森達也のレビュー一覧
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オウム真理教は、自分が大学のときに上京して初めて一人暮らしをした杉並区永福町が、彼らが立候補した選挙区になっていたので、毎日駅前で「しょ~こ~、しょ~こ~、あ・さ・は・ら・しょうこ~」という歌を聞き、なぜか今もって理由がわからない象のかぶり物をした若者たちが井の頭線永福町の駅前でチラシを配っているのを見ていた。
その後の1994年3月、就職前の卒業旅行で乗り継ぎ地のモスクワ空港で成田への帰国便を待っているときに、やたらと白衣の日本人が目についた。時折ヘッドギアをつけている人が混じっているのを見て、ロシアでは何か変な医療旅行が流行ってるのかと思っていたら、乗り込んだアエロフロートの飛行機のビジ -
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オウム信者と、信者側から見た周りの人々を描いたドキュメンタリー映画『A』、『A2』を撮った森達也のオウムに関する著作。それまでの「A」は、撮影対象者の荒木広報部長やオウム真理教のイニシャルだったかもしれないが、この『A3』は麻原彰晃のイニシャルだという。公判で見た麻原彰晃の姿と、それに対する周りの反応とのギャップに愕然としたことが本書の執筆の出発点となっている。その上で、あの地下鉄サリン事件にまで至ったオウム事件の意味を月刊誌への連載という形で問い続ける。真実の追求をすることなく、迅速な審理(死刑判決)に傾く裁判に対して反発する。あの事件についてはその動機も、事件に至ったメカニズムも明らかにな
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森達也がテレビのドキュメンタリーの取材をきかっけとして長年追いかけてきた3人の「エスパー」- オールマイティな秋山眞人、ダウジングの堤裕司、スプーン曲げの清田益章 - についてのノンフィクション。ドキュメンタリーと言ってもいいのかもしれない。
スプーン曲げの清田氏は、一時はTVで頻繁に取上げられていたらしいが、自分の記憶にはほとんどない。ユリ・ゲラーの記憶もほとんどないので、ぎりぎり少し前の世代の記憶なのかもしれない。彼らがそんなに稼いでいたというのも驚いた。
スプーン曲げ含めて自分はまったく信用しておらず、トリックに違いないと思っていた。これまで、ラスベガスでクローズアップマジックも見たし -
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オウム真理教のドキュメンタリ映画『A』、『A2』を撮ったドキュメンタリ映画監督森さんの連載エッセイ集。
タイトルは"メメント・モリ"="死を想う"、から取っている。だったら『メメント・モリ』にしてしまえばいいんじゃないかと思うが、「モリ=森」なので、何かを掛けているのではと思われることがいやだったんだろうか。藤原新也の有名な著書名とかぶるし、「メメント」~ 想う、だけでいいのだとの説明があるが、それだけではないだろう。繊細だけれども、強情な森さんらしい選択なのかもしれない。もちろん会ったことないのでわからないけど。
「(死を)想う」とのタイトル通り、 -
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本書のなかで、客観的な歴史など存在しない、歴史とは解釈するものによる主観的なものだ、と著者は云う。私も至極最もだと思う。だから、他人の主観を鵜呑みにしてはいけないのだ、とも思うのだ。
ベトナムへは仕事で何度となく行ったが、いまだにその理解が難しい。私が子供の頃のベトナム戦争。そして終戦と統一。けれどその後の中越戦争や、カンボジア侵攻、そしてボートピープルというのはどうしても理解できなかった。
今のベトナムはどうだろう。昨年、日越国交50年記念ということで、ファン・ボイ・チャウを描いたテレビドラマが日本で放送され、クオン・デも登場していた。日越合作だったと思うが、内容は彼らに好意的だったから、本 -
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タイトルが印象的で、そのテーマについて掘り下げた本であると思い購入したのだが、実際は幅広いテーマで雑誌に掲載されたショートエッセイをまとめたもので、ああ違ったのね、という感想を持った。タイトルの『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』は、当事者ではないものが、被害者遺族の思いを共有できると考えること自体が不遜だというのが、著者の考えを示したものだ。
一方、このタイトルは、遺族の神聖化を通して、遺族の心情を害するかもしれない言動や行為を「不謹慎」だとする空気の支配によって、なされるべきことがなされないメディアへの批判でもある。つまり本書は、マスコミ批判の書である。 -
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岩波新書がプロレスを扱うというのは意外だったが、『悪役レスラーは笑う』は何か面白そうだぞという期待はあった。刊行と同時に購入していたにもかかわらず、読まずにいた。しかし最近の打ち続く雨のために電車通勤を余儀なくされ、それを機に読み始めた。いやあ、まいった。これは会心のドキュメンタリーではないか! グレート東郷の出自をめぐって、やれ中国系だいや韓国だと、情報は錯綜する。日本のプロレス界の実は立役者でありながら、その男の生年も出自もなぞに満ちているなんて、なんと言うか、おおらかな時代だったんだと思う。今ではありえないことではないか。それはまさに、筆者の言うとおり、あいまいな領域を残すプロレスに似
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ネタバレp.26
こんな事情を背景にモザイクは濫用され、やがて視聴者も馴れ始めた。つまり、例外の常態化だ。
p.93
かつて今も死刑を決めた判決文の多くには、「死刑を求めざるをえない」との常套句が、とても頻繁に使われている。つまり死刑は「突出した刑罰である」との前提が存在していた。実際に他の刑罰のすべてが教育刑であることを考えれば、死刑はきわめて例外的な刑罰だ。でも光市母子殺害事件において最高裁が出した「死刑を求めない理由はない」との二重否定が意味することは、まずは「死刑ありき」という前提だ。例外が例外ではなくなった。
p.249
強引な施設誘致の背景には、とにかくオウムの痕跡を消し去りたいとする -
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ネタバレp.46(1.傍聴)
魔女狩りに限ったことではない。集団となった民意にはそんな残虐な側面がある。近代以前のどの時代にも、あるいは世界中のどの地域にでも、アンフェアで取り返しのつかない裁判はいくらでもあった。多くの孤立した罪なき人が、集団によって正義の名のもとに処刑された。だからこそ近代司法は、「あらゆる被告や容疑者は裁判で有罪が決定するまでは無罪を推定される存在として扱われるべきである」とする無罪推定原則を、デュープロセス(適正手続き)や罪刑法定主義と並べながら、最重要なテーマと定めている。
p.101(4.弁明)
それはこの社会の願望である。もし彼らが普通であることを認めるならば、あれほど