【感想・ネタバレ】コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノートのレビュー

あらすじ

最後のお別れすら許さない病院、火葬すら立ち会わせない予防策、子どもたちへの黙食指導、至る所に設けられたアクリル板、炎天下でも外せないマスク、連呼された「気の緩み」――あの光景はなんだったのか?

人類学者が「不要不急」のフィールドワークから考えた、「和をもって極端となす」日本社会の思考の癖、感じ方の癖!

【本書の内容】
コロナ禍で連呼された「大切な命」というフレーズ。それは恐らく、一面的には「正しい」フレーズであった。しかし、このフレーズのもとに積み重ねられた多様で大量の感染対策が、もとから脆弱であった人々の命を砕いたのも事実である。そしてその余波は、いまだに続いている。

もちろん必要な対策もあっただろう。しかし、「批判を避けたい」「みんながそうしている」「補助金が欲しい」といった理由に基づく名ばかりの「感染対策」はなかったか。そのような対策が、別の命をないがしろにしていた可能性はなかったか。忘却する前に、思い出す必要があるはずだ。未来の命を大切にするために。

“出会いとは、自分が予想し得なかった人や出来事との遭遇のことを指す。だからこそ、出会いの瞬間、私たちは驚き、戸惑い、右往左往する。2020年冬にやってきたコロナも私たちにとっては出会いであった。驚いた私たちは困惑し、社会は恐れと怒りに包まれた。あれからすでに4年が経過する。人でごった返す繁華街から人影が消えたあの時の風景に私たちはどのように出会い直せるだろう。”

「出会い直し」とは、過去に出会った人や出来事の異なる側面を発見することを通じ、それらとの関係を新たに編み直すことを指す。本書では、コロナ禍のフィールドワークで集めた具体例とともに、「コロナ禍と出会い直す」ためのいくつかの視点を人類学の観点から提供する。現地に赴くフィールドワークを、研究者自らの手でエッセンシャルから「不要不急」に追いやっていいのだろうか。感染予防のためなら、暮らしのほとんどは「不要不急」になるのだろうか。

人間の生とは何か。人類学者が問いかける。

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Posted by ブクログ

すっかり日常を取り戻し、コロナ禍のことは既に遠い記憶となりつつある今日この頃。あらためて思い出してみると、色々と奇妙なことが起こっていたように思う。この本は、文化人類学というツールを使いながら、あのとき何が起きていたかを丁寧に検証し、同じ過ちを繰り返さないようにと警鐘を鳴らす大変有意義な本だ。ただ正直なところ、またパンデミックが起きたら日本人は同じことを繰り返すんだろうなという落胆も禁じ得ない。

たびたび発せられる「気の緩み」という言葉に着目したり、専門家=医療従事者の目線だけで「不要不急」が決められていることに疑問を持ったり、文化人類学という視点は非常に面白い。県境を跨いだ移動にあれほどまでに目くじらを立てていた奇妙さを、個人的身体・社会的身体・政治的身体の視点から読み解くと、私たちが県境を跨ぐ人に対して「道徳を欠いた人」と感じていたのは、我々が自然にそう感じたのではなく、政治や社会によってそう「思わされて」いたかもしれないということが浮かび上がってくる。これは私にとっては非常に恐ろしいことだった。

「疾病」「病い」「病気」といった概念を使った解説もとても興味深い。「疾病」は病気の生物学的な理解のこと。私は今まで、「病気」=「疾病」と信じて疑っていなかったが、「火垂るの墓」を例にあげて、同じ疾病であっても、時代や社会によって病気と扱われたり扱われなかったりすることを指摘されて、目から鱗が落ちた。さらに筆者は、病気を疾病と同一視することの問題点は、疾病の専門家(すなわち医師など)が社会にとって良い選択をできると勘違いしがちであることだと指摘しており、これはまさにコロナ禍で日本に起きていた問題だと感じた。

家族を看取りたい、故人を見送りたいなどといった、人間としての当たり前の感情や営みが、「不要不急」のものとして軽視され、「何を差し置いても感染対策」が優先される世の中は、今思うと異常だったのに、「仕方がない」と諦め「させられて」いた。最終章では、そうした世の中の風潮に抗い、独自の感染対策を行いながら、普段通りのケアを実現した介護施設「いろ葉」の取り組みが紹介されている。

「何かあったら責任が取れないから」と、多くのことが制限されたコロナ禍において、「「責任を取る」とはなぜ自分がそれをやったか説明できることだと思う」と言い切った、いろ葉代表の中迎聡子さんには敬意を表したい。たまたま最近出会った「ディグニティ -旅行医の処方箋-」という漫画も似たテーマで終末期医療の矛盾と葛藤を描いており、本書を読んでいたことでより深く考えさせられた。

また、コロナ後遺症に関連して、不調に名前がつくことについて論じた章も非常に考えさせられる。病名はつかないけれど、心身ともに仕事に支障をきたす程度の不調に悩まされることは、私にもよくあった。そうした名もなき不調に「コロナ後遺症」と名前がつくことで、周囲の反応が一変する。「火垂るの墓」の節子ではないけれど、同じ程度の症状なのに、心身の不調が社会の課程を経ているか否かで、周囲からの扱われ方や本人の感じ方すらもガラリと変わる。名前のついた不調と、名前のつかない不調。どちらが大変かといった問いは不毛だし、名前がついた方が良いのかというと、それもどちらでもないだろう。

ただ、引用元の生湯葉シホさんのエッセイも読んでみた感想としては、たしかにそこに存在する「不調」というものに、もう少し目を向けても良いのかもしれないと思った。名前がついていようが、ついていなかろうが。肉体の問題が、精神の問題に劣るかというとそんなことは決してない。“嫉妬も、坐骨神経痛の痛みの前には退陣してもらわねばならない”というヴァージニア・ウルフの言葉はとても痛快だ。

本書を通じて、さまざまなことを考えさせられた。先だってのコロナ禍のことをしっかりと検証し反省することは必須だと思いつつ、冒頭にも述べたようにまた同じことが起こるのだろうなという諦めの気持ちが強い。願わくば私の生きているうちに再びパンデミックが起こらないことを祈るばかりだ。

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2025年10月26日

Posted by ブクログ

・パーティション
2021/4 飲食店に向けての第三者認証制度のなかで必須項目の1つとなる
2021/8/19ニューヨーク・タイムズ記事、パーティションのエアロゾル滞留が感染リスクを高めるという内容
2022/7/14 感染拡大防止のための効果的な換気について、パーティションは空気の流れを阻害しないように設置されなければならない
効果に疑問符がつけられたにもかかわらずパーティション設置要項は変更なし
5類移行後に徐々に姿を消していく
・新型コロナと出会い直す 武漢肺炎
実際に掛かる前に情報によって知る、直接経験を書いたまま情報経験のみが圧倒的に先行
福井新聞に掲載された感染者相関図の人気、社会的な圧力
間違った行いをする人、迂闊な人が感染する病気として社会化
不調にコロナ後遺症と名前がつくこと、周囲の理解が得られやすくなる
名前がある不調と名前がない不調、実際には同じものだがどちらが良い?
・県外リスクの作り方
県境を超えたらリスクが高まるのは奇妙
県、行政がこのリスクを繰り返し強調
県外の人が油断してやってくるという状況?実際には福井県の2020/7のGWの県外からの流入は平日が20%減、土日休日は35-45%減
行政目線の境界を住民目線の境界に変換することに成功
集団に危機が迫るとき、境界周囲の警備が強化され、その様相は構成員の身体に映し出される
ものを取り入れる「口」と排出を担う「尻」
マスクが売り切れると同時にトイレットペーパーも売り切れる
県外に出た身体は他者のことを思いやることのできない人、不要不急の行動をし感染リスクを上げる危ない人という表象を持つ
県の公式会見やポスター、新聞記事で繰り返され個人的身体のレベルに入り込み、直感的に嫌悪感を感じるようになる
5類移行後は、県境を越える恐怖や罪悪感はほとんど消えている、簡単に操作されうるもの
・新型コロナと気の緩み
2020/1-2023/8/15までの朝日新聞記事で気の緩みが現れる記事は160件で126件がコロナ関連記事、2020と2021に集中し2023は5件のみ。
実際には2020,2021はメディアがコロナ関連の情報で埋め尽くされ感染拡大が最優先されていた、国民が最も「気を引き締めていた」時期ではないのか?
気の緩みを最も多く使うのは政府、自治体の関係者が4割、医師などの専門家が2割など。
コロナ専門分科会でも気の緩みが話される
2018,2019はインフルエンザの大流行が起こり推計患者数は200万人以上
コロナ禍以降、マスクはその人が誰でどんな人かを表す衣装コードになった
・緊急事態宣言と雨乞い
雨季が近いタイミングで雨乞いすることで自分たちの心のリズムを同期させる
感染のピークで緊急事態宣言を出せば感染者が減ったように感じることができる、感じられることが大切。
コロナ禍という言葉。禍という字が入ってるのは日本人の集合意識が働いている。
感染拡大は悪しき行いによってもたらされるという世界の人格化。
災いをもたらす人々の行動を正すという道徳的意味合いが緊急事態宣言にある
・私達はなぜやりすぎたのか
精神論による失敗
批判は好ましくない、なぜなら頑張っているからだ
コロナ分科会の意識は医療体制は大きく変えれないから国民の行動変化で乗り切るしかないという信念
リスクの実感が集合的に醸造され、呼応する形で起こった社会変化が年単位で保持される
日本は明文化されていない慣習の力で社会の統合を図ることができるユニークな国家
・介護施設いろはの選択
周到な準備とユーモアで利用者の暮らしと命を守り抜いた
何を差し置いても感染症対策ではない道へ

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2025年07月26日

Posted by ブクログ

この本を通じて、私はコロナ禍での日本社会の対応が、どれだけ多くの混乱や不確実性を生んだかを再確認しました。県外リスクの指摘やアクリル板の設置、さらには国民の気の緩みが感染拡大を招いたという論調など。様々な対策や指導が行われましたが、それらが果たしてどれほど有効だったのか。
日本人がそのような状況下で、身体的に「基本だ」とすり込まれた行動様式は、理論や合理的な考えが入り込む余地を失わせ、感情や不安に基づく対応が優先されるようになったのではないかと感じました。

さらに、「あなたの無自覚な行動が人を殺す」というフレーズが、まことしやかな説得力があり、戦時中の日本国民の感情と重なる部分があると感じました。戦後生まれの私に、「戦争の何がわかる」と言われるかもですが、この本を通じて、同様の状況が繰り返されていると誤認かもですが、そう感じられました。
私自身の心の持ち方や社会への対応について深く考えさせられ、プロローグに記されている「名誉心を装った虚栄心が生み出す言葉の凄惨さ」という言葉は、現代社会が抱える問題を見事に表している。この本全体がそのテーマに集約されていると、これも誤認かもですが、そう感じました。

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2024年08月24日

Posted by ブクログ

「「責任を取る」とは、なぜ自分がそれをやったかを説明できることだと思う」
介護施設いろ葉の施設長の言葉からは、責任者としての覚悟がひしひしと伝わってくるが、果たして当時、日本の国としてのリーダーにその“覚悟”は有ったのだろうか。そもそも地域の事情を汲まない一斉休校や非常事態宣言を出す意味はどこにあったのか。
安倍氏亡き今となってはそれを確かめるためには関係者の記憶や議事録等に頼るしかないけれど、
同じ轍を踏まないために、“説明”を求め続けたいし、自分も自身のリーダーとして何があったか、その時どう考え行動したかを忘れないようにしたい。


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2024年07月12日

Posted by ブクログ

こういう視点もあるのか…という意味で興味深く読みました。データの客観性に対して懐疑的(人類学というのがそういうものなのかもしれません)な立場であればそういう風に考えるのだな…ということは分かりましたが、個人的にはちょっと同意できませんでした。あと、「同調圧力」に関する考察に関してはなるほど、と思いました。

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2025年01月01日

Posted by ブクログ

コロナ禍はコロナ対策としての正義が闊歩した。それに対する検証としてアフターコロナの今として書かれた書。あの時は仕方なかったではなく、繰り返さないためにはどうしたら良いかとのことだが、著者は医療が力を持ちすぎたとの評価だが、持ちすぎたのではなく、政府が医療に全て責任を押し付けようとしたのが現状であり、そもそも有事に対応できない公衆衛生体制、医療体制でなかったことに関して、理解があるのか知らないのか、その部分の評価が全くなく、片手落ちな総括な気もする。ただ今、国としてきちんと総括をしておくことが必要だが、総括はされるのだろうか。

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2024年10月19日

Posted by ブクログ

基本的に医学の論理が人の思考行動規範に良くも悪くも多大な影響を与えてしまったコロナ禍を、人類学の眼差しから見つめ直す重要性はわかるし、問題意識も概ね合意できる。
一方で、緊急事態宣言を雨乞いの儀式に準えて「感染にも降雨にも周期性があり、〜周期に合わせて儀式を行えば、すなわち宣言を発出すれば、それら周期に人間が関わったという実感を作り出すことができる」という指摘はあまりにも視点が一面的すぎて少し辟易した。
失敗の本質を安易に引用して当てはめるには、特に政治と専門家側から見た像を無視しすぎている

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2024年08月23日

Posted by ブクログ

コロナ禍を自分とは違う観点から見つめ直してみたくて読みました。

考え方は概ね理解できましたが、気持ちの面でうまく整理できませんでした。

本書を読み、コロナ禍の印象はここの体験で大きく変わるのかもしれません。
だからこそ、本書のように専門領域からの分析と発信が大切なのだと思いました。

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2024年06月14日

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