森達也のレビュー一覧
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ネタバレ≪目次≫
第1章 社会の多数派からずれる
知っているのに知らない死刑
痴漢と逮捕、どちらが情けない?
メディアは危機を煽る
定年をむかえる憲法
裏日本は「心の日本」
第2章 国家を懐疑するまなざし
「愛国心」に自由を
天皇崩御の日を忘れない
なぜ今上天皇は「君が代」を歌わないのか
「憲法前文」は正しいのか、間違えているのか
第3章 多面的矛盾に満ちた「現代の不安」
ビンラディンへの手紙
ビンラディンへの手紙を書いた経緯と理由
ブッシュの示す「凶暴な優しさ」と正義
禁煙への自由
親鸞の残した「わからない」の教え
第4章 あえてメディ -
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久しぶりの森達也。本作で12冊目。結構読んだな。
主として生命・死をテーマとした文章を書き連ねている。
タイトルのメメントは、ラテン語の「メメント・モリ=死を想う」から来ているから、
そのテーマ設定も頷けるところである。
善人が大量虐殺を犯す、仮想的が先制攻撃を正当化する等、
いわゆる森節は健在で、その意味では「世界はもっと~」や「世界が完全に~」
などからブレはない。
特徴的なのは、文筆業であることへの違和感・飽きだろう。
恐らくは2001年発表の「A2」以降、映画のみならず、映像作品を
ほとんど発表してない禁断症状が出ているとみた。
しかし、森達也ってこんなに動物を飼っていたのか( -
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ドキュメンタリーのマニアックな話(巨匠やその代表作の偉大さ)に多くのページ数が割かれ、かつ文章が冗漫であるため、読むのに時間がかかったが、核となる主張は以下の通り
■ドキュメンタリーは決して客観的事実の蓄積ではなく、あくまで主観に基づいて創作された、自分本位な「作品」
■すべての映像は主観基づいて作られている(すべての映像はドキュメンタリーだ。 ジャン=リュック・ゴダール)。なぜならば、すべての映像はキャメラによって主体的に映像を現実を切り取る、そして選択的に編集するという、二つの過程を経ているからである。
ここのエピソード(ex 地域住民は実はオオム信者をマスコミから守っていた)は大変 -
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★分かりの良い物語に回収させない★映像も含めずっと気にはなっていたが、ようやく本を読む。麻原が捕まった後に荒木・広報副部長を主役に据えた取材とは知らなかった。その前からずっとオウムを追っていたからこそ、これだけ評価されたのだと思い込んでいた。人が「もう終わった」と思ったあとからでも、成果を上げる余地はあることを改めて知った。しかし本の趣旨が撮影記録である以上、先に映像を見るべきだったか。「A2」「A3」も手元に準備したが、映像の後に回そう。
完全なオウムバッシングの中で取材内容がテレビで放送される可能性がなくなり、大手メディアの限界という別の側面が作品に加わった。結果としてそれでも(費用の負 -
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地下鉄サリンから15年以上がたったこと、麻原氏に死刑判決が確定したことなどに関して、感慨深いです。この書のように、事件現場の息吹をそのまま感じさせる文章は貴重です。オーム真理教について、冷静に考えることができるためには、時間が必要でした。オームが言っていた「解脱」ということは、言葉を変えてほとんどの宗教団体が求めていたものと同じだと感じています。犯罪に向かったことは、たぶん麻原の資質によることが大きかったでしょうが、彼の宗教的な考えと方法を含めたきちんとした考察を求めたいと思います。この本は、ドキュメンタリーの手法の教科書として、メディア【テレビ】論としてすばらしい。大きな事件には、すぐに安易
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映画を観てから読もうと思って、積読くこと約1年。
大型連休にようやく読み終わりました。
内容は基本的に映画の流れを踏襲しているので、副読本として読むと便利。
異なる点は、表現者・制作者である森達也自身が、映画よりも登場人物として前面に出てくるところ。
特にテレビの制作会社との契約解除から、意固地になりながらも、どこかテーマ性に魅かれ、
淡々と撮影を続けるあたりなどは、もうひとつのドキュメンタリーを見ているようでした。
興味深いのは、社会学者・宮台真司による巻末の解説付録。
以下、簡単に要約する。
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現代社会システムのなかで、私たちいろいろなことを「体験」する。
その体験に解釈を与 -
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村上春樹の、被害者側の話、オウム側の話をそれぞれ読んだあとは、オウムのドキュメンタリーをできるだけ客観的に撮ったという森達也の本に流れ着きました。オウム側もこちら側も、1つの価値観に思考を停止させて追随してしまう状態は同じ。戦時中は言うまでもなく、今でも会社という組織の中では、そのような状態に陥っているかもしれないし、さらに言えばこの社会が持つ価値観、いわゆる世間体に思考停止して追随しているだけとも言える。森達也はいつものごとく結論を出さないまま、なんというかダラダラしているけれど、そのダラダラ感って大事なときもある。簡単にすぐに善悪の判断をしてしまって悪だと判断したものを攻撃(例えばオウムが
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ドキュメンタリーディレクター森達也がオウム真理教にまつわるドキュメンンタリー映画『A』を¥の取材を始めてから公開にたどり着くまでの撮影ノートを纏めたもの。オウム真理教とそれを取り巻くマスコミ及び一般社会という両極端で思考停止してしまったかのような狭間において、両者の通訳役とも言える立場になった荒木浩氏と、それを取り続ける森達也本人と。「ドキュメンタリーは最終的に主観で創られるのだらか公正中立などありえない」と判っていながら両者の距離のとり方に揺れ動く森さん本人が主人公のようなレポート。森さんが揺れやすい性格なのはある程度判っていたけれど、それが一番表に出ている作品かも知れない。
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「たくさんの人を殺した悪い人たちよ」
娘さんのこの一言が頭から離れないのは、自分の感覚にはまるからか。
思うことを、考えることをことばにしようとすると全然まとまらない。そんなことがよくある。実際ことばになって外に出せても、なんか誰かが言ってたことのように思える。どんどん自分が見つからなくなってぐちゃぐちゃになる。
だけど、森さんの本を読むたび、わからないなりに、ぐちゃぐちゃなりに、でも考えることは止めないでおこうと思う。ただ自分のことばをさがすことだけは面倒くさがらずに、頑張ろうって思う。
『A』の被写体はオウムだけど、でもたぶん、そこに映ってるのは人間そのものの姿なんだろうな。映画は受験が終 -
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歴史の闇に埋もれてしまったベトナムの王子、クォン・デについて書かれたドキュメント。
クォン・デと言う人物は読むまで知らなかった。ベトナムの歴史も、ほとんどと言っていいほど知らない。
本書は大きく分けて二つのシーケンスから成り立っている。
一つは書き手である森達也自身が自分の足でクォン・デを追うものと、森達也があらゆる文献を元にフィクションを交えてクォン・デやファン・ボイ・チャウの行動を文章化したものだ。
つまり後者のシーケンスの登場人物達の心情や、行動の真意は単なるフィクションである。
読んでいても彼らの悲観や情熱を作者が愛しすぎているきらいはある。だから文章から悲哀の二文字が立ちこめ過ぎてい