先日神戸へ帰郷した時に新幹線の中で読み始めた本です、この本には著者の呉座氏が「敗者」と認定した戦国武将や昭和の軍人を取りあげて、優秀であったにも関わらず、なぜ「敗者」として歴史に記憶されることになったのかを解析しています。
敗者も勝者も共通して優秀な人であるにも関わらず、なぜ違う人生を歩むことになってしまったのか、これを考察することは私の今後の人生にとっても役に立つ情報だと感じます。
成功は再現するのは難しいけれど「失敗」は同じようにやっていれば必ず失敗する、というのは、私が人生で体験してきたことです。これから呉座氏の本を少し追いかけてみたくなりました。
以下は気になったポイントです。
・華麗な 成功は必ずしも 勝利の方程式に基づくものではなく、偶然や 幸運に支えられているだけであることが多くある、一方で、 敗北 や失敗には明確な原因がある。であるならば、 むしろ歴史上に無数に存在する凡庸な失敗を反面教師 とする方が役に立つのではないか(p4)
・源義経の直属 武力は脆弱であったが、 そんな 義経が平氏を討つことができたのは、 畿内・西国の 武士たちを救護することに成功したからに他ならない、 だがそれは 義経の個人的魅力によるものではない。 そんな彼らを 義経が統率し得たのは、 頼朝の代官という地位と、 後白河法皇による平氏追悼 命令である(p36)
・西郷隆盛が明治10年に起こした 西南戦争は、最大にして 最後の士族反乱、 さらに言えば 日本最後の内戦である。 西郷軍と政府軍には軍費の差が大差(70vs4160万円)であった、 西郷軍には海軍がなかったので 常識的に考えて勝てるはずがない戦いであった(p60)
・鹿児島では 征韓論 政変後に不満を感じて 帰国した士族たちが主導権をを握った、このため 鹿児島県は全国で唯一、 西南戦争に至るまでほぼ 地元出身者だけで県庁を固め 独自の施策を行ったため、あたかも 独立国の様相を呈した(p63)
・西郷軍は 前装式のエンピール 銃や ミニエール銃 を主軸とせざるを得ないのに対し、 政府軍は元込め式のスナイドル銃(1分間に6発発射可能)を 相当数 保有していた。大規模な銃撃戦 を想定していなかった西郷軍は開戦直後から 弾薬の補充に苦しむことになった(p72)
・政府軍と西郷軍の勝敗を分けた最大の要素は、 海軍力である。 政府海軍は 軍艦 19隻、将兵 2280名を動員して参戦した。政府軍は汽船の機動力・ 輸送力 そして 電信を生かして、西郷軍の機先を制し、 物量において西郷軍を圧倒した(p78)
・山本五十六が斬新な作戦を構想しながら、 その作戦 の実行を現場に丸投げしたため、 山本の作戦 意図を現場が正確に理解できず、 真珠湾攻撃 の第2 撃を簡単に断念したと結論付けられる(p97)
・ 当時の日本海軍の 作戦指揮系統は、軍令部と連合艦隊の2階建てになっているという 欠陥を抱えていた、 現代風に言えば 連合艦隊は 本社 本部(軍令部)と 現場(機動部隊)の間に挟まれた 中途半端な組織であった。そのため 連合艦隊司令長官である山本の判断は、本社的でも現場的でもない 極めて 中途半端なものになってしまった。戦争の対局を踏まえず 軍令部を押し切る形で ミッドウェー作戦を決定に持ち込んだのは 現場的であるが、 連続作戦で疲弊していた 機動部隊からの作戦 延期を求める声を 山本が無視したでは 本社 的である(p121)
・織田信長の経済的援助により危機に瀕していた朝廷の財政状況は劇的に改善された、朝廷が信長を 敵視していたとは考えられず、むしろ スポンサーである 信長の観心を 買うことに必死であった(p127)
・明智光秀の 敗因は 、秀吉の中国大返し という情勢の急変に対して 機敏に対応できなかったことにある。 足利義昭 との 提携に舵を切るタイミングがもう少し早ければ、あるいは 歴史は変わったかもしれない。 織田信長は部下に逐一報告を求める トップであった、 明智光秀は信長に事細かに指示を仰ぐことで 信長の信頼を勝ち得た、 そのような経験を重ねてきた 光秀にとって、刻一刻と変化する状況に対応してトップとして即座に適切な判断を下していくことは極めて困難であっただろう。 上司に判断を仰ぐ 立場から、自ら判断を下す 立場へ、 この立場の変化に応じて ビジネスパーソンは自身の行動規範を書いていかなければならない(p145)
・西軍の大阪城占拠と「内府ちがいの条々」によって、家康は危機に陥った。家康が意図的に三成 ら を 挙兵 させたと考えるには無理があり、 この意味で 三成らの挙兵は家康の虚をついたものであり、 作戦を立案し指導したと思われる三成の手腕は正当に評価されるべきである(p167)
・結果論ではあるが、 石田三成 ら が 大垣城を出たのは失敗であった、 関ヶ原合戦の 当日 毛利元康・ 小早川秀包・立花宗茂ら西軍が近江大津 城を攻略した、 三成が家康との決戦を急がなければ、 大津城と大垣城で家康 ら 東軍を攻撃する体制を取れたであろう、 こうなった場合、家康は窮地に陥ったに違いない(p179)
・西軍を「 石田・毛利 連合政権」と評したが、そのようないびつな権力構造 こそが 西軍の最大の弱点であった。結果的に 西軍は意思決定に多大な時間を要することになり、 家康の機敏な動きに対して常に後手に回った。 三成はこの弱点を深く認識していなかったように見える、 豊臣秀吉の鶴の一声で全てが 迅速に進む 環境に慣れていたためであろう、 三成は豊臣政権という確固たる組織があるときは十二分に 活躍できたが、 西軍 という新たな組織を指導・ 運営する上では不適格であったと言わざるを得ない。 三成の失敗は組織作り、 意思決定プロセスの確立が今も昔も重要で、 そして困難であることを教えてくれる(p189)
・幕府のみの利益を追求する 田沼意次の政策は当然のように諸方面からの激しい反発を受け 立ち往生した、グランドデザイン なき 場当たり的な成長戦略が逆効果であることを教えてくれる(p209)
・承久の乱以降の日本においては武家が政治を主導した。 これはまさに 武家政治である、 逆に言えばそれ以前は厳密には武家政治ではない、幕府の影響 力は非常に大きいものだったが 政治の中心は朝廷に存在した(p217)
・信長は 所領の大きさを貫高(銭換算)で表示するか 石高(米換算)で表示するかは 統一せず、 現地の慣行を踏襲したと される。尾張・伊勢では貫高表示、五畿内や近江・越前・西国では石高表示という具合に両方式を併存させた、原則として1つの土地には一つの領主と1人の耕作者だけがいる(中間搾取を排除)形に持っていくのが 近世的な知行制であるが、 信長はそれを志向しなかった。敵の知行を奪って、味方や家臣に恩賞として配るだけで検地によって 石高 を把握・ 確定しようとは考えなかった。 北条氏は検地に基づいて 家臣に領地を給付し 百姓の年貢 高を定める方式を70年前から導入していた。彼の方が信長より 先進的である(p228)
・楽市令は取引を巡る 暴力事件などの禁止、 市場での売買に賦課される営業税の免除、 地上への入場料の免除などによって商人の来場を促して市場振興を図る法令で あり、多くの 大名によって発令されている。信長の独創性は、 従来から存在する 楽市令に「楽座」を組み合わせ「 楽市楽座」 というキャッチフレーズを創出したことにある(p233)
・信長は「楽座」を謳い、座の特権を否定した。座の構成員ではなくても自由に営業することができるようにした。 ただし 信長は座一般を廃止したわけではない、岐阜の加納市場、 安土の城下町 など、 特定の市場に限ってのみ「楽座」を 実施した。座の中でも最大規模の座として、 大山崎の 油座があったが、引き続き 活動を認可されている。座が独占権を持っていたのは、 将軍・ 公家・ 寺社などに献金をし、 その権威を後ろ盾にしていたからである。 信長が 京都・ 奈良の座を廃止すれば、 この地域の救世力を全て敵に回すことになる。 信長にとって重要なのは 経済振興ではなく、 領土の維持 拡大 であった(p235)
・信長は人の上に立つものとして致命的な欠陥を持っていた、 目下の人間が自分に対して 抱く 不満に気づかず、着 立ててやった 自分に感謝しているに違いないと思い込んでしまう。 信長は 抜擢した人間をとことんまで 使い倒し、用済みになれば左遷・ 追放・ 粛清する。 これでは 取り立てられた人間であっても不満を持つのは当然である。企業経営者は管理職は、信長の人使いを反面教師 とすべきである(p244)
2026年4月24日読破
2026年4月25日作成