姜尚中のレビュー一覧
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失礼ながら、あまり期待せずに読み始めた。
実際、最初の経済の話題に関する章などは、やはり8年も経ってしまっているので、今から見るとちょっとフィットしないのかな、と思われる部分もあった。
けれども、やはり近隣諸国の反日感情にどう向き合うべきかについての提案や、日本国憲法の価値を論じた、終わりの方の章は、この人らしい、ぶれない軸を感じられた。
たしか、この本が書かれた時期は、姜さんがメディアにたくさん出ていたころだと思う。
まだそれほどメディアに出ないころから、著書を読んだことがあっただけに、当時、ちょっと違和感を感じていた。
ご本人の中で、自分に正直になろう、という転機もあったようだ。
けれども、それ以上に活字の世界だけでは伝えられないという危機感のようなものがあった、ということが大きかったとのこと。
これが書かれてから、8年。
状況はもっと悪い方向に進んでいる気がする。
姜さんの投げたボールを、どう受け止めたらいいのだろう? -
Posted by ブクログ
ネタバレ漱石が高等遊民のような一般的にはとても「先生」と呼びがたい人びとに「先生」の呼び名を与えたのは、漱石が生きた明治の時代がリーダー不在の時代で、理想なき若者が増えていくなかで、新しい手本として登場させたという論は面白かった。教師や政治家にではなく、自分が「この人だ」と見込んだ人がすなわち「先生」であるという、「名よりも、実を求める」漱石の気持ちの表れによるものだという説は頷ける。
漱石作品とその時代をリンクさせた年表や、先生の年表などがあるのもありがたい。
先生と呼ばれることの多かった漱石自身、教師としては大変熱心で、若い人を育て導く漱石の一面も再確認することができました。だからこそあれだけの弟子もいたのでしょう。上からではなく、自分の持っているものを分け与えるというスタンスの漱石は、当時の教壇では大変ユニークに学生に写ったのかもしれません。
Kの自殺の原因が孤独というのは小説内にあることで、私がKに言ったこと、仕出かしたことがどれ程Kを傷つけたか、孤独を際立たせたか。Kには帰るべき家がなく、すがる友もいない。信じてきた道は恋によって奪われ、進退極まる・・・からの、死。煩悶死。
孤独で寂しいから、ではなく、本当に行き詰まったんだろうな、というのは読んで伝わってきます。そのことに当時の若かりし「私」は気づかず、恋の裏切りによって親友を死なせたと誤解する・・・これもKの真実を理解しないという点で、Kを二回殺してますよね。
恋に我を失った男同士の悲劇。
Kと私のやりとりがエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルスン』に着想を得ているのでは、という説は面白かったです。Kが善良をにない、私が悪をになう。一心同体の彼らは、片割れが死ねば、その片割れも死んでいくしかないという設定は、是非とも読んでみたいし、確かに私とKにも当てはまるような気がします。
お嬢さんに対しての言及も面白く、先生がなぜ妻には何も話さずに死んでいくのかも、自分達を狂わせた張本人には真実は教えてやらない、という理由は背筋が寒くなりました。私とKは同郷の幼馴染みで、私が部屋を分けて住まわせてやるくらいの仲です。その中に突如現れたお嬢さんという存在は、罪悪でもあり、神聖な存在でもあったでしょう。彼らの仲を永遠に引き裂くだけの魔力をもっていたのです。
誰も幸せにならない小説だ、と著者は指摘していますが、まさにその通り。
先生の余生は、「態度価値」であるという作者の指摘は、造詣深すぎて脱帽です。そんな言葉があるんですね。何となくわかるけど、それを明確な言葉と名前にしている学者が既にいました。漱石くらいを読みこなそうと思えば、様々な知識がいるんだなぁ。
この主要三人のこころを想像すると、現代人の抱える思いや悩みは、ここに帰結すると思うのです。
そんな小説を書いた漱石は、あの時代に生きながら、現代人より現代人らしかったのかもしれません。
こんな小説を書いた漱石は、『生』の肯定者だとか。『硝子戸の中』は読まねばなりませんね。
先生の遺書を託された「私」は看取り人であり、先生から信頼された唯一の人であり、死ぬ機会を与えたという人でもあります。Kと先生の生の歴史を受け取った私は、次は誰に引き継ぐのか。一見人が死んでばかりの小説ですが、その歴史を繋いでいくという視点で見れば、これは生の小説でもあるという著者の読みは、納得させられる部分が多く、まだまだもやもやは残るものの、一つの『こころ』の読みとしてはアリだなと思いました。 -
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ベストセラーの続編。2012年発行。
2011年の東日本大震災を絡めて、改めて自国に蔓延する憂鬱な状況について、1作目と同じく夏目漱石とマックス・ウェーバーの考え方を参考に語る。なーんちって。
以下、気になった点
○もはや営利活動は、一切のモラルや倫理、意味づけをはぎ取られて、スポーツと同じような競技となって勝者だけが生き残り、幸福の祝杯を飲み干す事ができるのです。
○自意識の突出。
○ホンモノの自分探し、あるいは自己実現のプレッシャーは、いつまでたっても終わることのない悪夢のような堂々めぐりとなって、いまの私たちに重くのしかかっているのです。
○ヤンネ・テラー「人生なんて無意味だ」←読んでみよ
○私たちは、この市場経済を、個人を超えた強制力をもつ避けようのないもの、未来永劫つきあっていかなければならない運命のような存在だと、何となく思い込んでいますが、そうではありません。人類の歴史のなかではたかだか400年の歴史しかもたない、新参者のシステムなのです。
○過去を大事にするということは、人生を大事にすることにほかならず、逆に「可能性」だとか「夢」だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度といえるかもしれません。
○人間の真価は「創造」「経験」「態度」。その中でも「態度」が一番大切。
○私は「愛する」ということの理想的なあり方は、相手が何をしようと、何をもっていようと、どう考えていようと、相手のありのままの状態を、丸ごとそのまま受け入れることだと思います。
○則天去私
○私たちは人生というものに対して、しばしば「この人生は、私にとって何の意味があるのか?」とか、「この人生は、私にとってどんなよいことがあるのか?」とか疑問を抱き、不満を吐き出します。そして、意味がないと思えば絶望し、最悪の場合は、自分の手で自分の人生を終わらせてしまったりします。〜中略〜
人生とは、「人生のほうから投げかけてくるさまざまな問い」に対して、「私が一つ一つ答えていく」ことだと考えたのです。
※まとめ⇒これがつまり「態度」。すべて自分の思い通りにすることは不可能。大震災を考えてみても明白で自然や運命の力には抗えない。全てを受け入れ、人生の問いに対して、真面目に答えていくしかない。
最近の日本の幸福の基準は「正社員/年収500万以上(仮)/恋人がいる/結婚している/子供がいる/持ち家がある/老後の心配をしない程度の貯蓄がある」などなど、結構ハードルが高い。そして、その基準を満たしていない人間は多く、またその絶望感たるや半端ではない。
そして、人間にはできないことはなく、可能性は無限大などという、やたら高揚感のある自己啓発本の数々の無責任なあおり。
本当の自分の生き方をしていくことの難しさよ!!
という感じでした(笑)。 -
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在日2世で政治思想史の研究者として知られる姜尚中と、オーストラリア在住の賭博師・森巣博の2人が、ナショナリズムについて語り合った対談を収録しています。
第一部では、姜の著書『ナショナリズム』(岩波書店)の内容を振り返りながら、近代・現代の日本のナショナリズムの歴史と現状について考察がおこなわれます。第二部では、コスモポリタンとしての生き方を選んだ森巣の人生に、姜が切り込んでいます。
「民族」のアイデンティティに関する屈折した悩みを語る姜の、ともすれば重くなりがちな思索が、「無頼」に生きる森巣の自由闊達な立場に通底していることが示されています。 -
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金曜日の仕事帰り、ちょっと寄り道した串焼き屋で、この本を手にぼんやり考えてみる。
著者は20世紀は心の病が発見された世紀である、としている。生きとし生けるものは何がなんでも生きようとするのが本能であるのに、自分から生きることをやめようとするのは不自然なことであり、そのような自殺が多発する現代は人類史を俯瞰するに大変不穏な時代である、と言う。その異常性は近代化と共に漱石の時代に始まったのだ、とするのが筆者の近現代観になっている。
しかし本当にそうだろうか。
心中という言葉が浄瑠璃と共に市民権を得たのは江戸時代のこと。そして支配者階級である武士には切腹を一種美化するカルチャーがあり、「こころ」の先生が自殺するきっかけとなった乃木希典の殉死も、江戸時代の武士たちの殉死・追い腹に起源を認めることができる。
「魔の山」で拳銃決闘に臨みながら自らの頭を撃ち抜いたナフタの思想的起源がどこにあるのかは知らない。少なくとも日本について言えば、死を美化する考え方は明治時代よりも寧ろ江戸時代に始まったと見ることができ、乃木の殉死も、例えばもう少し後の太宰治の情死のような事件も、前時代の残滓と見るのが妥当で、高度成長を経て高度に資本主義化した現代との連続性の方が寧ろ薄いのではないか。
などと考えに耽りながら、このような時間も筆者の推奨するところ、一種のダヴォス的な時間ではないかと考えてみる。人間には無駄と思える時間も必要。入社してから重役になるまで、30年間一直線で頑張れる人もいる。しかしそのような人ばかりでは会社も社会も成り立たないだろう。モラトリアムも心の成長の役に立つのだ、と。
つまるところ、筆者の憂鬱や危機感には過剰なものや必ずしも根拠が明確でないものもあるが、ダヴォス的な場所や時間は人間にとって必要なもの、という主張には深く同意できる。そう考えると、筆者手製の「こころ」「魔の山」の続編妄想ストーリーも、「過去を力に変え、心の実質を太くする」という本のオビも、ようやく私の心に落ちてきた。 -
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「半歩」というキーワードに心惹かれて、
読み始めた一冊。
高度に情報化が進み、人びとが個性を
発揮し始めた現代においては、数歩先を行くリーダーではなく、
常にフォロワーに対して、半歩を行くリーダーが求められる、
と韓国の金大中大統領を例にして、リーダーシップ論を説いた本。
納得することが多く、
また、読みやすく、特に「自分はリーダーに向いていない」
という人にお勧めです。
☆Key Point
・何かをしようとするときは、3度考えろ。
・長い歴史をよく対照して、自分たちがやった誤りを見つめることが、政治家には必要。
・「昨日の敵」は「今日の友」
・リーダーのスマートパワー=ハードパワー+ソフトパワー
・自由からの逃走;行き過ぎた個人主義の追求は、人を孤独にさせる。その結果、支配を求めるようになる。
☆7つのリーダーパワー
1、先見力;意味を付与する力(なんのためにするのか?)
2、目標設定力;具体的に何を目指すのか?
3、動員力;人びとをどう動かすか?
4、コミュニケーション力;説得力があるか?
5、マネジメント力;適した人を使っているか?
6、判断力;現場の知恵と古来からの知識があるか?
7、決断力;決断の孤独(重責)に耐えられるか? -
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ネタバレ著者について:姜尚中(カン サンジュン)さんは、田原 総一朗さんが司会を務める「朝まで生テレビ」などにコメンテーターとして出演している方です。他のコメンテーターが熱くなって論点がわからなくなっている状況でも、冷静に問題の本質を明確にしたり、新たな視点を提示したりする気になる存在でした。
本書は、夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、最後まで「悩み」を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。とのこと。久し振りに手ごたえのある本に出会いました。
◆姜尚中さんの心にしみる言葉・・・
「信じる」ということは、「何かを信じる」ということではなく、「自分を信じる」ということになると思います。言うなれば、「一人一宗教」「自分が教祖」なのです。
意識してようといまいと、人は信じるところのものから、ものごとの意味を供給されます。意味をつかめていないと人は生きていけません。
しかし、どれにも納得できないなら、何にも頼らずに、自分の知性だけを信じて、自分自身と徹底抗戦して生きていくしかありません。
ザックリ分けると、世の中には「何も分かっていないのに、何でも分かっているかのように振舞っているいる人」と「かなり分かっているのに、確信が持てなくて逡巡している人」がいますよね。また「哲学などをこねくり回さなくても、人間を把握している人」と「頭でしか人間を理解できない人」がいるような気がします。私は、どちらかというと、あまり分かっていないのに、分かっているかのように振る舞いがちだし、感性で人間を理解できない人なので、止むを得ず時間を浪費して、自分を理解しようとしています(^^; -
Posted by ブクログ
ネタバレこの本の中で一番ぐっと来たのは「過去を大事にする」という訴えでした。「『可能性』だとか『夢』だとかいう言葉ばかり発して未来しか見ようとしないのは、人生に対して無責任な、あるいはただ不安を先送りしているだけの態度」との指摘でした。
私もどちらかというとこの性質で、自分の人間関係も焼き畑農業的だなぁ、と反省したこともあったので、ぐっと来た。
この未来ばかり見てしまうのも市場経済にどっぷりはまった現代人の一つ特徴であるらしいが、それにしても自分はひどいもんなぁ、と。
いい言葉に出会えましたわ~。
ちなみに、この「過去を大事にする」ということは裏返せば「今を大切にして、いい過去をつくる」ということでもあるらしい。一回性、唯一性を生きる人間として、この一瞬一瞬の態度がすなわち重要。
大きな・立派と言われる仕事について中途半端なことや不正を行う人より、小さな・あるいはささやかな仕事を一生懸命こつこつとやっている人間の方が態度としては立派なんだとね。
結局は、この真面目に生きてみる、というところに戻ってくる!