あらすじ
「公正中立」な視点という共同幻想に支えられながら、撮り手の主観と作為から逃れられないドキュメンタリーの虚構性と魅力とは何か? 情報が「正義」と「悪」にわかりやすく二元論化され、安易な結論へと導かれる現代メディア社会の中で、ドキュメンタリーを作る覚悟と表現することの意味を考察したエッセイ。自らの製作体験や話題の作品を分析しつつ、自問と煩悶の末に浮き彫りにした思考の軌跡。
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Posted by ブクログ
ある視点にはその人物の恣意性が絶対に付いてくる.
恣意性を排除することはできないが、その事には常に自覚的でいないということを繰り返し教えてくれる.
誰かを傷つけているという自覚や覚悟無しに自分の意見は表明できない.
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唐沢なをきのNHKやらせ騒動の件やイルカ漁などを髣髴とさせるタイトル。ドキュメンタリー作家が、ドキュメンタリーとは何かを自伝とともに。コラムの途中で、森氏自身の経験と意見が織り込まれ、大変生々しく、始終スリリングで目が離せない。ただ、タイトルとは違って"ドキュメンタリーの敗北"についてが目立つ内容ではある。
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想田監督作品から始まった私のドキュメンタリー映画への道。
森さんのドキュメンタリーへの熱い想いを伺いしり、ますます深みにははまって行きそうです。
世の中は、割り切れないことばかり。しかし、現在のマスメディアはいろいろなことを単純化しすぎている。
それは社会自体にも当てはまる。
森達也氏の指摘をもっと噛みしめるためには、ドキュメンタリー映画が訴える様々な人々から発せられるメッセージを受け止めるべきかもしれないと強く感じました。
大学生にオススメの文庫本だと思いました。これから社会にでる前に読んでおくべき本ですね。
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公正中立、客観的、わかりやすい報道…
テレビにおけるこれらの美麗文句を疑ったことがあるだろうか。またテレビやドキュメンタリーに対してこれらを掲げて批判をしたことはないだろうか。
筆者はこれらの美麗文句をすべて幻想であると切り捨てる。ドキュメンタリー、いや映像の産物はすべて作為的なものであり、表現行為であり主観的である、と。そしてそれら表現行為は、その加害性から脱却することはありえないと。
作中ではマスメディアに対する批判も行う。メディアの商業化が一気に進み、国民が望む「わかりやすい」簡素化かつ扇動的な報道ばかりが目立つと。特にオウム以降、それが加速したという。この原因を、筆者は個々人の葛藤や煩悶の欠落にあるとみている。
このように報道が簡素化し、複雑な思考を嫌う社会になりつつあるからこそ、複雑な人間の葛藤に焦点をあてるドキュメンタリーは必要性を増しているという。社会がそれを望むかどうかは別であるけれども。
この作品の中で、筆者は繰り返し葛藤と煩悶という言葉を使う。これこそがドキュメンタリーの本質であり、繰り返し自問されなければならないという。つまりドキュメンタリーのもつ加害性と、それでも表現する意味、そしてその覚悟をといている。これは筆者のドキュメンタリーに対する哲学であるのかもしれない。
ここから感想
ドキュメンタリー作家として、自らの作品と葛藤し煩悶し、自問を続けた森達也の思考の記録です。徹底して表現行為としてのドキュメンタリーにこだわり続けた人間の覚悟が感じられました。彼の思想からは視聴者という概念が抜け落ちているため、人によっては彼の考えを疑問に思うかもしれません。個人的には、すごく気に入りましたが。
筆者の考え方が気に入ったので、星は5をつけました。お勧めの本です。
Posted by ブクログ
2009年59冊目。安易な二元論を排し、悩んで悩みぬいて結論を留保することもある森達也さんの著作です。この人の考えには全面的に賛同することはありませんが、誠実に考え続け、考え続けようとする姿勢は学ぶものがあります。
Posted by ブクログ
うーん、面白かったようなそうでもないような。森達也の事は「いのちの食べかた」で知ったんだけど、AもA2もまだ観ていない。別のこの人にドキュメンタリー映像の歴史を紐解いてもらわなくてもよかったし、なんか主語がでかいし、語り口は甘ったれてるのにやたら使い慣れない難しい言葉を繰り出したがる(平易に表現が十分にできるのに!)ところがなんか気に入らなかったな。中身以前に文章が嫌いなんだな。ただ興味深い部分も沢山あったよ。ドキュメンタリーとドラマに本質的な違いはない事、モザイク処理の罪について、セルフドキュメンタリーについて、とかね。
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テレビではどの局も、情報が分かりやすく結論も決まっているかのように、同じような内容を伝えられている。そうした日本のメディアの問題を捉えている。タブーを映像化してきた森達也さんのドキュメンタリーに対する姿勢が理解できる本。
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森達也のドキュメンタリー論とでも呼ぶのが正しいのだろうか。
たしかに本書に書かれているように、「ドキュメンタリー=公正なもの」という意識は我々の中に根付いている。
ただ、実際は監督の意思にそって進められている映像作品であり、それが正義だとは限らない。
しかし、観ることで自分のなかに問題定義を呼びかけてくる作品かどうかは重要で、少なくとも私にとって森氏の映像作品や著者はそういう存在であることは確かだ。
ドキュメンタリーが好きだと自負する人こそ、本書を読んで頭をガツンと殴られてほしい。
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ドキュメンタリーのマニアックな話(巨匠やその代表作の偉大さ)に多くのページ数が割かれ、かつ文章が冗漫であるため、読むのに時間がかかったが、核となる主張は以下の通り
■ドキュメンタリーは決して客観的事実の蓄積ではなく、あくまで主観に基づいて創作された、自分本位な「作品」
■すべての映像は主観基づいて作られている(すべての映像はドキュメンタリーだ。 ジャン=リュック・ゴダール)。なぜならば、すべての映像はキャメラによって主体的に映像を現実を切り取る、そして選択的に編集するという、二つの過程を経ているからである。
ここのエピソード(ex 地域住民は実はオオム信者をマスコミから守っていた)は大変興味深く、昨今話題のメディアリテラシーについて、学者目線( 内田樹 町場のメディア論)とは違って、”現場からの声”を聞くことができる
Posted by ブクログ
簡単に「わかったふり」をするのであれば、他者から馬鹿にされても「分からない」と言い続ける勇気を持とうと思いました。
若干、森さんの「ドキュメンタリー論」みたいな歴史変遷?の話は一回だけでは理解できなかったけど、後半の9.11のこととかがショッキングでした。
Posted by ブクログ
もりたつは、私のメディア的なものへの視点に大きな影響をくれた人です。
「真実」を語るジャーナリストと「現実」を語るドキュメンタリーが何よりもうさんくさいと思う私には、好きなメディア論。
・ドキュメンタリーが描くのは、異物が関与することによって変質したメタ状況なのだ。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。
・その仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。
・わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、あいまいな領域に焦点をあてるドキュメンタリーの補完作用は重要な意味をもつ。
・自らのパーソナルな主観・世界観を表出することが最優先順位にあるドキュメンタリーと、可能な限りは客観性や中立性をつねに意識におかなければいけないジャーナリストとは、本来は水と油の関係のはずだ。
・内面的な矛盾や葛藤が過剰であればあるほど、被写体としての魅力は増大する。
・撮る側の主体と意識が問われる・・・その覚悟がなければ、現実に負ける。
・アメリカの病理の本質は、高揚した正義であり、徹底した善意でもある。
・言葉の最大の機能は規定だ。そして僕の考えるドキュメンタリーは、その規定からつねにはみだす領域にある。だからこそ、ドキュメンタリーそのもを規定できない。
・・・読みながら、「THE COVE」を見た時感じた強烈な違和感がはっきりしました。なるほどね。
Posted by ブクログ
一般に、ドキュメンタリーは「客観的」で「公正中立」であるはず
とする価値観が定着している。
けど著者はあり得ないと論破する。
私も強く肯定する。情報に公正中立などあり得ない。
そこには、何らかの、誰かの恣意性が必ず入っている。
たとえ、あなたが一次情報に触れたとしても、そこには既に作為が介在している。
でもそれで構わないのだと思う。
作為、恣意、煽動、色々なことばがあるが、
情報にそれらが介在することを自覚すること、想像することが大切なのだと著者は説く。
ビルに激突する旅客機の映像を提示するのがメディア報道なら、
ハイジャック犯たちのその瞬間の心情を想像する作業がドキュメンタリー
作中のことば。名文と思う。
ルポライターだと思うときがたまにあるけど、
やっぱりこの人は映像表現者なんだぁと思える一冊。
ドキュメンタリー映画の解説がたくさん出てくるのでお好きな人にはオススメ。
私はちょっと途中で飽きた。
Posted by ブクログ
軽く影響を受けてドキュメンタリーを見まくったな〜。ゆきゆきて、神軍 と 職業欄はエスパー は面白かった。
ビルに激突する旅客機の映像を提示するのがメディア報道なら、ハイジャック犯たちのその瞬間の心情を想像する作業がドキュメンタリーの仕事なのだ
全ての映像はドキュメンタリーだ。(ゴダール)