苅谷剛彦のレビュー一覧
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[ 内容 ]
二〇〇二年度より新学習指導要領が実施される。
この要領がめざす教育改革のねらいは「ゆとり」と「生きる力」の教育であり、それを実現するものが「総合的な学習の時間」である。
これらをつなぐ論理は「子ども中心主義」であるが、この教育方針は本当に子どもたちのためになり、学校を再生するに足るものなのか?
また、受験や詰め込み教育は本当に罪悪なのか?
さまざまなデータを検証し、教育と日本社会のゆくえを見据えて緊急提言する。
[ 目次 ]
第1章 教育の制度疲労(政策担当者の問題把握 これまでの教育改革の成果 ほか)
第2章 「ゆとり」と「新しい学力観」「生きる力」の教育(「ゆとり」をめざす -
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[ 内容 ]
「ゆとり教育」は「学力低下」の事実によって追いやられ、「学びのすすめ」へと方針転換された。
さて、では「学び」と「教え」との間に生じる関係性、つまり教師と生徒の間の知識伝達の共有は、どのように起こるのだろうか。
本書では「わかる」の現象学的な試みを、教育社会学者と哲学者との間で徹底してつめていく。
「いま、なぜ勉学をするのか?」という問いかけから、「私」よりも「公」を重んじようという風潮に疑問を投げかけつつ、個人の自由と社会的平等の両方が成り立ちうる地点をめざして、「ともに考え、わかりあう」みちすじを模索・考察する。
[ 目次 ]
序章 教育と社会を哲学するために
第1章 今な -
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フィンランドの教育への注目度が高まる中で、では実際にどこがどう優れているかということや、また日本と比較したときにどこに差があるかは、単に教育の側面だけをその社会や文化という全体的な文脈から切り取って論じるのでは無理があるし危険であり、不十分であると納得した。また「絶対評価」といっても、日本の教育における絶対評価は、共通の絶対的な基準に基づいてそれぞれを個別に評価するのでなく、個別評価という体系に往々としてすり替えられているため(その分すべての子供がonly oneになれる?)、何を測ろうとしているか曖昧になり、また、能力の向上には必ずしも繋がらないのでは、という指摘にも納得。
(本書)社会で求 -
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「生きる力」を目指す新教育課程(ゆとり教育)であるが、好ましいと私は思わない。「受験教育」や「詰め込み教育」からの解放を謳っているがそれは役所の偉い人が陥っていた状態でマスが感じている部分ではない。むしろ、上流階級の子どもは少子化といえどさらなる受験戦争に巻き込まれているように思われる。「ゆとり」なんて感じられない。勉強の不得意な子どもはさらに勉強しなくなり格差の温床になっている。子どもの主体性を重んじるのはいいことだが家庭や社会階層を考慮しないのは言語道断だと思った。「総合的な学習の時間」は自分が行った事を振り返ってみてもたいしたことはやっていなかった。現場の教師に内容を決めさせるのはいいが
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筆者が国語嫌いだった理由とあたしが国語嫌いな理由が同じだった。国語ってなんか新しいことを学んだ進歩が感じられないのね。でも、この筆者は大村はま先生の授業受けて国語の印象がかわったらしい。あたしもそういう授業に出会いたかった。自覚的な学習者(自分のやるべき課題に気づく、自分を育てる方法をとる)は大村先生の基本的な姿勢がつくったものだとか。それから、『明日もまた教室に立って』と思えるような魅力を、自分の仕事の中に作り出すこと。』ってのが印象的だった。にしても、今の教師は、教えることが仕事ってことを忘れがちなのかもしれない。部活動に熱心になったり、授業準備を怠ったりなど。