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メディアや政治家に煽られながら、危機意識ばかりが高揚し続ける日本。東日本大震災で集団化はさらに加速し、敵や異物を排除しようとする動きがますます強まっている。そんなときに勃発した領土問題。気がつけば取り返しのつかない事態が引き起されているかもしれない。私たちは何を考え行動すべきなのか。
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Posted by ブクログ
著者はドキュメンタリー映画監督の森達也氏。彼の映画は、オウム事件など社会問題を中心にした作品が多いようだ。 個々の信条と違うものもあるかもしれないが、彼が本書で伝えるメッセージは強烈であり、筋が通っている。自分の意見をメディアで発表することは、反対の立場の人からの猛烈なバッシングが予想され、とても勇...続きを読む気がいることだと思う。家族にも迷惑がかかるかもしれない。森氏は、社会や日本、そして世界の行方を憂う正義感から、それをあえて声高に訴えている。 例えば、森氏は死刑制度の有効性に疑問を抱いている。死刑だけでなく、終身刑や無期懲役もない国ノルウェーについて書かれた章がとても印象的だった。77人を射殺した犯人は懲役20年で、その間大学で勉強することもできる。刑期を終えれば、住居や就職の斡旋もされる。ノルウェーの犯罪率は、日本と同程度、つまり非常に治安が良いという。一方、厳罰化が進む日本では死刑判決の数は増え続けている。 森氏の主張では、メディアなどで警戒を呼びかけと、必要以上に人々が構えて疑心暗鬼になってしまう。どこか変だと思いながらも、誰も意見を言わなければそれが社会のコンセンサスになってしまうことに、彼は警鐘を鳴らしている。 いろいろ考えさせられる一冊だった。
作者の意見にほぼ9割賛成である。集団の忖度、アンタッチャブルな話題、雰囲気、これらが日本を危ない方向に押しやろうとしている。もっとオープンに、冷静に議論する世の中にしていかないと、不幸な過去を繰り返すことになる。 そして、弱体化したジャーナリズムを何とか立て直せないか!せめてNHK位しっかりして欲し...続きを読むいが、今は安倍に抑え込まれてしまっている。情けない!
見えにくいから、見ようとする。聴こえにくいから、聴こうとする。分からないから、考える。自ら取る行動のひとつだったとは。そんな一歩の無い、ものすごくスムーズで分かりやすくするテレビ・メディア。メディア。悲劇も喜劇も日常。 163頁〜引用、 ベトナム戦争において米軍が敗退した最大の理由は、国内外に高ま...続きを読むる反戦の世相に抗しきれなくなったからだ。そのきっかけの一つは、そもそもの戦争介入が米軍の謀略によって始まったことを暴くペンタゴン・ペッパーズの存在やソンミ村事件などの実態を、メディアがスクープしたからだ。 ところが存在しない大量破壊兵器を大義として始まったイラク戦争に対しては、なぜか世相に火がつかない。こうぞうはべとなむせんそうとほぼ同じなのに、イラク戦争に対しては、メディアを、受容する人たちの意識が喚起されない。 その理由の一つは、メディアの質の変化にあると僕は考えている。ベトナム戦争の時代の戦争報道の主流はスティール写真だった。一秒の何百分の一。しかもモノクロがほとんどだ。つまり欠陥したメディア。ところが今の戦争報道の主流はビデオ。情報量はスティール写真とは比べものにならないくらいに増大したのに、人の心は喚起されない。揺り動かされない。(中略)表現の本質は欠陥にある。 メディアは徹頭徹尾足し算だ。 310頁 かけてもいい、国家に救われた命より殺された命のほうがはるかに多い 316頁 透明人間にペンキをかければそのアウトラインは浮かび上がる。国家とはそのようなものだ。実体はない。でも前提するからには実体があると信じなければならない。だから色とりどりのペンキをかけて、法令や政治や統治や憲法や人権や刑罰や軍隊や税金などの輪郭を浮かび上がらせねばならない。 前提でありファンタジーでもあるのだから、その内実は「思われる」ことによって具体化する。 317頁 私にとって国というのは、そこに暮らす人たちのできるだけ多数の幸福を実現するためのしすてむであってほしいと思っています。たとえるなら国はマンションの管理組合、政治家は管理組合の理事のようなものです。人は何かに帰属しないと生きていけないとしても、マンションの管理組合に帰属することで自己のアイデンティティを確立する人などいないはずです。乱暴かもしれませんが、国なんて本来その程度のものなのではないかなと思わなくもないです。 350頁 殺されるかもしれないとの恐怖はすさまじい。そして殺すときの良心の負荷もすさまじい。心を壊さないことには殺せない。そもそも語りたくないことに加え、壊れているから記憶が定着しない。だから語りたくても語れない。なぜ人が人に対してこれほどに残虐なことができるのか。その理由がどうしてもわからない。 こうして加害の記憶は途絶え、被害ばかりが語り継がれる。だから戦争の実相がわからない。加害の記憶を思い出さないことには、憎悪と報復の連鎖は止まらない。 351頁 「もしもまた同じような状況になったら絵鳩さんはどうしますか」との質問に対して、ゆっくりとマイクを手にした絵鳩は、「私はまた、同じようにするでしょう」と言った。 「皆さんもそうです。それが戦争です」 辛そうだった。苦しそうだった。でも絵鳩はごまかさない。決して隠さない。…
当事者でもないのに、なぜこれほど居丈高になれるのか?不安や恐怖、憎悪だけを共有しながら、この国は集団化を加速させていく―。取り返しのつかない事態を避けるため、今何ができるのか。
タイトルが印象的で、そのテーマについて掘り下げた本であると思い購入したのだが、実際は幅広いテーマで雑誌に掲載されたショートエッセイをまとめたもので、ああ違ったのね、という感想を持った。タイトルの『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』は、当事者ではないものが、被害者遺族...続きを読むの思いを共有できると考えること自体が不遜だというのが、著者の考えを示したものだ。 一方、このタイトルは、遺族の神聖化を通して、遺族の心情を害するかもしれない言動や行為を「不謹慎」だとする空気の支配によって、なされるべきことがなされないメディアへの批判でもある。つまり本書は、マスコミ批判の書である。メディアというものが提示できるのはどこまでいっても「事実」ではなく「視点」でしかない、ということに対して自覚的であれとの主張で一貫している。テレビ上がりのドキュメンタリ作家として、マスコミの言葉というものに敏感であり、それが透明でないことを肌感覚として知っているのだ。対象に切り込む時の躊躇がないため「エッセイ集」と呼ぶとイメージが違ってくるのかもしれない。ここで挙げられた問題提起に対しては、真摯に向かうべきことのように思う。 著者の森達也は、オウムのドキュメンタリ『A』を撮った監督だ。恥ずかしながら、途中までそのことを知らずに読んでいた。本書では、オウムについては少しだけ触れられているが、他に震災報道や裁判員制度、死刑制度などの社会的問題から、スリッパのしまい方や書類の押印、ネクタイの着用など日常の違和への考察を通して「制度」への無自覚な行動が批判的に論じられる。その意味でも無自覚性への批判が、この本を貫く主題であるとも言える。もちろんそれは「視点」をずらすことにより得られる見解でもある。 著者はネットでうすらサヨク、平和ボケとしてネットでは批判されているらしい。しかし、そのように定義されるであろうものから著者は遠く離れている。著者はネットにあふれる、「他人ごとであることについて無責任に言い放つ」ことに対する無自覚さと不寛容さに対して強い嫌悪ともどかしさを感じているのだ。著者は、少なくとも拉致問題の蓮池さんや、オウム事件の永岡さんと直接会って話を聞いている。 クマバチの例(実は毒をもたない)から始めているが、本書に通低する主題を最初に提示する上で非常によくできた話だ。著者にだって先入観はあり、そのことについて著者も反省することもあるという姿勢を著すとともに、反省してその事実を明らかにすることを厭わない姿勢こそが著者のポリシーであり、世間やマスコミに抱く違和感の源泉であるのだ。そして、多くの「クマバチ」が世の中にはあるのだ。 第5章「そして共同体は暴走する」で、ポーランドのイエドヴァブネの話が取上げられていたのには軽く驚いた。ナチスではなくポーランドの地元住民によって行われたユダヤ系住民の虐殺。この地名は、高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』にも隠された地名として出てくる。実はNHKスペシャルでも取り上げられたことがあるというのを初めて知った。アイヒマンの話を好んで持ち出す著者の目には、ナチス以降も同じような暴走の危険性が世界には溢れているように見えるのだろう。イエドヴァブネという地名については、アウシュビッツと同じように記憶しておくべき地名なのかもしれない。 著者が引用するナチスの台頭を許すこととなったドイツの詩人ニーメラーの詩は印象に残る。 「視点」を持つことと同時にそれに自覚的でかつ他の視点があることを知っていること、それはたとえ行動に直接に表現されないとしても大切だ。それはわれわれが持つべき「謙虚さ」であろう。 ------ 本書の中のあるエッセイでも拉致問題が取り上げられている。この本を読み終わったあたりの時期に、横山めぐみさんの両親が北朝鮮に渡り、めぐみさんの娘(つまり孫)に会って帰ってきた。それを聞いて、めぐみさんはこれで本当に生きている可能性はないということなんだなと思った。なぜなら、孫に会うということは生存に関する話を両親がしてしまう可能性があるにも関わらず、許可をしたということではないかと思ったからだ。もちろんそれも可能性の問題だ。しかし、報道ではそういった可能性に触れることはほとんどなかったと思う。「死んでいる可能性」に触れることもなぜかタブーになっているようだ。「これからも拉致被害者の帰国に向けての活動が....」と言われるのだ。やはり、この国のテレビはおかしい。
賛否を問うのではなく、論理的思考とはどのようなものなのかを知るためにより多くの人が読めばいいと思う。 引用が多用されているようにも感じられるだろうけど、より客観的であろうとする試みとして受け入れられる。 死刑の是非を考えるテーマで、非常に考えさせられた引用があった。命は罪を償う手段として利用されるべ...続きを読むきではないというもの。確かに、罪は償えない。時間を戻せないのと同じ。加害者の死の執行と、被害者の死の取消とどちらを望むかは明らかだ。
面白かった。被害者の人権。仮想敵と共同体の暴走。薄気味悪い善意。普段深く考えないことをゆっくり考える機会になった生きていくための思考の本。
正義という相対的な思想は、時に戦争という非人道的な惨劇に転化する。法のもとで人を殺す死刑制度、それが果たして正義なのか。正義をとことん疑う。メディアから溢れ出てくる情報は発信する側のフィルターがかかった偏向な事象でしかない。盲信という安易な価値基準から抜け出していく。悩まない日常に平穏は訪れない。苦...続きを読む悩する果てに未確定な希望が見えてくる。"安心安全" を謳う怪しさはすぐさま正義を持ち出して線引き・分断を提示する。そこに怒りをこめて打破したい。ここにも "苦悩" と "怒り" が秘められている。
発売された当時に購入して、その時は途中までしか読めなくて、でも大事なことが書いてありそうだったからずっと持っていた本。 最近、世の中のことや、人の心と社会の動きのつながりのようなものが気になりはじめていて、その考えを深めてくれそうだなと思いもう一度手にとった。 今度は、最後まで一気に読んでしまった。...続きを読む 森さんがこの本を上梓したときから、世の中はますます共同幻想的な傾向が強くなっていると思う。 実態のない恐怖にみんなが怯えていて、そのこころが解きほぐされなければ、みんな優しくなれない。
(日本的)自由主義者によるコラム集 内容は、かなり偏っているけれど、自分の考えが偏ってきた時に読むと、アタマがほぐれる。
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