島田雅彦のレビュー一覧
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ネタバレ読み始めて最初は、なんだー、明治維新のころから、現在までを、もしその間ずっと生きて、時代の変化を目の当たりにした人がいたとしたら、どう見えていたか、という感じで歴史を書いただけかな?と思ったけど、違った!150年以上生きて、時代の変化をつぶさに見続けた老人(老人の域を超えてるけど!)が、もうなんというか、悟りの境地に達して、日本の近現代史を庶民の目線で語る。それを、たまたま出会った看護師の女性(ソメイヨシノさん)に語る、という設定で物語が進む。主に老人の語り、ときどきヨシノさんとの対話が挟まるのだけど、それがまた、面白い。
老人(何度も名前を変えているのだけど、最初の名前は鱗太郎さん)は、明治維新の前に生まれたので、まだ侍が刀をさして歩いていた頃のことを覚えている。生まれた時から異常に成長が遅く、成人しても少年にしか見えなかった。人よりずっとゆっくりとしか年をとらないらしい。日清・日露戦争も、大東亜戦争も経験し、しぶとく生きぬいた。人よりずっとゆっくりとしか年をとらないため、それらの出来事を、俯瞰的に捉え、分析し、正しく生きようと努力する。しかしあくまで、無力な庶民なので、生きるためにあきらめることもあれば、ずるいこともする。その辺が絶妙で、正義感溢れる英雄の物語でもなければ、無力な庶民の物語でもなく、あくまで庶民目線だけれど、特別な人生を歩んだ頼もしい物語になっていて、面白い。普通の庶民なので、女郎屋に通ったりして、性風俗も描写されていて面白い。幾人かの女性とのやりとりも生き生きと描かれている。
太平洋戦争で、従軍記者として大陸にいく羽目になり、九死に一生を得た時に現地のシャーマン的な人から”精霊”を移される場面が私にはとても面白く感じました!
その人物も150歳とか、とにかく長生きしているわけだが、後釜を見つけた!てな感じで、鱗太郎氏に精霊を譲って、自分は息を引き取る。もちろんその時点では、鱗太郎氏は「そんなバカな」と信じておらず、自分が本当にそんなに長生きすることになるとは思わない。しかしなかなか老けず、娘からも「その顔でパパとか呼ばせないで」と言われてしまう。妻や娘、孫が普通に年をとっていくのに、自分は若いままで、どうなっていくの?というのも、ドキドキして読み応えがあります。もちろん悲しい別れを経験しなくてはいけないわけで、泣けます。でも、ながく、ながーく生き続けることで、そういう哀しみも、少しずつ超越していくような感じ。
そんなあれこれを、ヨシノさん相手に語り、語り終えたとき、どんな矜持を語るのかと思いきや、おっぱい触らせてくれ、とかいうのがとっても面白いです。ヨシノさんの手を握り、精霊を移した、とか言うのですが、え!?本当に!?と思ってまたドキドキ。果たして精霊が本当にヨシノさんに移ったかどうかは最後にわかるのですが、とにかく面白い展開でした。
最近、近現代史を見直すような動きもあるし、そういう著作も多く、私もいろいろ読みましたが、これはまた新しい角度で明治維新から日清・日露戦争、二度の大戦やアメリカとの関係を描き、日本がいかに劇的に変化してきたのか、いや変化していないのかを考察していて、興味深く、勉強にもなりました。
装丁や、途中の挿絵も素敵です。 -
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『幸せとは、自分の生に対する肯定である。」/西研
哲学の章 ヘーゲル『精神現象学』の章を読めただけでも大満足。
これほどヘーゲルの哲学を分かりやすく噛み砕いて説明するのがすごい。
西研さんはニーチェの本もよかったけど、今回はさらに良かった。
今の時代、ニーチェの哲学は受け入れやすいし、ちょっとしたブームになることもあった。
だけど、あと何十年かしたら次はヘーゲルの哲学が脚光を浴びそう。
より多くの人がなるほどこれは確かに価値があるという感じられる「事そのもの」
それを目指そうとする「良心」
大事なことはここに詰まってると思うのでまた読み直そう。 -
購入済み
面白かった
一気に読んだ。
長生きし過ぎたおじいさんの一人語りというスタイルは決して真新しいアイデアでは無いが、時世時節に変化していく宮川の生き様は痛快であり、自分も心の片隅で長生きしたいと想っているので共感したり、その逞しさに憧れたりする作品だった。
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島田雅彦氏の独特なものの見方、表現が満載の書だった。『源氏物語』に始まり、漱石、太宰、谷崎や一葉らの作品を、著者独自の視点で「深読み」し、我々が読むのとはおそらく異なる解釈を見せてくれる。果ては、解釈の域を超え、これらの作品を俎上に載せながら、社会論のようなフィールドにまで話が及ぶ。
各章の名前も面白いが、それはそのままその章のテーマであり、その中で思いも寄らない作品が取り上げられたりしながらも決して話の一貫性が破綻するようなことはなく、実に面白おかしい、それていて深い島田氏の解釈が読める。以前、別の新書で氏による日本社会論を読み、そのときも独自の解釈にうなったものだったが、今回の話もまたおおいにうならされつつ、時にクスリと笑わせてもくれる。
主軸はあくまでも文学論だが、展開されるテーマは多岐にわたる。それらの複数のテーマを、島田氏は行ったり来たりしつつ、あるいは絶妙に絡ませつつ、様々な文学論が繰り広げられる、といった趣である。
あらためて島田雅彦という人物を好きになった。面白く読み進めていくうちに、いつしか自分の中に一つ芯ができあがったような気がする。 -
Posted by ブクログ
世代が近い作家の書く日本文学史であり、その上の世代が書く物と共通するものもあるが味付けは違い、自分自身としては共感しやすかった。文学は、その書き手が生きている政治、経済状況、また世代によって、異なるものであることを基本に著述されている。古典であればあるほど、本来の日本人らしさが如実に現れるところもあるが、それすら、その時代の政治状況が反映されている部分がある。源氏物語もしかりである。最後に多様性があるから、文学は成り立つものであり、多様性がなくなることは文学の危機状況になる。本書を通じて著者の現代の政治状況に対する危機意識が通底して述べられでいた。
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Posted by ブクログ
名所旧跡というものがある。人の口に上るので、自分では特に行ってみたいと思っていなくても、一度くらいは行っておいたほうがよいのではと思ってしまう、そんなようなところだ。古典というのもそれに似たところがあるのかもしれない。学校の歴史の授業で名前だけは聞いていても、『雨月物語』はともかく、色恋や女郎買いを主題とした『好色一代男』や『春色梅児誉美』などは、文章の一部すら目にしたことがない。ましてや山東京伝の名前は知っていても廓通いのガイドブックである『通言総籬』などは作品名さえ教科書や参考書には出てこない。しかし、出てこないから、大事ではないということではない。
「色好み」というのは、日本の文化・伝統というものを考えたとき、まず最初に指を折るべきところ。何しろ『古事記』の国生みからして、その話から始まるのだし、世界に名立たる『源氏物語』は全篇「色好み」の主題で貫かれている。というわけで、十七世紀から十九世紀にかけての日本文学を代表する作品として選ばれているのは、浮世草子、読本、洒落本、人情本というまあ、今でいうエンターテインメントばっかし。面白くないはずがない。そうはいっても、怖いもの見たさで現代語訳を読んでみた『雨月物語』を別として、あとの三作は原文はおろか訳文すら目を通したことがない、という体たらく。
それもそうだ。『平家物語』の書き出しのように人口に膾炙しているわけでなし、『源氏物語』のように、何度も映画化されていて、原作を読まずともある程度のストーリーに通じているといったキャッチーなところが少ないのだから。まあ、世之介という主人公はけっこう有名で市川雷蔵主演の映画でそのキャラクターも知ってはいたが。『源氏物語』五十四帖をパロディにした、こんな愉快な物語だったとは、現代語訳を読むまではとんと知らなかった。
これは、江戸時代前期の日本各地を舞台にした一種のピカレスクロマンではないか。女だけではなく若衆、つまり男も相手にした好きものの男の一代記。日本が諸外国と比べ、性に対してあけすけなのは知っていたが、これほどまでとは知らなんだ。ところかまわず、相手かまわずことに及び、子どもが生まれたら捨て子にし、どれほど一生懸命に口説いた相手でも、時がたてば別の場所、別の女にいれあげる。この世之介という男、とんでもない男である。その一方で、女にまことを尽くし、どこまでも連れ添おうとする律儀なところもある。価値観というものがそんじょそこらの男とはちがっているのだ。
長い戦国時代が終わり、徳川の世になったことで天下泰平の時代の空気のようなものがそうさせるのか、「金もいらなきゃ名誉もいらぬ、わたしゃも少し背が欲しい」というギャグがあったが、世之介が欲するのはただただ色事に尽きる。歌枕を訪ねるように女を求め日本各地を漂泊する前半も読ませるが、親の遺産を蕩尽しようとして果たせぬ後半のアナーキーさがニヒリズムさえ漂わせ凄みをみせるのが、「好色丸」と名付けた船で女護ヶ島目指して旅に出る最後の場面だろう。バイトやヘルプという俗語も自然になじむ島田雅彦の現代語訳は読みやすい。各巻七章で八巻のみ五章の構成。短い章立てがテンポよく、飽きさせない。
中国白話小説を翻案し、日本を舞台にした怪談集の体裁をとる『雨月物語』は、円城塔訳。儒仏道の薀蓄を散りばめた上田秋成の原文を格調を失わない現代文によく移し変えている。「白峰」にはじまる怪異を描いて鬼気迫る迫力を見せるが、軟文学でないという点で他の三作に比べると異色。
いとうせいこう訳による『通言総籬』は訳者も言うように田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を髣髴させる当世カタログ風の出来。通人が当時流行っていた遊郭にあがって太夫を呼んで騒ぐ午後から夜明けまでの一部始終を、当時最先端の風俗をこれでもか、というように次々と繰り出してみせる、山東京伝の才気走った一篇。見開きページの右に本編、左に脚注を配した「なんクリ」ならぬ「ツーまが」。いちいち脚注に当たるのは面倒という向きは、本編だけでも読める程度に噛み砕いてくれているので安心。しかし、脚注で事細かに語られている当時の風俗、流行が何より興味深い。ちらちらと目をさまよわせて読むのも一興。
島本理生訳の為永春水は、かなり原作を改変しているようだ。といっても話の内容をではない。語りを、三人称ではなく主要な登場人物の一人称の語りにした点である。そうすることで、視点人物の感情が読者と共有され、まだるっこしいような男女間の情愛や、女同士の義理立て、意地の張り合いが、一気に分かりやすくなった。人情本本来の情調とは若干異なるのかもしれないが、時代小説のノリで読めるのはありがたい。多分、原文だったら最後まで読み通す気にならなかったと思う。
読まないでいてもいっこうに困らない、という点で名所旧跡にも似た四篇だが、まあ、一度読んでみても損はない。それどころか、日本文化が本来持っていた軟らかさ、なまめかしさ、艶っぽさ、仇、粋、といったあれこれが目の前に立ち現れてくるのがなんとも心地よい。極上の酒を、気の利いた肴をあてに口にしているようで、いやあ極楽、極楽。武張った今の世の中が、いかに日本を忘れてしまっているかを思い出させてくれる警世の書というべきか。