森達也のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
★分かりの良い物語に回収させない★映像も含めずっと気にはなっていたが、ようやく本を読む。麻原が捕まった後に荒木・広報副部長を主役に据えた取材とは知らなかった。その前からずっとオウムを追っていたからこそ、これだけ評価されたのだと思い込んでいた。人が「もう終わった」と思ったあとからでも、成果を上げる余地はあることを改めて知った。しかし本の趣旨が撮影記録である以上、先に映像を見るべきだったか。「A2」「A3」も手元に準備したが、映像の後に回そう。
完全なオウムバッシングの中で取材内容がテレビで放送される可能性がなくなり、大手メディアの限界という別の側面が作品に加わった。結果としてそれでも(費用の負担を乗り越えてでも)取材を貫いた強さが、森達也の名を高めたのだと分かった。しかしオウムとは何だったのか、現在にどうつながるのか、16年たっても全く分からないのが余計に怖くもある。
結論を出さない、という意味で「中途半端」な森の態度。みな本来は理解も共感もできるが、社会の流れのなかでそうした立場を貫き通せない。その凄さをどう説明するか、宮台真司の解説は社会学者として分かりやすかった。「体験」と、それを日常生活を支える意味論に回収する「体験加工」を森は分離する。体験加工は無意識になされ、分かりのよい物語としてしまうものだが、思考停止ではなくあえてそこに一から歩とどまる難しさを森は取り続ける。フジテレビでかつて放送された「職業欄はエスパー」をyoutubeで見たときも、同じ思いが流れているのがよく分かった。あえて一歩止まって考える、その重要性を認識した。
しびれた表現をひとつ。オウム幹部が不当逮捕された際の映像を、その証拠として頼まれてオウム側の弁護士に渡したときのこと。ドキュメンタリーとしては通常の一線を越えている。「皆が何らかの形で一線を超えている。ただ一人僕だけが、超えたのかどうか感触に自信がなく、そもそも何を超えればよいのか未だに明確に掴めずに、相変わらず湿っぽい溜息をつくばかりだ」。なぜだか、朝吹真理子の「流跡」に出てきた表現(正確は忘れたが、ある一線を超えたのは分かるが何から変わったかが分からない、といった内容)を思い出した。 -
Posted by ブクログ
地下鉄サリンから15年以上がたったこと、麻原氏に死刑判決が確定したことなどに関して、感慨深いです。この書のように、事件現場の息吹をそのまま感じさせる文章は貴重です。オーム真理教について、冷静に考えることができるためには、時間が必要でした。オームが言っていた「解脱」ということは、言葉を変えてほとんどの宗教団体が求めていたものと同じだと感じています。犯罪に向かったことは、たぶん麻原の資質によることが大きかったでしょうが、彼の宗教的な考えと方法を含めたきちんとした考察を求めたいと思います。この本は、ドキュメンタリーの手法の教科書として、メディア【テレビ】論としてすばらしい。大きな事件には、すぐに安易な物語にすがりつこうとするのは、何も変わっていない。著者と同じく向きあおうとするには、原発のなかにカメラを持ち込む人が出ることのように思うが、どうなのだろう。
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映画を観てから読もうと思って、積読くこと約1年。
大型連休にようやく読み終わりました。
内容は基本的に映画の流れを踏襲しているので、副読本として読むと便利。
異なる点は、表現者・制作者である森達也自身が、映画よりも登場人物として前面に出てくるところ。
特にテレビの制作会社との契約解除から、意固地になりながらも、どこかテーマ性に魅かれ、
淡々と撮影を続けるあたりなどは、もうひとつのドキュメンタリーを見ているようでした。
興味深いのは、社会学者・宮台真司による巻末の解説付録。
以下、簡単に要約する。
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現代社会システムのなかで、私たちいろいろなことを「体験」する。
その体験に解釈を与える作為を「体験加工」というそうだ。
世間ではこの体験加工の早い、即断即決型の人のことが「聡い」と思われている。
そうした視点からは森達也の「体験加工」は驚くほど遅く見える。
しかしこれは、体験加工を留保する、というあえてする不作為と宮台は論じる。
オウムがサリンをまいた、たくさんの死者が出た、という体験の一方で、
オウムは敵だ・社会は味方だと体験加工する前の、留保によって見えてくるものがある、という。
たとえば、かつて、現在では精神病に分類される振る舞いにも、
共同体のなかで、「狐憑き」や「シャーマン」の役割が与えられた。
しかし現在では、まず犯罪者同様に隔離され、治療対象と化される。
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本文を読んで思うところはたくさんあったけれど、この解説がとりわけ興味深かった。
眼前の狂人の振る舞いに安易に解釈を与えない、体験加工しない社会の豊かさが見え隠れする。
だが、とはいえ、オウムは、という解釈もまた、人間らしい営みとも思う。 -
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村上春樹の、被害者側の話、オウム側の話をそれぞれ読んだあとは、オウムのドキュメンタリーをできるだけ客観的に撮ったという森達也の本に流れ着きました。オウム側もこちら側も、1つの価値観に思考を停止させて追随してしまう状態は同じ。戦時中は言うまでもなく、今でも会社という組織の中では、そのような状態に陥っているかもしれないし、さらに言えばこの社会が持つ価値観、いわゆる世間体に思考停止して追随しているだけとも言える。森達也はいつものごとく結論を出さないまま、なんというかダラダラしているけれど、そのダラダラ感って大事なときもある。簡単にすぐに善悪の判断をしてしまって悪だと判断したものを攻撃(例えばオウムがサリンを撒く行為、またはマスコミが信者を攻撃する行為)する恐怖を、森達也は教えてくれる。この『A』は、まだ2、3と続刊されているので、機会があれば読む。
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ドキュメンタリーディレクター森達也がオウム真理教にまつわるドキュメンンタリー映画『A』を¥の取材を始めてから公開にたどり着くまでの撮影ノートを纏めたもの。オウム真理教とそれを取り巻くマスコミ及び一般社会という両極端で思考停止してしまったかのような狭間において、両者の通訳役とも言える立場になった荒木浩氏と、それを取り続ける森達也本人と。「ドキュメンタリーは最終的に主観で創られるのだらか公正中立などありえない」と判っていながら両者の距離のとり方に揺れ動く森さん本人が主人公のようなレポート。森さんが揺れやすい性格なのはある程度判っていたけれど、それが一番表に出ている作品かも知れない。
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「たくさんの人を殺した悪い人たちよ」
娘さんのこの一言が頭から離れないのは、自分の感覚にはまるからか。
思うことを、考えることをことばにしようとすると全然まとまらない。そんなことがよくある。実際ことばになって外に出せても、なんか誰かが言ってたことのように思える。どんどん自分が見つからなくなってぐちゃぐちゃになる。
だけど、森さんの本を読むたび、わからないなりに、ぐちゃぐちゃなりに、でも考えることは止めないでおこうと思う。ただ自分のことばをさがすことだけは面倒くさがらずに、頑張ろうって思う。
『A』の被写体はオウムだけど、でもたぶん、そこに映ってるのは人間そのものの姿なんだろうな。映画は受験が終わったら絶対観よう。 -
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歴史の闇に埋もれてしまったベトナムの王子、クォン・デについて書かれたドキュメント。
クォン・デと言う人物は読むまで知らなかった。ベトナムの歴史も、ほとんどと言っていいほど知らない。
本書は大きく分けて二つのシーケンスから成り立っている。
一つは書き手である森達也自身が自分の足でクォン・デを追うものと、森達也があらゆる文献を元にフィクションを交えてクォン・デやファン・ボイ・チャウの行動を文章化したものだ。
つまり後者のシーケンスの登場人物達の心情や、行動の真意は単なるフィクションである。
読んでいても彼らの悲観や情熱を作者が愛しすぎているきらいはある。だから文章から悲哀の二文字が立ちこめ過ぎている。
僕は史実を知らない。詳しく調べていけばもしかしたらでたらめなのかもしれない。
ただこの小説を或る一つの創作と考えるならとても面白かった。
きっと書き手自身の思惑もそうなんだと思う。
最も考えるべきはクォン・デのその日の一挙一動、感情の細やかな描写よりも、彼を忘れてしまった現代という時代ということなんだろうな。 -
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オウムのドキュメンタリー映画があると聞いて、どこかで気になっていたけれど、見る機会が持てずにいた。その映画、『A』の舞台裏を監督自身が語ったこの本も、しばらく前に買っていたのだが、忙しさに紛れて本棚に放り込んだままだった。今、読む気になったのは、ある意味、『1Q84』で何となくオウムのことを思い出したから。そういう意味ではやはり、『1Q84』でいろいろ考えたということなのだろう。1995年という年は大変な年で、年明けから阪神淡路大震災、そして3月には地下鉄サリン事件があって、どうもあの頃から日本の安全神話ががらがらと崩れた感がある。それはともかく、オウム自体にはずーっと「わからない」感がつきまとって、「極悪非道でとんでもない! 許せない!!」と言えなかった。彼らが起こしたと言われている事件はもちろんひどいものなのだけれど、ひとことで言って、すごくちぐはぐな感じがしたのだ。教祖に強いカリスマ性があるとは私には思えなかったし、科学技術に関しても報道されている範囲では稚拙なもののように感じられたし、選挙のときの教祖を称える歌などは苦笑してしまうようなものだったし、それらをつなぎ合わせてどうして冷徹な殺人集団になってしまうのか、実感としてまったくわからなかった。そんな当時の気分を思い出した。今、この本を読み終わってもわからない。多分、映画を見てもわからないのだろう。膨大な時間を撮影に費やし、経済的にも精神的にも追い詰められかけながら、『A』、そして続編の『A2』を完成させた森監督。この本に書ききれない部分も多くあったことだろう。一歩間違うと反社会的と糾弾されそうなドキュメンタリーを完成させた根底には、「わからないと感じることについて安易に納得しない」姿勢がある。「共同体的な思考停止」という点でマスコミとオウムが合わせ鏡だという主張に完全に同調するかと聞かれると考えてしまうが、オウムのことに限らず、私は私の「わからなさ」や「違和感」をも少し大事にしていこうと思った。
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<―オウムの中から見ると、外の世界はどう映るのだろう?一九九五年。熱狂的なオウム報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた―!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延する世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、香港、カナダと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。>
松本死刑囚は死刑を待つ状態にあり、オウム事件は過去のことになりつつある。しかし「なぜオウムはサリンを撒いたか」という問への明確な答えはでないままだ・・森氏は膨大な時間と労力をかけてこの問に向かい合った。この本を読むことで私達は情報と考えるチャンスを得ることが出来る。私にとって大きかったのは「オウムがわからないままな理由」がわかったことだ。この問題はまだ終わってはいないのだから終わらせてはいけないのだ、と感じた。