【感想・ネタバレ】超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』のレビュー

あらすじ

予備知識なしに、重要哲学書がわかる「超解読」シリーズ第1弾!
「小説みたいにおもしろい」。メルロ=ポンティがこう語ったという、『精神現象学』。自然、自己、他者、共同体、神などに関するさまざまな人類の経験を経ながら、主人公である「意識」はいかに成長していくのか。近代社会に生きる人間の「欲望」の本質は何か。ヨーロッパ哲学史上、最も重要にして最も難解なヘーゲルの主著を、おなじみのコンビがわかりやすく読み砕く。


【著者紹介】
竹田青嗣(たけだ せいじ)
1947年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。明治学院大学国際学部教授を経て、現在、早稲田大学国際教養学部教授。哲学者、文芸評論家。著書に、『現象学入門』(NHKブックス)、『人間の未来』(ちくま新書)、『ハイデガー入門』『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』(共著)『完全解読カント『純粋理性批判』』(いずれも講談社選書メチエ)などがある。

西 研(にし けん)
1957年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。和光大学現代人間学部教授を経て、現在、東京医科大学教授。哲学者。著書に、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ともにちくま学芸文庫)、『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学のモノサシ』(NHK出版)、『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』(共著、講談社選書メチエ)などがある。


【目次】
まえがき――自由のゆくえ
緒論
第一章 意識
第二章 自己意識
第三章 理性
第四章 精神
第五章 宗教
第六章 絶対知
おわりに

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Posted by ブクログ

「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
この一文の本質について語る前にまずは前提として、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすること、すなわち自己意識の確立とそれへの「他者」の関わりについて、ヘーゲルの「哲学史講義」を引用することで明らかにしていこう。
その真髄は、「他者を自覚するものは他者と同一の存在であり、だからこそはじめて、精神は他者のうちにあっても自己を失うことがない。」という一文に現れている。
これの説明は少々面倒なのだが、かいつまんで言えば、人間の自己意識の確立は精神の「発展」によってなされる。そして、「発展」の定義は、そのものが目に見えない潜在状態から、目に見える顕在状態へと変化することである。これを例えると、潜在状態の胚珠から芽が出て花が咲くというとき、芽や花が顕在化したということである。加えて、発展するとき、そのものは潜在状態から顕在状態になりつつも同一のままにとどまり続けるということができる。つまり、胚珠から出た芽が花になって、そこについた果実からはまたしても胚珠が生まれるということである。発展し、変化しつつも最後には同一のもの(ただし、別の個体)に戻る。
しかし、これを精神に置き換えた時、つまり精神の「発展」については、植物のそれとは根本的に異なる事態が生じる。
というも、精神の発展においては潜在状態の私と、顕在状態の私とが、植物で言う胚珠とそこから生まれた胚珠とは異なり、全く同一のもの(同一個体)でありつづけるのである。これはある意味当然のことで、自己意識なき獣的な田中くんに、自己意識が芽生えたからといってそれで田中くんが山下くんに変身するわけではない。田中くんはあくまで田中くんなのである。
そして、ヘーゲルはここに自己意識確立の鍵があるとした。つまり、人間精神は、顕在化(他者化)して潜在状態(自己)ではなくなるものの、しかし、それでも両者が同一の存在(同一個体)であり続けることによって、つまり他者がいることに気がつく(自覚する)ことで、自己が自己という存在であることを知ることができ、なおかつ、自己を失わずに済むのである。
ヘーゲルは「精神現象学」においてはこのことを「無限性」として表現している。何が無限なのかというと、様々な形で他者と関わり、影響されつつも「無限」に自己へと戻ってくることができるからである。かなり抽象的な概念だが、ヘーゲルはこの論を生物全般が、様々に区別されつつも(哺乳類と魚類とか)根源的に「生物」としての統一を保っていることにも適用している。

つまり、自己が他者と関わりつつも自己を保つという概念はより普遍的な「無限性」の一つの例であるというのが正しい見方だろう。
さて、長々と人間精神の特異性、自己意識確立への道筋について語ってきたが話はまだ終わらない。まだ例の一文に辿り着く前に話すべきことがある。
というのも、ヘーゲルは「自己意識」について、自己の個別性を意識している状態、にとどまらない「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようする独自の欲望であると述べている。これはつまり、自己意識はそもそも欲望であり、だから我々はその確立を目指し、そして他者との関わりも、この欲望の正体が、他者による自己の承認の欲望、つまり、「承認欲求」を指していることに端を発するということを示している。
この現代人を悩ませる厄介な欲望について、ヘーゲルが17世紀に最初に言及したのだとしたら、その偉大性たるや凄まじいという他ないだろうが、とにかく今重要なのは自己意識が「欲望」であり、「承認欲求」であり、そしてそれは相互の承認をかけた戦いを招くということである。そしてようやく、例の一文につながる。
「自己意識」は、他者の関係のなかでは、自分が相手から対象化されていること、またつねに相手が気になることで、言うなればつねに一種の「自己喪失」の状態にある。そこで、自己意識が本気で「自己自身」たろうとすれば、「相手の存在を否定することで自己の自立性・主体性を守る」という態度をとることになる。
最初、自己意識確立の話は、他者と関わりながらも地道に頑張る己?といったどこか牧歌的な雰囲気を漂わせていたが、その実が果てなき欲望の賜物であると分かった途端に、見方は他者との熾烈な争いに一変する。そこで一度は自己を「喪失」しながらも再度「本気」で「自己自身」たる必要が生じる。この、一度は自己を喪失しながら、再度の自己意識の確立の必要性が生じるというのは、一度は自由を喪失しながら、再度の自由の確保=成熟の議論を少なからず想起させることについては言うまでもないだろう。

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2025年04月13日

Posted by ブクログ

4ヶ月ほどかけて丁寧に読ませて頂きました。
原典を読んでも何一つ理解できなかったと思いますが、そんな『精神現象学』を少しでも分かった気にさせてくれる本著は本当にありがたいです。
人間の「意識」はどのように成長して、「絶対知」を得ることができるのか。人間はどのようにして「自由」な社会を実現できるのか。
まさにこの現代に必要な理解が『精神現象学』で語られていると感じました。

本著をきっかけに、別の入門書や解説書にも挑戦してみたいと思います。(「もう無理だ…」と心折れずに最後まで読めた本著はやっぱりすごい。)

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2024年03月03日

Posted by ブクログ

NHKの100分で名著で扱っていたのを見てとても興味を持って、まずは解説本としてこの本を買って読んでみた。世界3大難書の一つというだけあり解説本でも理解が難しい部分はあるが、内容はとても面白く、現代や自分の仕事の上でも生かせる考えが多く、ヘーゲルや精神現象学という本に出会えて良かったと思えた。哲学書なのにまるで物語のように主人公が失敗を繰り返しながら成長して最終的な真理に辿り着くという構成も面白い。最終的に行き着いた考えは自分にとっても共感でき生かせるものだった。私のバイブルになった。いつか原書も挑戦してみたい。

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2023年09月16日

Posted by ブクログ

『精神現象学』をこれほどわかりやすく解説した本はないと思う。しかし、それだけ著者の解釈が入り込んでいるわけで、本当にこの本を理解したといえるかどうかはまた別問題である。やはり原書に当たるほかない。

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2020年10月29日

Posted by ブクログ

ヘーゲル哲学の入門書。ヘーゲルを読むのに何から始めて良いか分からず、竹田青嗣さんの本はこれまでにも読んでいたのでこれにしましたが、とても分かりやすかったです。これから訳書を読むに当たり、とても心強い入門書です。

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2016年10月22日

Posted by ブクログ

精神が感覚的確信から始まり絶対知に行きつくまでの物語。
意識の経験という弁証法的運動に興味をそそられた。

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2010年07月07日

Posted by ブクログ

要再読。意識について。
共同体から切り離された個人は、他者や社会との関係をどうやって結び直せばよいのか。
絶えず自らの(全知ではない)良心の声を聞く。
「行動する良心」と「批評する良心」との相克と和解。

【諸論】
・「知」と「真」の往復
・「主観ー客観」から「意識<主観ー客観>」

【第1章 意識
・狭義の意識(対象意識)、自己意識、理性
・感覚的確信、知覚、悟性(理性)

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2025年08月30日

Posted by ブクログ

竹田青嗣と西研の二人が、ヘーゲルの『精神現象学』の内容をわかりやすくパラフレーズしている解説書です。

『精神現象学』の入門書としては、加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社学術文庫)が有名で、わたくしも以前読んだことがありますが、多くの執筆者が参加しているために全体像が少し見えづらいような印象がありました。本書は、竹田と西の二人が分担執筆していますが、両者は思想的に非常に近い立場に立っており、ほとんど二人のあいだの齟齬を感じることなく、『精神現象学』の全体像がクリアに描きだしています。

西は『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)で、竹田は『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)や『哲学は資本主義を変えられるか―ヘーゲル哲学再考』(角川文庫)で、それぞれの関心にもとづいたヘーゲル解釈をおこなっており、本書にも若干そうした両者の立場からの解釈が見受けられるようにも感じますが、おおむね『精神現象学』そのものの叙述にそった解説になっています。生命主義的な観点を強く打ち出している長谷川宏の『ヘーゲル『精神現象学』入門』(講談社選書メチエ)よりはニュートラルな解説だと感じました。

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2018年03月08日

Posted by ブクログ

難解で知られる『精神現象学』の筋書きを “表象として” おおまかに把握するのに役立った。

ヘーゲルが問うたのは、個人と社会、公と私、理想と現実……これらの対立をどうするかということであった。今なお問われ続けている普遍的なイシューである。

カント倫理学を手厳しく批判した第4章が特に読みごたえがあった。

“しかし実際には、ここ〔カントの思想〕にあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が “存在してほしい” という単なる欲求なのである”(p203)

“両者〔感性と理性〕の一致あるいは統一と言っても、その内実は、あくまで「感性」が「道徳」に従い、寄り添うことが求められているのだ”(p204)

“つまるところ、カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、(……)ただそういう〔不道徳な〕人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか”(p214)

カントの絶対的・普遍的な「道徳」に対して、ヘーゲルは相対的・個別的な「良心」という概念をアンチテーゼとして示す。

“正しさについての「理想」をもち、したがって何が「正しい」かは明らかであり、自分のみならず他人もそれにしたがうべきだ、と暗黙のうちに考えている人は「道徳の人」である。これに対して、「良心の人」は、世の中の現実はさまざまな事情が複雑にからみあっているので、「何がほんとうに正しいことか」についての絶対的な「知」は存在しえない、ということを自覚している。「社会についての全知はありえないが、それでも自分は自分の信念に則って正しいことを行いたい」と考えるのが「良心の人」なのだ”(p226)

“「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。つまり自分の「感性」においている”(p227)

思うに、根源的な理論としてはカントが正しいのだろうけど、現実的な実践としてはヘーゲルが正しいのかと。カント倫理学に共感を寄せる者として、カントのアンチテーゼの代表格であるヘーゲルは、是非とも理解しておきたいのだけど、まだまだ理解が不十分と感じる。別の解説書にも当たってみようと思う。

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2015年07月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

古書。初ヘーゲルだが、これをそれに含めてしまってよいものかどうか疑問も残る。巡り合わせというのは書物と関わっていく上では意外に重要で、以前読んだハイデッガーの入門書同様、ヘーゲルとの巡り合わせも相当悪い部類に入るようだ。精神の遍歴を逐一記述していくという体裁(多分)の『精神現象学』を平易に読み解くという荒行に挑んだのが本書。懐疑主義、啓蒙に関する部分は大いに唸らされたが、後半(特に終盤の「宗教」辺り)は余りに一面的過ぎるし粗が目立つ。カントを乗り越えようという必死さは十二分に伝わったけど!

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2015年05月16日

Posted by ブクログ

ようやく、『精神現象学』のあらましが分かりました。人類の「精神」の成長の歴史を俯瞰し、人類思想史の流れを追う、というような壮大なプロットを(猛烈に難解な言葉で。。)語っている、ということのようです。ようやく『精神現象学』が読み進められそうだ。。

気に入ったのは「行動する良心」。ちょっと引用。
「「良心の人」は、生活のなかのさまざまな場面で、そのつどどういう態度や行為を取るのがもっとも「良心的」だろうか、と考える。彼は、もはや宗教的権威も、習俗のルールの権威も善の基準足りえないことをよく知っている。・・・しかし、にもかかわらず、結局正しいことの基準などないのだとは考えず、いかに判断し、行動するかについて、必ず「自分のほんとう」があるはずだと考えるのだ。「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。」

うん。これはいい。カントの道徳哲学がいかに批判されるべきものか、ということも良く分かりました。(ちなみに、長らくカントを読めなかった理由は、カントの伝記的紹介文で必ずと言っていいほど引かれる、彼の格率の言葉にどうしてもうさんくささを感じたからだと思う。カントは(彼の意には反しているとは思いますが)やっぱり道徳哲学(実践理性批判)ではなく、純粋理性批判が一番大事な仕事だと思う。)

ところで、この「もろもろの衝動と傾向」で「よきこと」を自分の「よろこび」のために行う人、と読めば、おぉ、これはまさしくスピノザの倫理ではないんでしょうか。スピノザの理神論、実体の概念は、もはやナイーブには信じられないにせよ(もちろん、これは形而上学なので、それを「信じる」ということは、誰しもに留保されている、とは言え)彼の「善悪の彼岸」にある「よろこびの倫理」は、今日的な意味があると思うんです。というより、有体に行って、好きなんですねー。

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2011年09月03日

Posted by ブクログ

これは、意識が絶対知に至るまでの物語。
人類の歴史が、個人の精神的成長過程に重なって見える。
だからだろうか、私には成長記録あるいは観察日記に近い印象を受けた。
意識が辿る道を追体験できる感覚が面白い。
ただ、「どうすべきか」という問いへの「応え」を示してくれているようには感じなかった。

以下、印象に残った文章を抜粋

人間の欲望の本質は、「自己価値欲望」という点にある。したがって、「自己の欲望」はまた、本質的に他社による「承認の欲望」を含む。さらに、人間は社会生活を営んでいるため、どんなことであれ、「他社の承認」なしに実現する欲望は存在しない。このため、人間社会は、まずは「承認をめぐる闘争」のゲームとなる。
・・・291頁より

カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、不道徳な人間が幸福になるのは「不正」である、という理由からではなく、ただそういう人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか。
・・・214頁より

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2011年08月13日

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