【感想・ネタバレ】U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面のレビュー

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森 達也
1956年、広島県生まれ。映画監督、作家、明治大学特任教授。98年にオウム真理教信者達の日常を映したドキュメンタリー映画「A」を公開、ベルリン国際映画祭などに正式招待される。2001年、続編「A2」が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。16年、作曲家・佐村河内守に密着して撮影した「FAKE」が大きな話題に。19年公開の「i-新聞記者ドキュメント-」は、キネマ旬報ベストテン(文化映画)1位を獲得。作家としては、10年に刊行した『A3』で第33回講談社ノンフィクション賞を受賞。他にも『放送禁止歌』『いのちの食べかた』『ドキュメンタリーは嘘をつく』『死刑』『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』など注目作多数。

U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面 (講談社現代新書)
by 森達也
 ……前の段落で僕は「なぜかその力学がまったく作用していない」と書いたけれど、正確に書けば「なぜか」ではない。理由はわかっている。具体的な執行の手順や状況、あるいは確定死刑囚そのものに、(死に対する禁忌や 穢れ的な意識が働いているからなのか) 多くの人は触れたくないのだ。だからメディアも、注目される事件の場合は死刑が確定するまでは大きなニュースとして報道するが、確定後は積極的に報じなくなる。さらに死刑囚は確定囚になると同時に、面会や手紙の交信など外部との交通の権利を奪われる。この理由も僕にはまったくわからない。法務省は受刑者の人権を守るためとお題目のように説明するが、多くの死刑囚は確定後も自由な面会や手紙の交信を希望している。当然だと思う。あなたも自分を死刑囚の立場に置き換えて想像してほしい。例外として家族と再審を担当する弁護士、そして特別面会人は面会を許されるが、死刑囚の多くは家族と縁が薄いし、再審を希望しなければ弁護士との関係も途絶える。さらに特別面会人を決めるのは拘置所の権限だ。結果として誰とも会話しない日々を死の恐怖におびえながら何年も過ごすため、拘禁反応を悪化させて精神を病む死刑囚はとても多い。

「偏差値の高い学生さんばかりで、話しながら楽しかったです」  偏差値という言葉を当たり前のように使う植松に、このとき少し違和感を持った。「何だ、二人は面識があったの?」と篠田が横から不思議そうに言う。「面識はないです」と僕は篠田に答える。面識はない。でも接点はあった。

この段階で植松は死刑囚ではない。ただし死刑判決が出ることはほぼ既定事項だ。ならば植松に面会することは決して意味のないことではない。そう考えて僕はゼミ生たちに手順を教えた。まずは手紙を書くこと。そして返事が来たら面会を打診すること。植松は学生たちの要望に応じた。面会後に成果を聞いた。普通の人で驚きました。ゼミ生たちは異口同音にそう言った。  死刑囚は狂暴で冷酷。多くの人はそう思っている。言い換えれば、そう思うほうが善と悪をすっきりと二分できて楽なのだ。オウムの地下鉄サリン事件が典型だが、メディアは社会の潜在的欲望に合わせて報道する。つまり当時のオウム信者についての報道は、とにかく狂暴で冷酷で危険な集団であるという前提が常にあった。

補足するが、僕は特定の信仰は持っていない。でもオウムについての映画を撮って以降、宗教とは何かをずっと考え続けてきた。その過程で親鸞の教義を知った。宗教者としてだけではなく、その思想性に強く惹かれた。ちなみに麻原彰晃の両親は、とても熱心な浄土真宗門徒だった。

「A」や「A2」の被写体は事件とは関わっていない信者たちだ。ならば善良であることは当たり前だ。時おりそんな批判を目にしていた僕は、死刑囚となった6人に面会して手紙のやりとりを続けた(この時期はまだ6人とも確定囚ではないので会うことができた)。やっぱり穏やかで誠実な男たちだった。でも同時に、彼らが無差別 殺戮 に実行犯として加担したことも確かだ。

刑務官たちに支えられながら被告席に座った麻原は、少し間を置いてから奇妙な動作を始めた。しかも循環している。同じ動作の反復だ。頭を 搔 き、唇を 尖らせ、何かをもごもごとつぶやいてから口のあたりに手をやり、それからくしゃりと顔全体を 歪める。その瞬間の表情は、笑顔のようにも見えるし苦悶のようにも見える。順番や間隔は必ずしも規則的ではないし、頭ではなく顎や耳の後ろを搔く場合もあるけれど、基本的にはこれらの動作を、ずっと反復し続けている。これを言葉にすれば常同行動。精神障害を示す典型的な症例のひとつだ。

そのうち麻原は、一人の弁護人を妻に見立て、「ヤソーダラー、ヤソーダラー(=妻、松本知子)」と呼びながら、腕や胸を触りまくることに熱中し始めた。その弁護人は、困惑した表情を浮かべながらも、触られるにまかせ、証人尋問をサポートする。自分の弟子が苦しみ、悩み抜いているというのに、肝心の教祖の頭の中は、自分の欲求を満たすことでいっぱいのようだ。 (『「オウム真理教」裁判傍聴記②』文藝春秋)

もう一度書くが、事件を解明するうえで動機は根幹だ。多くの人は地下鉄サリン事件をテロと言い添えるが、テロは政治的な目的が条件だ。爆破や破壊や殺人など暴力的行為だけではテロではない。政治目的を達成するために、暴力によって社会に不安や恐怖を与えることがテロなのだ。動機がわからないのならテロとは断言できない。その意味では、「世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐ」ために犯行を決意したと大島衆院議長宛の手紙に書いた植松の行為のほうが、(あまりに動機が荒唐無稽であることはともかくとして) テロの要件を満たしている。

宮﨑勤の一次精神鑑定は慶応大学医学部の 保 崎 秀 夫 教授など6人が1年4ヵ月かけて行い、責任能力はあると結論づけた。その後に帝京大と東大医学部の3名の教授によって行われた二次鑑定は2年の月日をかけたが、途中で意見が割れ、東大の 中 安 信夫 鑑定人は精神分裂病の初期段階と鑑定し、帝京大の 内沼 幸 雄 教授と東大の 関根 義 夫 教授は解離性同一性障害(多重人格) の状態にあると診断した。

まずはこれ見よがしだ。わざわざ犯行直前に口にすることだろうか。だからこの事実だけを取り上げれば、悪ふざけと捉えるべきかもしれないし、犯行後を見据えて周到に精神障害を装ったとの見方も可能だ。実際に判決文は、この発言も大麻精神病の影響で常軌を逸していたエビデンスのひとつである、とする工藤鑑定について、以下のように一蹴している。

 確かに自分が宇宙人であることを前提にした言動は他に確認できない。ただし事件のかなり前から植松は友人たちに、宇宙人について(イルミナティカードとの関連で) 頻りに話題にしていることは証言で明らかになっているし、大島衆院議長に渡そうとした手紙には、以下のような記述がある。  外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ(中略)。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。

多くのメディアが報じたように、イルミナティカードに植松は傾倒していた。最初にこの聞きなれないカードの名称をニュースで聞いたとき、カバラとかタロットカードの一種だろうかと僕は考えていた。でもイルミナティカードには、カバラやタロットのような歴史や伝統はない。1982年にアメリカのゲーム会社であるスティーブ・ジャクソン・ゲームズが考案したカードゲームだ。スペースインベーダーのほうが4年早く、マリオとルイージの兄弟とはほぼ同世代。

植松はこの5桁を逆さから「3」「10」「31」と切り取り、「31」は加算して「4」と解読。語呂合わせで「さ」「と」「し」、つまり「 聖」に結びつけ、自らをボブと重ね合わせた。事件半年ほど前から、「自分は救世主」「革命を起こす」と周囲に触れ回り始める。

2019年5月 28 日、神奈川県川崎市の登戸駅付近で、包丁を持った 51 歳の男がスクールバスに乗る列に並んでいた小学生や保護者を襲い、2人が死亡して 18 人が重軽傷を負った。終始無言のまま子供や保護者を刺し続けた男は、 20 人を殺傷したあとに自分の首を刺して自殺した。

「その議論以前に、このまま死刑で殺してしまっていいのだろうかと思ってます。植松には自分の考えを変えるきっかけや出会いがなかった。だからとても急進的に、自分が正義だと思って行動を起こしてしまった。いろんな人が面会しているけれど、誰も彼と話ができていない。もちろん、彼の認知の歪みとか理解力のなさもあるけれど、彼の心を引き出す対話ができていない。許せないみたいな論理で対峙してしまっては、重度障害者を殺害した彼の心の闇が理解できない、殺してはいけない理由を気づかせることができない。

植松は今も自分のやったことは正しいと思っているし、反省もしていない。そのまま死なれてしまったら困ると私は思っていて……」 「彼の精神状態を郡司さんは、発達障害の観点からはどのように見立てますか。知的障害はない。普通に学校教育を受けて大学にも行っている。弁護団は大麻精神病という見立てで責任能力はないと主張したけれど、僕はこれにも違和感がある」

「最近注目されるようになった知的障害スペクトラム。まだ用語としては一般的ではないけれど、知的障害についてはスペクトラム的にとらえたほうが現状に合っていると、私や懇意にしている医師などは考えています。医学モデルで示されている境界知能だけではなく、行政や教育現場で扱われている社会モデルとして、幅を広げて支援を考える必要があります。現実問題として、IQが 85 から100くらいまでの境界にある子どもたちの支援が本当に足りないんです。一般から見たらまったく普通の人です。学校に通えるし大学にも進学できます。実際に普通なんです。たくさんいます。彼はその境界知能にあって、さらに理解や認知が歪んでしまうタイプだと思います。加えて解釈が浅い。長くて難しい文章が読めない」

「本や映画に対する理解が普通とは違う。そして浅いんです。例えば『アップルパイがあるね』と誰かに言われたら、『くれ』と言われたように思っちゃうとか、廊下で誰かとぶつかったら、わざとぶつかってきたと思いこむとか、そういった認知の歪みがあって、その積み重ねでいろんな社会経験がものすごくつらいものになって、その結果として、自分の生きづらさをカバーするためのコーピング(ストレスへの対処法) として、アルコール依存になったり薬物に手を出したりする。そういうタイプだと思うんです。

私自身は大麻はやったことがないけれど、周囲にはけっこういます。彼ほどの歪みはないですね。もともとの彼の特性的なものかしら。境界知能にある人は実生活でいろいろ困難があって、ストレスから抑うつ状態になって、しかも思考の幅が狭いので、自分は低賃金で頑張って仕事をしながら怠けているとか𠮟責されて社会的なストレスにさらされているのに、重度障害の人たちは何も生産しなくても食べられるし怒られないし、このまま生き永らえるのかって、……抑うつ状態による思考の狭さも働いて、どうしても許せなくなる人はすごく

「そういう子は思春期ぐらいから目立ち始めて、周囲との 軋轢 の結果としてドロップアウトして、……日本っていったんドロップアウトしてしまうとリカバリーがすごく難しいから、社会に対する不満や怒りが強まるばかりで、これは安倍政権を支持しているネトウヨや自民党ネットサポーターでバイトしている人たちなんかにも共通するけれど、自分たちが抑圧されている原因は現政権にあるはずなのに、自分を攻撃者である政権と同一化して、リベラル…

郡司とはこの日が初対面だ。だから現政権への批判を彼女が口にするとはまったく予想していなかった。ならばというかだからこそというか、あらためて書かねばならないが、僕は今のこの国で、思想的にはリベラルの側にいる。この時点で政権の座に就いていた安倍首相は支持しない。だからこそこれ見よがしにならないように気をつけたいが、植松が安倍首相を強く支持していたこと、ドナルド・トランプを崇拝していたこと、犯行を予告する手紙…

念を押すが、トランプや安倍政権に事件の責任の一端があるなどと主張するつもりはまったくない。ただしこの2つには、かつてないほどの強権性を誇示すること以外にも、いくつかの共通項がある。就任前からアメリカ一国主義を口にし続けたトランプは、国境の壁が示すように、自国の利益や自国民の安全ばかりを強調した。つまり命の価値の分別だ。安倍首相が掲げる自民党の改憲試案は、「権利と義務はセットである」との考えかたが基底にあるが(そもそも憲法に国民の義務を記載する間違いはともかくとして)、ならば納税や労働などの義務を果たさない人は、生存権や社会権など人権が制限されるべきだとの文脈に容易くスライドする。リベラルと保守の分断も、この2人の政権でより加速…

「発達障害を専門にしている児童精神科医じゃないと、そこまでの知見や考えかたを持たないんです。精神科医が発達障害について関心を持ち始めたのはここ 10 年ぐらいです。いわゆる引きこもりになっている人たちの多くは、発達障害や知的障害スペクトラムの場合が多いと思います。でもその観点で見ないで、双極性障害であるとか単なるうつとして薬を処方するので、逆に悪くなってしまうケースがすごく多い。同じように法廷で鑑定を依頼された精神科医が、どれぐらい発達障害や知的障害スペクトラムの知識があるかについて、私はとても疑問です」

補足するが、発達障害や知的障害において境界にいる人たちすべてが犯罪予備軍であるとは郡司は言っていない。だって彼らの絶対数はとても多い。王様は裸だよと叫んだ子供だけではなく、正義感が強くて孤児院育ちで時おり突拍子もない行動をしてしまうアン・シャーリーや、日常におけるルールや礼儀作法にどうしても 馴染めないハックルベリー・フィンは、発達障害だった可能性がある。イチローとスティーブ・ジョブズはアスペルガーといわれている。 黒 柳 徹 子 や 勝間 和 代 はADHDであることをカミングアウトしていて、 米 津 玄 師 も高機能自閉症と診断されたことを自身が明かしている。トム・クルーズは学習障害でウィル・スミスはADHD。エジソンやベートーヴェン、モーツァルトにダ・ヴィンチなども、その可能性を指摘されている。

スペクトラムの意味はグラデーション。僕もあなたも、誰だってその…

「ようやく関心を持たれ始めたけれど、スペクトラムにいる子供たちに対する教育のリソースは今もとても少ない。教師たちも知識がないし、認知の歪みを是正することについて意識的な医師も少ない。  だから、今まで植松みたいなタイプの子供たちは、学校や社会で、なぜこれが理解できないのかとか、なぜ他の人と同じようにできないのかとか、怒られたりバカにされたり、とてもつらい思…

 罪を犯した人たちの多くは、幼少期や成育期に親や周囲の人から加害を受けている。でも植松は、少なくとも大きな傷がつくような半生は送っていない。両親からは愛され、友人も多く、クラスでもリーダー的な位置にあった。教師になるという夢を実現できなかったことが挫折といえば挫折だが、その程度の挫折は誰にだってある。そんなことで人を殺されてはたまらない。

 ……今、僕は、「役に立たない人は」と書いたが、これは正しくない。植松が実際に標的にしたのは、「役に立たない人」ではなく「意思疎通ができない人(心失者)」だ。  部屋で寝ている利用者を指した被告から「しゃべれるのか」と聞かれ、職員が「しゃべれない」と答えると、被告は包丁で数回刺した。  被告は別の部屋でも同じ行為を繰り返し、職員が「しゃべれる」と答えた利用者は素通りした。

「障害者なんていなくなればいい」  このバカ丸出しの文章は、朝日新聞の記事を引用していますが、私に権力があれば、朝日新聞は皆殺しにします。

私は「障害者」ではなく「意思疎通がとれない者」を、安楽死させるべきだと考えております。  多数の記者方と手紙をやり取りしたことで、識見があることは分かりましたが、問題を解決する意欲はありません。言葉を丸暗記する偏差値エリートが頭だけでひねり出した机上の空想論や 綺麗事 では問題を解決できません。(中略) 心失者の存在は、莫大な利権に絡んでいます。

「森さんの作品を観たり読んだりしながら、きっとそうだろうなと思っていました。ちなみに私もADDです。だから、森さんの今回の時間の遅れもあまり気にしないというか、やっぱりね、という感じでした」  境界線上の友人は多い。これまで映像作品で被写体にしてきたほとんどの人は、今にして思えばそうだったのかもしれない。でも僕自身も境界線上にいる。線ではなくエリアと考えるべきかもしれない。ならばほとんどの人はここにいる。郡司に謝意を述べてから、僕はZoomを切った。

僕の今の肩書は「映画監督・作家」だ。つまり映像と活字の二足の 草鞋。多才ということではなく、どちらも中途半端なのだ。もしも映画が大ヒットしたりベストセラーを刊行できたりしていたのなら、どちらかに絞っていたはずだ。

普通と異常の差が尋常ではない。これは面会の際にも感じた。初めて会った植松は、とても礼儀正しく、そして論理的に話をした。でも同時に、嚙み切った右手の小指の赤黒い傷口を僕に見せたあとに、第二関節は硬くて嚙み切れないので第一関節にしました、とにこにこと笑い、その後に9月に日本は滅びますと真顔で言う。その根拠はイルミナティカードと『闇金ウシジマくん』だ。どうしても嚙み合わない。第8回の被告人質問における弁護士とのやりとりは、もしもあなたが傍聴席に座っていたならば、ベケットや 別 役 実 の不条理劇を観ているかのように感じただろう。

確かに力作だ。メッセージにも強く同意する。でも違和感がいくつかある。そのひとつは不寛容という言葉を差別する側に使ったこと。差別する側が求められることは寛容であることではない。差別する側にいる自分の意識を客体化しながら凝視し、される側にいる誰かの心情を主体的に想像し、差別と迫害の歴史をしっかりと学んで心に刻むことだ。黒人を差別する白人や障害者を蔑視する健常者に呼びかける言葉は、絶対に「寛容になろう」ではない。自閉症の息子を持つ神戸は、事件に他人事ではないと衝撃を受けて、植松に何度も面会する。でも会話はいつも嚙み合わない。神戸のブログから引用する。

「精神医学的な見地でパーソナリティが完成するのは何歳ぐらいかとよく質問されます。だいたいは 18 歳ぐらいで完成して、それ以後は大きく変化しないというのが答えです。だから逆に言えば、未成年の人にパーソナリティ障害という診断は原則としてできない。精神医学の見地からもっと言えば、パーソナリティ障害ほど曖昧な概念はないと思います。例えば、医療の現場で最も事例化しやすいパーソナリティ障害として、境界性パーソナリティ障害という病態があります。非常に不安定でリストカットを繰り返すなど自己破壊的な行動を続け、他者との関係の持ちかたも逸脱的で破壊的であることが特徴です。でもそのような人たちも治療に繫がることができれば、5年後には半数以上の人が境界性パーソナリティ障害の診断基準を満たさなくなっている」

でも植松は一人だ。最初から最後まで一人だった。究極の共産主義は、毛沢東やスターリン、あるいは現在の北朝鮮を挙げるまでもなく、個人崇拝と独裁的な全体主義の顔も併せ持つ。だからこそ独裁的なトランプ大統領や強権的な安倍政権に、植松は強く共感した。差別意識ではないからこそ、意思疎通できるかできないかにこだわった。

 同じサークルに所属していた2学年下の別の女性から見た植松は「明るい性格で人気者」。会話になかなか入れない後輩を輪の中に入れようとする気づかいができる優しさがあった。(中略) 見ず知らずの年配者に話しかけられ、他の仲間たちが面倒臭そうにあしらう中、植松だけは熱心に話に耳を傾けていた。学年や性別を問わず友人が多く、後輩からの相談にも真剣に乗っていたという。

やまゆり園で働くきっかけとなったのは、地元の飲み会で会った園に勤める幼なじみの男性の一言だった。「利用者と一緒に散歩していると楽しいよ」と話すと、植松は「へえ、俺もやってみようかな」と興味を示し、男性の話に真剣に聞き入ったという。 「園と縁の深い地域で育ち、障害者に対する否定的なイメージを全く持っていなかった。それは彼も同じだったと思う」。事件後、捜査機関の聴取に男性はそう答えた。

就職活動で悩む大学時代の後輩女性には「仕事ってお金のためじゃなく、やりがい。施設では入れ墨を入れていても、(入所者が) きらきらした目で接してくれる」と語り、こうも続けた。「いまの仕事は自分にとって天職なんだ」

引用した記述は、いずれも石川の文章だ。かつての植松が多くの友人たちから好かれていたとの報道はいくつかあったが、石川の筆致はとてもストレートだ。もちろん好意的に記述することが目的ではない。これほどに細やかな配慮ができて優しかった男が、なぜたった1年で 19 人を殺害する男へと変わったのか、その問題提起が石川の記述の根底にある。

「私も(植松には) 37 回面会して、 50 通の手紙のやり取りをしましたが、会えば会うほど彼がどういった人間なのかわからなくなりました」

「最初に面会したときは、どんな印象を持ちましたか」 「これまで事件取材が多かったので、多くの被告と会ってきたけれど、今回はこれだけの凶悪事件だったので、最初はちょっと身構えました。でも実際に会ってみると、森さんも書いているように、イメージよりずっと小柄で、礼儀正しく、本当にこの男にあんな事件が起こせるのかと衝撃を受けるぐらいの 佇まいでした。最初のその印象は、最後までほぼ変わらなかった。普通なんです。ただ、普通って何だろうって考えたとき、この社会に漂っている空気というか、それをそのまま彼が吸い込んで体現している。まさに彼自体が、今の社会を映しているというか、社会からつくられた存在であるという意味では、それこそ彼は電車で隣に座っている人かもしれないし、もしかしたら自分も同じかもしれない」

障害者は不幸しか生まないとか社会にとって不要な存在だとか、彼のこれらの言葉は、口には出さないけれど多くの人が心の 裡 に多かれ少なかれ 仄かに持っている感覚なのかもしれないと。それを感じ取ったからこそ彼は、これを主張すれば多くの人から受け入れられる、と思ったんじゃないでしょうか。彼なりのそういった算段もあったような気がします」

 口には出さないけれど多くの人が心の裡に持っている感覚。建て前ではなく本音。つまりトランプが体現した「ポリティカル・コレクトネスに対する違和感」だ。だからきっと自分も支持される。でも仮にその算段があったとしても、なぜ 19 人を殺害する行為にまでエスカレートしたのか。それが多くの人の本音だと思いこんだのか。僕は石川に訊いた。

「僕もこうして取材を始める前は、社会の役に立たないことを理由に植松は障害者を殺害した、と事件を解釈していました。多くのメディアもそう表現していますから。でも取材を続けながら、いろんな方の話を聞きながら、ちょっと違うんじゃないかなってだんだん思い始めてきた。  犯行現場で植松は、意識の疎通ができるかどうか、つまり意識があるかどうかで、殺害するかしないかを選別しています。ただ犯行後は、手紙や面会などで時おり、社会の役に立たない障害者は殺すべきだというような表現をしていて、犯行の際にも途中からは時間がないと焦りだして確認しないまま刺し始めているから、とても杜撰で粗雑で曖昧な区分であることは確かだけど、でも少なくとも犯行現場において最初は、分けようとの意識があった。

成育歴を精査すればあまりに普通の環境なので、人格障害との 齟齬 が出る。そうしたことも、裁判では触れなかった理由かもしれない。そう考える僕に石川は、「この4年間、植松の友人とかには、できるだけ取材しようと努めてきました」と言った。「でももっと幼いころから最も身近で見てきたはずのご家族には、まったく取材に応じてもらえなかった。これは記者として 忸怩 たる思いです。植松本人に話を振っても、それは事件とは関係ないからと、ほとんど話してくれませんでした」

「事件発生時はテレビも含めてすべてのマスコミが過熱的に取材していました。でも急激に熱が下がって取材が減ってきた。この傾向は特に民放に顕著です。知り合いの記者によれば、報道しても視聴率に結びつかないから放送してもらえない、だから取材しない、ということらしいです」 「社会の関心が急激に冷えた理由は何でしょうか」 「被害者が障害者だったということが大きいと思います。でも逆にこの4年、障害者だからこそ報道が持続していたとも言える。あとはやはり、当事者が不在だったということはあると思います」

事件や事故は日々起きる。それを知ることは大切だ。つまり情報。でももっと大切なことは、その情報をどのように解釈するか。これは歴史も同じ。だからこそメディアの存在は重要だ。大切なことは多面的に多重的に多層的に伝えること。早急に結論を出さずに悩むこと。だって世界は多面的で多重的で多層的なのだから。

 このように記述した手紙を植松に送ってから半年が過ぎた。そのあいだに植松が予言(というか予告というか) した日本壊滅の日時はあっさりと過ぎ、日本の総理大臣は安倍晋三から菅義偉に替わり、アメリカの大統領もトランプからバイデンに替わることが決定的になった。つまり植松の憧れのアイコン2人が、表舞台から姿を消した。でもアメリカはともかく日本に限れば、政権の強圧的で独善的な体制は今後も大きくは変わらないだろう。しかも新しい内閣で指名された法務大臣は、オウムの死刑囚 13 人の執行命令書に署名した人だ。ならば植松の処刑は、数年後ではなく、もっと早いかもしれない。そう考えながら僕は吐息をつく。やはり憂鬱という言葉しか思いつけない。

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2024年06月04日

Posted by ブクログ

上東さんの本の次に手に取った本。「死刑」はもっとも重罰で、残酷な事件の死刑判決に対して、被害者家族は少しは報われるのかなと思っていたけど、それは社会としてはただの尻尾きりで、社会としての根本解決には少しもなっていないのだと知った。「死刑」も読んでみよう。

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2021年07月18日

Posted by ブクログ

死刑制度とはなんなんだろう
殺人とはなんなんだろう
精神鑑定とはなんなんだろう
自己責任ってなんなんだろう
裁判員制度ってなんなんだろう

植松は、何者だったのだろう

この本は決してわかりやすい答えは提示しない
さまざまな問題を真剣に考え抜いた人たちとの対話を重ねながら、読者も森さんと一緒に考えるだけだ

この森さんのスタンスに、新聞記者のドキュメントで大いに感銘を受け、彼の著書を読み漁っているが、これこそが大事なことだったのだと、個別の事実以上にそのスタンスに共鳴している。

僕は、どうするのか

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2021年01月04日

Posted by ブクログ

わからない、というのが正直な感想だ。
相模原の事件とは一体何だったのか。結局、犯人はどんな人物で何が狙いだったのか。
本書はその異常性だけを語るものではない。異常な事件が起きた、ではそれを繰り返させないためにはどうするのか? を徹底的に語っている。
それを知り、分析し、ではどうすればいいのか、それをメディアや政治家たちが取り上げるべきだ。だが、彼らはそうしない。読み応えのある作品である。

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2024年01月18日

購入済み

実名報道についての是非について

せっかく記者との対談もあるのだし
実名報道の是非についても話してほしかった
死んだらプライバシー保護の対象ではなくなるから
死者は実名報道されると言うのは知っているが
遺族のプライバシーはどうなるのか(天涯孤独と言うのもあるだろうが)
身内を殺された事を公表されるというのは遺族のプライバシー侵害に当たるのではと思った
記者らもうすうすそう思っているから今回の事件被害者の姓名公表は一部除いて控えていたのでは?

また実名報道は、誰が被害に遭ったのかという事実核心で。被害に遭った人がわからない匿名社会では、被害者側から事件の教訓を得たり、後世の人が検証したりすることもできなくなる
から実名報道は必要だという主張があることも知っているが
実名しないから教訓を得られないとか検証できなくなると言う論理がわからないし
世の中に伝わらないわけでもないだろうと思う

実名報道の必要性を感じない自分からしたら
実名控えた(了承えている遺族のぞく)今回の事件で実名報道に意味はあるのかどうか
討論してもらいたかった

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2024年05月19日

Posted by ブクログ

社会から逸脱した存在。どうしても、そう思えない気持ち悪さがあった。社会からはみ出した部分じゃないからこそ、共感する人がいた。批判する人がいた。蓋をしてしまう人がいた。

グレーゾーン。それは社会の外部ではなくて、内部のもの。社会が作り出した二元論の狭間から、生まれ出てきたもの。だから、どこか自分の中に既視感がある。グレーゾーンで社会の欠片を拾い集めた彼は、AIみたいだな、と思った。決して他人事ではない。彼を作り出した社会の欠片であるという自覚を。

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2021年05月18日

Posted by ブクログ

識者達とのインタビューを通して事件を紐解く・・否、紐解かない。どころか、あえてもつれさせる。「責任能力なし」に納得いかなくてもそれが法の趣旨。加害者に「お前が悪いんだ」と制裁を加え、溜飲を下げるために刑罰があるのではない。寛容を求めるわけではない。起きてしまった過ちをまた起こさないためには?裁判は手続きというアリバイのためにあるのではない。書くことは誰かを助けるが誰かを傷付ける。その覚悟を持つ人だけがやる。「わかり易さ」に甘んじてはいけない。「わからない」もどかしさがなければ、「わかる」ことさえできない。

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2021年04月16日

Posted by ブクログ

死刑制度、陪審員裁判、メディアのあり方、障害者差別、トランプ安倍首相に代表される過剰な権威主義への傾倒、国民倫理のあり方・・・・一通り網羅されてはいるもののやはり重点が置かれるのは精神鑑定を軸とした司法の問題だ。
だがいくらその異常性を網羅されても、つまり正常な精神状態ではなかったとされても、結局本人の内面性は不可知領域である以上論点にすべきではない。何も前に進まなくなるのだ。
実は本書に抜け落ちている視点が被害者遺族のものだ。遺族は何よりも死刑判決に対して抗うべきではなかったか。名前や写真の公表を控えるのは心情的には理解ができるが、異なるものを排除するという点において死刑制度はまったく植松の心情と合致しているものだからだ。
これに異を唱えなかった遺族にこそ障害者の差別意識と愛情の欠落が見えてとても悲しい。

本作が発行された直後、1月6日にアメリカの議事堂の襲撃が起こった。表面的な事件も国も社会のとらわれ方も違うが、構造は明らかに相似している。
もちろんそれが全ての原因であるとは言えないが、その論考を是非共有したい。

すなわちトランプや安倍政権の権威主義やその権威をまさしく笠に着て盛り上がるネットにおける右派的論考がなかったとして果たしてこの植松の事件は起こったのだろうか。
2016年という右派論壇真っ盛りの時期といい、あまりにもわかりやすいこの想像に警戒しなくてはならないが、植松本人の幼児性を考えるとありえない話ではないように思う。恐ろしいことに。

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2021年02月22日

Posted by ブクログ

日本の司法制度、メディア、社会のあり方について考察したもの。相模原の津久井やまゆり園事件を通して丁寧に考察を重ねていく。裁判員裁判制度のためか、あれほどの大事件がおよそ1ヶ月で結審し、結果としてなぜこのような事態が生じたのかは何も明らかにされなかった。「裁判で事実を明らかにする」ってのはもう期待できない。
一方で報道する側のメディアについても、メディアは社会によって規定されるものであり「メディアやマスコミがゴミ」というなら社会がゴミであるというのと同義だという。そしてゴミが選挙で政治家を選んでいるのが、今の日本なんだとする著者の言は、著者がメディア側の人間であることを差し引いても、ちょっと怖い一言だなぁ。

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2021年02月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

善と悪の二元論。その間にあるグレーゾーンから目を反らすな。世界はもっと複雑で優しい。そんな森さんの通底するテーマを、相模原の植松聖による障害者襲撃事件を題材に語る一冊。昨今の裁判は、陪審員制度が始まってから極端に描ける時間が短くなっており、極刑を前提に精神鑑定による責任能力の有無のみに終始する。刑の軽重の問題でなく、純粋に事実があいまいなまま終わらせてしまうことへの警鐘を鳴らしている。障害者施設自体に何らかの問題はなかったか。もちろん責任の所在を問う目的ではないので、そこは大きく触れられずあえて問いかけのみに終わらせている。だからこそ、疑い悩むべきはぼくら。早々に結論をくだし、逡巡しない現代社会に冷水を浴びせる一冊でした!

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2021年01月04日

Posted by ブクログ

「生産性」が重視されるこの現代社会で、私たち一人一人の中にも、少なからず「U」がいるのかもしれない。もちろん、あそこまで極端ではないにしろ。だからこそ、この事件や、オウム事件の真相は、私たちのためにも解明されなければならなかったのだ。

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2023年03月05日

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