横溝正史のレビュー一覧
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表題作「蝶々殺人事件」を含む三篇。
緻密なトリックが素晴らしかった。殺害場所はどこなのか、どうやって運ばれたのかなど予想の遥か先を行く展開に心踊りました。
読者への挑戦があったのも新鮮。
横溝先生、クロフツやカーがお好きだったんですね。
蜘蛛と百合では珍しく女に誑かされ我を忘れ、由利先生に悪態をつくほど取り乱す三津木くんが新鮮。
その先生が助けてくれなきゃ一体どうなっていたことやら。まだ青いんだな。
薔薇と鬱金香ではすんでのところで事件を解明した二人がナイスプレイでした。前作の憑かれた女が悉く悲恋だったので、うら若いカップルが死なずにすんでとてもほっとした気持ちです。 -
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1959(昭和34)年作品。金田一耕助もので、テレビドラマ化もされてやや有名なものだが、横溝正史の戦後の傑作群の中では後ろの方に位置する。『幽霊男』(1954)はちょっと粗雑な作品で、作風が変わってきてしまったかなという感じだったが、本書はこれよりも後で、『白と黒』(1961)のほんの少し前だ。
金田一耕助ものの長編の場合、大量の人物が登場してくる場合が多い。私は人の名前を覚えるのが苦手だ。リアルでも小説を読む場合でも。ゾラの『ナナ』なんて、冒頭から圧倒的にたくさんの人名が出てきて、それを全然覚えられないから後々困ってしまうのだ。
最近はこのように人物の沢山出てくる場合には、メモを取りな -
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ネタバレ金田一耕助シリーズも、これでコンプリート。
あとはジュブナイル作品のみ。という時点での一冊。
まさか角川文庫で復刊するとは!
扉の影の女
金田一耕助のこの時点のおおよその年齢、食生活、探偵としてのやる気が起こる時、虚無感に襲われる時それはどんな時か。お金の使い方、など人物像にせまる記述も多い。
結末もいい終わり方をしているし、最後に犯人がどう捕まったかも、しっかり書かれているのでそこもスッキリ。
鏡ヶ浦殺人
海辺のシリーズ(パラソルで隠れて…とか砂に埋もれたときに…とか)みたいのかと思ったら、そうではなかった。ゴムマリのトリックは他で読んだのですぐわかった。
こちらは…ひどいやつが結構いた -
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29歳の寺田辰弥は、ある日弁護士の諏訪から、自分が八つ墓村の田治見家の跡取りであることを教えられます。ところが、彼を迎えにきた祖父の井川丑松が、何者かに毒を盛られて殺害されます。さらにその後、辰弥のもとに八つ墓村に帰ってはならないという脅迫状がとどけられます。
八つ墓村では、辰弥の父親の要蔵が、32人の村人を殺害しその後行方不明になるという事件が起こっており、辰弥の帰郷を快く思わない村人たちがいました。しかし辰弥の大叔母で田治見家をとりしきっている小梅と小竹は、辰弥の従兄である里村慎太郎に田治見家の遺産を継がせないために、辰弥をさがし出して村に呼びもどすことをきめたのでした。死んだ祖父に代わ -
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ネタバレまぁ、面白いのは分かるけどやっぱり自分の好みではないかな。
特に見立ての理由であったり、リカが土蔵に影を映した理由とかっていうのはほとんど説明されていない。どちらが良い悪いというわけではなく、必然性を重視するかどうかは好みの問題。
(おそらくほとんどの本格好きにとっては必然性は重要なポイントではあるのだが)
見立ての理由に関しては、その手毬唄を一番よく知っていた多々良に罪を着せるため、というのが仄めかされてはいるが、犯人が犯人自身しか知らない歌に見立てるというのは有り得ないのでさすがに成り立たない。
だが、もう一つの「一人二役」トリックは面白い。"どちらが加害者でどちらが被害者な -
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ネタバレ収録された2話は、実写にするにはいろいろな意味で難しい話。
どちらもストリップ業界の話かつ男女の愛憎話だし。
特に『火の十字架』は遺体そのものがえげつない。
作中でも言われていたが、グロさではかなりのものだと思う。
犯人と被害者たちの関係性の根っこ部分もかなりえげつなかったけれども。
『魔女の暦』は、金田一探偵が間に合わない話。
彼は事件を未然に防ぐ探偵ではないからなあ。
なので、全ての殺人が終わってから唐突に解決編に入る。
こちらは本来の目的のために別の殺人を犯すその怖さが印象的だった。
殺人が起きるのに、犯人を絞り込めずやきもきしているところに更なる事件が発生。
犯人を追い詰める道筋は非 -
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横溝正史の初期短編集で、1933(昭和8)年から1936(昭和11)年の作品が収められている。はっきりとミステリとも怪奇小説とも言えないが、それに近い作品群だ。
巻頭「鬼火」(1935)を読み始めて驚くのは、非常に文学的興趣のある文体で、語彙も素晴らしく豊かなことである。昭和10年前後の文芸作品として遜色のない文章だ。本書収録の全編にわたってハイレベルな文学性が見られ、ただ、物語が怪奇や殺人への興味の方に振れているために、芸術小説とは見なされなかったのであろう。こうした文体を駆使する能力があったのに、ずっと後年、1960年頃(『白と黒』)にはすっかり語彙は減り、ありふれた軽い文体へと次第に