「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
この一文の本質について語る前にまずは前提として、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすること、すなわち自己意識の確立とそれへの「他者」の関わりについて、ヘーゲルの「哲学史講義」を引用することで明らかにしていこう。
その真髄は、「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」という一文に現れている。
これの説明は少々面倒なのだが、かいつまんで言えば、人間の自己意識の確立は精神の「発展」によってなされる。そして、「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これを例えると、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したということである。加えて、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるということができる。つまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。発展し、変化しつつも最後には同一のもの(ただし、別の個体)に戻る。
しかし、これを精神に置き換えた時、つまり精神の「発展」については、植物のそれとは根本的に異なる事態が生じる。
というも、精神の発展においては潜在状態の私と、顕在状態の私とが、植物で言う胚珠とそこから生まれた胚珠とは異なり、全く同一のもの(同一個体)でありつづけるのである。これはある意味当然のことで、自己意識なき獣的な田中くんに、自己意識が芽生えたからといってそれで田中くんが山下くんに変身するわけではない。田中くんはあくまで田中くんなのである。
そして、ヘーゲルはここに自己意識確立の鍵があるとした。つまり、人間精神は、顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むのである。
ヘーゲルは「精神現象学」においてはこのことを「無限性」として表現している。何が無限なのかというと、様々な形で他者と関わり、影響されつつも「無限」に自己へと戻ってくることができるからである。かなり抽象的な概念だが、ヘーゲルはこの論を生物全般が、様々に区別されつつも(哺乳類と魚類とか)根源的に「生物」としての統一を保っていることにも適用している。
つまり、自己が他者と関わりつつも自己を保つという概念はより普遍的な「無限性」の一つの例であるというのが正しい見方だろう。
さて、長々と人間精神の特異性、自己意識確立への道筋について語ってきたが話はまだ終わらない。まだ例の一文に辿り着く前に話すべきことがある。
というのも、ヘーゲルは「自己意識」について、自己の個別性を意識している状態、にとどまらない「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようする独自の欲望であると述べている。これはつまり、自己意識はそもそも欲望であり、だから我々はその確立を目指し、そして他者との関わりも、この欲望の正体が、他者による自己の承認の欲望、つまり、「承認欲求」を指していることに端を発するということを示している。
この現代人を悩ませる厄介な欲望について、ヘーゲルが17世紀に最初に言及したのだとしたら、その偉大性たるや凄まじいという他ないだろうが、とにかく今重要なのは自己意識が「欲望」であり、「承認欲求」であり、そしてそれは相互の承認をかけた戦いを招くということである。そしてようやく、例の一文につながる。
「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
最初、自己意識確立の話は、他者と関わりながらも地道に頑張る己?といったどこか牧歌的な雰囲気を漂わせていたが、その実が果てなき欲望の賜物であると分かった途端に、見方は他者との熾烈な争いに一変する。そこで一度は自己を「喪失」しながらも再度「本気」で「自己自身」たる必要が生じる。この、一度は自己を喪失しながら、再度の自己意識の確立の必要性が生じるというのは、一度は自由を喪失しながら、再度の自由の確保=成熟の議論を少なからず想起させることについては言うまでもないだろう。