磯野真穂のレビュー一覧
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哲学者宮野さんは各種のエビデンスと統計データを理解し,主治医を専門職セクターにいる存在としてリスペクトする、物分かりのいいがん患者である…
しかし彼女は病気で不安に駆られる中で、合理性で未来を予想して自分を守ろうとしていたことに気付く
そこで見失っていたもの,世界への信頼と偶然(まさに彼女が20年間研究していた九鬼周造の哲学)に生まれてくる「いま」に身を委ねる勇気だった
宮野さんから言葉を引き出すのが上手い人類学者の磯野さん、時間とは物理的時間✖️深さという…
2人の往復書簡はまさに宮野さんの具合がどんどん悪くなり、救急車で運ばれてICUに入り、、またほんの束の間持ち直して(おわりに)と(謝辞)をギリギリ目を通して、最期の最後まで哲学の言葉を紡いで「この世は人と人が偶然出会い、タイミングをつかみ合い、運命と変化して、他者と生きる新たな時が生まれる」この世が愛おしい,と締めくくる彼女の言葉に打たれた…
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医療従事者にぜひ読んでほしい。少なくとも私は読んでよかったと心から思う。自分の看護観がいかに一方通行なのか思い知らされるような感じがした。でもそれが決して押し付けがましくなくて、論理的に書かれているからじんわりと受け止められる。
患者さんの意思を尊重する、このワードを医療従事者はある意味都合よく使っていることを実感を伴って自戒した。その上で医者がある程度の道筋を決めてあげる、この案には同意できるところもある。いかに患者さんが狭い選択肢の中で決断を強いられているか、そこに医療従事者がたてる道筋がどう介入するのか、今一度よく考えたいと思う。
後半になればなるほど、おふたりの関係性が深まっていくのが手に取るようにわかる。お互いの領域をいい意味で踏み抜き、鼓舞しあう姿が印象的だった。 -
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固定しない。固定されない。人間はもっと多面体。
同名映画の原作にもなった、がん患者の哲学者・宮野真生子さんと、人類学者の磯野真穂さんの往復書簡です。たった2ヶ月間の往復書簡ですが、この短期間に人はここまで魂を分け合えた実感を得ることができるのかと、わたしには想像できないほどの驚きがあります。ノンフィクションの強さは、「本当にこんなやりとりがあった」「本当にこんな人たちがいた」「本当にこんな経験があった」という実存的な説得力にあると思います。
生と死を見つめるような哲学的な対話ですから、さぞかし重苦しい内容なのではと読む前は思いましたが、装幀はポップだし、基本的におふたりは友人同士ですから、なごやかさもあり、ピリッと緊張感が走ったり、くだけてみたり、真面目に問いを立てたり答えたりと、とても読みやすい作りでした。
この本の中で印象的だったのは、「固定化」についてです。この本の中で宮野さんは、他人が勝手に「若くして転移に見舞われた不幸ながん患者」という固定されたイメージ、一面的なレイヤーでしか宮野さんのことを見ないことへの強い不満を訴えています。宮野さんの手紙から引用するなら、「不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです」これを読んだときに膝を打つ思いでした。
その後に続く、レッテル貼りやバイアスに抵抗できずに思考停止なんてするな。固定されて、点になるな。生きた線を描くのだという強いメッセージに深く共感しました。人間はさまざまな役割や肩書のレイヤーを幾重にもおり重ねた存在です。宮野さんでいうならば、彼女は哲学者であり、女性であり、著者であり、野球ファンであり、友達であり、娘であり、パートナーであり、がん患者であり、、、無限にあるそのレイヤーの中から、がん患者だけをとりあげ、がん患者への適切な、間違いのない態度だけをとって接することは、はたして本当に誠実なことなのでしょうか。
そう考えると、なんて世の中は固定化に満ちてるんだと思えてきます。偏見、正義の主張、政治発言。そこかしこに固定化はある。でもそれは、わたしの中にも確かにあるのです。他人はもちろん自分自身をも、勝手に作り上げたストーリーの登場人物として組み込んで、固定化する。そんな経験は何度もあります。それは、ある程度のところで足場を固定しないと、次の考えに向かえないから。
でも現実に様々な気持ちを感じながら日々を生きているわたしたちは、四捨五入してバッサリ切り捨てられる数字のようにはいきません。感情の世界では、あなたの四はわたしの四と同じとは限らないからです。だから固定化せず、固定化されず、たえず揺れ続けることを怖がってはいけないと思います。細い足場の上で静止するでもなく、下に落ちるでもなく、やじろべえのようにユラユラ揺れることが自然なんだ、と。退屈と苦痛のあいだで揺れ続けるのが人間だとショーペンハウアーも言っていました。白や黒ではない、そのあいだの広大な灰色のグラデーションの領域を行きつ戻りつすることが、今を生きるうえで大事な姿勢ではないかと思います。
後半、磯野さんは相当な覚悟をしただろうという想像に難くない、あるお願いを手紙に託し、宮野さんに伝えます。重病人へのマナーというものがあるのなら、それを踏み越えるようなお願いかもしれません。病人を気遣うからこそこういうことは言ってはかわいそう、こういうことはやっちゃいけないものだという思考停止をせず、真正面から心をぶつけるような磯野さんの言葉に胸が熱くなる思いでした。一流のアスリートの凄まじいラリーを見る時、説明のできない感動が湧き上がることがあります。それと同じ感動かもしれません。「死ぬんじゃねーぞ」はややドラマっぽすぎるとも感じましたが、磯野さんが真正面からぶつかった最後の最後に照れ隠しで道化を演じたのかもしれません。もしこの場面を読んで、磯野さんが、がん患者である宮野さんに対して不躾であるように感じるなら、それは宮野さん、磯野さんを「がん患者」と「その友人」として読者である私たちが固定化していることになりえます。非・固定化の実践が試される、読み応えのある場面でした。
紙の本でこの作品を読んだ人であれば途中でハッとすることと思いますが、読み進めるうち、少なくなっていく残りのページが、そのまま宮野さんの人生の残りのページであることに気づきます。思わず息を呑みましたが、これに気づいた時、残りのページを読むことは「読む」という枠をはみだし、ひとりの人生を「見届ける」ことになったと感じました。本は人そのものであるとつくづく思います。
巻末では磯野さんが、本編では語られなかった舞台裏を振り返っています。手紙の上では「魂のやりとり」と言えるほどの濃密な対話が展開されたけれど、LINEでは宮野さんとたわいもない話も日常的に山のようにしてる、現実はもっともっと多面的だよ、と語っています。これまた読者の一方的な固定化をさらりと制止する、磯野さんの細やかさと誠実さを感じました。
宮野さんの最後の手紙より、印象にのこった言葉を最後に引用します。
「自分の人生に与えられた偶然の途方もなさに呆然とします。でも、その偶然を引き受け、私たちは生きねばならない。そのとき、自分で決めることの難しさに私たちは気づきます。」 -
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往復書簡集。磯野さんも宮野さんも、最初から結末がこうなるのはわかっていたと思う。そのうえで「負けねーよ」「勝ちに行くぜ」と言い合っている。死を克服して生き延びるのではなく、確実にくる最期まで生き抜こうぜという掛け声の交換だったのだろうと思う。最初から運命や確率を話題として始まった往復書簡は、宮野さんの専門の一つであった九鬼周造を参照しながら「(前略)偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する(後略)」(p235)という宮野さんの結論で幕を閉じる。宮野さんはここで、勝ち負けというモードから自身と他者の生と死を愛するモードへ歩みを進めたのではないか、と感じた。
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井上慎平さんの「弱さ考」で引用されていて手に取った一冊。
「弱さ考」では、人生で未来から逆算した選択をするのは可能なのかという流れで、その時のベストの選択をする他できないという考えのヒントとして取り上げられている。
全編読むと、人の一生とその中にある関係性、その関係性を選択する過程には、必ず説明しきれない偶然が作用しているというのが芯にあるのだと捉えている。
「にもかかわらず」というフレーズ、まさに人生はそのフレーズの繰り返し。
「にもかかわらず」の積み重ねで歩んだ道、その道々がラインとなり、踏み跡の深さが厚みを生む。
共著者である宮野さんと磯野さんの関係性、魂をぶつけ合うやり取り。
そんなラインが結べた二人が羨ましい。 -
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私はシンデレラ体重とは程遠く、何ならちょっと肥満寄りの体型になりかけている今日この頃だが、なぜだか今まであまり痩せたいと思ったことがなく、真剣に痩せる努力をしたこともなかったので、終始ピンとこないことも多かった。世の若い女性たちはそれほどまでに痩せたいと思っている、いや思わされているのか…
医療文化人類学者の磯野真穂さんのご著書(共著も含む)は3冊目になる。ちくまプラマー新書ということもあり、健康を害するほどに痩せたがる若い女の子たちに向けて諭すように書かれている。
他者から承認され「選ばれる」ために未成熟な「かわいい」にとどまろうとせず、早くから大人になることを怖がらないでほしいと語る著者。女性が客体化され「他者」として扱われることはフェミニズムの領域でもよく指摘されることで、本著でも女性用AVでの視点の取り方を例に、女性が男性から「見られる」視点を内面化していることを指摘するが、その要因を本能に帰することは思考停止だと喝破し、世界には女性の胸に性的に全く関心を示さない部族がいる例を出しているところは、さすが文化人類学者といったところで痛快だ。
危険なダイエット法として、①強烈な「タブー」を作ること、②大胆な変身の物語をもつこと、③カリスマのいるダイエットの三要素を挙げているが、これはダイエットに限ったことではないと思った。
食べることが、カロリーや栄養素といった数字に支配されるようになると、ふつうに食べることの喜びや、おいしいという感覚すら失われる。著者は、数字に支配された「人工知能的な」生き方は、日々変化し続ける「無限定空間」で生きる力を奪うと警鐘を鳴らしている。
さらに、数字は客観的なようでいて、そこには「管理」という明確な役割があり、管理者の価値観が大きく反映されるという指摘をしており、これは非常に重要なことだと思った。前に読んだコロナの本でも指摘されていたことだが、私たちが感じたり思ったりすることは、誰かに思わされている可能性がとても高いのだと思う。誰かというのは個人に限らず、国家とか文化とか社会とか、今回で言うとカリスマ的な指導者とか…
最後は、文化人類学をツールとして使い、「タグ付けし合う関係」から、一緒にラインを描く「踏み跡を刻む関係」を目指すことを提言してしめくくる。これは宮野真生子さんとの共著「急に具合が悪くなる」でも語られていたことだ。
中高生向けに書かれた過度のダイエットは危ない的な本だと思って何気なく手に取った本だが、生き方全般のことが書かれたなかなかに骨太な本で、たいへん読み応えがあった。 -
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面白かった。
思考法の転換がいかに大事であるか最近実感している。
インターネットが普及したことによって、点としての他者と自分という側面が顕著になっている節があると感じる。広い社会では点として人を認識しないと色々と手間であり、多様な他者を理解するのは時間がかかる。数字や客観的な肩書きで個人を「タグ付け」した方が楽である。
しかし、私たちはそのような社会の中で家族や友人に限らず、リアルで具体的な関わりの関係を築く。この中では「ラインを描く」ことを意識しやすいのではないか。そして、そのような関係が私たちの日々をつくる。
食べ物にまつわる摂食障害にまつわる、根本的な問題ついて、深く知ることが出来た。