苅谷剛彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
これは非常に面白かった!!
文句なく人にオススメできる本。
「階層と教育」の問題に切り込み、この問題が戦後の絶対的貧困の解消から現在に至るまで人々にどう扱われてきたか、そしてそれらが日本人の教育観にいかに影響して、最終的にいかなる教育が生成されたかを語る。
最終章が秀逸すぎて震えた。
アメリカの社会哲学者フィッシュキンの「トリレンマ」の話もさることながら、最後の一言。
「教育に何ができるかではなく、何ができないかを語りなさい。教育に何を期待するかではなく、何を期待してはいけないかを語りなさい。」
教育関係者、特に教員志望者をはじめとする学校教育を考える方々に是非ぜひ読んでほしい!
「教育の無限の可能性」「子どもの無限の可能性」を信じる人には、必ず読んでほしい。
教育と社会とが目指す姿、目指せない姿、そしてそれらがいかなる思想、教育観を前提としているか。
人によってはショックを受けるかもしれない内容。
日本一有名な教育学者が語る「教育の現実」。
ぜひ手にとってみてほしい。 -
Posted by ブクログ
東京大学大学院教育学研究科教授(社会学)の苅谷剛彦(1955-)による大衆化する教育社会における階層問題の考察。
【構成】
第1章 大衆教育社会のどこが問題か
第2章 消えた階層問題
第3章 「階層と教育」問題の底流
第4章 大衆教育社会と学歴主義
第5章 「能力主義的差別教育」のパラドクス
終 章 大衆教育社会のゆらぎ
「大衆教育社会とは、教育が量的に拡大し、多くの人びとが長期間にわあたって教育を受けることを引き受け、またそう望んでいる社会で」あり、本書で挙げられる特徴は以下の3点である。
(第1の特徴)高い高校進学率・大学進学率
(第2の特徴)「メリトクラシーの大衆化状況」の現出
(第3の特徴)大衆化したメリトクラシーを通じて選び出される特定の社会
階層の文化との親近性格をそれほど強く持たない「学歴エリ
ート」の存在
1950年代には至るところで見受けられた貧困層の低学力問題は、高度成長を経て一億総中流の大衆社会の出現によって消滅した。かわって、学歴エリートへの批判が持ち上げってくる。1991年の中教審小委員会の中間報告においては、私立中高一貫高の国公立大への進学実績伸張による、大都市部富裕層によるエリート階層の独占化が危惧された。しかし、この批判が的外れであることを1950年代以来のエリート層輩出家庭の分析により明らかにされる。つまり、東大をはじめとする有力大学は一貫して、上層ノンマニュアル層の子弟の寡占状態であり、私立中高一貫校の普及とは関係がない。
とはいえ、教育社会学の研究者が長年積み重ねてきた階層と教育の問題が社会的な問題として大きく取り上げられる機会は少なかった。
それは、学歴取得前ではなく、学歴取得後の社会的格差を問題にし続けた「能力主義教育批判」という教育界の一大潮流にあった。この潮流こそ、教育の形式的な画一化を求める「画一的平等化」と平等原則に基づく教育の機会拡大を求めることになった。しかし一方で、このような教育機会の平等化要請により、同等の学力レベルに達した生徒達による学歴獲得競争が激化するというパラドクスも同時に生じた。
以上のような、大衆教育社会の状況を、実証的に示す本書の議論は明快である。同時に
このような歪な大衆学歴社会を改善する特効薬も見あたらないのもまた本書で明らかにされている通りである。評者を含め我々戦後世代が歩んできた「学校教育」の構造的な問題点を認識する上で、本書の存在は非常に有意義であり、教育について少しでも関心のある人間には是非一読していただきたい一冊である。 -
Posted by ブクログ
新書で体が震えたのは「ビジネス・インサイト」以来かな。
ゼミ論で使えそうだと思ったから丁寧に読書ノート取りながら読んでたけんども、考えさせられる事が非常に多い。いかに今までの自分の考えがうわべだけだったのかを実感させられる。批判的な態度で臨んでもこのざまか、という自分に失望クリスマス。歴史は偉大でした。やはり歴史的布置連関もしっかり追跡しますよ。
戦前から90年代にいたるまでの学校教育史の本。メインは戦後いかに「大衆教育社会」が成立したのか、であるよ。能力主義を嫌って平等主義をうたった方針がいかに確固たる能力主義制度を作り上げたか、またいかに不平等を覆い隠すシステムを作り上げたか(←教育の問題を社会から切り離して論じる限り、方針が変わろうと歴史は繰り返される)。欧米との差別観の差異も面白い。ブルデューもハマータウンも頭の中で大活躍でした。 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
今、日本の教育界では、子どもの自主性を大切にしようと、「教える」ことよりも「学ぶ」ことに重点を置きはじめたように見える。
これまでの「詰め込み」への反動であろう。
だが一方で、教師の役割を軽視しすぎてはいないだろうか?
本書では、教師が「教えるということ」をもう一度正面から見つめ直し、今もっとも必要なことは何かということを、すぐれた教師とその教え子、教育社会学者の間で徹底的に考える。
[ 目次 ]
序章 「大村はま国語教室」への扉
第1章 言葉・文化を学ぶことの価値観
第2章 大村はま国語教室の実践(生徒の目から見た単元学習の実際 単元学習の本質とは)
第3章 教えるということ
第4章 中学校の教室から大学の教室へ
第5章 教えることの復権をめざして(徹底したリアリズム 教えない教師たち ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
「ゆとり」か「詰め込み」か―いつまで二項対立の愚を繰り返すのか?
いつまで「左右対立」の図式に乗るのか?
観念論を排しデータに基づく政策科学を志す、まったく新しい教育論。
[ 目次 ]
序 教育の論じ方を変える
第1部 学力低下論争の次に来るもの(もう、学力論争は終わった 一九九九年風は「ゆとり教育」のほうに吹いていた ほか)
第2部 なぜ教育論争は不毛なのか―メディア篇(独立行政法人化報道に欠ける「そもそも論」 消費される「動機理解」の事件報道 ほか)
第3部 なぜ教育論争は不毛なのか―行政・政治篇(「学習指導要領」の方針大転換 教育改革国民会議を読み解く ほか)
終章 隠された「新しい対立軸」をあぶり出す(なぜ「階層化」が問題だったのか なぜ「子ども中心主義」教育が問題なのか ほか)
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Posted by ブクログ
大衆教育社会がどのように完成されてきたかを述べている書。
全国学力テストが復活したことを受けて、以前のものとの比較も試みている。
その結果として、「60年代には存在していた格差が縮小したことは確かである」。
格差(都市部と農村部など)を縮小させる手段として、教育資源の独特の仕組み(劣等な教育条件の排除)があったと本書は解説している。
その細かな仕組みについては本書を参照していただきたいが、その仕組みは学習の個別化にはなじまなかったと本書は言っている。したがって、少人数学級の実現が難しく、いくつかの科目についての「少人数授業」という形をとっているのだとしている。
言葉は難しいが、論旨がはっきりしているために、読みやすい。戦後の日本の義務教育がどのような道筋を歩んできたか知るには最適の書。 -
Posted by ブクログ
苅谷剛彦『教育と平等』(中公新書、2009年)を読む。
まさしく研究者の仕事だなあと感服する。
大きくいえば、戦後日本教育史の書き換えの試みである。けれど、それが圧倒的なデータに基づいて論述されるので、実に説得的なのである。
ところで、私は、2年前の2007年に「全国一斉学力調査」の結果が公表されたとき、わが国は教育の機会均等がなされているというようなことをこのBlogで主張した(タイトルは「全国学力調査(全国学力テスト)の結果が公表された 」2007年10月)。このとき、『産経新聞』は社説で、都道府県間において学力格差が生じているという主張をしていて、その原因が日教組の組織率とさも相関関係があるような論陣を張っていたのだが、そんな問題になるほどの格差じゃないと私は主張したのだった。だけど、それは何らかのデータにもとづいた主張ではなく、あくまで報道された公表による私見に過ぎないものだった。
この「全国一斉学力調査」について、苅谷氏はきちんとデータを示し、わが国は「教育の機会均等」が見事に達成されたと結論づける。すなわち、わが国では教育の地域間格差は解消されているのだ。ああ、よかった。
ただ、このあたりの議論は、さほど仰天するほどのことでもなく、私のような普通の教師が普通に思っていたことをデータで示したということになろうが、この著書には私の見解が改まる議論がいろいろとあって、それはそれは楽しく読んだ。
例えば、昭和33年版学習指導要領の対立。<試案>の2文字が消えたいわゆる「逆コース」の論争。
あるいは、昭和36年の学テ闘争。
これらの教育界の定説となっている対立・闘争を、歴史をひもときながら新たに意味づけしていくのだ。40年の時を経て、氏によって、教育界の定説がくつがえっていくのである。まさしく戦後日本教育史の書き換えである。
また、第5章の「標準化のアンビバレンス」の論述は実に鮮やか。氏の駆使するデータによって、これまでの教育言説がバラバラと崩れ、新たなロジックが創出されていく様は圧巻であった。
これまでも氏の研究は、現在の教育言説に少なからず影響を与えてきたといえようが、今後、氏は教育界のオピニオンリーダーとなっていくんじゃなかろうかと思えるくらいの労作である。
研究者の仕事とはこうでなくちゃあ。
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Posted by ブクログ
21/7/7 95
掲示板は一日で剥がす>ともかく一度と言うことはいいことだと思うわ。そういうふうにして教室にはピリッとしたところが何処かにないと
なんとなく分かるをはっきりと分かるに
常に二つを比べる>カードの振り分け作業>「ことば」の使われ方を分ける
地道な作業の積み重ねが一番大事
教師のもっともいい姿は、新鮮だということと謙虚だ度言うことですよ。
人と比較してみていれば、子供は必ずそれが分かる。伝わってしまいます。そして子供はそういう目で見られることが大嫌いなものです。
書くことも同じですよ。上手も下手もない。役に立つかどうかでもない。自分の心を文字と言うものを使ってそのまま伝わるものにする。書くというのはそういう技術だということ。
自分の思っていることがそのまま相手に伝わる力を持っていないような人が集まって話し合いをしても、民主国家にはならないじゃないか。
一生懸命やりました、という熱気だけに流されない部分を持っていたから、大村教室はバランスが良かった。
生徒に静かにしなさいって言わなければならないようなら、教師として敗北宣言をしたようなものだ。
読書の手引きは子供の心の内側の声になって書くんですよ。
子供を知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その力を持たずにいろいろなことをやっても、上手くいかないというくらい。
『教えすぎる」ことと「教えるべきことをちゃんと教えること」との境目が曖昧になってしまった。
覚えるのは何とか覚えるとしても、忘れてはいけないことを忘れないように教えるのが教師。
使命感を単なる精神論にしないための教えることのリアリズムである。