森達也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレp.26
こんな事情を背景にモザイクは濫用され、やがて視聴者も馴れ始めた。つまり、例外の常態化だ。
p.93
かつて今も死刑を決めた判決文の多くには、「死刑を求めざるをえない」との常套句が、とても頻繁に使われている。つまり死刑は「突出した刑罰である」との前提が存在していた。実際に他の刑罰のすべてが教育刑であることを考えれば、死刑はきわめて例外的な刑罰だ。でも光市母子殺害事件において最高裁が出した「死刑を求めない理由はない」との二重否定が意味することは、まずは「死刑ありき」という前提だ。例外が例外ではなくなった。
p.249
強引な施設誘致の背景には、とにかくオウムの痕跡を消し去りたいとする地元の要望が大きく働いていた。跡地のままならば以前の記憶が滞留する。だから新しい何かで更新したい。
p.323
なぜオウムが不特定多数を殺戮しようとしたのか、その理由がどうしてもわからない。だからこそ不安と恐怖が疼き続ける。善悪二分化が進行する。これに対抗するために集団化が進み、見えない悪の可視化を求め、過剰なセキュリティ社会が出現し(現在の日本の監視カメラ数はイギリスを抜いて世界一位と推測されている)、厳罰化が進行した。
p.326
アーレントが(君が絞首されねばならぬとした)「その唯一の理由」としたことは、「多くの人の殺害に関与したから」ではなく、ましてや(最近の日本の裁判官が判決理由で述べるような)「残虐このうえく」とか「あまりに身勝手すぎ」とか「更生の可能性もなく」でもなく、ナチスという政治体系の指示に従ったことである。(アイヒマン)
裁かれるべきはアイヒマンの特異性ではなく、優秀な中間官吏としてのアイヒマンの凡庸さなのだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレp.46(1.傍聴)
魔女狩りに限ったことではない。集団となった民意にはそんな残虐な側面がある。近代以前のどの時代にも、あるいは世界中のどの地域にでも、アンフェアで取り返しのつかない裁判はいくらでもあった。多くの孤立した罪なき人が、集団によって正義の名のもとに処刑された。だからこそ近代司法は、「あらゆる被告や容疑者は裁判で有罪が決定するまでは無罪を推定される存在として扱われるべきである」とする無罪推定原則を、デュープロセス(適正手続き)や罪刑法定主義と並べながら、最重要なテーマと定めている。
p.101(4.弁明)
それはこの社会の願望である。もし彼らが普通であることを認めるならば、あれほどに凶悪な事件を起こした彼ら「加害側」と自分たち「被害側」との境界線が不明瞭になる。それは困る。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らは、邪悪で凶暴な存在であるはずだ。いや邪悪で凶暴であるべきだ。
p.115(5.弁護)
オウムは多くの異例を慣例にした。例外を前提にした。だからこそオウムによって危険意識を煽られた日本社会は、特に「罪と罰をめぐる意識と座標軸を、それまでとは大きく変えた。」
p.148(7.真宗)
「親オウムでもない」とか、「もちろん信者でもない」などと、言わずもがな
のことを彼が補足せねばならないこの現状に、今の日本社会の傾斜が表れている。
p.265(14.鏡像)
…時おり思う。まるで鏡のような男だと。信者は麻原の本体を見ていたのではなく、麻原という鏡に映る自分自身を見ていたかのようだった。だからこそ信者によって、その印象はばらばらで決して収束しない。 -
購入済み
グイグイ引き込まれる
特にプロレスファンという訳では無いのですが、森達也の作品がわりと好きで、立読みしたところ面白そうだったので購入しました。
本作は、戦後の日本とアメリカで、観客と関係者の憎悪を一身にニヤニヤとわらいながら浴び続けた悪役レスラー、グレート東郷に視点を当てたドキュメントですが、読んでいるうちに、当時の「社会」が見えてくるような気がします。
それと同時に、グレート東郷という人物にだんだん興味が湧いてきて、活字に吸い込まれました。
文章や内容としては、いつもの森達也らしく終盤の絶妙な尻切れトンボ感はありますが、作家のスタイルなのかな、と、慣れてしまったので気にはなりません。
間違いなく良作です。
街灯テレビに熱狂した世代から、若い世代まで幅広く読んでもらいたい作品です。
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Posted by ブクログ
ネタバレ私たちの中に確かにあるオウムへの「得体の知れない恐ろしさ」。
当時のマスコミはオウムのカルト的側面のみを強調し、オウムを「麻原彰晃」とほぼ同義で扱っていた。
信者だって一人ひとり異なる人格をもっているはずなのに「オウム」と一括りにされて画一的にしか報道されない。著者はその報道に感じる欠落感を求めてドキュメンタリーを撮り始める。
広報の荒木をピンホールとして「オウムの中から見た外の社会」を照射しようと試みるが、結局オウムについては「何もわからないことがわかりました」。
非常に示唆に富んだ題材であり、また個人的にこういった「人を信じ込ませてしまう」ものに興味を持っているので、大変面白かった。オウムだって政府だってマスメディアだって、根源的には同じものが流れていると思う。そのことを、著者は撮影を通して自身の立ち位置に戸惑いながら描き出してくれた。
ベルリンの映画祭で、「本当にドキュメンタリーなのか(台本なしの、リアルな日本なのか)」という観客の問いに対しての答えの中に以下のくだりがあった。
「ほとんどの日本人に共通するメンタリティがあります。共同体に帰属することで、思考や他者に対しての想像力を停止してしまうことです。その危険さを僕は描いたつもりです。」
今の日本の現状に照らしてみると空恐ろしくなる。 -
Posted by ブクログ
職業をエスパーにした人たちの日常、メディアで見るエスパーたちの本音などがすごく丁寧に書かれていて面白かった!!超能力はあるかないか、幽霊や宇宙人はいるかいないか、この本はそんなことを主張したわけじゃないし、森達也なんて目の前で長年さんざん不思議な現象を見てきても、「結局わからない」っていうスタンスを取っている。さんざん見ても大槻教授のように「絶対インチキ」という認めない人もいれば、見てもないのに盲目的に信じる人もいる。この本はそんな頑なになってしまう人間の不思議さや、不可思議現象を隠そうする何年にもわたる社会の流れ、メディアのあるべき姿をできるだけ客観的に述べようとしている。清田益章、秋山眞人、堤裕司の3人が3人ともキャラクターが違っているのも面白い。特に清田さんの傷つきやすさや、時々すごくエラそうなところや、超能力者としての能力の揺れ具合、そして清田さんの親の愛情など、小説やマンガの主人公みたい。
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Posted by ブクログ
稀代の悪役レスラー「グレート東郷」とは何者なのか?という問いかけを追跡する旅。
数年前、著者が監修?してNHKで特集していたプロレスラー列伝から本書を知り、東郷に興味を持った。その後、DVDで試合も初めて観た。試合内容はともかく、登場から最後までの雰囲気がとても怪しく大いに楽しめる。大観衆の中で1人憎まれるためには、大いなる勇気と恍惚が必要であっただろう。
日本に対し敵国意識が旺盛であった戦後アメリカマット界に君臨し、一世を風靡した大悪役東郷。お約束な世間のコードにのって分かり易い「悪」に徹することで巨万の富を築いたが、また、プロレスラー力道山を育てた一人でもあり、その後、日本マット界へ執着し続けることにもなった。
東郷の半生をその活躍と心理面から辿り、東郷の実体に迫ることで、形成されたコードの根源を探る社会派ミステリーでもある。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ公正中立、客観的、わかりやすい報道…
テレビにおけるこれらの美麗文句を疑ったことがあるだろうか。またテレビやドキュメンタリーに対してこれらを掲げて批判をしたことはないだろうか。
筆者はこれらの美麗文句をすべて幻想であると切り捨てる。ドキュメンタリー、いや映像の産物はすべて作為的なものであり、表現行為であり主観的である、と。そしてそれら表現行為は、その加害性から脱却することはありえないと。
作中ではマスメディアに対する批判も行う。メディアの商業化が一気に進み、国民が望む「わかりやすい」簡素化かつ扇動的な報道ばかりが目立つと。特にオウム以降、それが加速したという。この原因を、筆者は個々人の葛藤や煩悶の欠落にあるとみている。
このように報道が簡素化し、複雑な思考を嫌う社会になりつつあるからこそ、複雑な人間の葛藤に焦点をあてるドキュメンタリーは必要性を増しているという。社会がそれを望むかどうかは別であるけれども。
この作品の中で、筆者は繰り返し葛藤と煩悶という言葉を使う。これこそがドキュメンタリーの本質であり、繰り返し自問されなければならないという。つまりドキュメンタリーのもつ加害性と、それでも表現する意味、そしてその覚悟をといている。これは筆者のドキュメンタリーに対する哲学であるのかもしれない。
ここから感想
ドキュメンタリー作家として、自らの作品と葛藤し煩悶し、自問を続けた森達也の思考の記録です。徹底して表現行為としてのドキュメンタリーにこだわり続けた人間の覚悟が感じられました。彼の思想からは視聴者という概念が抜け落ちているため、人によっては彼の考えを疑問に思うかもしれません。個人的には、すごく気に入りましたが。
筆者の考え方が気に入ったので、星は5をつけました。お勧めの本です。