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室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(一四六七~七七)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の序曲とも評されるが、高い知名度とは対照的に、実態は十分知られていない。いかなる原因で勃発し、どう終結に至ったか。なぜあれほど長期化したのか――。日本史上屈指の大乱を読み解く意欲作。
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Posted by ブクログ
興福寺の僧による日記を主なベースとして、応仁の乱前から、乱後までを詳しく紹介してくれます。ただ登場人物と年号が多すぎて、巻末の年表に頼らないと、前後関係がわからなくなります。なんとか読み終えた感想としては、室町版「仁義なき戦い」をダラダラと続けていたのだなあと思いました。応仁の乱のはるか昔に、ローマ...続きを読むがカルタゴをザマの会戦(アフリカ大陸)で破ったことを思うと、本書に描かれている争いのスケールの小ささに悲しくなりますよ。
名前は知っているがその内実はほとんど知られていない応仁の乱。そのあまりの縦横無尽ぶりに高校の教科書でも概要以外はさじを投げるほどだが、本書ではその応仁の乱を大和国・興福寺・畠山氏の諍いから方程式のように紐解いていく内容となっている。 大元は6代将軍足利義教の短気が尾を引いていること、日野富子と足利義...続きを読む視、細川勝元と山名宗全の関係は義尚誕生時点でも決して悪いものではなかったこと、実質的には勝者のいない泥試合でも形式的には結局どちらの勝ちで終結したのか、応仁の乱は何をもたらして戦国時代に繋がっていったのかなど、視点を変えるだけでこれだけ明瞭になるものかと非常に驚く(ただ、これでもまだ相当に複雑ではあるが…)
戦国時代の契機となったとされる応仁の乱を大和国興福寺の視点を交えつつ描く。戦国時代の始まりは、応仁の乱とされるが、明応の政変がきっかけと著者は指摘。応仁の乱後もかろうじて維持されていた守護在京制は、明応の政変を機に完全に崩壊し、守護は国元帰り国人を統率せねば領国を維持できなくなった。
ロシア文豪による長編小説のような複雑さと面白さ。多くの人がしているように、登場人物とその相関図をメモしながら読んだ。800年も前なのに、こんなに詳しいことがわかっているなんて驚き。日本人って昔からほんとに筆まめ。
再チャレンして完読 人名が出るたびに ノートにメモ 人間関係を 見ながら 読んだ 引き込まれる内容 最高
戦国時代に突入する直前の、混乱した室町時代後期。 仏教勢力が支配する大和国の二人の僧が残した日記を読み解き、応仁の乱の起こる背景、直接の切っ掛け、戦況をつぶさに記します。 近年の歴史研究の飛躍的な発展を反映させており、紋切り型でない実情を交えた記述に感じるところが多くありました。 実際の領地支配の...続きを読む様子、地域支配者同士の小競り合い、室町幕府と有力な大名との関係などがわかりやすく感じました。 その後の戦国時代、織田信長が仏教勢力に手を焼きつつ徹底的に武力でけりを付けようとするのも尤もだと思う一方、筒井氏を守護に任命したあたりが、改革の放擲とも感じられる、破滅への転換点だったのかも。少々飛躍して思いを馳せました。 江戸時代の講談などを元に、俗説で語られる事の多い歴史ものとは一線を画し、最新の歴史学の成果を誠実に、しかもわかりやすく示した良書だと思いました。 主に用いる資料は二つ。 経覚による『経覚私要鈔』 尋尊による『大乗院寺社雑事記』 本書の特徴は「資料に書いてあるから」と、無責任に現代語訳する態度ではなく、 資料を記した二人の僧の性格にまで思いを巡らし、実際の出来事と記録の差異までを読み解いている点です。 「噂を鵜呑みにして、驚喜している。」 「×○と予測しているが、見事に的中した。」 というような感じ。 この効果がよく出ているのが、 古市胤栄についての記述だろうと思います。 従来の記述だと、文化人としての側面と、強権的に家中を統率する人物像が一致しません。 でも、この一冊を読むと「なるほどな。」と思いました。 同じく、足利義政についても「こんな人だったんだろうな。」と人となりが感じられるようでした。 実像をあまり描いていない重要人物が畠山義就です。 で、今wikipediaを読みました。なるほど、この人にはスポットライトを当てないのが無難だろうな、と思いました。
応仁の乱の全貌が結果的に乱の発生につながった紛争にまでさかのぼり、そこから丁寧に時系列に追って書かれている。応仁の乱の原因は単純な対立構造によるものではなく、対立の背景に加え偶発事象や意図の不一致などが重なったことが分かり、応仁の乱の全貌がある程度整理された。現実世界を単純化してとらえようとする風潮...続きを読むもあるが、この本はそうした風潮を否定し、複雑なままとらえる必要性を伝えるものであろう。
戦国乱世の扉を開いた応仁の乱はいかに起こり、なぜ長期化したのかを読み解いた本。 高校日本史の知識が身についていることが必要。授業だけでは見えてこない、戦の経緯や室町時代の本質を学べます。
経覚・尋尊という奈良 興福寺の僧侶の眼を通しての、新しい「応仁の乱」像。 経覚の父は関白・九条経教、母は浄土真宗大谷本願寺の出身。尋尊の父は関白左大臣一条兼良、母は中御門宣俊の娘と言う、所謂良家の出家者。当時はこのように公卿からの出家者は、大きなお寺の今で言う貫主の地位につけたようだ。 さて新しい...続きを読む視点の「応仁の乱」と言っても、高校の授業で、恐らく教科書の数行程度の記述でしかなかったと思われ、自分にとっては新しいも古いもなく、そのまま素直に読解することを心がけた。 この時代、敵になったと思ったら寝返ったり、親子・兄弟の間でも敵味方になったりと、実にややこしい。で、なかなか読み進めることが出来ない。 自分にとっての発見は、この時代、新しい文化が武家の経済的支援によって花開いていったということ。 15世紀後半以降、在国するようになった守護・守護代は、国元に立派な館を築いている。 実際守護館(守護所)の遺跡は発掘調査によって全国各地で見つかっているが、そのほとんどが平地の、一辺が150~200mほどの方形館で、その敷地内には連歌や茶の湯を行う建物「会所」があった。主殿・常御殿・遠侍などの配置も判で押したようである。主家斯波氏に対する「下剋上」を果たした朝倉氏の居城として知られる越前一乗谷の朝倉氏館も例外ではなく、地域的な特色・個性は見られない。こうした守護館の構造は、「花の御所」(室町殿)などの将軍邸を模倣したものだったらしい。 山ロも周防守護の大内氏によって、京都をモデルにした地方都市として整備された。しばしば「小京都」と呼ばれるこの都市の原型は、大内氏が抱いた京都文化への憧れによって生み出されたのであるとのこと。 一方、現実の京都はというと、守護や奉公衆の在国化によって住民が激減し、市街域も大幅に縮小した。 と言うことだ。 京都のほとんどが焼けただけではなく、新しい芽が外に伝播して行ったのね。
再読。以前にベストセラーとなった本だが、複雑怪奇な応仁の乱を前後を含めて、大和の僧の視点から論述しているが、分かりやすく読みやすい。
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応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱
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