苅谷剛彦のレビュー一覧
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教えるとは、学ぶとはどういう営みなのか。教師が生徒に教えるという上から下へに知識を授けるというような方法をイメージしがちな気がするのだが、果たして本当にそのようなことが可能なのだろうか。自身の経験を思い起こしてみると、教師に教えてもらうことがなかったとは言わないが、本当に学ぶということは自分で本を読み、話を聞き、調べ、自分の頭で考え、書き記し、まとめ、テストへの回答や文章にするなど何らかの仕方で出力する過程を経ることで学びとしてきたように思う。それゆえ、教師とは教える存在というよりも、生徒が学ぶ方向づけをし、学習のペースを崩さないように見守り、時に調整をしてくれるコーチのような存在なのではないかと考えていた。
本書はオックスフォード大学で実施されているチュートリアルという教師と学生が一対一、あるいは教師一人に対して学生が二、三人で構成する個人指導を文章で再現している。チュートリアルとは、「毎週、小論文を書くための問い(エッセイ・クエスチョンと呼ばれる)と、それに回答するために読むべき課題文献リストが渡される。毎週10冊ほどの著書や論文である。それらを読んだ上で、小論文を執筆する。エッセイでは、教員が出したエッセイ・クエスチョンに、文献リストに示された文献を使って、学生が自分なりの議論を展開し、回答を与える。そして、実際のチュートリアルの時間には、学生が事前に提出したエッセイをもとに、教員との間で質疑応答や議論が行われる」というものだそうだ。
この概要の説明を読んだだけでも、何と贅沢な時間だろうと感じた。そして、そのチュートリアルの再現である本書を読んで、その嫉妬にも似た憧れの感覚はますます強くなった。羨ましい。教員と学生とのやりとりにより、当初学生が発した問いが様々な手法、見方で分解され、より深い問いへと導かれていく様は、学生本人にしてみたら手に汗握る緊張の連続かもしれないが、しかしそれは視野を拡げてくれるとても貴重な経験になる。日常感じ、発された素朴な問いをメタ化し、5w1hで分解し、whyを重ねるなどし、発展させることで、深化させるのだ。教員はそれを導くだけで、実際に深化させるのは学生本人であるところが魅力的である。 -
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ネタバレリンガフランカである英語を母国語として教育を行う国は、常にグローバルな競争に晒される。その一方日本では「日本語」という障壁のため、人や資金や情報の国境を超えた行き来が遥かに少ない。そこでいう「グローバルな競争」は「リアル」なもの(実感できるもの)ではない。現実味がないから、「グローバル化戦略」もインセンティブに欠け、改革も形式的で実らないのである。
グローバル化は、新自由主義経済と不可分の関係にあるが、それは「英国病」脱却のため、1979年に就任したサッチャー首相からスタートした。高等教育のグローバル化もその延長線上で、英語という言語資本を利用できる国々が、資金や人材を集めるためグローバル競争をしかけ、市場での優位を確保し、知識生産・伝達のヘゲモニーを握ろうとしているのである。
高等教育のグローバル化は、1999年のイギリスで、外貨獲得手段(輸出産業)として、留学生受入れ拡大を加速させる。その予想以上の成功から2006年にはさらに上方修正。この背景には、中国において富裕層が増大し、その子女がより良い就職の機会を得るため「海外の評価の高い大学」への進学を目指したことにある。この際に、イギリスの大学に目を向けさせるマーケティング戦略の一助となったのが、2004年にスタートしたイギリス発の世界大学ランキング(THE、QS)である(州政府からの財政支援が削減されているアメリカの州立大学、特に研究志向が強い大学も恩恵を受けている)。このように、教育のグローバル化競争は、外貨獲得というビジネスや財政の観点から語られるのである。
その競争に日本の大学が巻き込まれた。日本の行政・大学は必死にもがく。そこには、根強い「欠如理論」があったからだ。西洋の歴史的体験や社会構造を過度に「普遍的」なものと捉え、西洋の大学に特徴的な点を「賞賛」し、明治以降の日本の教育の特徴を「後進性」と決めつける。この「欠如理論」に特徴的な思考様式は、大学内部に確固たる参照点(見識)を持たず、外部の参照点(世論)に無反省に飛びつくことにある。こうして、英米をモデルにしつつ高等教育「市場」という経済的視点に大学教育が振り回されてしまっているのである。
このようにして、昨今の「グローバル人材の育成」などの大学改革は、学術文化の交流・活性化という視点ではなく、経済界の視点から語られる。しかし一方で、経済界は大学生の学びを重視していない。そのうえ、就職活動の早期化と長期化、インターンシップと銘打った早期面接などにより、大学教育を妨げている。「教育界」と「経済界」の間に信頼と連携がない限り、大学の教育改革・教育の質向上は絵に描いた餅となる。
結局、「現行の」世界大学ランキングの基準では、特に人文社会学系において日本の大学が置かれた環境を考えると、勝ち目はない。このことに自覚的であるべきだ。そして、むやみに英語で授業を行うことも賢明ではない。大学教育の目的のひとつが、問題発見・解決能力を学術的思考援用して身につけることで、そこでは母語で深く考える力がこそ不可欠だということも重要。
また、人文社会科学系の研究においては、日本発であることを強みとする視点と論理構成を採ることが必要だ。近代化以前の日本の経験を含め、先進国に仲間入りするまでの間に日本の社会が蓄積してきた「知」や「経験」を強みとして発信していく研究は、非西欧圏で西欧モデル以外の多様性を求める国々にとって、貴重な「知」となり得るからだ。つまり「知の多様化」に貢献できる。表面的で、勝ち目のない大学ランキング競争に右往左往するよりは、よっぽど日本の大学の国際貢献、プレゼンスのアピールに繋がるのではないだろうか。日本の大学の人文社会学分野における著者の指摘は、現実的で非常に見識に溢れているように思う。 -
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この本の逸脱な所は、統計調査から精緻な分析を行い、
そこから導きだされたファクトを世に知らしめたことです。
この本の前半から中盤部分では、統計分析から、日本は既に「階層化」していると喝破し、
「親の学歴は、子の学歴や学習へのやる気」に多大な影響を与えているとしています。
出版されて、だいぶ経ちますが、このファクトを知った時は、かなり衝撃的でした。
「何となく、そうだろう」と思っていたことが、はっきりと社会科学的に証明されたからです。
また、この著作の後半部分は、より衝撃的な指摘を行っています。
それは、「今後、日本社会は、【学習能力】が資本になる」ということです。
そして、その学習能力の資本が、社会のあり方と人間形成に深く関わるようになるとの指摘です。
つまり、学習資本主義社会の出現です。
学習能力とその成果で人的資本形成とが社会を形作る要となるということです。
10年以上も前に予言されたことが、今、まさしく現実になっています。
恐らく世界の先進国と呼ばれる国で、学習資本主義が出現し、学習資本の獲得が、
個人が、社会的経済的に上昇しうる(成功する)必要条件になっています。
つまり、今後ますます、学習資本を持たないものは、
社会で増々不利な立場になるということです。
この点から考えて、多くの日本人が置かれている状況は非常に厳しいと言わざるを得ません。
まず人口減少・少子化・超高齢化・生産年齢人口の減少(毎年1%減る)に始まる日本社会の構造的な問題と、
それに伴う移行期的混乱です。経済規模を維持するのも厳しい状況になっています。
労働者の数が、長期にわたって確実に減ることが予想され、また、消費者自体も減るので、
企業経営も、抜本的な変化が求められるようになりました。
これから増々、求められる仕事のレベルが高くなり、また過酷な競争社会になります。
今、必要なのは、そういう社会で求められる、学習能力です。
では、学習能力を日本人は身につけているのでしょうか?
答えは、、ますます身につけなくなっています。
それは、日本の大学生の学習時間が先進国とダントツに低いことにもはっきり表れています。
また、高校生を対象とした調査で、将来への希望のなさ、悲観さも、先進国でダントツに高い状況です。
質でも量でも、学習能力を持たない学生が、日本社会では、以前も今も、
(不謹慎な言い方ですが)量産され続けているのが、現状です。
学習能力の獲得は、かなり早い時期から準備をし、育て、発展させなくてはいけません。
しかし、現状、日本の教育では、学習能力を獲得するのは、極めて困難になっています。
1人でも多くの日本人が、学習能力を獲得し、学び続ける意欲を持って、この時代に対応できるように、
変化し続けなくてはいけません。
その意味でも、この著作は、「考えるきっかけ」を与えてくれる、
ランドマーク的著作となっています。 -
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刈谷先生の著書は教育問題を勉強する際に、何をおいても読むべきと考えている。
当時は、東大の教授をされており、文科省とは切っても切れない関係であったであろうことは想像に難くない。
しかし、例のゆとり教育論争では、文科省を正しい方向へ導く力にはあまりなれなかったようである。
学者らしく、きちんと論議を分けて展開しており、ロジカルでわかりやすい。
また、ごく当たり前の論理を冷静に記しており(たとえば歴史教科書問題など)、もっと教育行政に反映させるべき人物であると思われるが、文科省としては都合が悪いらしい。
最近、教育現場ではアクティブラーニングが大流行である。子供の学ぶ意欲も含めて違いがあるのに、一つの方法ですべてが解決するがごとくの言説は、ゆとり教育論争から変わっていない。この流行の兆しが見られる今だからこそ、読み直されるべき書物であろう。
最近の文科省の教育に対する考え方は、常軌を逸している年か思えない。
小学生から英語だ、プログラミングだと新規の科目を入れておいて、先生は増やさない授業時間も増やさないと来ている。私は情報教育にも関心があり、生徒や学生にも教えることがあるが、情報の教育がほぼ必修されてから、大学生がどうなったかといえば、恐ろしいほどのスキルの差を生み出しただけだった。今はエクセルだとかパワーポイントでお絵かきlevelであるので実害はないが、プログラミングであればアレルギーを大量に生み出す危険がある。そもそも教師自身のITスキルが、一般企業のサラリーマンに比べても恐ろしく低いことを文科省は把握していない。ピアノが弾けない人にピアノを弾く楽しさを教えられない、運動音痴の先生がスポーツの楽しさを教えられないのと一緒である。
これを読めば、教育の地盤沈下をさせているのは文科省とその取り巻きのえせ教育学者であることがよくわかると思います -
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子供の大学の入学式で、この本の著者が来賓に招かれ、スピーチをしていたので読んでみようと思いました。
オックスフォード大学のチュートリアルという教育方法の話は全然知りませんでしたので、非常におもしろく、勉強になりました。マンツーマンに近い教育で学生を徹底的に鍛え上げ、インフォーマルな関係も含めて全人教育を施すというのは、現代の視点から見るとそうとうのアナクロニズムのようにも思えますが、これだけ世の中が効率化・均質化の方向に行ってしまった現代だからこそ、逆に極めて重要になってきているようにも思います。
子供にもぜひ読んで欲しいと思いましたが、本人は大学生活に忙しく、本には全く興味ない模様。この本に書かれている「大学ではエリート教育は決して行われない」日本の実情を再確認。それがいいのか悪いのか、悩ましいところです。 -
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「学校制度は画一的で個性を潰す。だから市場化しなければならない」というお決まりの言葉に待ったをかける一冊。
戦後日本の義務教育制度は6・3制という、先進的である意味実験的な挑戦をした。
その際に最も問題になったのは、教育資源の配分、それによる学力格差の問題だった。
1930年代は1教師が平均63.5人の生徒を受け持っており、80人を超える県もあった。
この教育条件の貧困さは教育資源の配分の問題で、戦後各地方自治体間の格差を是正するため、1952年に義務教育費国庫負担法が制定された。
最も小さな単位である学級間の教育条件に格差を作らないため、「標準法」が制定され、資源配分が細かく設定され、執行された。
我々はすでにそれが行き渡った、「自明な空間」を生きていて、だれでもどこでも同一の教育を受けられることが環境であるかのように感じている。
だから、「画一的な教育はいけない」といった時に、これらの環境を維持している制度設計などは意識されず、知らずうちにそのシステムを壊してしまう可能性がある。
新自由主義が邪悪なのは、これらのシステム、つまり富の再配分制度に「ボロ儲け」の匂いを嗅ぎつけ、食らいつこうと舌なめずりをしながら擦り寄ってきていることだ。
一見「個の教育は市場経済化によって行われる」というときに、現在の環境が作られている資源の再配分制度が意図的に見落とされている。
再配分されるはずの富が、新自由主義論者によって換金されるのだ。
今、この歴史を振り返り、今後の教育を考えるときに、現在の環境がどのように生成しどのように機能しているかを見直し、単にそれらに対する攻撃が「個の平等」をもたらさないこと、と言うよりもむしろ「落下」を促進させることを強く意識しなければならない。
必読の書だと思う。 -
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米国と日本とでは大学の仕組みがだいぶ異なるのだという。確かに「米国の大学は入学するのは簡単だが卒業するのが難しい,それに対して日本では入学しさえすれば卒業は簡単だ」などということ耳にすることも多い。本書は,英国の大学に籍を置く教育社会学者による,TA(ティーチング・アシスタント)制度,シラバス及び授業評価,入学者選抜制度などの視点から書かれた日米大学比較論である。
ところで,本書は20年前に出版された同名の著書の新書版である。新書化にあたって元の著書の一部が削除され,替わりに一章及び各章末の新書版付記が追加された。しかし本書の内容は現在でも十分に読むに値する。例えば日米の大学教育を比較した第5章では,米国の大学において小規模クラスやTAによる手助け,また授業内容の詳細を伝えるシラバスが重要だと考えられている背景として,米国における学力問題があると指摘している。「それに対しアメリカでは、(・・・)学生の学力の分散は日本以上に大きい。」「したがって、(・・・)さまざまな教育上の工夫がどうしても必要となる。」(214頁)。しかし,ここで述べられている米国の大学が置かれた状況はまさに今の日本の大学のそれと同様のものであると言えるだろう。とすれば,本書が示す(当時の)米国大学における様々な教育制度は,現在の日本の大学制度にとっても参考になる点が多くあるに違いない。
このように本書の内容は古さを感じさせない。大学教育に関心を持つすべてのひとに強くおすすめできる本である。 -
Posted by ブクログ
90年代の名著「大衆教育社会のゆくえ」の続編であり、大衆教育社会を成立させたのは何だったのかについて論じている本。
著者は、その原点を、学制ができてから常に問題視された教育公務員の予算(日本は階層差よりも、都市と農村(僻地)の差が大きいこと)、それによる教育標準化の流れ(学級の人数、学習指導要領、学力テスト)の中で、明らかにしようとしている。
そのような中で、学級というシステムを使って平等を作ろうとしていた面があるとも指摘している。
文章はやや難解であるので読み直す必要はあると思うけれど、自分が受けてきた環境を当たり前とせずに、史料から丁寧に読み解くことが大切だということを教えてくれた本だと思う。