苅谷剛彦のレビュー一覧
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[ 内容 ]
「教育改革」を語る前にフィンランドの教育を解剖してみると「格差」など日本の問題点が見えてくる。
[ 目次 ]
第1部 東京で教育の問題点を探る(親の不安はどこから来るのか;完璧な子育てはない;日本は学校に依存することで近代社会をつくってきた)
第2部 オックスフォードで分かり合えたこと(フィンランド型の教育を日本で実践できるか;なぜ日本人は右往左往するのか;絶対評価と相対評価)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
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[ 内容 ]
二〇〇二年度より新学習指導要領が実施される。
この要領がめざす教育改革のねらいは「ゆとり」と「生きる力」の教育であり、それを実現するものが「総合的な学習の時間」である。
これらをつなぐ論理は「子ども中心主義」であるが、この教育方針は本当に子どもたちのためになり、学校を再生するに足るものなのか?
また、受験や詰め込み教育は本当に罪悪なのか?
さまざまなデータを検証し、教育と日本社会のゆくえを見据えて緊急提言する。
[ 目次 ]
第1章 教育の制度疲労(政策担当者の問題把握 これまでの教育改革の成果 ほか)
第2章 「ゆとり」と「新しい学力観」「生きる力」の教育(「ゆとり」をめざす教育の問題認識 「新しい学力観」と「生きる力」の教育 ほか)
第3章 「ゆとり」のゆくえ―学習時間の戦後小史(子どもの「ゆとり」は奪われてきたのか 「勉強の時代」の復活―勉強のしすぎはゆとりを奪ったのか ほか)
第4章 「子ども中心主義」教育の幻惑(「ゆとり」と「生きる力」をつなぐ論理 「子ども中心主義」の教育 ほか)
第5章 教育改革の幻想を超えて(手段を欠いた理想のゆくえ 現実と理想のコントラスト ほか)
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[ 内容 ]
「ゆとり教育」は「学力低下」の事実によって追いやられ、「学びのすすめ」へと方針転換された。
さて、では「学び」と「教え」との間に生じる関係性、つまり教師と生徒の間の知識伝達の共有は、どのように起こるのだろうか。
本書では「わかる」の現象学的な試みを、教育社会学者と哲学者との間で徹底してつめていく。
「いま、なぜ勉学をするのか?」という問いかけから、「私」よりも「公」を重んじようという風潮に疑問を投げかけつつ、個人の自由と社会的平等の両方が成り立ちうる地点をめざして、「ともに考え、わかりあう」みちすじを模索・考察する。
[ 目次 ]
序章 教育と社会を哲学するために
第1章 今なぜ「学ぶことの意味」を問い直すのか(「学ぶことの意味」の変遷 個人のさまざまな自由と「学校へ行くこと」)
第2章 「自由な思考」と「知識の共有」は両立するだろうか(個人の自由と公共の利害について 知識とはどういうものか ほか)
第3章 考えあうこと、理解すること(「わかる」を掘りさげる 役割と責任)
第4章 「学ぶ意味」をどう再生するか
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フィンランドの教育への注目度が高まる中で、では実際にどこがどう優れているかということや、また日本と比較したときにどこに差があるかは、単に教育の側面だけをその社会や文化という全体的な文脈から切り取って論じるのでは無理があるし危険であり、不十分であると納得した。また「絶対評価」といっても、日本の教育における絶対評価は、共通の絶対的な基準に基づいてそれぞれを個別に評価するのでなく、個別評価という体系に往々としてすり替えられているため(その分すべての子供がonly oneになれる?)、何を測ろうとしているか曖昧になり、また、能力の向上には必ずしも繋がらないのでは、という指摘にも納得。
(本書)社会で求められる「個性」には限りがある。選択肢の幅広さは、無限の可能性と共に、確実な選択をせねばならない、という不安を煽る。→(私)結局現代はステレオタイプの種類が膨大になっただけで、その「型」は個性ではない。本物の個性は、考える力、引き出しの選び方と変形のさせ方を覚えていかないと身につかない。
(本書)教えている教養に意味があるか、を子供から問われる必要のない、教養の背景にある歴史への自信や、学問への尊敬が、日本には根付いていない。→(私)学ぶことそのものの面白さを感じるくらいでないと、勉強はできない。勉強嫌いをなおすために、方法・補助道具を面白くすることはときに逃げでしかない。学んでいる内容そのものが、面白いと生徒に思わせるような、教え方、伝え方の上手さが必要。 -
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「生きる力」を目指す新教育課程(ゆとり教育)であるが、好ましいと私は思わない。「受験教育」や「詰め込み教育」からの解放を謳っているがそれは役所の偉い人が陥っていた状態でマスが感じている部分ではない。むしろ、上流階級の子どもは少子化といえどさらなる受験戦争に巻き込まれているように思われる。「ゆとり」なんて感じられない。勉強の不得意な子どもはさらに勉強しなくなり格差の温床になっている。子どもの主体性を重んじるのはいいことだが家庭や社会階層を考慮しないのは言語道断だと思った。「総合的な学習の時間」は自分が行った事を振り返ってみてもたいしたことはやっていなかった。現場の教師に内容を決めさせるのはいいが意味の無い学習だったなと個人的に感じる。私がそう感じるのだから世の中みんな感じているのだろう。早く元の教育課程に戻ってほしいの一言に尽きます。
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筆者が国語嫌いだった理由とあたしが国語嫌いな理由が同じだった。国語ってなんか新しいことを学んだ進歩が感じられないのね。でも、この筆者は大村はま先生の授業受けて国語の印象がかわったらしい。あたしもそういう授業に出会いたかった。自覚的な学習者(自分のやるべき課題に気づく、自分を育てる方法をとる)は大村先生の基本的な姿勢がつくったものだとか。それから、『明日もまた教室に立って』と思えるような魅力を、自分の仕事の中に作り出すこと。』ってのが印象的だった。にしても、今の教師は、教えることが仕事ってことを忘れがちなのかもしれない。部活動に熱心になったり、授業準備を怠ったりなど。