森達也のレビュー一覧
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最近は、森さんの書かれるものを読むと、ああ、また火の中の栗を拾ってるなあと思う。そして、いったいいつ頃から、こういう発言をするのにやけどをする覚悟がいるようになったのだろうか、とも。
死刑制度、領土問題、北朝鮮、厳罰化、オウムについてなどなど。森さんの言っていることはとても説得力があり、全面的に賛成とは思わなくとも、傾聴に値する。自分はどう判断するのか、考える機会をあたえてくれる。日頃マスコミを通じて大量に流される情報を、いかに無自覚に受け取っているか気づかされて、反省する。
自分の気に入らない人(有名無名にかかわらず)を、読むのもイヤになるような汚い言葉で罵倒したり、プライバシーを暴露したりすることが、当たり前のように行われるようになってしまい、危うそうなことは言わないに限るという空気がどんどん広がっていると思う。新聞の投書欄から住所を突き止められて嫌がらせをされることまで起こっている。
いやだなあと思うニュースには事欠かないけれど、ストーカーに殺された女子高生が死後にまで徹底的に蹂躙されたこと、ヘイトスピーチデモが拡散していること、この二つには何と言っていいかわからない激しい憤りを感じた。おそらくその多くは普通の生活を送っているであろう市井の人が、ここまで品性下劣になれるのか。山の中に「新しい村」でも作りたくなる。
まあ、そういうわけにはいかないから、せめてものこと、自分で考える。そして、情けなくなるほどささやかなことではあるけれど、お互いを尊重する関係を身の回りで作っていく。これだって結構難しかったりするのだ。いやほんとに情けないけれど。
本書を読むと、著者の森さんをはじめ、バッシングや葛藤にめげず、行動し発言する人が必ずいるということも、またよくわかる。心に残って離れないのは、大阪在住であるノルウェー人の女性のメールだ。2011年に起きた銃乱射事件でこの小さな国は大きく揺れた。それでもノルウェー社会は、厳罰化に転換することなく、寛容な姿勢を貫いている。事件の翌日、犯人の母親が事件現場に花を手向けに来たとき、遺族たちは静かに献花を見守ったそうだ。罵声を浴びせる人などなかったという。これが日本なら…、と思わずにはいられない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ地下鉄サリン事件と、その事件の首謀者である麻原彰晃。そしてオウム真理教。何故あんな凄惨な事件を起こしたのか?その謎を解けないまま突き進み決まってしまった麻原死刑判決。それでいいのか?という本。
確かにこの事件当時の報道(というかワイドショー)の過熱報道ぶりはよーく覚えている。テレビも雑誌もオウム一色だった。そんな中で語られた事件の流れは、麻原は以前薬事法違反でパクられて、それを契機に体制に恨みをいだき宗教団体を立ち上げるも、衆院選に大敗して大量殺人を決意。そして決行。てな感じだったと記憶してる。
本書でも書かれているけど、まぁそんな単純な話しじゃないでしょ?と。言われてみればその通り。しかもそれって検察側が一方的に言ってるだけど、あんまり言質取れてないんだよねぇ。
きっと裁判中の麻原は壊れて、意思疎通もまともに出来る状態じゃなかったんだと思う。それでも、訴訟能力なしとして、裁判を長引かせることは大人の事情で出来なかった。悪い意味で歴史に名を残す巨悪麻原をルール度外視でとっとと死刑確定しても、誰も困らないし、むしろ喜ぶ。
俺も麻原を無罪にしろなんてとても思わないし、ルールは徹底順守!とか優等生なことを言うつもりもないけど、何故こんな恐ろしい事件が発生してしまったんだ?って謎は、もう少しきっちりしておいた方がよかったんじゃねぇかなぁ…。それともキッチリしちゃうと困る人がいたのかなぁ…。
ここまで複雑だと、正直「もーいーよ、死刑で」とか思っちゃうんだよねぇ。すげぇ恐ろしいことだとは思うけど。 -
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著者の中庸のスタンスが好き。スプーン曲げを目の前で見て、物理で説明できないと思ってもその現象から理論に結び付けるのは確かに難しい。分からないものは分からないままに。
・強い光源は他を隠す。小さいものや弱いものや薄いものを、押し潰して扁平にしてしまう。
・秋山眞人は静かに言う。「優しい気持ちは重要です。特に僕らは世間から迫害されたり冷遇されたり差別されることが多いから、気を抜くとネガティブな方向に引っ張られてしまうんです。そうなったら悲惨です。何人もの超能力者たちの末路を僕は見聞きしています。本当に凄惨な話です。…だから荒んだ気持ちになりかけたときには、ここに来てこうして街の灯を眺めながら、このひとつひとつに人の営みがあるんだと確認するんです。人間を本当にいとおしく思える気持ちをとりもどせるまで、ここでじっと街の灯を眺めています。」
・テープの残量を計算しながらファインダーを目に押し当てようとして、項のあたりに視線を感じた。思わず顔を上げた。清田は僕を見ていた。いつからなのか、清田はじっと僕を見つめていた。
「…UFOを見たことがあるとか宇宙人に会ったことがあるとかって話をすると、みんな困ったなあって顔をするんだよ。それは信じられませんってはっきり言う奴もいるよ。だけどさ、じゃあ聞くけど、おまえら本当に、UFO見たいと思って夜空を見続けたことがあるのかよ?俺は見ているよ。毎晩何時間も見ていた時期があるよ。否定する奴に限って夜空を真剣に見ていないんだよ。それで、あるわけないですよって笑うんだよな。だけどさ、本気にならなきゃ何も見えねえぜ。スプーン曲げでも同じだよ。否定する奴に限って自分は本気で試してないんだよ。鼻唄歌いながら試したって曲がらなぜ。当たり前の話しじゃないか。だからしっかり見ててくれよ。たかがスプーン曲げだけどさ、俺とマリックさんとが同じはずがないんだよ。本当に真剣に見てくれさえすれば、そのくらいの違いには誰だって絶対気づくはずだぜ。」
・僕自身は未だにスプーンを手に念じることはないが、つい先日、夜空をしばらく眺めていたことがある。ずいぶん長時間眺めていたつもりだったが、時計を見れば五分もたっていない。たぶんこれが僕の限界なのだろう。 -
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メディアのオウム事件以降の機能停止により、群れる羊度が高い日本人は危険な戦前と変わらない体制と同じ状態にある。戦争は高揚した危機管理意識からしか生まれない。すなわち仮想敵を作らなければ安心できず、自衛を理由に戦争を仕掛ける。優しさや善意が自衛の意識と融合しながら暴走する。メディアはそれを止めるのではなく、加速させる。厳罰化、監視社会は、メディアと権力の親和性の結果。
裸の王様は周りが普通ではなかった。
メディアの思い上がりはこれまでの自分の考えと全く同感。戦争に対する考え、現代社会が気付かないうちに危険な方向に暴走する考えは新鮮、かつ説得力がある。 -
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ネタバレ≪目次≫
第1章 社会の多数派からずれる
知っているのに知らない死刑
痴漢と逮捕、どちらが情けない?
メディアは危機を煽る
定年をむかえる憲法
裏日本は「心の日本」
第2章 国家を懐疑するまなざし
「愛国心」に自由を
天皇崩御の日を忘れない
なぜ今上天皇は「君が代」を歌わないのか
「憲法前文」は正しいのか、間違えているのか
第3章 多面的矛盾に満ちた「現代の不安」
ビンラディンへの手紙
ビンラディンへの手紙を書いた経緯と理由
ブッシュの示す「凶暴な優しさ」と正義
禁煙への自由
親鸞の残した「わからない」の教え
第4章 あえてメディアをずらして見る
繰り返される六十余年前の「翼賛報道」体制
メディアと権力の親和性
オウム真理教撮影と禅寺の日々
第5章 脱線をおそれないアウトサイダーたち
魚住昭 激しくて優しい業の人
森巣博 「戦争はどうやったらなくなるのか」
笠原和夫 「仁義なき戦い」十七歳、初恋の人と観たかった映画
PANTA 過激な「伝説」の歌手
第6章 日々の暮らしのなかのモノの見方
結論を先延ばしにしたっていいじゃないか
読書をする時間を
もうダメ。みなさんさようなら
≪内容≫
さまざまなメディアに書いた文章をまとめたものなので、まとまりは欠くが、論旨は一貫している。メディアの前に「思考停止」することなく、「自分の頭で考えよう」ということ。その結果、タイトルの「視点をずらす」ということになるのだ。この「自分の頭で考える」ことはとても大事で、その結果、世の趨勢と乖離してしまっても、「KY」でいいじゃないか…(著者の言い方)。
意識はしているのだが、日々の報道に一喜一憂している自分が哀しい。 -
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久しぶりの森達也。本作で12冊目。結構読んだな。
主として生命・死をテーマとした文章を書き連ねている。
タイトルのメメントは、ラテン語の「メメント・モリ=死を想う」から来ているから、
そのテーマ設定も頷けるところである。
善人が大量虐殺を犯す、仮想的が先制攻撃を正当化する等、
いわゆる森節は健在で、その意味では「世界はもっと~」や「世界が完全に~」
などからブレはない。
特徴的なのは、文筆業であることへの違和感・飽きだろう。
恐らくは2001年発表の「A2」以降、映画のみならず、映像作品を
ほとんど発表してない禁断症状が出ているとみた。
しかし、森達也ってこんなに動物を飼っていたのか(好きなのか、とは敢えて書かない)、
と思えるほど、彼の飼育歴が明らかとなる珍しい作品。
文庫では「震災、受賞、父親の死」が追録されている。
慈しみに富む、切なくも美しい追悼の文章。 -
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ドキュメンタリーのマニアックな話(巨匠やその代表作の偉大さ)に多くのページ数が割かれ、かつ文章が冗漫であるため、読むのに時間がかかったが、核となる主張は以下の通り
■ドキュメンタリーは決して客観的事実の蓄積ではなく、あくまで主観に基づいて創作された、自分本位な「作品」
■すべての映像は主観基づいて作られている(すべての映像はドキュメンタリーだ。 ジャン=リュック・ゴダール)。なぜならば、すべての映像はキャメラによって主体的に映像を現実を切り取る、そして選択的に編集するという、二つの過程を経ているからである。
ここのエピソード(ex 地域住民は実はオオム信者をマスコミから守っていた)は大変興味深く、昨今話題のメディアリテラシーについて、学者目線( 内田樹 町場のメディア論)とは違って、”現場からの声”を聞くことができる