苅谷剛彦のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
大学ランキングというものの本質が、
著者が言うように欧米の一部の有名大学による「外貨獲得」を目的にした、
留学生獲得(主に中国、韓国、東南アジアの裕福な学生)にあるのなら、
いったい、日本の大学が行っているグローバル化とは何なのだろうか。
世界の有名大学と肩を並べる大学になる必要性があるのか?
ランキングのルールや評価基準を制定しているのがイギリスなら、
圧倒的にイギリスの大学や英語が母国語に所属している国の大学が有利だろう。
そのランキングの上位に入りたいがために、行う改革とは、
果たして、有効なのだろうか?日本の大学のグローバル化は、
①国際ランキング(欧米の価値基準で)100位以内に10校をランクインさせる。
②英語による授業、卒業までに半数の学生を留学させる。
③外国人留学生を2割上限にする。
これって、グローバル化なんだろうか。
日本人の英語力のなさは、折り紙つきだし、
今更、英語力つけようとすることに何か意味があるのだろうか。
世界大学ランキングを上げることが非常に重要と思い、
様々な改革を行うが、ランキング自体に公平性はない。
初めから、欧米の大学が勝つように仕組まれているゲームだと思う。
あるのは、絶対的不利。
関係者は、そのことを薄々知っているが、改革を断行するしか道はないと思う。
まさに「なんとなく、そういう空気がある」で決めている。
本当に馬鹿げていると思う。結果は予想するより明らかであろう。
ランキングも上がらないし、さらなる大学の教育の荒廃を招くだけである。
教職員はさらに疲弊し、学生はさらに、学習を拒否するようになるだろう。
今の大学のグローバル化は、ほぼ確実に負けるとわかっているのに、
わざわざ莫大なコストをかけて行っている。
本当に理解不能である。
最後に、著者は、非常に丁寧な警告をしているが(本当のエリート的行為だと思う)、
元東大教授で、日本での生活が約束され、それでもイギリスの名門大に渡ってまで(競争がもっと激しい場所)、
日本の大学へ警鐘を鳴らさなければならないほど、日本の状態は危機的なのだろう。
日本は大学のみならず、急速に社会全体が衰退していっている。
その中で猫も杓子も「グローバル化」に活路を見出すのは、安易すぎる。
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Posted by ブクログ
本書は既出の原稿をとりまとめたものだった。無理に各章のつながりを求めなくてもよい気がする。表題ありきの書籍編集側の商業的アイディアだろうか。とはいえ、読み手側で重要な知見と考えられるエッセンスは十分に抽出可能である。いかにいくつか引用した。それらは著者にしか指摘できない点が多い。また、SGUという和製英語の奇妙さを指摘した解説はやや赤面ものだった。ただより重要なのは、大学のランキング評価の結果から、大学の社活動の国際的な「遅れ」を導出し、一般の産業と同様に「追いつき型近代化」(p.202)を主たる問題解決の方法にしてしまっているという指摘である。
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Posted by ブクログ
教育の哲学的な模索を対談形式でまとめたもの。非常に参考になった。ただ、現場の視点ではなくあくまで原理原則から論じたものである。お二人の述べる理想的な教育を実際にどれだけの学校が、何人の教師が実現できるのかと問えば、かなり厳しいのではないか。
本書はそういう現実を超えて語られるところに意味があるのだろう。著書の方々が例えば5年現場で勤務すればかような意見は言えなくなるかもしれない。教室での教育だけに集中できる教員など実際にはほとんどいない。
では、仕事の山で遭難しかかっている現場の教員こそが偉いのかといえばそんなことはまったくない。教育学の先生方には大いに理想を語っていただきたいし、現状に批判の声を投げ続けていただきたい。
そういうことを感じさせる内容であった。 -
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いきつけの料理屋がある。使用されるのは大将自らが収穫した旬の野菜。大将はこちらが好きな料理を熟知してくれていて,新しいおすすめをさり気なく紹介してくれる。常に新しいメニューが登場し,頻繁に通っても飽きることがない。自然と饗されるその一皿に,人知れぬ苦労があることを大将の所作から感じられる。さらに,遠方から来店した客への心配りも忘れない。客に美味しい物を提供したいという大将の心が,痛いほど感じられる。
本書を読んで,そのように相手に心を尽くすことの共通点を感じられた。
「教えることの復権」と題された本書。教育社会学者である刈谷剛彦らが,国語教育の大家である大村はまの指導法と対談をもとに,教育力の低下をもたらした原因を探っていく。責任と学習を学ぶ側に放り投げた現在の教育には無い,教師がやるべきことが描かれる。
その内容を要約すれば「相手をよく知り,新鮮な教材を使用し,適切なタイミングで言葉がけをして,当人が知らぬ間に成長の実感を持たせる」とでもなるだろうか。
もちろんそのためには,膨大な準備がいる。しかし,教えることの魅力はそこにある。刈谷が言う「偶然の要素はあるにせよ,教える側が準備しなければ,ますます稀にしか訪れない魅力の時間」を楽しめている教育者は,はたして今何人いるのだろうか。そして,自分はそうなれていたのだろうか。
以上のようなことを考えていると,経営者の一方的な都合で客の状態を考えずに提供されるチェーン店やコンビニの料理を手に取る度に,そこに自分の顔があるような気がして反省させられる。そういう意味で,今後も自分の人生に影響を与えてしまう一冊であると言えるのだろう。 -
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日本語に守られた日本の大学の特殊性と中世から伝統を持つ世界レベルの大学の特殊性を比較する。
日本の大学教育,いや,教育制度全般を変える時が差し迫っている。大学教育を小手先の改良をしても全体に波及するのに長時間かかる。全体を変えるには手続き上長時間かかるし,コンセンサスを取っていくのにも時間がかかる。
多くの国民が高度な教育を受けられることは国力の高さに反映される(はず)。名ばかりの大学,名ばかりの高等学校となっていないだろうか。その国の最高学府で学問をする矜恃を教員・学生は持っているのか。
本の中で入学試験を受ける者の知的水準の違いを述べていた。知識量は日本も見劣りはしないであろう。その知識を生み出す場所で学問することへの意欲はどうであろう。
大学で学ぶということとは,大学を卒業する人材とは,社会における大学の存在意義とは,・・・改めて(初めて)真剣に考える必要があるな。 -
Posted by ブクログ
戦後日本にとって、地域間格差をなくすことは、大きな課題であった。
日本の教育システムはどのようにして、平等を実現してきたのか、また、それが意味する平等とは何であったのか。
これからどこを目指そうとしているのかも含めて興味深い1冊だった。
”1950年代を通じて、その後の日本の教育と社会を特徴づける「標準法の世界」が制度化された。それは、明治以来、日本の教育にとってトラウマともいえた地域間格差の問題を是正するために、教育財政の仕組み(義務教育費国庫負担制度)と、教育資源としてもっとも重要な教員の定数・配置に関する制度(「公立義務諸学校の学級編成及び教職員定数標準に関する法律」、いわゆる義務教育標準法)とが、車の両輪のようにして、教育条件の標準化を進める制度の誕生を意味した。” -
Posted by ブクログ
本書は,1992年に玉川大学出版部から出版されたものを新書版にしたものとのことです.
実際,タイトルにもあるように,書かれている内容は,TA,シラバス,授業評価に関する話題が中心で,既に日本の大学で導入され,運用されています.しかしながら,少なくとも私が勤務しているの大学のそれは,あまりにも形式だけの導入にとどまっており,一体どんな効果が期待されるのか全くもって不明です.私の推測では,その主要因は,教員,学生がともに当該制度の導入意図を十分に認識できていないこと,仮にできたとしても我々の業務過多を増長させるに過ぎないことが挙げられると思います.
従って,1992年に問題提起された本書のテーマは,現時点においても有効な議論となっており,一読の価値があります.と同時に,如何に日本の大学教育が構造改革を怠ってきたのかを象徴しているのではないでしょうか? -
Posted by ブクログ
ネタバレ<概要>
『知的複眼思考法』で有名な(少なくとも個人的には…)苅谷剛彦氏の著書。
日本に特有な「大衆教育社会」が成立した経緯及び生み出される問題、隠されている問題を検討する。「大衆教育社会」の特徴は以下の三つである。
①教育が量的に十分供給されており、国民に広く行きわたっている。
②学校における成績によってエリートが選抜され、エリートがその後の人生において非エリートに対する相対的な優位に立てることが社会的にある程度認められており(メリトクラシーの大衆化)
③エリート層はあくまで「学歴エリート」であり、独自の文化を持たず大衆に基盤を置いている。
まず日本における教育機会に関する検討が行われる。戦後に関しては親の経済力が子供の教育機会に如実に表れる傾向があった。経済成長を経てこの傾向が希薄化された後も、親の階層(学歴・職業)によって子どもの教育機会は強い影響を受けたが、この相関関係は大きな社会問題としては取り上げられなかった。
この要因として筆者は、以下の二つを指摘する。
第一に国民に根付いた学歴社会観であり、「誰でも学校で成功すれば成り上がることができる」と思われたために、学校教育が階層に関して中立的とみなされたことである。
第二に、生徒の受ける差別感をなくすために日教組が唱えた「能力平等論」であり、これは学力差を(出身階層にも由来する)能力差としては見ず、高い学力を努力の成果だと捉えるものである。
しかしこのように形成された「大衆教育社会」も近年(本書の出版は95年)揺らぎ始め、教育に全てを求めるのではなく教育に「できないこと」を検討すべきである。
<所感>
極めて雑な概要でまとめてごめんなさい。所感は以下の三つ。
①能力の平等を日教組が主張したことが、表面的な平等感を作り出し社会階層と教育機会の問題を隠蔽した、という部分の議論展開は面白かった。理想理念が日教組にとってより深刻で重大そうな問題を隠蔽したと。
②エリート層と非エリート層の間に文化的・精神的な隔絶がないことが労使協調に寄与した、というのは興味深く、新しい観点を得られた。
③大学に進学した際のことを回顧すると周りの友人の出身社会階層がかなり限定されていたことが思い出される。多くの友人は、親が有名企業勤務のサラリーマンだったり、公務員だったりする場合が多くて、ブルーカラーが少なかったため、個人的な経験からも筆者の主張は実感できる。
加えて地方格差が酷いと受験期には思っていたので、筆者の議論に何か付け足すとしたらその辺かと。 -
Posted by ブクログ
読後感は、暗い。
内容が悪いのではなく、日本の状況を振り返るととてつもなく暗くなる。
「日本社会という閉じたコップの中」で大学改革は遅々として進まない。
教育の質を高めるには学修時間を増やせば良いというような答申が未だに出てるような状況だし、最近就任した大臣は裁量逸脱で混乱を招いている。
この本を読むとこのように暗くなるのであるが、あのオックスフォード大の専任教授としてこのような貴重なレポートを発し続けていただくことがコップを割るような改革につながっていかないだろうか。
潮木先生の解説がまた素晴らしい。
「我々は人材を失ったのではなく、強力なイギリス観察者をオックスフォードに送り込んだのではないか(p198)」
ホントにそうだと思う。続編に期待したい。