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進む社会の分断。台頭する排外主義とポピュリズム。基本的人権・民主主義という我々の拠って立つ価値が足元から揺らぐ今、不安と絶望を乗り越えて社会を再構築する一歩は、「私たちはどこから来たのか」を知ることから始まる――サブカルチャー、社会問題からアカデミズムまで、戦後日本の変容を鮮やかに描ききった、宮台社会学の精髄。
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Posted by ブクログ
進む社会の分断、台頭する排外主義、ポピュリズム。我々が依拠する基本的人権や民主主義の価値が足元から揺らいでいる今、社会を構築する一歩を踏み出さなくてはならない。
読み応えあります。大切な事がたくさん書かれているけど、情報量が多すぎて覚えきれません。何度も読み返して忘れないようにしたい。
宮台社会学35年分のエッセンスが講演記録などでわかりやすくまとめてある。 袋小路に入り込んだな〜と感じる日本社会について、社会学という視点でするどく分析した論考のかずかず。 わたしが思っていたより、状況は絶望的だったのだ。。。。と暗い気持ちになる。 さて、ここからどう進むのか、が問題だ。
注釈が充実。議論は正直難解だが、伝えたいことを繰り返し記述していて、切迫感が伝わる。中間項の消失という問題は、本が書かれて数年経った今も変わっていないと感じるが、また新しい議論も気になる。
出版されてからだいぶ経つが、2022年の現在迄に、この当時に想像できなかった事が起こっている。 そして宮台氏自身の身にも。 果たして宮台氏はこれからどんな論説を発表するのだろうか。
難しいが、宮台氏の著作は正鵠を射ている。いくつか氏の著作は読んだけれども、読むたびにその意を強くする。 本作においては、モダンからポストモダンへの移ろいの中で、主に日本というドメスティックな社会がどのように変化したかが論ぜられ、またそうした社会への対応策としての処方箋も示される。時には欧米諸国などと...続きを読むの対比も交えながら論を進めるので、難解ではあるが、自身の経験や感覚に照らして首肯できる内容が多い。 宮台氏は本著の中で、「空洞化」というキーワードを繰り返し述べている。特に「システム」を利用して生きていると思っていた「我々(生活世界)」は、いつしかシステムの一部となり、その結果いつしか「我々(生活世界)」は、「システム」の生成物に過ぎない、との主張は鋭い。となると、氏の言に従えば、「スマート化社会」も素直に手放しでは喜べない。「スマート化テクノロジー」がもたらす便益は確かにあろうが、一方で我々はそれによって「選択」権を取り上げられてしまった。つまり、「我々(生活世界)」が「システム」に完全依存する形でしか生きられないことを意味している。よくよく考えると恐ろしい。 ポストモダン状況では、我々は「空洞化」し、全面的にシステムに依拠することとなる。そして、それをもたらしたのは、グローバル化、すなわち「資本の自由移動化」であると指摘する。 これは井沢氏が『日本史真髄』の中でも同様のことを述べていたが、日本人は「みんなで決めたことは正しい」という認識を持っている。本来多くの意見を集めれば、それは相対的に「間違っているはず」である確率は上がるはず(そして、その「間違う」前提を受け入れつつも、社会の多数意見を受け入れるのが民主主義の本義のはず)だが、多くの日本人はそうは考えない。そもそも「誰が優れた人間か」を判別することも難しいが、少なくとも現在日本の中枢にいる者たちの多くが「馬鹿丸出し」ばかりであることは自明であろう。宮台氏は、この日本の全体主義的民主制について、「デタラメな民主制」と称している。民主党政権への交代の期待、歓喜、そして絶望を経て、劣化した55年体制に逆戻りしたような今を見れば、そう言いたくもなる宮台氏の考えは、単なる理解を超えて心に響いてくる。 これまでの東浩紀氏の著作にあった「大きな物語」から「小さな物語」へ、といった主張と合わせて考えてみると、(とりわけ日本では)自立した共同体がなく、さらにはその共同体さえ空洞化し、社会を牽引するのは「我々」ではなく、ましてや「対米自立の道を完全放棄し、もはやその素振りさえ見せない」安倍政権などではあろうはずもなく、「システム」がその役割を担う。しかし、「自立性」を持たない日本人は、それでもなお国家やあるいはそれに準ずる巨大企業(例えば東電)に「依存」するしかない。 宮台氏が本著で語った内容には、いちいち首肯するしかないけれども、その日本で生きている「私」は、そのたびに同時に背筋が寒くなる思いにかられてしまう。宮台氏が示した「処方箋」は、デタラメな日本を正すことのできるベクトルを提示していると思うが、それは社会学的手法であるがゆえに、「私」個人ではどうにもならない諦観をともなってしまう。
昭和・平成の流れは社会学的にどう捉えてられているのかを知ることのできる良い本だった。 特に自分たちの世代が客観的に指摘されることで、何が他の世代と違うのかという点について理解でき、また他の世代の方の考え方を知る指針ともなった。 また本の内容を踏まえ今のマネジメントのトレンドも社会学的な背景もあ...続きを読むるんだろうと感じた。 法の奴隷とならざるを得なく、偽りの自分を演じるようになったときに、偽らなくても良い「1人の時間」が大切となる。 そのため「会社の飲み会にいきたくない」というようなことが起こり得るんだろう。 本当の自分を出せる場が必要であり、その場を構築するための手法として1on1がトレンドになっている。 逆説的にいえば1on1でも「偽りの自分」を演じる必要があるのであれば意味がなく、弱みもさらけ出せるような場にする必要があるのだろう。
端的に言えば、本書は宮台氏による日本論であると思います。 あとがきに「衒学的」とある通り、確かに時に言葉遣いは思想業界用語のクロスオーバーとなり思想・哲学・社会学に馴染みのない方には到底すんなり理解できるものではないと思います。しかしながら、良くも悪くも短編集の寄せ集めの体を成すことから、筆者の主張...続きを読むしたいこと・思いは、繰り返し語られることでおおよその理解ができる形になっていると思います。 ・・・ 宮台氏の若者論はブルセラや売春などの事象を取り上げることで「いろもの」の感がありました。しかし論の根っこは日本社会論があると思います。 とどのつまりは日本社会が若年層を滋養する<生活世界><中間世界>を失ったということです。なぜこうした中間組織がなくなったかと言えば社会が自由主義的になり、ヒトモノカネが自由に行き来するようになったからだと思います。過剰流動性により「まともに生きること」と「うまく生きること」に乖離が発生し、うまく生きるだけの自己に自ら価値観を見出せなくなる傾向。あるいは「こんなはずじゃなかった」という落胆。 その落胆の先にかつては北朝鮮であったりデモであったり、いわば埋め合わせる思想や理念(中間世界ですかね)が存在した。しかし今はあらゆる相対性の中で何でも選べるので何も選べない。自己の揺らぎ。 かつては地域や学校や或いは会社や、それこそ家族(生活世界ですかね)が受け止めていた包容力を失い、若者は「居所を失った」結果、承認を求めて売春やブルセラ、ネトウヨ、うボランティアに走る、と言うような論調だと思います。ここ以降が良くわかりませんが、きっとこうやって何物かの”他”なるものによって自己を埋め合わせるようなことを「終わりなき日常」と言っているように見えました。いわば、自分探しは否定的な意味で終わりのないゴール、と言っているように思いました。 ・・・ では承認されづらい不安定な社会、「うまく生きる」だけの納得のいかない社会でいいのかと言うとそうではありません。<中間社会>に代わる新たな解として、氏は「包摂」というワードで希望を表しているように思います。 ここでバラバラになった人たちをいわば、巻き込む。対立があってもなくても、ともに居る。連帯感や共通性は事後的に得る。なんとなればお見合い婚の夫婦の得る連れ添ったからの愛情のような? そうすることで当事者性を各人が持ち、変革の兆しを生む、という事のようです。そのための手段として「祭り」だったりインターネットだったりがキーとなることが示唆されます。 こんな感じで読みました。 ・・・ 全般的にはやはり難解だと思います。乱暴にとらえれば、我々は人間資本(ヒトとの繋がり)をより強くし、そうした繋がりの団体として政治に関わるべき、という事を主張しているのでしょうか。総論は賛成です。 国を頼りにするのではなく自らを頼りに隣人をたすけ(たすけられ)、そしてそこから国や自治体を変えていく。あれ?これってひょっとしたら私がやりたい事と似てるかも!? そうそう、あと少し疑問に思ったのは、「終わりなき日常」を生きた若者のこと。90年代の彼らって、そのままブルセラや売春をし続けて老いていくわけではないと思います。私も今は立派なおっさんになりました。そうした過去の若者たちがどうやって自己を「受容」する、ないしは社会に飲み込まれていくか、その仕組みや過程を知りたいと思いました。その飲み込まれ方がポジティブであれば、それはそれで今を生きる若者へのなにがしかのメッセージになるのかも、とふと思いました。
近代化が進み村社会・地方、家庭も学校もシステムに取って代わった現代。システムへの過剰依存が進み、人そのものがシステムの一部に組み込まれてたポストモダンの時代。自己さえもシステムにより生み出された物だと宮台は言う。スマートテクノロジーは人に選択を意識させず、システムの存在を不可視化し、人は気づかないう...続きを読むちにシステムに組み込まれていく。システムの設計意図を自分の意思による決断だと人は思い込むのだ。共同体と顔を失った人々はモンスターペアレントやクレーマー、ネトウヨ、承認厨となってシステムに直接自己の欲望をぶつけるようになっていく。メディアは感情の居場所を失った人たちの最後の拠り所となりもはや民主主義の道具として市民の監視下におかれたものではなくなっている。 こうした中で若者はテレクラやクラブ、ストリートからネットへ居場所を移していった。 サブカルチャーで流行したセカイ系は共同体が失われたため個人の謎=世界の謎という個人と世界が直結した構造をとる。この考えが新興宗教を、テロを引き起こした。ハルマゲドンは社会構造を建設的に変える運動というよりは、理想の自己像と世界像に合わせて不都合な現実を作り変えるための運動だった。 宗教にも失敗した日本の若者は仮想現実へ走った。現実を変えることは不可能なので、ゲームを現実のように生きたり、現実をゲームとして捉えるバトルロイヤル系となって今に至る。 多様な人々の対峙を余儀なくされるグローバル社会は、共通前提が動物的な快・不快まで切り下げられる社会でありシステム化が加速する。アメリカはキリスト教的価値観が土壌にありNGOやボランティア活動があるのでリバタリアニズムであってもセーフティーネットはあり、欧州はスローフード運動など地産地消を進め共同体を保全している。対立は共通の意識、前提がある共同体だからこそ起こる。対立すら失われた日本は安定しているのでなく地方は地域性を失い、宗教的共同体も血縁主義もない不安定な社会だ。このような土台でグローバルな自由競争では人がもたない。日本は外需と内需を切り分けて対応する必要がある。社会の共通前提を取り戻すために、システムが同性婚でありシェアハウスなど擬似共同体を設定していく必要がある。
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