遠藤周作の作品一覧
「遠藤周作」の「深い河 新装版」「王妃マリー・アントワネット(上下)合本版(新潮文庫)」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「遠藤周作」の「深い河 新装版」「王妃マリー・アントワネット(上下)合本版(新潮文庫)」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
慶應義塾大学文学部仏文科を卒。随筆や文芸評論や戯曲も手がけている。1950年にフランスへ留学。帰国後は批評家として活動。『白い人』で芥川賞を受賞。代表作品の『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けている。
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Posted by ブクログ
ジーザスがかっこよすぎる。ジーザスは神の子ではなく、神力的なものを持った超人でもなかった。ただの人だった。ただ、人の優しさを自分のことのように感じることができる人だった。
盲目の人を癒す力もなく、ただ純粋に痛みを分かち合った。
最終的に人々は神の子ではないと見放し十字架に架ける。しかし、ジーザスは最後になっても主に彼ら(ジーザスを十字架に架けた者たち)の罪の赦しを乞うた。ジーザスは、最後まで隣人愛を説き、愛による救済を訴えたのだ。
ジーザスが人間であるということは我々にとって何よりも救いではないだろうか?神の子でも、超人でもなく、ただの人が誰かのために身代わりとなり、最後まで優しさを持っていたということ、それはこの性悪説が真実のようになっている社会に対して何よりも救いとなるのではないだろうか。
一言で言えば、この本を読んで思ったことは、「ジーザス、かっけえ」だった。人を無心に信じる、無償の愛を与える、それができるのは本当の強さだ。
Posted by ブクログ
600ページあったけど一気に読んだ。キクの一途な想いも、伊藤の葛藤も、すべて引き込まれた。
自分はキリスト教徒ではないが、ミッション系の学校にいた頃、神父の一人が「神はみんなの心の中にいます」と言っていたことを思い出した。
キク、清吉、プチジャン、そして伊藤。彼らはそれぞれ、心の中にいるマリアやイエス、あるいは名前のつかない何かに問いかけているように感じた。
特に印象に残ったのは、キクがマリアに怒りをぶつける場面だった。信じているからこそ祈るというより、「なぜ助けてくれないのか」と怒っている。その姿がとても生々しい。遠藤周作がこういう信仰の姿を描いていることも意外だ。
人は報われたかどうかを、その瞬間だけで判断できるのだろうかと考えた。
キクは報われたとは言いにくい。だからといって100%報われていなかったとも言えない。
キクがどう生きたか。その生き方そのものまで含めて考えると、報われたかどうかなんて一生かけても判断できないと思う。
今この瞬間には苦しみしかなく、救いがないように見えることでも、人生全体の中に置き直したとき、その意味は変わるのかもしれない。ただし、苦しみには必ず意味がある、という単純な話でもないと思う。苦しみは苦しみのまま残る。それでも、その人生を「無意味だった」と簡単に言い切ることもできない。
「沈黙」もよかったが、こちらは神がなぜ沈黙するのかという問い以上に、愛とは何か、善とは何か、人はどう生きるのかを考えさせられた。
私たちは日々、自分の中の何かに問いかけながら生きているのだと思わされた小説だった。
Posted by ブクログ
人は過ちや後悔を抱えながら生きている。誰にも言えないものもある。過ぎ去ったことであり、今更どうしようもないので、心の箱に鍵をかけてしまうのだが、事によってはしまえなかったり、何かの出来事で箱の扉があいて苛まれてしまう。そんなときに救いになるのが信仰なんだと本書を読んで思った。
過ちを犯したときに、どれほど謝罪し、反省し、後悔したところで抱えるものは消えないが、「許し」は抱えるものを消す有効な方法なのだろう。相手がいる事であれば相手の許しが、相手がいない事であれば自分の許しが救いになる。自分で自分を許せないなら神の許しが救いになる。神の形はどのようなものでもよく、キリストでもブッダでも、あるいは圧倒的な大自然の象徴でもよいのだろう。本作では深い河がその許しを与える存在であった。すべてを受け入れてくれる圧倒的なスケールがあり、さらに河は流れて消えるという目に見える現象があるからこそ、抱えるものを手放すための大きな救いになるのだろう。
自分の中で大いなる存在を思い描き、その許しを得て抱えるものを消すことは、客観的な科学ではない。そのため、科学が発展した現代において、信仰を単に非科学的なものとして否定したり侮蔑したりする風潮もある。どんなに祈っても、救われない現実があることは自明の理だ。ただ、信仰には、科学の力ではどうにもならない人間の心の痛みを和らげ、支える一定の力はある。過信や妄信は戒めるべきだが、人間の弱さに寄り添うものとして、信仰のあり方を静かに見つめ直すことは大切だと感じた。
Posted by ブクログ
人間の心の中にある毒は、波によって浮き沈みする。海の中に入ってしまえば、その毒は広い海の中に溶け込み、ひどく小さなものに見える。しかし、波によって浜辺へと押し返されたとき、その毒は逃げ場を失い、はっきりと姿を現す。
作中の人間は、それぞれ異なる「波」を持っているように思えた。何度も波に押し返され、そのたびに自分の中の毒と向き合う者もいれば、波がほとんどなく、常に心の中が毒に侵されているような者もいる。また、たった一度の大きな波によって、心の中に毒が生まれたりする者もいる。
そして、その人間たちの心にある毒をさらに濃くしていたのが、作品の時代背景だったのではないかと思う。戦争という大きな「毒」の中で生きることで、人間は自分自身の中にある毒にも気づかないまま、それを吐き出してしまう。
さまざまな人間が、それぞれの「波」と、時代という「毒」の中で生きながら、最後には自分の心の中にある毒を吐き出していく。その姿を描いた作品なのではないかと思った。