人との付き合いの中で何かを判断するというのは難しいものだなと思う。
超能力はあると断言できず、それでも彼らを信じることもできる。全く矛盾した感情を抱えて進む物語に引き込まれる。そして最後には能力があるかどうかで困惑などする必要などなく、「自分を信じ、他者を信じ、日々を送る彼らを僕も信じる。彼らの人格を信じる」と結論づける。彼らへのまなざしは信頼に溢れている。「彼らとの付き合いは今後も続く。これには確信がある。被写体として興味が持続しているからじゃない。彼らを好きだからだ」となる。そしてその影響を受けて、自分も心の底からは信用していない本の中のエスパーたちに肩入れしてしまうのだ。そう感じてもらえないかもしれないが、面白かった。 -
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オウム真理教のドキュメンタリ映画『A』、『A2』を撮ったドキュメンタリ映画監督森さんの連載エッセイ集。
タイトルは"メメント・モリ"="死を想う"、から取っている。だったら『メメント・モリ』にしてしまえばいいんじゃないかと思うが、「モリ=森」なので、何かを掛けているのではと思われることがいやだったんだろうか。藤原新也の有名な著書名とかぶるし、「メメント」~ 想う、だけでいいのだとの説明があるが、それだけではないだろう。繊細だけれども、強情な森さんらしい選択なのかもしれない。もちろん会ったことないのでわからないけど。
「(死を)想う」とのタイトル通り、「死」を巡る多くの体験と思索が綴られている。それは、ペットの死であったり、取材対象の放送禁止歌の歌手の死であったり、昔自殺した友人の死であったり、死刑囚の死であったり、入院患者の死であったり、日々のTVニュースにおける死であったり、宇宙の死であったり、粘菌の死であったり、細胞の死であったり、北朝鮮拉致被害者の死であったり、サリン事件被害者の死であったり、ホロコーストの死であったり、震災下の死であったり、そして父の死であったり。そう思うと、実のところ死はありふれていて、私たちの周りに溢れている。
メディア批判は相変わらず手厳しい。事実と記憶の多面性や、(悪意ではなく)善意こそが徹底的に人を残酷にさせるといった主張など、他の本で提示されたテーマもしつこく繰り返されている。売れるべき『A3』が売れなかったことへの悔しさと恨みごとも、また出てきている。いいと思う。
連載物なので、ときにまとまりなくテーマも揺らぐが、最後『われわれはどこからきたのか、われわれはなにものか、われわれはどこへいくのか』というポール・ゴーギャンの有名な言葉で締める、これを読む読者にも少し考えてほしいなあという森さんの期待が透けるエッセイ集。よいですよ。 -
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本書のなかで、客観的な歴史など存在しない、歴史とは解釈するものによる主観的なものだ、と著者は云う。私も至極最もだと思う。だから、他人の主観を鵜呑みにしてはいけないのだ、とも思うのだ。
ベトナムへは仕事で何度となく行ったが、いまだにその理解が難しい。私が子供の頃のベトナム戦争。そして終戦と統一。けれどその後の中越戦争や、カンボジア侵攻、そしてボートピープルというのはどうしても理解できなかった。
今のベトナムはどうだろう。昨年、日越国交50年記念ということで、ファン・ボイ・チャウを描いたテレビドラマが日本で放送され、クオン・デも登場していた。日越合作だったと思うが、内容は彼らに好意的だったから、本書が書かれた時代とまた歴史解釈が変わったのだと思う。 -
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タイトルが印象的で、そのテーマについて掘り下げた本であると思い購入したのだが、実際は幅広いテーマで雑誌に掲載されたショートエッセイをまとめたもので、ああ違ったのね、という感想を持った。タイトルの『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』は、当事者ではないものが、被害者遺族の思いを共有できると考えること自体が不遜だというのが、著者の考えを示したものだ。
一方、このタイトルは、遺族の神聖化を通して、遺族の心情を害するかもしれない言動や行為を「不謹慎」だとする空気の支配によって、なされるべきことがなされないメディアへの批判でもある。つまり本書は、マスコミ批判の書である。メディアというものが提示できるのはどこまでいっても「事実」ではなく「視点」でしかない、ということに対して自覚的であれとの主張で一貫している。テレビ上がりのドキュメンタリ作家として、マスコミの言葉というものに敏感であり、それが透明でないことを肌感覚として知っているのだ。対象に切り込む時の躊躇がないため「エッセイ集」と呼ぶとイメージが違ってくるのかもしれない。ここで挙げられた問題提起に対しては、真摯に向かうべきことのように思う。
著者の森達也は、オウムのドキュメンタリ『A』を撮った監督だ。恥ずかしながら、途中までそのことを知らずに読んでいた。本書では、オウムについては少しだけ触れられているが、他に震災報道や裁判員制度、死刑制度などの社会的問題から、スリッパのしまい方や書類の押印、ネクタイの着用など日常の違和への考察を通して「制度」への無自覚な行動が批判的に論じられる。その意味でも無自覚性への批判が、この本を貫く主題であるとも言える。もちろんそれは「視点」をずらすことにより得られる見解でもある。
著者はネットでうすらサヨク、平和ボケとしてネットでは批判されているらしい。しかし、そのように定義されるであろうものから著者は遠く離れている。著者はネットにあふれる、「他人ごとであることについて無責任に言い放つ」ことに対する無自覚さと不寛容さに対して強い嫌悪ともどかしさを感じているのだ。著者は、少なくとも拉致問題の蓮池さんや、オウム事件の永岡さんと直接会って話を聞いている。
クマバチの例(実は毒をもたない)から始めているが、本書に通低する主題を最初に提示する上で非常によくできた話だ。著者にだって先入観はあり、そのことについて著者も反省することもあるという姿勢を著すとともに、反省してその事実を明らかにすることを厭わない姿勢こそが著者のポリシーであり、世間やマスコミに抱く違和感の源泉であるのだ。そして、多くの「クマバチ」が世の中にはあるのだ。
第5章「そして共同体は暴走する」で、ポーランドのイエドヴァブネの話が取上げられていたのには軽く驚いた。ナチスではなくポーランドの地元住民によって行われたユダヤ系住民の虐殺。この地名は、高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』にも隠された地名として出てくる。実はNHKスペシャルでも取り上げられたことがあるというのを初めて知った。アイヒマンの話を好んで持ち出す著者の目には、ナチス以降も同じような暴走の危険性が世界には溢れているように見えるのだろう。イエドヴァブネという地名については、アウシュビッツと同じように記憶しておくべき地名なのかもしれない。
著者が引用するナチスの台頭を許すこととなったドイツの詩人ニーメラーの詩は印象に残る。
「視点」を持つことと同時にそれに自覚的でかつ他の視点があることを知っていること、それはたとえ行動に直接に表現されないとしても大切だ。それはわれわれが持つべき「謙虚さ」であろう。
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本書の中のあるエッセイでも拉致問題が取り上げられている。この本を読み終わったあたりの時期に、横山めぐみさんの両親が北朝鮮に渡り、めぐみさんの娘(つまり孫)に会って帰ってきた。それを聞いて、めぐみさんはこれで本当に生きている可能性はないということなんだなと思った。なぜなら、孫に会うということは生存に関する話を両親がしてしまう可能性があるにも関わらず、許可をしたということではないかと思ったからだ。もちろんそれも可能性の問題だ。しかし、報道ではそういった可能性に触れることはほとんどなかったと思う。「死んでいる可能性」に触れることもなぜかタブーになっているようだ。「これからも拉致被害者の帰国に向けての活動が....」と言われるのだ。やはり、この国のテレビはおかしい。 -
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岩波新書がプロレスを扱うというのは意外だったが、『悪役レスラーは笑う』は何か面白そうだぞという期待はあった。刊行と同時に購入していたにもかかわらず、読まずにいた。しかし最近の打ち続く雨のために電車通勤を余儀なくされ、それを機に読み始めた。いやあ、まいった。これは会心のドキュメンタリーではないか! グレート東郷の出自をめぐって、やれ中国系だいや韓国だと、情報は錯綜する。日本のプロレス界の実は立役者でありながら、その男の生年も出自もなぞに満ちているなんて、なんと言うか、おおらかな時代だったんだと思う。今ではありえないことではないか。それはまさに、筆者の言うとおり、あいまいな領域を残すプロレスに似て、一種のロマンともなりうるわけだ。 筆者の森達也のていねいで執拗な取材も好感が持てる。 読んでいる途中で気づいたのだが、森達也は自主制作映画『A』『A2』をつくった人ではないか! 偶然いがいの何ものでもないが、僕はこの映画を数日前に見たばっかりだったのだ。これらのドキュメンタリー映画についてはいろいろ語りたいことは多いのだが、たしかに森達也という人の人間を見つめる眼には何か共通するこだわりを感じる。それは何だろう。「自分なりに理解したい・自分なりに把握したい・自分なりに納得したい」こう思うことは良くあるが、あきらめようとするときの自己納得にも似たようなその感覚・・・とでも言おうか。ともかく、この本はまぎれもなくおもしろい。テレビ放送黎明期のプロレスの位置づけについてもイメージが湧いた。森達也は注目だ。