苅谷剛彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1番の発見は
「実体論ではなく関係性論で見る」という視点
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常識,ステレオタイプ,パターン,レッテル,絶対的価値観,神話,善悪二元論,正解がある
→単眼思考
非常識,クリエイティブ,相対的価値観,非二元論,正解はないが問いはある
→複眼思考
・複雑な問いを一面的にとらえず多面的にみる
・問いの対象そのものを見るのではなく、対象を取り巻く人・モノの関係性を見る(実体論ではなく関係性論で分析する)
例: 紙幣はそれ自体が価値を持たないが人々の経済上のやり取りに欠かせないものであるから価値がある
「やる気」は個人だけでなくその個人を取り巻く人やモノといった環境によってかわる。
→「万物に"やる気がない人"は存在しない」
「知らないから,わからない」「勉強不足だからわからない」
→正解がある,勉強すればわかるという答えに飛びつきたい気持ちの表れ.
”考えるプロセスを経ていなくても,答えされ見つけられればそれでいい.このような習性が身についてしまうと,今度は答えがなかなか見つからない類の問題に出会った場合に途中で息切れして,ステレオタイプの発想に囚われてしまいます”
「視座の高さ」
読書の仕方
・著者とは対等の立場にあるものとして読む.相手も人間.
・ゆえに書かれたものを不動の完成品と思わない.
・その所作として「簡単に信用しない」「著者の狙いをつかむ」「論理を丹念に追う」「前提を探り,疑う」
問いの立て方、展開の仕方
実態を問う問い、因果を問う問い
〇〇はどうなっているのか。
どうすれば〇〇するか。
→なぜ〇〇か?という言い換えをすることが、考えることにつながる。
→y =f(x)のfを突き止めること
擬似相関(偽f)に注意。どう見破るか。
→yを固定すると必ずxが必要
→xを固定すると必ずyが導出される
がどうか
→他のパラメータ(z)を変えてもx→yか?
実はzがyを左右するパラメータでは?
fに対する検証を横着し、印象だけで方程式の成立を判断してしまうこと=ステレオタイプ
抽象的すぎる→すすまない
具体的すぎる→特殊事情にとらわれ、思考が前に進まない -
Posted by ブクログ
単行本が1996年刊行となっていますので、四半世紀以上前に書かれていたことになりますが、現在でも十分通用する内容だと思います。固定観念や、「わかりやすさ」のための安易な要約が広がる状況は、時代を問わず問題となるということでしょうね。
「答案の端に、教師が書いたとおぼしきA~Dの文字…受け取った生徒は、Aだと喜び、Dだと落ち込む?Aが優秀で、Dが劣っていると誰も言っていないのに?」常識にとらわれた単眼思考を行っていては、いつまで経っても「自分の頭で考える」ことはできない。自分自身の視点からものごとを多角的に捉えて考え抜く-それが知的複眼思考法だ。
聞き飽きてもなお言われ続ける「近頃の若者は…」とか「偏差値教育が問題だ…」といった言説。これらの何が問題かといえば、雑な思考でいつも決まった結論を出すために、思考が固定化し、自分の頭で考え、多角的な視点から思考・議論することができないことでしょう。ステレオタイプを正しい意見だと信じて疑わない人…何を言っても主張を変えることはなく、議論になりません。嫌ですが、自分もその落とし穴に陥っているのではないか?という観点から振り返ることが、紋切り型の思考から脱却する一歩になりそうです。
内容を鵜呑みにしない批判的な読書をし、様々な視点に立って文章を書いてみる。大きな問いを小さな問いへと分解し、概念化・一般化を用いて思考を展開させる。また、実体論だけでなく関係論的な観点からものごとの多面性に注目する。逆説を捉え、「意図せざる結果」の因果関係を把握する。「問いの立て方」をメタの視点から問う。こういった方法によって、複眼思考を身につけることができると説かれています…。凝り固まったものの見方に漬かっている身としては、耳の痛い話のオンパレードでした。さて、まずは反省しなきゃ。 -
Posted by ブクログ
コロナ禍での現代版鎖国。
自粛によるコロナ生活。筆者の日本でのコロナ対策の隔離生活が詳細にわかったのは興味深いと感じました。
海外留学生の再入国を認めないなど、海外との違いは初めて知りました。
自粛というと自ら進んで行動する様に思えるけど、同調圧力によるものというのは、自らの思考を止めてしまうことになる。
長い歴史の中で、権利は自ら得たものでなく、上から与えられたものという印象が大きいのは、明治維新然り、戦前また、戦後の体制が、実は今も続いているのではと思わずにはいられません。反抗心はあっても、上が決めたことに従順な気がします。
同調圧力に弱い日本人かもしれませんが、欧米諸国の様に、国民が分断される姿もまた、悲しいので、何が正解なのか。これもまたアンビバレンスでしょうか。 -
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いつもながら読み込むのはちょっと難しいんだけど、はっきり分かったのは、コロナ後の教育は、もともと変革の流れができていたけどそれを後押しするように、変わるということだ。そしてそれはピンチだけどチャンスでもある。教育政策が突きつけてきているエセ演繹的な、理想を掲げて装飾した改革を受け取るのではなく、自ら帰納的に思考することが必要だ。
私のこれまでの関心としては、大学のあり方についての章が大変勉強になった。私が大学入学後からモヤモヤしながら追究してきたことは、日本型大学教育への不満から発していたもので、その解決には学生時代に他国の大学教育を受ければよかったのだということだ。定年退職したら、大学に学びに行きたいな。 -
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ネタバレ<目次>
はじめに 教育改革神話を解体する
第1章 日本型教育改革の習性(くせ)
第2章 入試改革、グローバル化~大学大混乱を超えて
第3章 人文科学の可能性
第4章 教育論議クロニクル…2016~2020年
終章 コロナ渦中の教育論
<内容>
目に鱗の内容だった。特に第1章。文科省が(中教審が)掲げて、押し付けてくる(教員になった当初は「目標」という感じだったが、近年は「法令順守」と言われる)指導要領は、「エセ演繹」なのだと。演繹から、その理論から具体的な実証をしなければならないが、指導要領改訂のたびに「何が変わったか」を示すものに、実証した根拠が見られないと。「観念的」で「ふんわりとした」ものを出してきて、「証拠」であると言い張っているが、その根拠が示されたことはないと。現場にいて、常に「なぜ変えるのだろうか?」とモヤモヤしつつ、努力をしてきたのだが、文科省は何もわかっていない。外部の政治的プレッシャーや経済界の要望、だけがその依り代だったのだ。終章にあるように、「コロナ禍下」「アフターコロナ」において、またしても教員を置き去りにする「改正(改悪)」が進みそうだ。「ICT化」というもので。文科省が言う、「教員が楽にあること」が全くないことを現場はわかっている。「こうすれば楽になります」の「こうすれば」の部分を何も示していないからだ。また、Edtech企業が、「ブラックボックス化」した機器を売りまくることも予想できる。それが現場に何の便宜も図らないことも。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「○○はもう死んでいる」。北斗の拳で聞いたような台詞だが、本書で主に取り上げられているのは、オックスフォード、ハーバード、そして東大。決して死んでるような大学ではない。
「(昨今の)日本の大学改革論の不幸なところは、コンセンサスを得ようとしたときに座標軸(大学は何を目指すのか、何がクリティカルかという軸)を設定する人がいなくなってしまい、どこで自分たちが対立していて、どこで折り合いがつかないのか見えなくなってしまっている」(p.37)。その背景には「経済ナショナリズム」(p.40)と国家予算の削減。これが現場の混乱をもたらしているのではないか。
アメリカやイギリスの大学組織で見習うべき点は、教員・学生ともに複数の組織に所属しているということ。例えば、オックスフォードの苅谷剛彦先生の所属は3つ、「ニッサン現代研究所(地域研究)研究員」、「(ユニバーシティの)社会学科教授」、「セント・アントニーズ・カレッジ(学寮)フェロー」だ。一方学生は、メジャーとマイナー(あるいはダブルメジャー)そしてカレッジ(学寮)に所属する。つまり「多様性と流動性」が大学組織の中に組み込まれているのだ。
日本の場合は、学部の上に大学院があることが多く、教員も学生も単一の組織の中で生活を送る。特に大学教員は、(グローバルな)横社会というより(多様性と流動性が乏しい)縦社会である。教員が求めるのは「安定したポスト」。実質的に教員が実権を握る日本の大学では、組織は一元的で、閉じてしまう。
一方、学生にとって大切なのは「多様性と流動性」。この状況を補っていたのがクラブ活動や寮生活であろうが、その(実質的な)加入率、入寮率は極めて低い。だから日本では、単一の閉じた組織になる。これに拍車をかけるのが国際性の欠如と世代的同質性というわけだ。
学問が、理系・文系に分かれたのは、産業革命(18世紀半ばから19世紀)以降。しかし、もともと大学のカリキュラムであった「リベラルアーツ」は、言語系の3学と数学系の4科。これらを同時に学ぶことで、当たり前だと思っていることを疑う「Critical Thinking」が可能になる。だから、少ない科目であっても(履修科目を絞ってでも)、文理複眼思考で「客観的な知識を分析的に獲得し、論理的に組立て、説得力ある意見をわかりやすく述べる」力の養成が必要となるはずだ。これが大学の学びの根幹(オックスフォードがチュートリアルの目的そのもの)ということだろう。
最後に、「大学のキャンパスは(自由の根幹という意味で)遊び場でなければならない」(p.279)という理想。その一方でアカデミックキャピタリズムの担い手と位置づけられた大学の厳しい現実。イギリスとは異なり「大学とは何かということが社会の中で定義(共有)されていない日本」。そもそも「大学」って何なんだろう? -
Posted by ブクログ
吉見さんの本をもう一冊読んでみたいと思ったら、なんと苅谷剛彦さんとの対談が出たところ。
二人から醸し出される意識高い系感(まあ、そもそも副題がトップユニバーシティーからの問題提起だもんね)に、若干たじろぐ。
今の大学改革というよか、次の高校改革に向けて、持っておきたい視点が幾つかあった。
例えば、深い学びについて。
学びを深めるためには、教員一人あたりに受け持つ生徒が多過ぎてはいけないということ。
でも、生徒一人の取り組む授業数が多過ぎてもいけないということが書いてある。
それは知識網羅主義とも関わってくるわけで、より多くの知識を受け取ろうとすれば、そうなる。
高校でも、もうすぐカリキュラムが変わるけど、沢山の科目を設定するのか、一つの科目に単位を多く設定するのかって大きい部分なのかも。
もちろん単位を多く配置することは、教員の技量も問われるし、落とすことのリスクも生まれる。
ただ、週二回の授業でやれることに限りはあって、深い学びを方針として打ち出すなら、その部分をスルーしてはいけないように思う。
二つ目は、教科横断の可能性について。
これも政府のパンフレットなんかで目にはするけど、具体的にどんな取り組みを言いたいのかはよく分からずにいる。
この本では、文理融合から文理複眼へという章があって、以前読んだ吉見さんの本に書かれていた文系知と理系知の違いが書かれている。
いやいや、文系とか理系とか、ないから!
という意見も、勿論あるし、人に落とし込むからそうなるのかなと思っていた。
けれど、それぞれの研究手法、アプローチの違いをちゃんと把握することで、教科横断の可能性が広がるように思う。
そのためには扱う側も、横断的な考えがないといけないとは思うけど……。
そして三つ目。
ただ単に留学することの危険性について。
これはグローバル人材の章にあたる。
一週間やそこら、わらわらと学生連れて行って修学旅行の延長線上みたいなことしたって、自分の中の価値観の揺らぎなんてあるわけないでしょ!
ってか、日本という国のこともよく知らずに海外に浸り過ぎても、根無し草になりますよ!
というご意見。
周り見ても、この留学制度って思ったよりお金かかっていて、そして自分の時にはアイツもコイツも留学してます、なんて状況はなかった。
だから、確かに何かは動いているんだけど。
果たして何のために動いているのかが分からない。
語学研修と自分探しがごっちゃになったような。
結局、日本に比べて◯◯国は違う!え、何が?自由だった!自由って何?みたいな中身ない感に終わってしまう人もいるように思う。
勝手に目的意識持って勝手に行くやつは良いのだ。
でも、システムとして、行事として、それを若い子に与えるのなら、与える側の考えをもっと盛り込んでいく時期が来たと言える。
いや、それはお国のために視察してきなさいってことじゃないからね……あしからず。
最後に、大学のレファレンスが便利になりすぎて、自動で本が出てくるのは悪だという話に笑う。
辞書と同じだなと思った。
偶然の出会いによって自分の知は思いがけず進む。
こういうのも、セレンディピティっていうんですかね。便利って、怖いわ。
そして一言。
なんぼほど長いレビューやねん!(星4で!)
お粗末様でした。 -
Posted by ブクログ
英語教育、国語教育、社会学のプロの方が、それぞれ異なる立場からことばの教育について論を交わしている本。議論の中心となるのが、大村はまさんという国語教師の方が実践した教育方法。半世紀の間、ひたすら、言葉を使うことの重要さを子供に感じてもらうような実習を自ら考えだしては実践したらしい。
論点としては想像以上に幅広く、面白かった。国語教育・英語教育に共通する現在の問題点や重要な点は何か?ことばの力を育てるために有効な方法は何か?そもそも教育について考えるとき、「理論」とはどんなふうにつかうべきものか?
最後にまとめられていた通り、ことばの教育=考える力の教育という点が印象的だったし納得した。
(現状は国語・英語教育ともに必ずしもそうなっておらず、表層的な部分で特に話すスキルを重視する風潮にあるが、書くことで思考能力を高める段階を経ないと、深い思考を言葉にして話すことはできないとのこと)
同時に、だからこそことばの教育は難しい。
また、本書でもふれられていた通り、教育の理論は、実践を振り返る際のよりどころとしてには参考になり重要ではあるが、誰にでも効果的な教育方法というのは成り立たない。
そんな中でも、ことばの力・考える力を育てるのに重要なこととしては、次のような点が挙がっていた。
・帰納的思考(抽象化)と演繹的な思考(具体化)を往復する。
・メタ認知の視点(自分の使っている言葉が自分のいいたいことにあっているのか?を反省的にみる視点)を持っておく。
・話す力を鍛える前に、書く力を鍛える。書くためには、まず読むことで、筆者の思考のプロセスを学び取る。 -
Posted by ブクログ
何かの書評から手に取ったが、とても興味深い本に巡り会えて感謝。この本のテーマは表紙の言葉で、「学校や大学での学習や研究の場面だけでなく、仕事の場や社会生活の上でも、一面的な見方にとらわれていたり、安直にわかったつもりで終わってしまう議論にならないためにも、問の立て方と展開の仕方を身につけることは役立つ思考力の要なのだ。」とある。オックスフォード大学で行われているチュートリアルという形式の、先生と生徒の一対一の学びを実際に行い、テーマにある問の立て方と展開の仕方を詳細している。先生はもちろん、生徒もレベルが高く、対話形式のまま記載されているので分かりやすい。最後に、少し時間をおいて生徒が振り返った内容もあり、こちらもポイントの理解を深めるのに効果的。
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Posted by ブクログ
オックスフォード大学での学部生向けの個別指導(チュートリアル)と大学院生向けの研究指導(スーパービジョン)を日本人向けに再現したもの。論理展開の方法や問いの立て方など、具体的に応用できる技術が散りばめられている。受講者による学習レポートも、指導中に感じた違和感なども率直に綴られていて、読み応えがあった。
なお、指導の内容が身に付くかどうかは、学生自身の訓練が欠かせないし、「先生は教えることはできますが、後はモチベーションを出してもらうしかない」と言い切っていることは見逃せない。教員が教える技術を磨くことが必要なのは言うまでもないが、学生を良い意味で突き放すことも必要なのだろう(もっとも、突き放された大学生がモチベーションを出すような制度設計が、日本の大学や就職市場に備わっていないのが、大問題なのでしょうが…)。